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アジア読書日記
シンガポール
プラナカン
著者:太田 泰彦 
 2015年から3年間、日経新聞のシンガポール駐在員として当地に滞在した記者による、シンガポールを中心とした華人系「プラナカン」を軸に据えた、東南アジアの多民族、多宗教、多文化のルポである。私自身も著者とは接点があってもよかったが、残念得ながらそうした機会を持つことはなかった。しかし、まさに同時代に、私自身も個人的興味を持っていたこうした社会文化に、職務として接し、深め、そしてこうした形で作品化した著者にはある種の嫉妬と羨望を感じざるを得ない。著者は、1961年生まれであるので、私よりも約7年ほど若い世代である。

 もちろん内容の多くは、私の当地11年の生活の中で、いろいろな機会に触れてきたものである。しかし、実際の現場やそれを担う人々への取材を通した記載は説得力が違う。また今回初めて知ることになった歴史的な事実もいくつかある。ここではそうした部分を中心にレビューしてみたい。

 2012年5月、この時88歳のリー・クアンユーへの、東京でのインタビューから始まる。その3年後の2015年3月逝去した、このシンガポール建国の指導者は、生涯に渡り、自身が「プラナカン」と呼ばれることを拒絶していた。マレー語で「この土地で生まれた子」という意味のこの言葉は、「この土地で生まれはしたが、本当の地元民ではない。外国(中国)出身者の子や孫である」というニュアンスがあることから、彼はこうした外国人が「土着のマレー民族を支配しているような印象を与えかねない。」と懸念したようである。他方で、「異なる民族、文化、宗教が融合したプラナカン」が、「ハイブリッド国家」としてのシンガポールのアイデンティティとなり得るという発想あるが、彼は前者のリスクを考えていたというのが著者の理解である。

 しかし、彼の息子である現在の首相、リー・シェンロンは、2008年4月の「プラナカン博物館」の開会式で、「私はババ(プラナカン)です」と演説した。これがどのような意図で発言されたのか?博物館の開会式で、そのテーマに親近感を示すための、気楽な一言だったのか、あるいは、それとも今までは「どこか裏道を歩いてきたような(プラナカン達の)意識」を変えるーその意味で「一つの時代を終える」―計算された告白だったのか?この演説は、公式記録には掲載されていないが、これは「プラナカン」が、シンガポールのみならず、東南アジアで持っている微妙な立場を示しているとされる。

 こうして著者は、まずここシンガポールで、こうしたプラナカン文化を担っている人々を訪ね歩く。鄭和に、自らの祖先としての関心を抱き、プラナカンに関連するアンティークを探し集め、私設博物館を開いた男や、建築現場の瓦礫の中からプラナカン様式のタイルを集め修復、それを元にチャイナタウンにタイル店を開いた男等。インタビューの過程では、日本の占領期に、英国植民地と関係が深かったプラナカンの多くが日本軍に殺害されたことや、裕福だったプラナカンに多額の資金供与を要請された等の暗い歴史にも接することになる。また近隣のマラッカでは、生家を「ババ・ニョニャ・ヘリテージ博物館」として公開した老人や、プラナカン上流階級の姿とその歴史を知るために、実業家の女性を、通称「億万長者通り」(そんなものがあったのか・・)に訪問したりしている。更にマラッカ出身のプラナカン慈善家としてのタン・トクセンについても短く紹介されている。

 ここで著者は、リー・クアンユーの家系に話題を移すが、ここではいくつか私が今まで知らなかった彼の祖先の話を紹介している。主要人物は、彼の祖父リー・フンロン。ジャンク船に乗って広東から最初にシンガポールに移住したのは曾祖父のリー・ボブクンであるが、彼は結婚して子供をもうけた後、フンロンら家族を残して中国に帰ってしまった。残されたフンロンは、砂糖王オイ・チョンハムの片腕として地元の海運会社の支配人となり、ジャワ島の都市スマランとシンガポールを行き来する生活を送っていたとされる。そして若きリー・クアンユーは、「東南アジアに移住した多くの華僑とは一線を画す」プラナカンの特徴である「実務を重んじる教育、勤勉を旨とする労働観。そして国という単位を越えて世界経済を眺める世界観・・」そして英語能力を、この祖父から受継いだという。また父のリー・チンクンは、スマラン生まれであるが、幼少時にシンガポールに移り、戦後の1945年、オックスレー通りの家を購入するが、この我が家近隣の家が、現在相続問題に揺れているのは周知のとおりである。

 タイのプラナカンのルポでは、私が初めて聞く話が多い。まずプーケットの人口40万人中、約7割が「プラナカン」というが、それは19世紀後半から20世紀初めにかけて、特に福建省出身の華人が、ここの錫鉱山に流れ込んだことによる。そしてこの島には、その錫鉱山の歴史を展示する「プーケット鉱山博物館」があり、また旧市街にはきちんと維持されていないが「プラナカン風の古いショップハウスの建物」が立ち並んでいる地域があるとのことである。またバンコク中心部のビジネス街に広大な家を構える、タン・トクセンと縁戚という、ある「プラナカン」家族の先祖は、「ラーマ4世、ラーマ5世の時代のタイで、(経済・外交顧問として)この国の通商ネットワークを動かしていた」という。その先祖であるタン・キムチンは、家族によると、「王様と私」で有名な、アナという英語教師をラーマ4世に紹介した人物もあるという。彼はまたシンガポールにも正妻がおり、合計3人の妻との間に約20人の子供をもうけた精力家でもあったようである。またこのタン・トクセンの縁戚であるタイ家族の父親タナット・コーマンは、インドネシアとマレーシアの対立を調整し、1967年のASEAN創設に尽力した元タイの著名な外交官である。

 著者の「プラナカン探し」はインドネシアにも飛び、ジャワ島はボゴールで行われる年に一度のプラナカンの祭り「チャブゴーメイ」を取材している。7−8万人が集まる大規模なその祭りは、元々は華人の催しであるが、現在では街の8割を占めるムスリムが多く参加する「多宗教、他民族、多文化の融和を象徴する祭り」になっているという。これは、資金不足にあったあるムスリムの祭りを、華人(プラナカン)が財政支援したことがきっかけとなり、この「チャップゴーメイ」にも多くのムスリムが参加することになったという。そしてその祭りの指導者のプラナカンに言わせると、そうした行為は、この国で、歴史上何度も抑圧されてきた「地に落ちた華人」である彼らの「サバイバル」の知恵である、ということになる。その祭りの先頭で踊る「キリン(麒麟)」の頭は、どう見てもカエルであったというが、それは、もともとは鄭和がアフリカから持ち帰り、永楽帝が珍重した「伝説のキリン」が、ここ東南アジアで「土着化して、姿が変容した」ものである。それがこの地で生きるプラナカンの姿を象徴している、というのが著者の見立てである。その他、シンガポールでのプラナカン料理シェフや衣料デザイナー、あるいはペナンのブティークホテル経営者の新しい試み等も紹介されている。

 この本の中では、必ずしも一般の華人とプラナカンとは明確に区別がされていない。現象的には、植民地支配者と強く結びつき、経済的に成功したのがプラナカンで、それが一般の華人とは異なるとされているが、他方で、それを現地のマレー系と婚姻を繰り返した「混血」と定義すれば、恐らくこの地域の華人はほどんど「プラナカン」となるのではないだろうか?ただいずれにしろこの地域でプラナカン文化を支えてきたのは、それを支える経済力を持った人々であり、彼らが、今後もそうした文化を支えていくことは間違いない。家族・閨閥・先祖の出身地で強く結ばれた彼らの絆は、移民として移り住んだ異国では、何よりも大切である。そうした中国とマレー・インドネシア・タイ土着民族との混在した人々が、この地域の特徴であると共に、それが他方では歴史的にも難しい地域統合の一因ともなってきた。華人とプラナカンを区別するのは難しく、またさして意味はない。そしてリー・クアンユーが、プラナカンであることを否定し、また息子のリー・シェンロンがそれを認めた、というのも、あくまで政治的な配慮の中での発言であったことは疑いない。そして東南アジアでは、引続きこうした「多宗教、他民族、多文化の融和」が政治・社会統合の鍵となり続けるのであろう。そうした地域統合の大きな鍵となるこの文化について、私自身が改めて触れてみようと感じさせる材料を提供してくれた作品であった。

 因みに、これを読了した週末2日間、当地では珍しい涼しい曇天が続き、いつものプールサイドでの時間が持てなかったことから、ふと、この本でも取り上げられている自宅近所のプラナカン博物館を訪れてみようという気になった。しかしネットで開館時間を確認したところ、現在修復中で閉館とのことであった。だいたい、そうなのだ、いつでも行けると思って先送りしていると、いざその気になった時は閉館しているという「マーフィの法則」。この修復工事の終わりを待つことにしよう。

読了:2019年12月8日