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南シナ海 - アジアの覇権をめぐる闘争史        
著者:ビル・ヘイトン 
 英国BBCの元記者による、南シナ海問題の総括的なレポートである。既にこの関係では多くの本に接してきたが、その中でも、その歴史的、政治的、法的、社会的背景や意味合いを、多面的に議論しているこの作品は際立っている。理論的な考察に加え、ジャーナリストとしての多くの関係者へのインタビューとその解釈も豊富である。そして、何よりもこの問題が、国際法に基づく現在の米国の覇権と、国内要因により依存している中国の論理が正面から衝突しているこの問題が、如何に現在の世界秩序全体が直面している現実であり、また簡単に解決ができる問題ではないことを、説得力ある議論で示している。しかし、他方では、この本の出版後も、国際仲裁裁判所による、フィリピンの中国に対する全面的な勝訴と、フィリピンのデュテルテ新大統領の、中国への新たなアプローチ、更にはこの評を書いている間に決まった米国トランプ次期大統領と、事態は刻々変化しており、展望も刻々と変化している。その意味で、この本の議論の中でも、理論的な部分とジャーナリスティックな現在を追いかける議論は分けて見ていった方が良いと感じさせる。

 著者は先史時代からのこの地域の姿を描くことから、壮大な議論を始めている。考古学者が、あらゆる想像力とその検証に基づき打ち立てた議論を紹介しているが、その結論は、この地域にも先史時代から「ヌサンタオ(南の島々の人々)の海上交通・通信ネットワーク」が存在していたという事実である。東南アジア地域では、現在のインドネシアを中心としたブギス人の海上交易が知られているが、彼らのみならず、フィリピンからベトナムにかけても、海上を生活基盤としていた人々は多く、彼らは古くから南シナ海を中心に相互に交易していた。著者が特に強調しているのは、「国家としてふるまう文明」ではない、「北部を中心とする王国が内部を向いているあいだに、南の諸国は外側を向いていた」「海上交易ネットワークとじかに繋がっている」文明があり、それが、扶南、チャンバ、シュリヴィジャヤ等であった。またインドネシア、ビリトン島沖合いで見つかった唐代の難破船から発見された陶器などから、既に唐代中葉には、南シナ海を経由した「緊密に組織された輸出産業」が形成されていたことも裏付けられるという。その財宝を高額で購入したシンガポールの話や、鄭和の航海についてのメンジーズの本への批判など、私の関心に近い話しも紹介されているが、それらはここでは省略させてもらう。ただ重要なのは、「どんな意味においても、この海を『所有』していた国も人も存在せず」、「『所有』という概念は、古代どころか、つい最近出てきたものである」ということである。

 15世紀末に始まる大航海時代を経て、16世紀以降の西欧列強によるアジア進出が語られる。ジョホールを巡るチャンギ沖でのポルトガルと(ジョホール王と連合した)オランダの海戦や、フーゴー・グロティウスが、オランダ東インド会社のイデオローグであった話など、植民地化の面白い逸話が紹介されている。そしてグロティスが主張した「航海の自由」は、言わばポルトガルなど先にアジアに進出した列強に対し、後続のオランダがこれらの地域での「航行」という利権を確保するのが目的であったという。更に、本国では、ニシン漁を巡る英国の漁業制限に対応する議論でもあり、そこから、この「沿岸国の主権は海のどこまで及ぶのか、またその主権はどのようにして守るべきなのか」という現代まで未解決の議論が始まったという。南シナ海は、現在それが「最も激烈に議論されている場所」ということになる。

 列強によるアジアの植民地支配の歴史が説明されるが、その過程で、領土だけではなく領海についても列強の間で抗争が起こる。それはそのまま独立後の領海紛争に引き継がれていくのである。またその過程で、国を侵食されつつあった中華民国が、苦し紛れに地図の上だけで、U字型の領海を主張する。こうしてまさに、「海を『所有』できるという考え」が西欧列強によりアジアに持ち込まれ、「マンダラ的体制からウエストファリア的体制への移行が、歴史的混乱という遺産を残し『U字型ライン』が公表されてからの年月に、南シナ海における領土獲得競争を生み出す」ことになるのである。

 第二次大戦後の南シナ海を巡る抗争が説明される。著者によると、1946年から47年、1970年代初め、1988年、そして1995年と、現在まで4回の危機的状況が起こっているという。1946年から47年は、パラセル諸島を巡る中華民国とベトナム宗主国のフランスとの抗争。ここでは当時のベトナムのフランス人総督が、本国からの指示を無視して国内でのベトナム人弾圧に力を要したので、蒋介石の国威発揚を放置することになったという。その結果、パラセルが両国の係争地となり、また他方ではフランスはその後長く続くベトナム戦争の引き金を引いたと評価されている。また1950年代には、フィリピン人のクロマという男が、スプラトリーに自分の所有権を主張し、中華民国とベトナムが絡んだ係争を巻き起こしていたが、これが1970年代に、改めてこの地域を巡る3か国の領有権紛争を激化させることになる。そしてその頃、パラセルでは、ベトナム戦争末期の混乱に乗じて、中国共産党政権が、南ベトナムからパラセルを奪い取り、またそれを見た北ベトナムは、南ベトナムからスプラトリーの6つの島を奪ったという。そして1988年、そのスプラトリーの一部の環礁に中国が上陸し、ベトナムと中国両国の艦船間での砲撃戦に発展する。しかし、中国は、そのために相当のコストを払ったにも関わらず、いまだにその地域では油田は発見されず、漁場を独占することもできていない。

 次に紛争が勃発するのは1995年。この年、フィリピンの漁船が、ミスチーフ礁と呼ばれる地域で偶然中国が建設した石油リグを発見するが、それは、中国が初めてパラセルやスプラトリーの東に手を出したことを意味しており、それまでは中国の影響を真に受けていたのはベトナムだけであったのが、これを機会に、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、インドネシアも直接主権を脅かされていると感じるに至ったという。まずフィリピンが抗議し、ASEAN全体として議論することを主張するが、結局中国との二国間協議となり、中国の提案する「石油の共同開発」を拒絶する。まさに現在まで続く、中国の「奪ってから交渉する」(そしてあくまで「二国間交渉」に固執する)というスタイルが初めて示されたとされる。著者は、こうした中国の動きは、「最初は扇動されたナショナリズムの発露だったが、それはいま、油田と漁業権の奪い合いに化けている。」しかし、「どの島を占領したどの国も、いまだに期待どおりの見返りを手にしていない」で緊張だけを高めていると見る。どの国にとっても、この地域の争奪戦は、意地の張り合いになっているというわけである。

 こうした紛争解決のための国際法の適用につき、スプラトリー(1843年、ロンドンから捕鯨のためこの地域に来た船長の名前が付けられている)を例に歴史的な経緯を基に検証しているが、それはあまりにも複雑で、簡単に法的な決着がつけられないという。植民地時代は、英国とフランスが領有権を主張し、戦後はフィリピン、そして「アメリカから艦船と海図を提供され、さらに訓練までしてもらって初めて」ようやく中華民国がここまで辿り着いたという。しかし、どの国もその領有権を主張するための強力な措置はとっていない。「歴史的観点から見る限り、この島々は自国のものだと主張して、法廷を納得させられる国は存在しない」というのが著者の見解である。そしてこの本が書かれた時点では、まだ判決が出ていない、フィリピンの国際仲裁裁判所への提訴の目的が、この海域はすべて中国のものだとする主張が無効であるという判決を引き出すことであるとしている。これが全面的にフィリピンの勝訴となった今、著者が言うように、法的には「どの国がどの岩を所有していようと、周囲の海域に対する権利は、最大でも12カイリの範囲に限られ」、「フィリピンは、(中国の支配する場所から12カイリ以上離れていれば)自国のEEZ内の油田を開発したり魚を獲ったりすることができる」のである。しかし、中国はもちろん黙ってはいない。「地球の地理は平等ではない。」そして「日本のEEZは太平洋に大きく広がっているが、中国のEEZは日本に、そして南ではフィリピンとベトナムに阻まれている。」この地理的不平等感と、「屈辱の世紀」に対する愛国主義的な怒りは故に、中国はこの地域での「歴史的権利」を執拗に追及することを止める訳にはいかないのである。
 
 著者は、この地域での石油や天然ガスを巡る探鉱について説明しているが、1990年代に、中国のこの地域への資源的な関心を呼び覚ましたのが野心的な一人のアメリカ人であったというのは皮肉である。そして、その結果は、たいした資源が発見されなかったにも拘わらず、「(中国の動きを)警戒した東南アジア諸国を結束させてしまった」という。ただその後も、2004年、アロヨ大統領の時代に、中国との「合同自身探査協議」への参加を表明し、ベトナムが激怒。しかし、そのベトナムも再検討し、この協定に参加するが、結局アロヨ政権が倒れたことで、再びこの協定は動かなくなってしまったといった紆余曲折もあったようである。またBPやエクソンモービル等のメジャーが、中国に利権を持ちながら、ベトナムにも協力しようとして、中国からの圧力を受けた例なども説明されている。2011年には、ベトナムのための調査船のケーブルが中国船の妨害で切断されるという事件なども起こっている。しかし、改めて著者は、こうした係争水域では「じつは大した石油ガスは埋まっていない」という専門家の見方を紹介している。結局、資源要因は、漁業権や愛国主義といった他の動機の隠れ蓑だということになる。

 この地域を巡る東南アジア諸国と中国との緊張関係につき、各国の国内情勢が分析されている。これは一般的な各国事情の説明になっているので詳細は省略するが、例えばベトナムについては、「党が対決に追い込まれようとしている相手は(中国ではなく)、むしろ自国内の一派なのだ」、あるいはフィリピンでは「エリート層に敵対する戦力の間で昔から対立が続いており、南シナ海に関する立場の相違もその延長にすぎない」といった見方は、英国人記者ならではの皮肉な表現である。他方地理的には「この紛争をもっとも懸念する理由がありそうな」マレーシアでは、支配層が「経済的にも外交的にも中国にすり寄ってきた」ことから、大きな反中感情は生まれていない。またシンガポールは、中国と米国に「等近接」な位置をとっている。そして中国については、「(ベトナムと同様)大衆が政府をあと押しして対決に向かわせているのではなく、政府のほうがナショナリズムを利用して自分の計画を推し進めている。」

 カンボジアは、この地域では、もっとも中国に「金で買われている」国であるが、本論とは関係ないが、防衛面では米国との繋がりが深いという指摘は、個人的には驚きであった。フンセン首相の長男は、1999年に米国ウエストポイントに入学、次男(現カンボジア情報部副部長)は2010年にジョージ・C・マーシャル欧州安全保障センターに、三男(副首相を経て党青年部部長、国民議会銀)は2011年にアメリカ国防大学に入っているという。フンセンも、決して中国一辺倒ではない、ということは注意しておく必要がある。

 そして米国の東南アジアと南シナ海問題に対する動向。それまで一貫して南シナ海問題に関して不干渉を貫いていた米国が、この問題に目覚めたきっかけは、2007年1月の中国によるASAT実験(軌道上の人工衛星破壊)であり、またASEAN会合への頻繁な出席などで、この地域へのコミットを具体的な行動で示したのが、当時国務長官に就任したばかりのヒラリー・クリントンであった。2012年7月のプノンペンでのASEAN外相会議で共同声明出せなかった経緯についての詳細な取材報告も受けて、著者は米国のこの地域への「ピボット(回帰)」、あるいは「リバランス」政策が進んでいく様子と、基本的に東南アジア諸国もそれを歓迎する方向であると論じている。また軍事面でも、この地域での米軍の活動が、中国との衝突を想定し行われていること(例えばタイでの「コブラ・ゴールド」軍事演習など)、そして中国側でもそれに対抗する準備が行われていることが詳細に説明されている。しかし、これに関しては、ヒラリーが大統領選挙で敗れた今、トランプ大統領の下で、この流れが変わるかどうかが大きな鍵になっていると言える。

 こうした議論を経て、最終章で著者は、改めてこの問題に関わる様々な解決努力や議論を概観しているが、あまり有効な策は出てこない。いっそ「気候変動が起こって海水面が大きく上昇し、南シナ海の島も岩も完全に沈んでしまえばいい」と言ったところが実は本音かもしれない。著者の最後の希望は、「U字型ライン」を最初に引いた台湾の国民党政府が、「南シナ海における歴史文献的な衝突を縮小する方向に動けば、中国政府も同じことをずっとやりやすくなる」かもしれない、として、「平和的な未来への鍵は、誠実で批判的な過去の検証にあるのかもしれない。」と結んでいる。しかし、それが難しいのは、著者自身が十分感じていることは、この著作での議論から明らかである。

 南シナ海にかかわる古くからの歴史、そしてそれが係争の地となる近代の歴史、その政治的な係争の要因分析や国際法との関連、そしてその係争に関わる中世から現代までの様々な人物たちなど、著者の筆力は驚異的である。しかし、根底にあるのは、国際法の世界が最後は力と力のぶつかり合いになるという冷徹な諦観である。それこそ、「水位が上がり島も岩も沈んでしまわない限り」、基本的には中国と米国の面子の張り合いと、それを最大限自国の利益のために利用しようとするこの地域の国々を巻き込むパワーゲームは続くことになる。来年1月、保護主義、孤立主義的言動で大統領の座を射止めた米国、トランプ政権が発足する。現在の構造を作ったヒラリーではなく、まったく外交素人のトランプが大統領に就任することで、この地域をめぐる抗争が新たな局面を迎えることは間違いない。しかし、それが、どのような形で起こるかは、現在はまったく予想することができない。東シナ海を巡る日本と中国の緊張関係にも大きく影響するこの問題は、来年も益々緊張の度合いを深めていくであろうことだけは間違いない。

読了:2017年10月16日