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アジア冷戦史
著者:下斗米 伸夫 
 2004年出版の、ソ連・ロシア学者による、アジアでの戦後冷戦史である。1948年生まれの著者は、私も昔から新聞等でのいろいろなコメントに接してきたが、まとまった本を読むのは初めてである。その結果、著者が、私も学生時代に師事したソ連現代史研究の先達である渓内譲(2004年逝去)の直接の教え子であったということを、今回初めて知ることになった。
 
 言うまでもなく、第二次大戦での枢軸国の敗北が決定的になる前後から、米ソの冷戦が開始される。欧州においては、ヤルタ・ポツダムを経て合意されたそれぞれの勢力圏が固定する中で、そのブロック間での緊張が高まり、1947年のベルリン危機で一つの頂点を迎える。しかし、それがベルリンの東西への分割という形で落ち着くと、その後は其々のブロック内での多少の動きはあったものの、基本的には両ブロックによる対峙という形で安定し、それはそのまま1989年まで続くことになった。

 それに対し、アジアでは、当初は朝鮮戦争で直接の戦闘が行われたように、米国が率いる自由主義陣営と、中ソの連携による社会主義陣営との対立という単純な形で始まったが、その後は対立構造が欧州に比較して複雑化することになる。その主因は言うまでもなく中ソの対立であるが、それ以外にもヴェトナム、北朝鮮、あるいはモンゴルなど、その他の社会主義国家でも様々な遠心化の動きが発生したことも、この地域での構造を不安定なものにしたと考えられる。この新書は、そうした社会主義国家内部のアジアでの戦後の動きを、其々の国の西側資本主義国との対立や和解の過程と関連させながら整理したものである。その際、ソ連学者である著者は、グラスノスチ以降のソ連・ロシアで公表された資料や回顧録などを多用して、其々の歴史的な転換点に新しい光を当てようとしている。

 欧州では冷戦は終了したにもかかわらず、アジアでの冷戦は終わっていない。そこでは「冷戦の孤児ともいうべき朝鮮半島での分断状況は、核拡散問題を絡めつつ残っている。台湾海峡の問題もまた容易には解決しそうにない。」その歴史的原因を探っていこうというのが著者の意図である。その際の切り口になるのは、冷戦の争点であった「イデオロギー、地政学、そして核」という観点である。端的に言うと、アジアの冷戦が続く中で、社会主義イデオロギーが多様化していったこと、そして地政学的にはソ連がこの地域では「秩序形成の本来的構成者というわけではなく、いわば外部からの参入者にとどまった」こと、そして冷戦の副産物として開発されてきた核の拡散という要因が、この地域での対立構造をねじれたものにしていったと考えるのである。

 地政学という面では、そもそも大戦の終了時にスターリンがアジアでの対日参戦を決めたのは、荒廃した自国の再建を最優先に置いた上で、千島、東清鉄道、旅順、大連といった日露戦争で失ったかつての領土や拠点を日本から奪還するという地政学的な関心が主因で、イデオロギー的要素は弱かったという。そしてそのためのパートナーは蒋介石の中華民国であったことは知られているとおりである。しかし、その国民党政府が、毛沢東の共産軍に敗北し、中国が共産化されることで、米国の警戒感が高まり、ソ連もそれに対抗し、アジアでの冷戦が本格化する。特に、米軍が広島・長崎で使用した核兵器が、その後の冷戦の軍事力バランスの上で重要なポイントとなり、ソ連も対抗的に核兵器の開発をあらゆる手段を弄して進める。ここではソ連側による、米国の核兵器情報収集のスパイ活動にも触れられているが、この面では最も貴重な情報を提供したロス・アラモスでの活動は触れられていない。また1945年時点ではソ連では国内のウランが発見・利用されていなかったことから、まずはブルガリアやチェコスロバキア等の東欧地域のウラン資源を確保し、また47年以降は自国でも発見されるが、50年代に入ると北朝鮮からのウランも利用することになったという。これにより北朝鮮が、冷戦下でのソ連の戦略地域の一つとなるのである。

 さて、中国共産党の勝利は、スターリンにとっては、アジア地域で「自ら掲げるイデオロギーと、地政学的な国益との間の衝突」をもたらすことになる。特に第二次大戦時から、東西双方での戦争を極度に恐れていたスターリンは、戦後も西側での冷戦が激化したことで、アジアでもアメリカとの関係が悪化することを極度に懸念していた。それが彼の中国での毛沢東と蒋介石の戦闘に際して中途半端な態度をもたらすことになり、その後の中ソ関係の悪化時の中国側からの批判の一つともなるのである。

 それでも著者の分析では、中国共産党の政権奪取後は、まず「米ソ関係など、戦略的問題はソ連共産党が担当するものの、アジアでの共産党への指導、解放運動の舵とりなど中国共産党に任せる」という「中ソによるパワー・シェアリング」の合意が出来、50年代末まではこの方式が続くことになる。これは「アジアでは中国が重要な役割を演じる」ということで、それにより「アジアの政権党を含む共産党への指導はモスクワの祝福のもと、北京が握るということ」であった。これが中ソ対立の勃発と共にアジアの共産党内部で「中国か、ソ連か、あるいは独自路線かの三つどもえの闘争」に転化していったのは周知のとおりである。

 短い中ソ蜜月時代が終わる過程が、ソ連・ロシア側からの新しい資料で詳細に説明されているが、特段切り口自体には新しいものはないので省略し、北朝鮮問題を見ておこう。

 この「21世紀になっても冷戦の問題が深刻な形で残っている地域」であるこの朝鮮半島の国家は、当初はソ連軍が主体になって作った「傀儡国家」であり、「北朝鮮形成においてソ連の果たした役割、その介入の度合いは、東欧の衛星国家以上であった」という説が紹介されている。特にソ連崩壊後に公表された資料では、当初の国家機構等は全てソ連の主導で作られたことが示されているということである。しかも、ソ連のこの地域での占領行政は「東アジアでのソ連の関与の目的と同様、必ずしもイデオロギーに基づくものではなく、むしろ地政学的な関与の結果であった。」しかし、当初は親ソ派朝鮮人グループが主導していたこの「傀儡政権」の中で権力闘争が進み、自身もソ連軍の軍人ではあったが、それ以前に抗日ゲリラ経験もあった金日成のグループが、スターリンの支持も確保しながらも、巧みに「純粋ソ連派」を粛清していくことになる。こうした状況下で、1950年6月、朝鮮戦争が始まる。

 著者は、この戦争は、野心家金日成がスターリンのみならず中国の事前了承も得て始めたものであるとしている。そもそも中国は台湾問題について武力解放論に傾いていたが、第三次大戦を懸念するスターリンがこれを押しとどめたのに対し、北朝鮮の武力での南進は、スターリンは米国との対立リスクが少ないと考えたのである。しかし、結局これは誤りであった。

 この戦争の経緯自体はよく知られているのでここでは省略するが、面白いのは、戦線膠着後、金日成や中国が講和を求めたのに対し、スターリンは「中国はこれによって近代戦を学ぶことができる」として認めず、結局休戦がスターリン死亡後になったという点。またその時点でジュネーブで行われた交渉は、「北朝鮮が外国軍の撤退を、韓国が戦争処理での国連の関与を求めたために、解決できずに今日に至っている」というのも、この地域の「冷戦」が終わっていないことを物語っている。

 中ソ論争が本格化するのは、フルシチョフによるスターリン批判以降である。その過程は知られているとおりであるが、アジアでの冷戦史という観点では、まさにスターリン批判を契機とするアジア共産党の分裂が、この地域での「冷戦構造」を固定化させる主因になったといえる。しかも、欧州とは異なり、そこではソ連に加え、中国、北朝鮮、ヴェトナム等の政権党の固有の思惑が入り混じる「多極化」の契機を内蔵していたのである。実際、「朝鮮戦争のような危機にあっても、東アジアの同盟国間の相互関係は西側のそれと比較すればはるかに制度化されていなかった。」1957年11月の世界の社会主義国共産党・労働者党大会に出席するため、毛沢東は二度目にして最後のモスクワ訪問を行うが、これが「中ソ同盟の頂点であると同時に、中ソの別れの始まりともなる。」特に核技術提供を巡るソ連側の否定的対応が、イデオロギー問題以上に中ソ対立を決定的にしたとして、著者はこの経緯も詳細に説明している。特に1958年8月からの台湾海峡を巡る危機で、毛沢東がソ連の核使用にも言及したことで、フルシチョフは毛がソ連を核戦争に巻き込もうとしていると感じた、とされている。他方、中国側は、このソ連の対応に不信感を抱き、1960年1月、核の独自開発を政治局で決定、中ソ対立と核の拡散が決定的となる。中国は1964年10月、独自開発した核実験に成功するが、この前日奇しくも、モスクワでフルシチョフが解任され、「中国側は核実験成功がフルシチョフ解任の祝砲だと喜んだ」という。また中ソ対立が深まる過程でのモンゴルと北朝鮮の帰趨が説明されるが、ここではモンゴルはソ連の影響下に残り、他方北朝鮮は、金日成がソ連と中国を巧みに使いながら独自色を強めていったことだけ確認しておこう。そして中国は、1966年以降、毛沢東が発動した文化大革命に突入し、中ソ和解の機会は失われる。

 中ソ対立の縮図とも言えるのが、中国とヴェトナムとの戦後関係である。そもそもヴェトナムは、1949年の「中ソによるパワー・シェアリング」により、中国が直接指導することになるが、これが当初からヴェトナム側に歴史的にも存在する、中国の覇権主義を感じさせることになる。文化大革命を契機にホーチミンは、ソ連との直接関係を強化し、中国とは距離を置くことになるが、これが統一後の中国との国境紛争や、カンボジアでの代理戦争に繋がっていくのは知られているとおりである。

 こうしたアジアでの中ソ対立を軸とした共産党間の軋轢が、アジアでの東西冷戦の構造変化をもたらすことになる。特に1869年のウスリー川ダマンスキー島を巡る中ソの直接武力対決は、中国の対米接近という戦略転換をもたらす。1972年のニクソン訪中は、まさにアジアでの冷戦構造の根本的転換であった。当然ソ連も反応し、対日接近などを進めたというが、それは、偶々そのタイミングで勃発した第4次中東戦争により中断されたという。

 1976年9月の毛沢東逝去で、中ソ関係が転換を迎えるが、他方で1979年、ソ連がアフガンに進攻すると、むしろ本来的な米ソ冷戦が再び緊張することになる。このアフガン進攻についての中国を含めたアジア共産党の対応が、ほとんどコメントされていないのは、そもそも関心外だったのか、それともアジア側はあえて無視したということなのだろうか?いずれにしろやや不自然感が残ることになった。中国でのケ小平の経済改革やブレジネフ後のソ連での改革の動きなどで、次第にアジアの共産党間の対立は和らぐ気配が出てきたものの、その後もレーガン政権の対ソ政策や1983年の大韓航空機事件などで米ソ関係が最悪状態となり、それが変化するには、1985年のゴルバチョフの登場を待たねばならなかったのはよく知られている。

 ゴルバチョフ登場後は、むしろソ連の崩壊という形で、欧州での冷戦が終了することになるが、アジアではやはりそれとは少し異なる動きとなった。まず、中ソの関係改善は進むが、1989年の天安門事件でケ小平が強硬策をとったことから、中国の内政面では東欧の民主化運動高揚といった変化は生じなかった。しかし、中ソ関係に関しては国境紛争を解決したり、戦略的パートナーシップを締結する等改善が進むことになる。

 その中で、北朝鮮の金日成は、ゴルバチョフにも独自に接近するが、内政面では教条的対応を続け、密かにソ連の反ゴルバチョフ派との関係を維持したという。しかし、この戦略は、1991年8月の反ゴルバチョフ・クーデターの失敗とエリツィンによる更に急進的な反共産主義的改革により、ソ連からの援助の急減という結果になり、1994年の金日成の死去後、「10年間でGDP(国内総生産)は半減、エネルギー生産はほぼ三分の一になったといわれ、企業の八割が稼働していないという経済危機が生じる」ことになる。8月には、ソ連は北朝鮮との同盟条約を破棄し、翌年から無条約状態となるが、これで孤立を深めた北朝鮮は独自の核開発に突き進むことになる。以降、北朝鮮は核不拡散条約(NPT)への参加や脱退を繰り返しながら、この核カードを様々な局面で利用してきたことは周知のとおりである。戦後の中国も、ソ連の影響力からの解放に利用したこの戦略が、再びアジアで残ったほんの一部の冷戦の残滓の中で再び1990年代に入り金正日により使われることになったという解釈である。しかも、それは1946−47年のソ連や1958−59年の中国でも見られたように、国民の全体的窮乏化という犠牲の下に実行されたのである。これはアジアにおける冷戦の長期化のもたらした最悪の結果であったと言える。他方で、北朝鮮と対峙する韓国はソ連のペレストロイカに反応し、ロシアや中国との関係を改善し国際社会での確かな地位を確保していくことになる。

 その他、ヴェトナムのドイモイやラオスの改革、そしてモンゴルの一党支配の終焉などが簡単に説明されているが、ここではヴェトナムのドイモイについて、あくまで保守派が支配権力を握りながら慎重に進められた改革という、やや否定的なトーンが貫かれているのが気になった。ドイモイ後のこの国が「廉価な労働力以外に国際社会にとっての魅力は少なかった」という評価は、2004年のヴェトナムの見方としてはやや一面的なような気がする。

 最後に著者は、アジアにおけるこの冷戦の足元の動きを総括する。結局アジアの社会主義国家は理念的な統一性を持たず、その結果、米ソ対立の終了後も、それぞれ独自の理念を掲げたままでの近代化を試みることになる。他方地政学的には、かつては主として欧州に向いていたロシアの関心が、NATOの東方拡大と共に、アジアに向かっているという。特に1996年のプリマコフ外相就任後は、「全方位、東側重視の外交」に重心を移しているとされている。そして更にプーチン時代に入ると、アジアにおけるロシアはより合理的な国益維持が前面に出て、朝鮮半島の安定化のために北朝鮮・韓国の双方との関係正常化を進めることになる。著者はそれを「規模の経済」から見て問題の多すぎる日本と中国双方とのバランスを考えての対応だというが、それは日本についてはやや買い被った見方のような気がする。そして最後に冷戦の帰結として、核問題がアジアにおいて「最貧国が先進工業国を威嚇する手段となった」としている。

 こうしてアジアにおける冷戦は、新たな局面を迎えている、というのが著者の結論となる。「唯一の超大国米国が冷戦崩壊後もアジアへの関与を続ける意向がはっきり」したが、9.11後は、その関心は「大量破壊兵器の拡散や反テロリズム」に移っている。他方で中国がアジア地域の新たな勢力として「新国際秩序への関与を明確にしてきた」ものの、朝鮮と台湾では、依然として冷戦の残滓は消えていない。しかし、ロシアに関しては「一方で極東地域での平和と安全を求め、そして経済的利益や投資を促す」という観点から、この地域の現状維持を求めていることは確かである。唯一の超大国、アメリカのみの力で、この地域の運命を決することもできないという状況下、結局のところ現在ある六者協議という枠組みで、北朝鮮問題のソフト・ランディングを目指さざるを得ないというのが著者の考え方である。時代は更に進み、北朝鮮では20台の金正雲が祭り上げられる時代に移行した。最後の部分であまりコメントされていない台湾問題と共に、この朝鮮問題が何らかの形で決着することで、社会主義間の多様性が状況を複雑にしてきたこの地域での戦後が初めて終わるのであろう。ドイツの統一のように、それがあるきっかけで一気に発生するのか、それともまだ当面膠着状態を続けるのかはアジアでは全く予想できず、その意味でアジアでのこの紆余曲折した冷戦の歴史は終わっていない。中ソ対立という、かつて学生時代にさんざん議論した問題を久々に復習すると共に、その歴史がソ連・ロシアが資本主義国に変貌した現代でも、依然影を落としていることを、この本で改めて認識したのであった。

読了:2012年4月26日