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アジア読書日記
シンガポール
多民族国家シンガポールの政治と言語
著者:田村 慶子 
 昨年まで中国語クラスで一緒であったシンガポール研究者による、シンガポールに存在した南洋大学の創立から消滅までを追いかけながら、その大学の運命の中に象徴される、多民族国家シンガポールにおける言語政策の変遷を分析した作品である。著者は、我々と同じクラスで中国語を学んでいた頃、シンガポール大学客員教授としてこの研究をしていたこと、そしてシンガポール滞在を終えてからクアラルンプールに移ったのも、シンガポールでは依然として限界があった、このテーマについての率直な見解の収集を含めた調査を実行するためであったことが理解できたのである。

 南洋大学の消滅(1980年)に至る経緯は、大昔に読んだリー・クアンユーの自伝でも記載されている。それは、この大学が、シンガポール独立前後の混乱の時代に共産党の影響下で反政府的な活動の拠点になったことから、徹底的にそこでの学生運動を取り締まると共に、最終的には大学自体を解体することになったというものである。しかし、それが支配者の側からの一方的な政治的発言であることは明らかである。それではこの大学の本当の姿はどのようなものであったのだろうか?そしてこの大学が消滅するに至った経緯は、具体的にはどのようなものであったのだろうか?そして事実上消滅したこの大学が残したものは何であったのか?こうした疑問に、著者は丁寧な調査・取材に基づき回答しようとしている。

 この大学の意義は、言うまでもなく中国系移民が多いこの地域に、中国語(ここでは「華語」という言葉で統一されているので、これ以降は「華語」で統一する)で高等教育を受ける機関がなく、それを実現するため、華僑財閥による献金で創立されたこの地域初めての私立大学であったことである。その財閥を率いていたのはタン・ラークサイという華僑で、彼はその後大学の経営にも関わり、政府との数々の交渉を行っていくが、時代の変化の中で次第に政府との対立を強め、最終的にはリー・クアンユーの政敵と看做され、シンガポール市民権を剥奪されることになるのである。

 日本の占領から解放された時期、この地域の華人は、華語しか話さない人々(華語派華人)が人口の圧倒的多数を占めていた。しかし、英国の植民地下で英語教育を受けてきた華人(英語派華人)が、マラヤ大学といった英語教育機関で高等教育を受ける機会を有し、植民地政府や英国企業等に職を得ていたのに対し、華語派華人にはそうした高等教育の機会がなかった。そこで事業で成功した華人企業家が自己の資産を提供して、そうした人々に華語教育の機会を与えるための高等教育機関として創設されたのが南洋大学であった。しかし著者が述べている通り、この大学は「権力に祝福されない大学」であった。それは「多言語、多文化、多民族社会に生きる多様な人々をどのようにして単一な国民にするかという国民統合の考え方が、大学創設者と権力側で大きく異なっていたことと、東西冷戦という時代故である。」即ち、大学創設者タン・ラークサイらは、「華人、マレー人、インド人などそれぞれの民族がそれぞれのアイデンティティを保持しつつ、国家と社会の発展に寄与するという『メルティングポット』的な国民統合を理想としていた」のに対し、権力側は「地域言語であるマレー語を国語とし、英語を共通語とする新しい国民を創り上げようとした。」そしてそこでは「華人の華語や中国文化への執着(中略)は、もっとも払拭されるべきもの」と考えられたのである。

 著者は、まず1956年3月の南洋大学の創設の経緯や、初期の熱気に溢れた学内の雰囲気などを、限られた資料に基づき再現しようとしている。この大学は1953年に会社法に基づく私企業として認可され、結局大学としての地位(資格)をイギリス植民地当局から得られないまま開学したことから、公的な財政支援はなく、そのため学費は高く、また設備も貧弱であった。しかしそれにも関わらず、この大学にはシンガポールのみならず、マレーシア全土から華語派華人が、将来への期待を抱いて入学したとされ、彼らが勉強や新人歓迎会などの余暇の団欒に勤しんだ様子が何人かの卒業生へのインタビューなどから再現されている。英国植民地時代から、英国の監視下で、学位の認定を受けられなかったこの大学の地位を改善し、その卒業生を救済するため、タン・ラークサイは政府との交渉を進めるが、特に1963年のマラヤ連邦としての独立、そして2年後のシンガポールの独立と時代が大きく変転する中で、大学はその政治状況に巻き込まれていく。人口で圧倒的な華人の支持を得るために、そこに基盤を持つ共産党と共闘して人民行動党を結成し、英国からの独立を実現したリー・クアンユーは、まずはマレーシアの反共主義を利用し、人民行動党内の共産党勢力を弾圧・粛清。そしてマラヤ連邦からの追放・シンガポール独立後、少数派ながら力を付けたリーらはその反共主義と社会の英語化を一層強めていくが、その過程で南洋大学は、人口的に優位に立つ華語派=共産党シンパ勢力の拠点と規定され弾圧の対象になっていったのである。

 著者は、資料に基づき、当時の南洋大学での学生運動が、純粋に大学での授業方針や、大学の存在を巡る問題への抗議であったことを説明しているが、そうした学生運動が、政府により過酷に弾圧されていく。特に当初は、特定の政党に対する支持を控えていたタンが、次第に「追い詰められ」、1963年の総選挙で、大学への支援を唱えた「社会主義戦線」を支持すると、人民行動党は、「地下の共産主義統一戦線が、華語問題を利用して南大を政治的に奪取しようとしている」と共に、タンが彼らを支援したとして彼の市民権剥奪を発表したのである。これを受けて学生たちは最大規模の授業ボイコットで抵抗するが、これが弾圧されると、もはや大学側に抵抗する力は残っていなかった。その後、政府の英語化政策の下で、この大学の再編に関する議論が進むが、1966年10月、リー・クアンユーが参加した新図書館の除幕式で、一人の学生が彼に「南大の変質に抗議する」という誓願書を渡した際、リーが「私は学生たちに感謝する。この学生のおかげで、多くの国民は国家が直面している問題を理解できただろう。(中略)その問題とは、断固として物事を進める政府がなければこの国は混乱するという現状である」と言い、それ以降更に弾圧が強まった、という逸話は何とも象徴的である。こうして南洋大学の再編が急速に進んでいく過程の詳細な説明は、まさに息を呑む。

 また1966年の時点で、重要な言語政策の変更が政府により決定されている。それは「必修であったマレー語と英語に加えてそれぞれの母語を学ぶというこれまでの二言語の習得」という方針から、「全ての学生は英語を第一言語として学ぶこと、同時に華人は華語、マレー人はマレー語、インド人はタミル語などを(中略)第二言語として学ぶこと」への転換であり、そこで「独立によって重要性が薄れたマレー語を(必修言語から)除外する」ことで、現在まで続いている教育言語の基本形が確立したのである。但し、この際引続き「隣国マレーシアやインドネシアの感情に配慮」し、マレー語を国語とし、マレー語の国歌を維持することも決められ、これも現在まで残ることになる。そして、この後全面的に政府の管理下に入ったこの大学は、当時既に国立大学として英語教育の高等学府として政府の保護を受けていたシンガポール大学との協定(ジョイント・キャンパス)などの経過措置を経て、1980年の実質的な吸収・消滅に至るのである。

 しかし、更に興味深いのは、南洋大学が消滅する直前の1979年、今度は政府が、規律、勤勉、親孝行といった「アジアの価値観」を復権させる政策(「文化的重石としての第二言語」政策)を宣言し、その一環として、方言ではない正しい華語(北京語)を話す運動を始めたことである。これは著者が見るところによると、リー・クアンユーが首相を退き、ゴー・チョクトンが第二代首相に就任した最初の総選挙で、人民行動党が大きく得票率を減らしたが、その理由のひとつとして、経済発展と英語普及によってドライな若者が育ってきたことへの懸念があり、それに対する「綱紀粛正」運動として、この華語復権運動が利用された側面が強いという。加えて、そこには発展しつつある中国経済の恩恵に預かるための「中国語話者」育成という意味も込められていると共に、南大消滅により「社会の周縁に追いやられつつある華語派華人」に対する懐柔策でもあったと著者は見ている。更に、華語復権運動の流れの中で、ある意味「パンドラの箱」を開けた政府が、南洋大学の標語であった「南洋精神」を称揚したのも、「豊かさを当たり前にして育って政府批判を行うようになった若者とりわけ華人の若者に、この地に仕事を求めて中国から移ってきた無一文の祖先がたゆまぬ努力で成功を勝ち取り、言語と文化を子孫に伝えようとした逞しさを理解させ、華語を学ぶことを奨励したい」が故であったという。

 シンガポールの政権を独立以来掌握する人民行動党は、その創設から実質的な一党独裁の確立に至るまで、ある意味ではご都合主義を繰り返してきたといえる。それは初期の共産党との連携と排除、当初の米国に対する警戒感が、英国撤退により突然転換したこと、そして共産中国への敵視から、経済発展を受けての急速な接近等々。そしてこの華語復興運動も、まさにそうしたご都合主義の最たるものであり、いわば、南洋大学を巡るこうした一連の歴史は、この国のご都合主義の、また一つの典型的な例であると考えられなくもない。そして現在までのところ、このご都合主義は政治的に成功し、この国は経済成長を遂げ、人民行動党は依然権力を独占、そしてそこでの公式の歴史は、この大学の歴史を含め、権力者によって書かれた歴史になっている。

 もちろん翻って、もしこの華語大学が存続し、そこで華語しか話さない華人が引続き大勢を占めていたらこの国はどうなっていたのか、という議論もできる。タン・ラークサイが構想したような、「民族のメルティング・ポット」としての国民統合が、果たして可能であったのか?例えば、以前私自身が直接接したインド系シンガポール人による華人への批判など、表面的には人種平等を装うこの国の底辺では依然人口の多数を占める中国系に対するマレー系やインド系の不満は消えてはいない。こうした不満が、言語面でも全く共通性を持たない華人の多数派と対峙した場合に、かつての旧ユーゴや旧ソ連の中央アジアで勃発したような凄惨な民族紛争を惹起させなかったという保証はない。それを考えると、少なくとも「英語」という(旧宗主国ではあるが)第三国の言語を共通語として国民統合を果たそうとしたリーの政策に正面から異を唱えるのもまた難しいのではないだろうか?

 著者が、この大学の研究を行っている過程で、シンガポール側では資料も少なく、ヒアリングを行っても率直な見解が出てこなかったというのは、この大学を巡る歴史につき、この現代に至ってもこの国ではまだ権力による呪縛が強いことを赤裸々に示している。それに対し、そうした呪縛のないマレーシアや、それ以外の地にいるこの大学の卒業生からは、多くの情報が寄せられたのみならず、この僅か25年しか存続しなかった大学の学生たちの絆は強く、この大学の真実の歴史を求める声も次第に大きくなってきているという。南洋大学を「引き継いだ」といわれる南洋工科大学は、南洋大学の卒業生に言わせると、全く違う学校である、ということも含め、多民族社会の言語政策にかかわるシンガポール現代史の一断片に対する理解を深めることができた作品である。

読了:2013年7月27日