アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
アジア全般
アジア政治を見る目
著者:岩崎 育夫 
 年末の日本滞在時にブックオフで見つけ、今週の域内出張時、クアラルンプールからブルネイに移動する飛行機の機内で読了した。この著者の本は、今まで繰り返してきているように、こちらへの赴任が決まった時に最初に読んだシンガポールと香港に関する作品から始まり、昨年は新刊である、最新のアジア政治分析を読んだばかりである。後者の本で、その前編として紹介されていたこの新書を、一般の本屋で探していたものの、全く見つからなかったが、それがブックオフで出てくるのだから不思議である。

 しかし、2001年4月出版のこの本は、新刊で読んだ分析に比べ時代を感じさせることは否定できない。丁度1997−8年のアジア経済危機を経て、アジアの幾つかの国で、長期独裁政権の崩壊があったが、そうした変動が起こった韓国、台湾、インドネシアに加え、変動を回避したマレーシアとシンガポールの5カ国を中心に、所謂「開発独裁」と「市民社会」の関係を軸にアジア政治を分析している。まさにこの時期は、そうした独裁政権の転換が行われる世界的なモーメンタムが溢れていた。そしてこの長期独裁政権が崩壊したアジア諸国での、次なる市民社会を軸にした成熟を期待する気持ちがこの本の中には溢れている。しかし、実際には、経済面では、その多くの国がそれなりの高成長を実現しているが、政治面では、新たな国内的混乱や軋轢を経て、ある種の揺り戻しと見られる現象が発生していると地域もある。特に台湾では、初めての政権党の交替と言われた民進党の前首相の陳水扁が、退任後背任で逮捕されるという、韓国と似たような動きになっている。そうしたその後の動きを踏まえながら、丁度10年ほど前のアジア政治が、どのように分析されていたかを見ていくことにしよう。

 アジアの「開発独裁」体制が崩壊した時期を見ていくと、次の通りである。まず、この直前に別に読んだとおり、フィリピン・マルコス政権の崩壊が、この本で取り上げられている時期から10年遡った1986年。そして10年後のアジア経済危機の中、まず1997年12月、韓国大統領選挙での金大中野党候補の当選があり、続いてインドネシア・スハルト政権が1998年5月崩壊、そして2000年3月台湾で国民党独裁政権が選挙で敗れ、野党の陳水扁がこの国(と言っておこう)初の野党指導者として首相に就任する。こうした1990年代後半からの動きは、こうした国における市民社会の成長が生み出した政治バランスの変化と言えるのではないか?「アジアの国々は(中略)、国家形成の具体的な姿や特徴、政治経済過程がかなり違う」にもかかわらず、「独立後50年の国家と社会の動きに共通点が見てとれる」と考える著者は、そうした仮説を立てて、個々の国を分析していく。

 まず韓国である。1961年5月、朴正煕少将がクーデターで実権を掌握、1963年10月の選挙で大統領に当選してから、「軍人支配の制度化」としての韓国の「権威主義的開発独裁」体制が始まる。この体制の正当化は、「韓国の安全保障問題に対処しながら、経済発展を推進することにあると主張された。」

 朴正煕は、1979年10月、腹心のKCIA部長に暗殺されるが、続いて全斗煥が大統領を引き継ぎ、「軍の強権支配に依存する」と共に「持続的な高成長を続ける」開発政策が維持されることになる。この時期、1980年5月、反政府運動が多数の死者を出して弾圧される光州事件が発生している。

 しかし、この時期、確かに経済は「漢江の奇跡」と呼ばれる高成長を記録する。アジア諸国の中では、韓国はいち早く輸入代替型から輸出志向型経済に舵を切り、主として国交正常化した日本からの開発資金の供与とベトナム戦争特需による重化学工業化を進めていく。また、「韓国に投資を考える先進国資本は皆無であった」ことから、政府の支援を受けた韓国資本主体の開発が進められ、それを担ったのが財閥グループであった。

 こうした中で、次第に民主化運動が発生してくるが、この背後には、運動の主体であった学生、キリスト教団体、マスコミ等に加え、まさに経済成長がもたらした都市中間層を中心とした国民意識の変化があったという。全斗煥体制での腐敗や汚職、拷問事件などがきっかけとなり、1987年6月、大規模な反政府運動が発生する。アメリカの介入もあり、もはや強権での弾圧を強行できなくなった政府側からは、穏健派の慮泰愚のグループが「6・29民主化宣言」を発表し、いっきに「軍事独裁時代には考えられもしなかった画期的な自由化・民主化」が実現する。しかし、初めての直接選挙で選ばれた大統領は、野党の分裂に助けられた慮泰愚が勝利し、この時点では軍事政権側が「軟着陸」に成功する。また翌1988年4月の国会選挙で、与党の当選議員が過半数を大きく下回ったため、野党三党と合同による「民主自民党」が結成され、慮体制の政治基盤を確保する。こうして「軍は民主化宣言で軟着陸に成功したあとは、野党を取り込んで体制を強化した」のであるが、同時に「この合併劇で野党から与党に転じた金泳三は慮大統領の有力後継者の地位を確保し」、1992年12月の大統領選挙で初の文民出身の大統領に就任するのである。こうした韓国の「上からの改革」の要因を著者は、@「経済成長に伴う、韓国社会の変容と、広範な社会集団の立ち上がり」、A軍が、1986年のマルコス体制崩壊から得た教訓、そしてBアメリカからの民主化への圧力であったと分析している。

 こうして80年代終わりに開発独裁を終え、民主化された韓国であるが、その時点でも多くの課題を抱えていた。著者による整理では、それらは、@「地域主義―慶尚道と全羅道の対立」の克服、A政党の組織化=政治家個人の権力獲得の手段と化し、離合集散を繰り返す政党の安定化、そして何よりもB南北統一への取組みである。最後の課題については、2000年12月に金大中大統領が「朝鮮半島の歴史的和解を一歩進めた」としてノーベル平和賞を授与されたこともあり、著者は「統一への動きはさらに加速しよう」とコメントしているが、その後の10年は、核武装を含めた北朝鮮の瀬戸際外交の前に、そうした期待が楽観的であったことを物語っている。

 戦後の台湾が、大陸から逃亡してきた国民党による恐怖政治による一党独裁であったことは言うまでもない。面白いのは「中国統治時代には様々な派閥が存在したのに、台湾移転後は、蒋介石・蒋経国父子を軸にする『蒋家』の国民党となり」、また「ライバルの共産党に似た中央集権的な党組織体制が創られたこと」であるという。

 この体制下で、開発が進められるが、その原資は、まずアメリカからの膨大な経済援助であり、それにより1960年代には韓国と同様輸出志向型の開発に移行する。それを担ったのは韓国と異なり中小企業であったが、これが後に「台湾人意識の台頭と密接な関連を持っている」ことが明らかになったという。

 工業化の過程で知識人、専門職、企業や政府の管理職そして中小企業主らの中間層比率が上昇する。そして重要なことは、特に経済成長を担った中小企業主は所謂「本省人」であったことから、彼らが経済力を武器に、国民党という「外省人」による政治独占について「異議申し立て」を行うと、国民党政権もそれを無視できなくなったということである。著者はそれを「開発主義をめぐる国家と市民社会の弁証法がここに端的に現れている」としているが、そもそも1990年頃の統計で、中国大陸生まれの本省人が14%の少数派であったことを考えると、この少数者による恐怖政治による支配・被支配関係が終わるのは時間の問題だったと言える。そして韓国と同様、折からの冷戦終了と米国の人権外交の強化を受けて台湾も体制の変革を余儀なくされたのである。

 台湾の民主化運動は、「国民党の権力抑制、本省人の政治参加」を要求する運動として進み、また市民社会団体が厳しく規制されていることから街頭の大衆行動が運動の中心になっていった。もちろん、それは単純な一本道ではなく、特に1979年12月に国民党批判の言論が反乱罪として摘発された「美麗島事件」は、体制が変わっていないことを強く示唆した。しかし、それから7年後の1986年9月、あるホテルでの集会で、突然野党候補が新政党である「民主進歩党」の結成を宣言すると、驚いたことに蒋経国総統は、一定の条件の下にこれを認める声明を出し、同年12月の立法院議員選挙は、台湾史上初めての複数政党による選挙になったという。

 こうした「上からの民主化」要因として、著者は、中国の台頭により国際社会から孤立した台湾が、最大の支援国である米国の支持を繋ぎとめるために一党独裁を放棄した、としているが、その過程は韓国と同様、うまく「軟着陸」に成功したと言える。そしてその「軟着陸」を成功させたのが「『国民党』と『本省人』の組み合わせの李登輝であった」とする。李登輝の下で、国民党一党独裁の法的根拠の撤廃、1947年の大量虐殺事件である「2・28事件」の謝罪、「二重政府」の廃止、そして1996年3月の正副総統の国民による直接選挙等が行われることになる。

 中国の威嚇にもかかわらず、この選挙で李登輝が勝利し、台湾国民の彼への支持が示される。更に2000年3月の総統選挙では、国民党候補が分裂したこともあり、民進党の陳水扁前台北市長が初の野党候補として当選する。この台湾史上初の選挙での政権交代の要因は、二つの中国の固定化により、外交問題がもはや争点ではなくなり、国民党の暴力や腐敗といった内政問題に国民が反応したことにある、というのが著者の分析である。しかし、その後の歴史は、この陳水扁が、汚職容疑で逮捕されるなど、まだ民主主義が定着したとは言えない状況が続いている。引続き「政治の自立化志向」と「経済の緊密化」という中国との関係のジレンマが、政権担当者にとって厳しい難問であることは変わっていないように思われる。

 この民主化への「軟着陸」に成功した二国に対し、インドネシアのケースは、開発独裁が、暴力的に終焉を迎えた事例である。著者によると、インドネシア政治のキーワードは、「ジャワ」、「イスラム」、そして「軍」の3つである。

 ここではまず1965年9月の「9・30事件」で、容共派軍人の隆起(9・30事件)を契機に一時三百万人を要した共産党を壊滅させたスハルトが、軍に依拠する開発独裁体制を完成させることになる。この体制は「野党や市民社会団体に対する剝き出しの暴力と管理」に依拠しただけではなく、「定期的選挙で国民に選ばれた『民主主義政府』という形式を作りだす努力も行われた」として、選挙のための政党として「ゴルカル(職能団体)」が作り出され、唯一の公認与党として国民協議会の議員が占拠され、彼らとその他の大統領任命議員の投票により大統領が選ばれることになる。こうした仕組みの上で、スハルトは1998年に退陣するまで、7期、33年に渡り君臨することになる。

 経済面では、「バークレー・マフィア」と呼ばれる米国留学経験があり、そこで開発経済学や行政学を学んだテクノクラートが活用される。著者はこれを「軍人独裁者と新古典派学者の奇妙な『二人三脚』」と呼んでいる。しかし、ここでも、開発独裁下での経済成長が新たな中間層を作りだし、これが反スハルトの社会勢力となっていったという。しかし、その中間層は、韓国や台湾とは異なり、冒頭のキーワードで紹介した「イスラム中間層の団体」ともう一つ「NGO」であったという。前者を象徴するのが1990年に結成された「イスラム知識人協会」で、この組織は「開発と成長で生じた社会の所得格差や不公正を是正する政策を国家や政治に求めることにある」とされ、折からの「世界的規模でのイスラム復興運動がインドネシア・イスラムの大同団結を促した」ものであるという。また後者は、やはり開発と成長の陰で取り残された農村や都市貧民の救済を行うため、「政府行政を代替する領域で活動を始め、次第に一部のNGOが政治領域に足を踏み込れ、人権や民主化を掲げて政府批判を行うようになった」という。他の開発独裁では、それほど大きな勢力とならなかったNGOが、何故インドネシアで市民社会の代替として影響力を増したのかについて、著者からはあまり説得的な理由は示されていないし、また現在のこの国を見てもNGOがそれなりの存在感を持っているという話はあまり聞かないので、これはもう少し調べてみる必要がある議論である。

 スハルトの開発独裁のもう一つの注目すべき側面として、一方で土着民族の「反華人」意識の強いこの国で、「商店の看板に中国語を使用することの禁止、中国人名からインドネシア人名への強制的改名」といった「華人に対する政治的社会的差別・抑圧策が取られた」にもかかわらず、他方で「政治家は華人企業家に政治的保護や特権を与えることで、それを『政治資金源』にした」という点である。1980年代に現れた巨大企業グループ20社中、サリム・グループを始めとする18社が華人企業であったというのは、この地域での華人の逞しさを物語る挿話である。しかし1980年代になると、むしろこうした特権や利権はスハルト一族の独占状態となっていき、これが通貨危機を契機とする政権崩壊の直接の要因となっていくのである。その結果、政権末期には、軍とゴルカルもスハルトを見捨て、「スハルト・軍・ゴルカル」対「市民社会」という構図が、「スハルト」対「軍・ゴルカル・市民社会」へと変わっていったとされている。

 スハルト退陣後のインドネシア政治を簡単に見ているが、私の記憶にもあるとおり、「スハルト打倒までは全ての政治アクターが一致していたが、その後どうするかは全く同床異夢の状態であった。」この時期は、以前読んだジャーナリストによる新書で詳細に報告されているので、ここでは繰り返さないが、結局、著者の言う3つのアクターである「ジャワ(=メガワティ)」、「イスラム(=ワヒド)」、「軍(ゴルカル)(=ハビビ)」の三大勢力間の綱引きが行われることになる。直ちにスハルトを継いだのは副大統領から昇格したハビビ。彼はそれなりの改革を行うが、1999年10月には、「イスラム」と「ゴルカル」による「反メガワティ連合」でワヒド大統領が誕生。しかし、勢力が均衡していたため、結局メガワティを副大統領とする「挙国体制」が成立することとなる。スハルト時代は3つしかなかった政党が、スハルト後は一気に200以上も増えたということで、政治的自由は実現したものの、今度は社会の安定は損なうことになったというのが、この時期の総括である。そして当然のことながら、民族・宗教が異なる広大な地理的広がりを持つこの国家の安定のためには、政治レベルのみならず、市民社会のレベルでこうした対立を和らげるような土壌の育成が必要ということになるのである。

 その時期以降、もちろん東チモールの分離から、アチェ分離運動への対応、更にはイスラム過激派問題を含め、インドネシアは迷走を続けるが、足元のユドヨノ政権の下、少しずつ安定を取り戻しているのは間違いない。昨年、東南アジアでは最高のパフォーマンスを示したこの国の株式市場が物語るような経済成長が、この国の市民社会をどう成長させていくのかが引続き問われているのは間違いない。

 続けて語られるマレーシアとシンガポールは、開発独裁の下での経済成長を遂げながらも、前3国と異なり「独裁体制」がその後も維持された国家である。何故、この2カ国では、国民所得も向上し、それなりの市民社会が成立しながらも、政治的な独裁体制は維持されたのか?

 マレーシアは、言うまでもなく、国民の民族構成が、マレー系(六割強)、中華系(三割弱)、インド系(一割弱)の三民族からなることから、そこでの政治も「種族政治」であり、その中でマハティールが進めてきた「ブミプトラ政策」の展開が分析の基本となる。

 まずは独立直後、ラーマンによる「多極共存型政治体制」、「種族融和体制」の下、これら三種族の均衡が重視された時期から始まり、1969年5月に発生したマレー系対華人系の大抗争事件と、続く二年間の非常事態宣言での「国家体制の原理的組み換え」を経て「ブミプトラ体制」が成立するまでが説明される。

 その上で、1981年に第四代首相に就任したマハティールによる権力集中が行われるが、これは「政治・行政権限を伝統的支配者の国王から首相へと移す近代化」であり、これに反抗する勢力の弾圧を伴ったという。そして経済的には、今まで見てきた国と同様に、「ゴム、スズ、石油、パーム油などの一次産品輸出国から、半導体、電子部品などの工業製品輸出国へ」、「一次資源開発から輸出志向への転換」を遂げることになるが、その際に特に産業開発に必要な技術や資本を、日本やその他先に成長したアジア諸国に求めた「ルック・イースト政策」を意識的に採用したことがこの国の特徴であった。
 
 この経済成長の過程で、他国と同様、マレーシアの市民社会が変化する。一つは、ブミプトラから排除された中華系、インド系を中心とした社会生活の補完組織としてのNGOの拡大(ここでも指摘されている!)であり、もう一つがブミプトラで機会を得たマレー系中間層の成長とその裏面であるイスラム原理主義運動の浸透・拡大であったという。そしてこうした新たな分裂の兆しの中で1997年のアジア危機が発生したのである。

 ここで注目されるのは、マレーシアが「経済立て直しをIMFに頼ることなく自力で行ったこと」であり、具体的には1998年9月に発表したリンギの固定相場制への変更や短期資本移動規制などの「国家管理や規制策」でこの危機を乗り切ることになる。

 この措置は厳しい国際批判を浴び、有名なマハティール対ソロス論争などが行われるが、結果的には東南アジア諸国の中でいち早く危機から脱出し、成長軌道に戻ることになる。そして個人的に面白かったのは、この自力改革が、当初はアンワル副首相指導によりIMF型の改革を行ったがそれがうまくいかなかったので、マハティールの主張する国家指導型に切り替えたということ、そして直接IMFに頼るのを避けたのは、そうすると「ブミプトラ政策」の是正を余儀なくされることをマハティールが懸念したからだ、という分析である。前者の路線闘争は、結局アンワル(イスラム運動指導者出身だが、考え方は欧米型の合理主義者であるという)の解任とその後の性的事件の容疑での逮捕という、現在まで続いている係争を惹起させることになる。1999年1月、マハティールは、解任したアンワルの後任副首相にアブドゥラを、蔵相兼特務相(経済改革担当)にダイム(私の仕事で時々話題になる名前である)という旧世代の政治家を任命し、取り敢えず自身の開発独裁体制を維持するのに成功したのである。

 しかし、1999年11月に行われた選挙では、野党が議席数を伸ばし、また従来の種族対立から、イスラムを巡る世俗主義と原理主義の対立が厳しくなっているという指摘もある。経済面では、既に「ブミプトラ政策」を少しずつ緩和する政策がとられている反面、政治的な抑圧体制は、この時点ではまだ続いているという認識である。著者も社会領域での種族意識はそう簡単になくならないということは認めており、それを念頭に置くと、今後のマレーシア社会の政治的自由化は「社会領域における種族や宗教の尊重と政治領域のそれをいかに峻別していくか」にかかっていると指摘するに留まっている。

 そして最後はシンガポールである。丁度この本が書かれた時期である、1990年11月、独立前から通算し32年間首相として君臨したリー・クアンユーが退任し、第二代首相としてゴー・チョクトンが就任した時期であり、この首相変更に伴うこの国の変化の可能性を論じている。

 ゴーは就任直後から、「もはや権威主義的手法で国家当地を行う時代ではないとして『自由主義』スタイルを前面に出し」、その結果、野党は1984年の選挙で2議席、1991年には4議席を獲得するなど、人民行動党の議席独占が崩れることになる。

 しかし、ここでまた「シンガポールらしい」動きが出る。恐らくは「首相退任後も威信を持ち続ける」リー・クアンユーの横槍が入ったのであろう。この後、再び野党候補者への激しい「合法的」弾圧と野党が勝利した選挙区の改変による、実質的な野党候補者の締め出しが始まる。また同時に、与党は「国民の90%が入居する公共住宅の改修」という飴を持ち出し、他方で野党候補者の選挙区のそれは後回しにするという露骨な利益誘導を行った。その結果、1997年の選挙では野党議席は再び2議席に戻り、またアジア危機後に行われた1999年の大統領選挙では、野党候補者が立候補資格を満たしていないと選挙管理委員会から却下され、唯一の候補である与党推薦のネーザンが無投票で当選する。因みに、ネーザンは現在もまだ大統領職を続けている。

 このように、シンガポールでは、東南アジアのどこよりも国民の生活水準が向上し中間階層が育っているにもかかわらず、政治的な民主化は行われることがなかった。その要因として著者は、@「韓国や台湾の民主化は外部要因たるアメリカの圧力が強い影響力を持った」が、シンガポールでは「アメリカの意向が強い影響力を持つことはなかった」、Aスハルトは権力の腐敗が決定的要因の一つだったが、シンガポールの支配層は「潔癖すぎるほど潔癖であった」(とは言っても、リー一家にも不透明な不動産取引などもあったが、裁判所を抱き込んで法的にもみ消すのに成功したということであるが)、B指導者の特異な統治観=「人間は経済的従属の欲求はあっても、政治的自由への欲求はない」(但しこれは著者も「リー特有の世界観」と言っている)、Cシンガポールのような小国が生き残るためには「国家(人民行動党)に全ての権限が集中する現在の体制が不可欠」という正当化とその宣伝、そしてD国民の中に「権威主義的でエリート主義的な聞く耳を持たない政府には何を言っても無駄だという『諦め』が入り混じった感情が広く蔓延していること」、を挙げている。そして、著者も、こうした「閉じた政治(政治的自由の抑圧と厳しい国民管理)と開かれた経済(自由な投資と貿易)を巧妙に使い分けながら」シンガポールの権威主義体制は当面続いていくだろうと予測している。確かに、それから10年経った今も、この体制は余り変わっていないように思える。しかし、著者が「シンガポールは北朝鮮と共にアジアの最後の『政治的秘境』」という時、まさに北朝鮮と同様、リーがいなくなった後の権力移譲が最大の問題であるということを示唆している。現在首相のリー・シェンロンが父親のようなカリスマ力を持っているとはとても思えないし、リー・クアンユーもまた今年に入り「Hard Truth」という新たな著書を発表し、意気盛んなところを示しているとはいえ、彼の時代の終焉があと数年先に見えているのは確かである。それに向けた政治的軟着陸ができるのかどうか、まさにこの国はこれから数年が勝負どころとなるのは間違いない。

 こうしてアジア5カ国の開発独裁とその変容(又は維持)を見た後、著者は、これらの体制の歴史的位置付けを整理している。一言でいえば、この開発主義独裁は「当時のアジアが置かれた政治経済環境の中で、それに応答した体制であった」ということである。そしてそこで効率的な経済成長を進めるには「社会の利益集団や圧力団体から政府が相対的に自由であることが重要であった」と考えられるのである。更にその考え方と体制は、80年代に韓国、台湾、インドネシア等で終焉を迎えたにもかかわらず、その他のアジア後発国であるベトナムやミャンマーに引き継がれていく。社会主義国ベトナムが、反共国家シンガポールに開発モデルの助言を求めたということなども、政権の種類を問わず、引続きこうした政治手法がある発展段階では求められているということを物語っている。

 他方、そうした権威主義的政治体制が、経済成長と共に成長してきた市民社会により変貌を余儀なくされるというのが、この本の一般的なテーゼではあるが、著者は、ここで取り上げられている都市中間層とNGOだけで民主化が起こったのではなく、こうした「新しい社会集団の台頭が、野党、学生、労働者など既存の政治社会集団の再活性化を促し、これによって開発主義国家の全盛時代に抑圧されていた市民社会領域が拡大し、開発主義国家批判や民主主義運動が本格化した」と考えている。

 しかし、そうしてアジアの多くの国で開発主義独裁から民主主義に移行したといっても、民主主義が定着するかどうかというのは別の問題である。その民主化の第二段階の課題は一般的に言えば、「民主主義が政党、労働組合、学生団体、宗教団体、農民団体、企業、さらには軍や官僚など全ての政治アクターが参加する政治行動の『ルール』として受け入れられること」だと著者は考える。この本が書かれた時点では、これはまさにこの時期に民主主義に移行した国家のまだ見えない将来の課題に留まっており、これは著者の次の作品である昨年刊行された本でより踏み込んで議論されることになる。

 ここでは、1990年代末のアジア諸国における市民社会の状況を概観するに留まっているが、もちろんこうした市民社会の政治アクターは様々な顔を持っていると捉えられる。野党、労働組合、農民、学生といった伝統的なアクターから、経済成長によって発言力を増した都市中間層や、成長の隅間を埋めたNGOのような新しいアクターが存在し、その「共同作業」が機能することが必要であるが、一方で都市中間層は、民主主義や言論の自由、市場と言った「現代世界の支配的な価値観に関心を寄せ、それを世界共通語の英語で発信する能力がある」と同時に、シンガポールで明らかなように経済成長により「持てる者」となり保守化するという傾向もあるという二面性を持っていることも確かである。

 また例えばインドネシアのイスラム知識人協会のような「自律的に創られたものでも、実際には国家が強い影響力を行使しているもの」もある。これは政治学の世界では、「国家コーポラティズム」と「社会コーポラティズム」の対比として議論されているようである。またこうした市民社会のアクターとしては、「何も公的領域で活動する政治団体である必要はなく、野鳥愛好会やPTA、サッカー・ファンクラブでもよい」とするアメリカの政治学者R.パットナムの議論も興味深い。

 いずれにしろ、この時に民主化したアジア諸国の一部ではインドネシアにおける地方分離運動や宗教紛争など、丁度冷戦終結後のロシア・東欧圏で見られたのと同じ現象も発生しており、実際東チモールのように、その後分離独立をした国もある。また繰り返しになるが、台湾では、その後初めての野党指導者として総統に就任した陳水扁が、政治的事件と考えられる汚職での逮捕といった展開も起こっている。著者は、この時点でのアジアでの民主化定着に向けた展望として、「国家と市民社会は相互影響関係(競合と共存)」にあり、双方がバランスを取れる位置を見つけることが重要であると指摘し、「国家優位の時代」から「国家と市民社会の競合的共存の時代」に入っていくという希望を抱くのであるが、この期待が、著者の中でその後どう消化されたかは、既に読んだ昨年刊行の作品の中で示されている。

 最後に、現在北アフリカのアラブ諸国が、まさに90年代のアジアで発生したような「市民革命」の盛り上がりを見せている。まず発端はチュニジアでの反政府市民運動の拡大で、23年に渡り独裁者として強権支配を行ってきたベンアリ大統領が1月15日にサウジアラビアへ亡命(因みに、私がこの国に休暇で一週間滞在したのは、まさにベンアリ大統領の就任前後の時期であった)。その後も、更に暫定政権でのガンヌーシ首相ら、前政権からの閣僚の退陣を迫る動きが続いている。また25日にはエジプトで、28年間大統領を務めてきたムバラクの退陣を求める反政府デモが発生。そしてこの流れは、27日、イエメンの首都サナアでの、1978年から大統領職にあるサレハ大統領の辞任を求める動きや28日のヨルダンでのリファイ首相退陣を求めるデモに飛び火している。 

 この中では、特にエジプトのムバラク政権を巡る情勢が、この国がアラブ穏健派として米国にイスラム・テロ対策で協力してきただけに、米国も対応に苦慮していると言われる。そうした点を含め、単純に重ね合わせることはできないにしても、こうした最近のアラブ諸国での民主化の盛り上がりは、90年代のアジア諸国での民主化の流れを連想させる。アラブ諸国での市民社会勢力がどのような構成になっているかについては、私はまだ知識がないが、少なくとも、一方である程度の民衆の生活水準の上昇とそれにも関わらず経済的不況が続くと、まず労働者の不満が火を噴き、それにその他の反政府勢力が参加、更に指導者側の汚職などの失策が加わり、最後に軍隊が独裁者を見捨てる、というチュニジアの展開は、まさにマルコスやスハルトの最期を想起させる。そして一国での運動が、周辺諸国に伝搬する、というのは、冷戦後の欧州やその後のアジアでの展開と同じである。そして最後に、そこに80−90年代にはなかったインターネットによるデモ参加情報の拡大という現代的な要因が、こうした反政府運動の新たな支援材料として現れている。

 こうして現在進行中のアラブ諸国での動きも想起すると、80−90年代のアジアでの開発主義独裁から民主化、そして民主主義定着に至る(未完の)過程は、その他の世界に対しても大きな示唆をもたらしてくれるのは間違いない。欧州での国家、宗教、民族の統合と分裂を目撃するところから始まり、アジア諸国の多民族国家の観察に移っている私にとっても、ある意味ではこの本で示されている分析は、大きな世界政治の歴史展開を見る上での一つの典型的な枠組みとして位置付けることが出来るかもしれないと考えているのである。

読了:2011年1月19日