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アジア読書日記
アジア全般
アジア主義を問いなおす
著者:井上 寿一 
 2006年8月出版の学習院大学法学部教授によるアジア論。著者は、1956年生まれなので、私とほぼ同年代の研究者である。

 第二次大戦に至る時期の日本の日中関係を中心とした政策決定過程を追いながら、日本のアジア政策が、必ずしも戦争の拡大を志向していた訳ではなく、特に対米関係を強く意識しながら、日中米による安定的な秩序を求める努力が続けられていたことを示そうとした作品である。この作品が刊行された時期、日中関係は、小泉政権の下で、厳しい緊張関係にあったことから、著者としても、戦前の日中関係の緊張を念頭に置きながら検討された議論が、現代においても参考になるのではないか、と考えているようである。しかし、現在の状況を、満州事変以降、日本が中国を武力侵略していった時期と並べる(「1930年代の現在性」)のは、始めからやや無理な試みで、著者は意図していないとは言え、戦前の日本の中国政策のある部分を正当化するだけと捉えられてしまう。実際、私も読み進めている時に、過度にこの時期の「和平派」の動きを強調する議論に、うんざりしたというのが正直な感覚である。ただ、私自身は、英国を筆頭とする欧州列強による植民地化からアジア諸国を「解放」し、アジアの新秩序を模索するという理論枠組みは、それなりに現代でも意味を持っていると考えている。その意味で、ここで説明されている「和平派」の議論や政治的動きのどこが問題であったのかを探る良いきっかけにはなると思われるので、その点を中心に著者の議論を見ていくことにする。

 議論の出発点は、すでに私も、その著書のいくつかに触れている、原洋之介の「新東亜論(2002年)」(これは、私はまだ未読である)で紹介されている「日中戦争期の論壇で盛んに論じられていた『東亜共同体論』と、日米戦争を正当化するために同時代の哲学者たちが唱えていた『世界史の哲学』」という素材である。著者によると、原は、戦後、日本の侵略戦争を正当化したとの理由で葬り去られたこれらの議論が、政治的、経済的な事情が変化した今日、改めて検討されるべきであると主張しているという。

 他方で、著者は、こうした戦前の用語を換骨奪胎した、「東アジア共同体」論や「アジア主義」論が、政財界や言論界で復活しているとして、21世紀初頭の様々な動きや議論を簡単に整理している。それらは、基本的には、日米同盟など、政治的・経済的な関係を使いながらも、欧米一辺倒でない新たなアジア戦略を打ち出そうという試みである。この試みは説得力を、そしてひいては政治的な力を持つのか。こうして議論は、1930年代の「東亜共同体論」に飛ぶ。

 1931年9月の満州事変勃発時、日本は対米協調路線をとっていた、しかも、戦後の安保条約のような二国間協定に基づくものではない、日本が自主選択したものとしてのものであった、という指摘から始まる。そのため、満蒙での利権維持・拡大を目指して満州事変を起こした石原莞爾らの軍部も、この行動を受けての米国の対日感情や天皇の反応を気にしていたとされる。そして時の対米協調を核とする幣原外交に対抗する思想として軍部が主張したのが「アジア主義」であるとする。

 満州国建設に際して、軍部内でも様々な議論があったとのことであるが、石原らの考え方については、中国ナショナリズムの強さと、満州国のみならず日本にとっても対米貿易依存は無視できないことを前提にしながらも、対ソ連の軍事拠点としての満州の利権を維持するために、蒋介石の中華民国、満州、そして日本の良好な関係を作る、という発想があったという。そしてそのために、欧州列強の治外法権を破棄し、国際的に開かれた貿易に基づくアジア経済圏を作るための嚆矢が満州国である、という「アジア主義」の理念を掲げた、という。しかし当然のことながら、そうした独りよがりの思い込み(「客観的には中国侵略ではあっても、主観的には日中提携を目的とする満州国という矛盾」)は、蒋介石の中国のみならず、米国を含めた国際社会からみれば受け入れられるものではない。しかし、他方では、この満州国の建国の理念となった「アジア主義」は、日本に逆輸入され、「大亜細亜協会」といった国内での「アジア主義」の受け皿組織の設立に繋がった。この組織は、R.B.ボーズやコンディといったインド、ベトナムの独立運動家が入会。別にM.ハッタの来日時に設立された日本インドネシア協会と共に、「イギリスやフランス、オランダからの独立を求める運動家が日本を介して結びつく」ことになる。こうして「アジア主義の否定の上に満州事変が引き起こされながら、事変の拡大の結果として建国された満州国は、アジア主義的な軍事共同体として出発することになった」。しかし他方では、この「アジア主義的な経済共同体」は、「アメリカ(からの資本流入)なしではやっていけないことが明らかになった」ということで、当初から厳しい環境に置かれたことが指摘されている。

 これは全く当然の帰結である。満州国独立に際して、これが日本の傀儡と見做されないような努力(例えば、駐伊大使であった吉田茂などによる、満州国への中国の主権を認め、国際連盟への加入を承諾させる)も行われたが、軍部の意向で阻止される。また外相に広田弘毅が就任すると、再び幣原による、「国際協調外交」への復帰も試みられたという。

 やや変わった見方としては、1933年2月の松岡洋右による「国連脱退」についてのコメントである。日本による満州国承認と併せて、日本による「東亜モンロー主義宣言」として、日本の国際社会からの決定的な孤立化への里程標となった「国連脱退」は、松岡自身は、日本への国際非難決議がなされるとしても、それを受け入れず国連に残り、経済制裁を避けることを考えていたという。しかし、本国政府が、あえて国際連盟を脱退することで、国際連盟との関係を修復するという方向に転換したことから、意に反し、「堂々と」国際連盟から脱退することになってしまった、という。実際、日本はその後も「ロンドンで開催された世界経済会議に出席」し、欧州のブロック経済志向に、自由貿易を掲げて反対する米国を支持したり、広田外相と米国ハル国務長官の間で、「日米共同宣言」案を検討したりといった、対米関係修復の動きが見られたという。また広田は、軍縮条約改定という形で、海軍の強硬論を押さえ込む意図で、「日英不可侵協定」を結び、英国との関係も修復を試みたという。また中国との間でも、1933年5月に「日中停戦協定」が結ばれ、「中国本土各地で、排日・排日貨運動の沈静化が見られた」という。

 この中国の対日妥協路線と日本の経済提携路線の接近について、著者は「今日のODAの理念としても通用する」と評価しているが、それを瓦解させたのが、ある外務省高官による「東亜モンロー主義宣言」(天羽声明)であったという。これが、「中国全土に対する保護者の地位を引き受ける」と解釈され、これが中国の反日派のみならず、国際社会の日本批判を高め、他方で、国際協調路線に不満を抱いていた軍部を勢いつかせ、その後の破局へと連なっていったとみるのである。この過程を著者は、「帝国主義的な既得権益を手放す用意がないのに、帝国主義の欧米に対抗して日中が提携する」という「矛盾したアジア主義外交政策」としているが、まさに、侵略行為を持続させる中で、「植民地解放」をうたう事が、この時代の決定的な問題であったことは明白である。それを無視した表面的な懐柔策は、中国や欧米に見透かされていたのである。

 1937年7月の盧溝橋事件で、日中戦争が激化した以降の状況につき、著者は尾崎秀実や石橋湛山といった左翼、リベラル派、あるいは小林秀雄、竹内好、永井荷風といった文学者、そして更には蠟山政道や三木清等の東大・京大教授達から構成された「昭和研究会」の知識人の冷静な見方、あるいは戦争の早期終結の試み等を紹介しているが、この頃には、既にこの戦争に道義や目的を見つけることは難しく、またそれを止めることもできなくなっていた。戦時下の中国語ブームの逸話なども紹介されているが、これもただの表面的なあだ花である。ただそうした試みの中から提示された「『東亜』地域における経済的相互依存関係を前提とする地域主義」という概念は、戦後の日本の高度成長や冷戦、そして戦後アジアの地域紛争といった現実の中で消え去っていったものの、著者は、現代においても意味を失っていないとする。そして1930年代のアジア主義的な国際秩序は、アメリカの関与がなければ成立不可能であったのと同様、現代のアジア主義もアメリカを積極的に関与させながら、自由貿易圏=開放経済圏としての地域秩序を目指すべきであるとする。「さらに国連からサミット、APEC、地域経済圏などのさまざまなレベルでの多国間協調のネットワークのなかで、東アジア共同体を実現することができれば、日本とアジア諸国との連帯を、もはやアジア主義と呼ぶ必要はなくなる。そこにアジア仕儀の歴史的使命が終わることになるからである。」と結ぶことになる。

 結局、著者がこの本で紹介している、中国を始めとする東アジア諸国の連帯を維持・発展させようという政策は、他方での満州国家設立や侵略戦争という事実の前に説得力を失っていった、というのが、この時代のアジア主義の決定的な問題であったことは明らかである。また東アジア国との連帯のために戦争を回避、あるいは集結させようという議論は、侵略戦争での当初の勝利という幻影のために、ナショナリズムの嵐の中で消え去ってしまったのである。そうした議論を今こうして再び説明されても、結局時局の中で消え去った虚しさだけが残るというのが実感である。

 他方、現代のアジア主義は、戦時期から引き継いだ中国や韓国からの反日感情は残っているにしても、そうした武力侵略という事態がない現代は、1930年代とは違う説得力と政治的影響力を持つ可能性があると思われる。我々は、1930年代のように、武力行使を、政治的に使うことが出来ないが故に、より経済・社会・文化・哲学的な影響力を重視しなければならないのである。そこでは、確かに、より前向きで、相互主義的な「アジア主義」を構築できる可能性が高くなっている。もちろん、戦前・戦中とは位相を異にした中国との関係は、むしろもっと昔の朝貢貿易時代の関係も念頭に置く必要もある。そして何よりも、中国・韓国に東南アジアを含めたアジア圏全体との連携深化を考えると、アメリカを含めた欧米豪各国との協調が以前にも増して必要なのは明らかである。

 しかし、そのアメリカが今や、「モンロー主義」、あるいはそれ以上の「自国第一主義」に後退していく中で、1930年代のアジア主義は、特に中国とのパワーバランスにおいて厳しい岐路に立たされているのも事実である。もちろん近い将来のアメリカ大統領の交代で、また米国の政策が激変する可能性もあるとは言え、当面は一帯一路のような中国の「アジア主義」を念頭に置きながら、日本ならではの「アジア主義」を構想していかなければならないのだろう。それは、戦前・戦中のような日本の一人よがりのもの、あるいは単に関係国に対する経済援助に留まらない、地域の尊厳=ナショナリズムへの細かい配慮に裏打ちされたものでなければならない、ということを改めて確認する必要があろう。

 尚、本書は、2016年11月に、アジア主義の思想と政策との捩れを問う論考を書き下ろした増補決定版が出版されているが、この増補部分は考慮していない。

読了:2018年12月2日