アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
タックスヘイブン
著者:橘 玲 
 (この作品を、ここに掲載するかどうかは意見があると思うが、一応この国が主たる舞台となっていることもあり、ここに掲載しておく。)                    

 パナマの法律事務所の顧客リストが流出し、そこに掲載された人々や企業が、その地に形式上の会社を設立するなどして、課税逃れを行っていたのではないか、という批判が世界中に広がった。それを受け、自身の名前が含まれていたアイスランドの現職首相が辞任した他、英国のキャメロン首相も父親の名前があったことから、世論の批判が広がり、期しくもキャンペーン中であった英国のEU離脱を決める国民投票で、自身が主張する残留が支持されるかどうかが微妙となっている。更に、親戚が掲載されていた中国の習近平や側近が記載されていたプーチンらは、メディアを統制したり、だんまりを決め込んだりと、各所に大きな衝撃を投げかけている。所謂「パナマ文書」事件である。これ自体は、私の考えでは、おそらく裏で何らかの政治的な力が働き、こうした形で公表されたものだと考えているが、「タックスヘイブン」での口座開設自体は、それが直ちに脱税に繋がる訳ではない。しかし、昨今の欧米諸国での格差の拡大を受け、高額所得者に対する風当たりが強まっていることから、こうした行為が社会的には感情的な批判を惹起することになる。また途上国等の独裁者等についてはは、そこで国民の資産の横領という疑惑をもたらすことは言うまでもない。

 こうして「タックスヘイブン」問題が世間を騒がす中で、同名のこの小説が文庫化された。2年前、私がこの地に再度赴任しようとしていた時期に単行本で発表され、この地が主要な舞台となっていることから、どうしようかと立ち読みし、結局買わなかった。面白そうであるが、単行本の娯楽小説にお金を出して数日で読了してしまうのは金の無駄使い、という感覚が上回ったのである。しかし、今回文庫化されたのを機会に、日本から来た家族に持ってきてもらった。「パナマ文書」事件に合わせて文庫化されたのは、急遽だったのか、それとも、もともと計画されていたのかは分からないが、さすが小賢しい幻冬舎の対応である。

 さて同じ著者の作品は、大昔に彼の処女作である「マネーロンダリング」を読んで以来久し振りであるが、今回「タックスヘイブン」の主たる舞台として想定されているのがシンガポールであることから、まさに身近な世界が登場し、ベトナムでの休暇中や往復の飛行機の中でいっきに読み終えることになった。

 ストーリー展開についての詳細は省くが、前作同様、外資系投資銀行で、関連業務に携わったと思われる著者の知見をフル活用し、最近のこの世界での動向も踏まえながら、たいへん読み応えのあるサスペンス小説に仕上がっている。登場する人物も、主人公3人(外資系銀行出身の金融ゴロ、その同級生でパンピーの翻訳屋と銀座のクラブ出身のセレブ女)と事件の発端で高層ホテルからの飛び降り死体で発見されるシンガポールのスイス系プライベート銀行員。それに、日本サイドでは、金融ゴロと接触がある情報屋、検察庁の中堅捜査員、大物政治家(小澤一郎を想起させる)とその秘書、回転寿司チェーンのごうつく社長、そして謎の仕手集団やヤクザ集団等。またシンガポールサイドでは、女性捜査官やスイス系プライベート銀行の幹部と法律担当、華僑の大物とその娘など。これらの人物が、そのプライベート銀行から消えた大金の行方を巡り、相互に入り乱れ、策を弄しながら対峙していくのである。

 その過程で、著者が取材で回ったと思われるマリーナベイサンズの屋上階バーや、フラトン、フラトン・ベイ、ラッフルズといった有名ホテル、リトル・インディア、ボート・キー、クラブ・ストリート、チャイナタウン、そして(私はまだ未体験の)イーストコーストの町カトンといった地域が登場し、在住者の虚栄心を擽る。シンガポール独立の経緯や、リー・クアンユーの指導力、そして金融業務のシンガポールにとっての重要性なども、さり気なく会話の中に織り込まれている。そして物語の最終局面では、タイのチェンライからゴールデン・トライアングルとバンコクのスラムが舞台となり、そこでの発見が契機となり、シンガポールでの数々の銃撃などを経て、日本での大団円を迎えることになる。そこでは、スイス・プライベート銀行から消えた資金の行方とそのからくり、そしてそれを裏で繰っていた首謀者の秘密が明らかになるのである。

 ということで、休暇の気分転換には絶好の小説であった。しかし、やはり単行本を買って読む気にはなれない類の作品である。

 尚、この小説の単行本が出版された2014年4月、期を一にしてシンガポール地場大手銀行傘下のプライベート銀行の日本デスクで、担当の日本人による横領事件が発生した、という噂が市場に広がった。この事件は、結局私の知る限り、シンガポールでは一切公式に報道されることはなかったが、この小説の虚構と一緒くたとなり、(これまた未確認ではあるが)日系富裕層のシンガポールからの資金逃避が発生した、というおまけまでついたのであった。

読了:2016年5月26日