アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
シンガポール謎解き散歩
著者:田村慶子・本田智津絵 
 業務で日本に帰国したタイミングに合わせ家族に入手しておいてもらい、到着直後の週末+で読み終えた。旧知のシンガポール学者と、その地に在住している女性二人による、シンガポール版「トリビア」である。その多くは、私のこの地での滞在中に既に適宜使っていたり、著者の一人から雑談の中で教えてもらった話であるが、中には今回初めて知ることになった話題もある。ここではそうした「トリビア」を備忘録的に記載しておこう。それらは、今後いろいろな機会に使わせてもらうことになるだろう。

 まず、「ラッフルズが1819年に上陸した当時、シンガポールは貧しい寒村に過ぎなかった」という通説―例えば岩崎の「アジア二都物語」では「人口150人に過ぎなかった」と書かれているー「シンガポールの歴史」についての指摘。最近では、既に14世紀に、フォート・カニングを中心とする王朝―「マレー年代記」で神話的に語られた世界―が実際に存在し、ラッフルズ到着以前も交易で栄えていたことが、発掘資料等で裏付けられており、学校の歴史教科書でも取り上げられているという。但し、歴史教育、特に独立以前の歴史が、この国では現在も重視されていないことが、こうした議論があまりメディア等に登場しない理由なのであろう。更に言ってしまえば、ラッフルズ以前の歴史はマレー系民族の歴史であることから、現在の支配民族である中華系からすれば、この歴史を大きく取り上げることは、この国の民族問題を刺激することになり好ましくない、ということなのではないのだろうか。いわば、この「歴史問題」は、この国のアイデンティティ構築の難しさを物語っていると言える。

 シンガポールの国土拡大。それ自体はよく知られている事実であるが、1965年の独立時から2014年までに20%以上も拡大しているという数字は興味深い。私の前職での事務所があったシェントン・ウェイも1930年代の埋立地であり、その横を通っていたテロック・アイル通りに、道教寺院やモスクが多いのは、19世紀半ばまで、ここが「海岸通り」であり、中国やインドからの移民の上陸地点であったからだという。

 フライヤーの逆回転の話。2008年4月というので、私の赴任2ヶ月前に開業した大観覧車が、開業から3ヵ月後に逆回転することになったという。都心の金融街から海に向かって回転することで、富が街から吸い上げられる、と主張したのは風水師たち。彼らの主張を受け入れて回転方向を変えるのに数十万ドルの費用が費やされた。それにも関わらず、この経営が破綻したのはなぜか?あるいは、債権管理下におかれながらも、取敢えず営業が続いているのは風水師の助言のお陰であったのか?いずれにしろ私が2008年秋に一回だけ、日本からの客に付き合ってこれに乗った時には、これは風水師の助言を受けて回転方向が変わった後であったことは間違いない。

 繁華街オーチャードの起源。ナツメグのプランテーションと墓地だけしかなかったこの地域が商業地として発展したのは、1958年、タングスの創業者がこの土地を買い、3階建ての店舗を建設したのが始まりであったという。タングリンやホーランド・ビレッジのバンガローに住む人々が中心街であるラッフルズ・プレイスに行く通り道であることに目を付けた結果であり、それから半世紀以上が過ぎ現在の姿になったという訳である。今やタングス自体は、新しい巨大ショッピング・センターの陰に隠れてぱっとしないが、そんな理由から、この地から出ていく訳にはいかないのだろう。

 チャイムスにある「希望の扉」は、今まで意識したことがなかったが、かつてここが修道会が運営する孤児院であった時に、孤児を受け取る、あるいは孤児が置き去りにされる場所であったということである。本来キリスト教の施設であったチャイムスの建物の装飾に、仏教やイスラム教のデザインが施されているのは、宗教の区別なく子供を受け入れるという方針を示しているという。これは、宗教問題に敏感なこの国全体のありかたの縮図であるような気がする。

 現在の私の住居で、その一部を毎日窓から眺めているセントサ島は、1970年までは、マレー語で「背後の死者の島」と呼ばれていたというのは面白い。これは1840年代に、この島でマラリアによる多数の死者が出たことから名付けられたという。その後、英国植民地時代は英軍の基地として一般人の立ち入りが禁止され、日本占領期は戦犯収容所、戦後はグルカ兵の駐屯地となっていたという、いわば「暗い歴史」を持つこの島が、現在は、この国最大のリゾート島となっているというのも皮肉である。

 日本人墓地は、私はまだ訪れる機会がないままになっているが、この墓地を作った二木多賀治郎という男と、彼の経営する娼館で亡くなった多くの「からゆきさん」たちの墓に加え、1862年に日本人定住者第一号となった山本音吉や、「蚊取り線香」会社の社長で、この地で事故死した上山英之介といった人物が葬られているという。日本人会から、定期的に来る募金要請がある時くらいしか頭を過ぎらないこの場所も、一回は行っておくべきなのだろう。

 一方、これは何度か訪問したことのある(しかし展示自体はあまり面白くなかった)マレー・ヘリテージが、1999年に、政府がこの建物を公共施設に改修する計画を発表するまで、ジョホール王国の王族が居住(しかも最後の時期は、200人の王族子孫がここで生活)していたという。その計画の過程で、彼らは補償金を与えられ、一般の公共住宅に移ったというので、現在もそこに住むジョホール王国の末裔がいるということなのだろう。そうだとすると、やや寂しいジョホール王族の末路ではある。

 1948年3月、暗殺されたガンジーの遺灰の一部が、インドからクリフォード・ピアに到着し、マレー半島を回った後、現在フラトン・ベイ・ホテルが建つこの埠頭から出た小船により、マリーナの海に散布されたという。かつてはシンガポールの海の玄関口で、それ以外にも多くの式典がここで開催されていたという。同じ場所で、数年前、ホテルの屋上から酔っ払って海に飛び込み死んだ英国人は、それを知っていてガンジーの栄誉を受けようと考えて、その突飛な行動に出たのだろうか?

 昨年(2014年)6月に竣工し、10月には、日本―ブラジルのサッカー親善試合で私も初めて足を運んだ新国立競技場。この前身である旧国立競技場が1970年2月に着工された時、礎石の下に埋められたタイムカプセルが、2007年の建替え決定の際に見つからず、その後懸賞金までかけられたものの、現在に至るまでそのままになっているという。「歴史に配慮しない」この国ならではの逸話であろうか?

 等々、この国を長く観察してきた二人の著者による、この国の隠された歴史紀行であり、気楽に流し読みできる、「ちょっと知的なガイド本」である。ここで紹介した以外にも、時間がある時に訪れてみたい「隠された観光地」も幾つかあり、今後の暇つぶしも含め、いろいろ使えそうである。一週間の日本出張を終え、今日午前のフライトで、またこの国に戻るので、荷物の中にこの本も入れておこう。

読了:2015年1月28日