アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
インドネシア
インドネシア繚乱
著者:加納 啓良 
 これも中古で買った2000年3月刊の新書である。著者は、アジア経済研究所や東大東洋文化研究所で、インドネシアを中心に、アジア政治・経済分析を行ってきた学者である。1997年4月から1999年12月までの間に、国際協力事業団からの派遣等として頻繁にインドネシアを訪れ、合計で1年半ほどこの国に滞在することになった。これは言うまでもなく、1997年7月のアジア通貨危機を直接のきっかけとして、32年に渡ったスハルト体制が最期を迎えた時期であり、1998年5月のスハルト辞任と側近であった副大統領ハビビの継承、1999年5月の出直し総選挙によるワヒド(グス・ドゥル)の大統領選出(10月)と、体制が大きく混乱・変動することになる。更にこの時期は、東ティモール、アチェ、アンボン、西カリマンタン等で、独立運動や暴動が発生し、国家としての統合さえも危ぶまれることになった。まさに以前に読んだ新書「インドネシア」(別掲)でも「1999年10月のワヒド政権から2004年のユドヨノ政権までの5年間、振り子のように左右に揺れながら、激動と混乱のなかで理想とされた文民統治の限界を思い知らされる過渡期」と表現された時代に繋がる、言わば「過渡期の前哨戦」の時代である。著者は、この時期にインドネシアの専門家として現地に滞在した経験を最大限に生かした、克明且つ生々しい報告を行っている。もちろん、著者の報告は1999年一杯までであり、2001年7月のメガワティ大統領の誕生もカバーされていないので、あくまで限られた一時期の報告であり、またそれから12年以上が過ぎ、現在ではこの国の政治・経済が格段に安定したことは、最近の報告である「経済大国インドネシア」(別掲)でも触れられているとおりである。しかし、それでも、10年ほど前にはこの国が、そうした過渡期の混乱の中にあり、そしてそうした混乱期は、この国が基層で持っている様々な問題があからさまに表面化することになったと考えると、ここで報告されている著者の分析は、決して過去のものになったと断言することは出来ない。細部は省略しつつ、そうしたこの国の基層にある問題を整理しておこう。

 この本の構成は、第一章から三章が、アジア危機からスハルト退陣を経て、出直し総選挙に至る過程。続いて第四章で、インドネシア現代史の概要が説明され、続く第五章から終章までの三章で、1999年5月の総選挙の過程が詳細に報告され、10月に最終的にワヒド(グス・ドゥル)が大統領に選出された時点でのこの国の展望を議論して終わることになる。尚、この「ワヒド」については、著者は「グス・ドゥル」が正しい名前だとして、この本ではこちらを使用しているが、一般的には「ワヒド」が使われているので、ここではこちらを使うことにする。

 まずインドネシアの概略について説明されているが、ここで改めて認識したのは、共通語であるインドネシア語は、「スマトラ、カリマンタンとマレーシアの双方にまたがって住むムラユ族の言語(マレー語)を母体にして発達した全国共通語」であり、人口で最大を占めるジャワ族(この時点で推定人口70百万人程度)の地方語とは「英語とドイツ語の違いよりも大きい」差があるということ。そして特にジャカルタでは、中国系、アラブ系、インド系などの外来の移住者も加わり、「諸民族のるつぼ」と化しており、その結果、「ジャカルタでは、特定の地方語(ジャワ語)ではなく、(マレー語系の)ブタウィ語の影響を多少受けたインドネシア語が巷に飛び交う日常語になっている」という状態であるという。首都の日常語が、国の標準語と異なるというのは極めて珍しい例と思われ、この国の多様性を示す一つの特徴と言える(例えば、シンガポールも、国語はマレー語であるが、人々が日常生活で話すのは、シンガポール訛の入った中国語や英語であるが、これは形式的な国語認定の結果である)。
 
 1997年4月に著者が赴任した時期の、不動産開発等が相次ぐなどバブル経済の頂点にあり、またそれに伴う貧富格差が拡大したジャカルタ中心部の様子が描写され、続いてその時代の転換点となる同月の総選挙に移っていく。民衆は、既に30年を越えたスハルト時代に閉塞感を感じつつあり、そこでスカルノの娘であるメガワティの存在感が高まってきている。スハルトは、「スカルノの亡霊」を恐れ、様々な策を労してメガワティ排除を画策するが、それがかえって彼女の人気を高める結果になっていたようである。

 著者が滞在していたジャカルタ中心部でのメガワティ支持派の大集会やデモの様子が生々しく報告されている。しかし、5月末に行われた選挙の結果自体は、「役人と軍人による政府組織そのものを動員した集票活動」に加え「与党票の大幅水増し」などにより、与党ゴルカルの勝利に終わる。ところがその直後の6月からアジア通貨危機がこの国も巻き込み、ルピアは暴落、インフレが急騰し、野党支持者の集会、デモに加え、民衆の暴動・略奪が始まり、それに対する政府の弾圧とそれを糾弾する野党・民衆の間での対立のエスカレートという構図に入っていく。こうした状況下で、1988年5月、様々な延命工作空しく、スハルトは辞任を余儀なくされるのである(著者は、スハルトの辞任は日本で知ることになる)。直前に読んだアジアの概説書でも、「タイで特徴的な現象」として説明されていた、市民運動という非公式な政治プロセスによるこうした政権の崩壊は、その後20年経ってアラブ世界にも伝播していくことになる。

 1998年8月に、一時的にジャカルタに戻った著者は、ジャカルタのみならず、地方の旧知の友人の話なども通じて、ハビビが政権を引続いたこの混乱の時代を報告している。特に旧都ソロ近くで、5月の暴動で焼き払われた華人系の銀行や商店の様子を語りながら、その結果、それまで増え続けていたシンガポールや台湾からの観光客が激減し、観光施設が閑散としていた、というのは、国内産業のみならず、観光でも中華系に依存しているこの国の実態と、他方でそうした国において歴史的に何度も迫害にあってきた華人の苦難を示している(私事であるが、私が現在住んでいるシンガポールのアパートのオーナーはジャカルタ在住の華人であるが、会話の中で時々、この国での華人に対する政治的抑圧について遠まわしな表現ではあるが聞くことがある。)。また旧知の田舎の町では、かつて共産党の影響が強かったことからスハルト時代に辛酸を舐め、その結果表面は与党ゴルカルに忠実に振舞っているが、スカルノの肖像をいまだに隠し持ち、彼への崇拝の念を隠さない、といった複雑な感情も報告されている。こうした感情は、政治の流れが交替するときにはいっきに奔流となって湧き上がることになるのである。

 1998年12月から、著者は再び1年の予定でジャカルタに戻り、翌年の「出直し選挙」の過程をつぶさに観察することになる。マルク諸島アンボンでの大規模な暴動、東ジャワでのイスラム教指導者やコーラン読経者に対する相次ぐテロ(ニンジャ事件)、東ティモール独立運動の激化等々混乱が続いている。そうした中で、1999年2月、議会改革法や新たな選挙法を含む政治三法が成立し、選挙キャンペーンが始まる。著者は、雨後の竹の子のように登場した新たな政党の整理なども行いながら、詳細にその過程を追いかけているが、もちろん主要な争いは既往与党ゴルカルとメガワティを擁立した闘争民主党の間で行われる。同時にスハルとその一族による不正蓄財に対する裁判も、様々な駆け引きが行われながら進んでいる。そして5月以降、48の政党による公式の選挙運動が始まる。しかし、ジャカルタの中心部でも頻繁に行われ、著者も何度も遭遇した各政党のキャンペーンは、1997年の前回選挙に比べればむしろ平穏で、人々は「民族の祭典」を楽しんでいるようであったとしている。そして、これ以降様々な駆け引きが行われるこの選挙の詳細に入る前に、著者は、この国の一般的な成り立ちを簡単におさらいしている。

 ジャワやスマトラの古代王国、ヒンドゥーの伝播から特にジャワでのイスラム化に至る流れ、ポルトガル・オランダの進出と周辺地域との長期にわたる抗争等。ここで面白かったのは、バリのヒンドゥー王国が最終的にオランダに滅ぼされたのが20世紀に入った1908年であったこと、及びオランダの支配が、一部のスルタン領では、そのスルタンに任せた間接統治の形をとったこと。これらは最終的にオランダからの独立後に廃止されるが、ジョグジャカルタのスルタン領(旧マタラム王朝の血統)だけは独立戦争での功績が認められ、その後も温存されたそうである。これは私に、かつてこの地域に旅行した際、ガイドが語っていたこの地のスルタンに関わる逸話を思い返させることになった。

 戦前の独立運動の形成とスカルノの台頭(彼は一旦、1929年に逮捕・流刑に処せられる)、及び19世紀以降進んだイスラムの伝統派と改革派という2つの流れ。特に改革派運動の創始者は、ワヒドの祖父であったという。その後、日本の占領と戦後の独立、スカルノからスハルト政権までの時代の概略も説明されているが、既に別の本で何度も見ている歴史であることから、ここでは省略する。

 再び1999年の総選挙に戻る。著者は選挙運動を追いかけながら、各主要政党の得票を自分なりに予想しているが、そのポイントは、それまで「常勝不敗を約束されてきた」与党ゴルカルの票が、そうした半ば強制的な管理がなくなった状態で、どこに、どの程度流れるかという点である。著者は、まず地域別の政治意識、民族・宗教分布などを検討し、それに選挙期間中の実査などを通じての印象も加えながら、その予測を行っているが、その中で面白いのはスマトラ島への小旅行である。詳細は省くが、メダンからトバ湖を経てバダンに至る旅程とその時々の観察はある種のロード・ムービーになっていて、是非私もこちらにいる間に、同じようなコースを辿ってみたいと感じさせるものであった。もちろん、私の場合はそれは能天気な旅になるだろうし、また現在は、著者が辿った時からはインフラがそれなりに改善していると思われる。

 選挙に関しては、スマトラ、ジャワ、バリ三島で、この国の人口の七割を占めることから、ここでの勝敗が略雌雄を決する。そして結果は、メガワティを擁立した闘争民主党が約34%で首位、ゴルカルは約22%と大敗するが、いずれにしろ過半数を確保する政党はなく、これがそれ以降の迷走を生むことになる。また民族・宗教的な観点で見ると、世俗民族主義・キリスト教政党とイスラム系諸政党が夫々40%で拮抗し、それ以外の2割をゴルカルが拾うことになったが、これは、政党構成こそ異なるが1955年の選挙と同じような分布になっており、著者に言わせると「政党を支える社会的分節の配置は、44年の歳月を経てもさほど大きな変動がなかった」ということになる。この分析は重要で、社会的分節を考えると、この国では安定多数を確保できるような社会的基盤は民族的、宗教的には存在しないということである。その結果、この国のアイデンティティーを育成するためには、宗教・民族を越えた何かが必要となる。スハルト時代までは、それは支配者個人の権威主義による求心力であったが、民主化以降は、別の原理が求められるのである。

 3つの主要な政治勢力が拮抗する中、大統領選出に至る5カ月にわたる迷走に入る。メガワティ、ハビビ、ワヒドの3人の候補を巡る様々な駆け引きが行われ、まずハビビが、バリ銀行に絡む汚職事件や東ティモールの更なる不安定化等で後退。続いて議会内で、イスラム勢力中心に反メガワティ機運が高まり、その隙を縫って、それまで態度を曖昧にしていた第三の候補ワヒドが浮上し、最終的に選出されることになる。但しメガワティ派の暴発を抑えるために、彼女を副大統領にすることにより、この総選挙から大統領選出に至る迷走が取り敢えず収束するのである。

 こうしてこの本は、著者が「七色の虹」内閣と呼ぶ、新たに誕生したワヒド政権の下で山積する政治・経済的課題を整理して終わることになる。そして実際、著者が看破したとおり、この政権は「玉虫色の妥協の産物で、虹のようにすぐに消える運命にあった」ことを我々は知っているのである。この国の安定のためには、続くメガワティ政権を経て、2004年のユドヨノ政権の成立を待たなければならなかった。しかし、そうした混乱の時期にあっても、その間著者が危惧したような国民国家の解体は避けられ、また「過去の軍事的権威主義支配体制」へと逆行することもなかったことは重要である。それは、既述したとおり、民族、宗教等の社会分節的には支配勢力がなく、それを越えた国民国家アイデンティティーを作っていかなければならないというこの国の運命と、他方で混乱の中にありながらもしぶとく生き延びていくこの国の国家意思を示しているように思える。つい先日も、業務上で、この国の新たな成長を物語る挿話の幾つかに接したところであるが、このたいへんアジア的なアセアンの大国については、引続き肌で感じる部分も含め、常時アップデートしていきたい。

読了:2012年7月24日