スカルノとスハルト
著者:白石 隆
「ガンディー」、「リー・クアンユー」、「ラーマンとマハティール」に続く、岩波書店刊行の「現代アジアの肖像」シリーズの4冊目で1997年1月の出版である。著者については、今までも、インドネシアを中心とした「海上アジア」に関わる著作を読んできたが、インドネシアだけに専念した作品を読むのは初めてである。戦後インドネシアを率いてきた二人の対照的な政治家(貴族出身で、オランダ時代に大学教育を受けたごく少数の「原住民」エリートで、多くの外国語にも堪能な「夢想家」スカルノに対し、スハルトは、中部ジャワの水役人の息子、苦学して中学校を出た平民で、外国語はできない「実際派(実務派)」であった。)を核とする詳細なインドネシア近代史となっている。しかし、この出版から1年も経たない1997年7月に発生したアジア通貨危機は、インドネシアをその主要な標的とし、32年間に及んだスハルト政権は脆くも崩壊することになった。著者は、この著作の最後で、75歳となったスハルトと彼の政権が、近々変わることを余儀なくされるだろう、という「予言」しているが、まさにそれが思いもよらない大変動により、この本の出版直後に実現することになったのである。それ以降のインドネシア史は、私も接してきたその後の多くの著作で触れられている通りである。その意味では、この著作は、この国の「近代化」に向けての厳しい道のりを探ることであったが、それは今から見ると隔世の感がある世界である。
まずスカルノであるが、一言で言ってしまえば、1901年に生まれた「夜明けの子」という象徴的な運命を持った「革命児」であり、ロマンチストであった。彼は、バンドン工科大学で建築技師としての教育を受けたが、卒業後は直ちに、当時創設されたばかりのインドネシア国民党に参加して政治活動を開始、その演説能力を含めたカリスマ的な魅力で頭角を現すことになる。まさに「われわれの国民」意識も「インドネシア」の名称もない、このオランダ東インド植民地の人々に、国民国家としての意識統一をもたらす彼の活動が開始されることになるのである。同時に、オランダ植民地当局からは目を付けられ、既に30歳前から逮捕、流刑を繰り返す生活を始め、これは1941年2月、スマトラのベンクルで日本軍の東インド侵攻を迎えるまで続くことになる。しかし、彼がその間も独立への熱情を失うことなく、且つ民衆への影響力も維持したというのは驚きである。
日本軍は、オランダの影響力を奪うべく、スカルノを利用することを画策。またスカルノもこの状況下では日本軍を利用することを考えて、1942年、占領軍司令官の今村大将の要請を受けて、本格的に日本軍と協力した政治活動を開始することになる。
日本の占領時代の変化として、著者は、@白人優位の神話の解体、A経済統制と激しいインフレによる東インド経済の崩壊、そしてB近代的・中央集権的国家機構の崩壊と官僚機構の汚職・腐敗の進行、とまとめているが、私が常々感じている通り、日本による「アジアの欧州植民地列強からの解放」理念は、この地域にとって有用であったが、その統治は、自国の利益しか考えない、余りに稚拙なものであった。しかし、この間、スカルノは全国を回り、既往の行政機構とは別に、各種の住民組織や義勇軍を形成することになり、これが日本の戦況悪化により、日本からの独立の約束を得た後のスカルノの運動基盤となっていく。1945年8月17日、日本の敗戦直後に、スカルノはインドネシアの独立を宣言。もちろん次は、復帰を企むオランダとの戦闘が続くわけであるが、残留日本兵の義勇軍参加を含め、この国では占領期に日本軍が、シンガポールなどで行った華人虐殺といった行動がなかったことで、戦後の日本に対するそれなりに良好な感情が醸成されることになる。
戻ってきたオランダは、再植民地化のために圧倒的な戦力でインドネシア人の抵抗を抑え込み、1948年にはスカルノ、ハッタ、シャフリルといった有力指導者を逮捕するが、インドネシア国軍側はゲリラ戦で対抗。そして既に冷戦の危機を感じていた米国の介入により、1949年2月、オランダからインドネシアに主権の委譲が行われ、スカルノは晴れて旧総督府=独立宮殿の住民として復帰するのである。
この独立国家が、当初から議会制民主主義を採用したというのは、個人的には、今回初めて知った驚きであったが、著者は、それが、@独立時に締結されたハーグ協定で、それまで存在しなかった「連邦共和国」を作り、そこにオランダから主権が委譲されたこと、及びA地域的にも、社会的にも、また国軍や武闘勢力についても権力の分散が進み、中央政府が直ちにそれを強力な権力で統制することは難しかったことによるという。そして後者の中央政府のコントロールを取り戻すことが、まさに新たな国家指導者としてのスカルノの課題となる。
スカルノは、こうした「革命」の時代の指導者としては、確かに有能であった。国軍内で陸軍再編・合理化に反対する動きが起こった1952年10月17日事件や、小党が分立する政党を間ためるために行われた1955年9月のインドネシア最初の総選挙を乗り切り、「ナショナリズム」、「イスラーム」そして共産党の3つの主要勢力のバランスを、彼のカリスマ力で安定させる、その後の体制=「指導民主主義」が次第に形成されていくことになる。1959年7月の「1945年憲法への復帰」が、このスカルノによる「指導民主主義」が確立した里程標である、というのが著者の認識である。そして彼は指導力を維持・強化するために「革命の継続」を主張し、まだオランダ領として残っていた西イリアン解放や、反マレーシア戦闘を宣言したりすることになる。しかし、他方では欧米からの経済制裁により、国内の財政、インフレ等の経済状況が急速に悪化していく。これが結果的にはスカルノ政治の終焉に繋がっていくことになるのである。1965年8月、スカルノが病気で倒れた。クーデターの噂がジャカルタ中心に広がる。そしてそれが顕在化したのが9月30日事件であった。
戦後インドネシア史上最大の悲劇で、推定50万人以上が虐殺され、共産党が政治勢力として消滅、スハルトの新たな権威主義体制が成立することになったこの事件については、既に多くの著作に接してきたので、ここでは詳細は省く。いずれにしろ、ここからスハルトの時代が始まる。
著者は、同じ権威主義といっても、スカルノ体制とスハルト体制は大きく異なるという。前者は、政敵への攻撃はあったが、基本は説得で、「敵の物理的破壊」は限られていた。これに対し、スハルトは、投獄や虐殺により、政敵を徹底的に破壊した。また、スカルノ体制は良くも悪くも彼の個人的カリスマ力に基づく「親分・子分のネットワーク体制」であったのに対し、スハルトのそれは「親父の支配」であると同時に「機構の支配」
であったという。それが次のスハルトについての説明の核となる。
1921年、ジョグジャカルタ近郊で、水役人の子供として生まれたスハルトの「叩き上げ」人生が、スカルノのそれと大きく異なることは既に冒頭に紹介された。そして彼は国軍での地位が上がると共に(既に1948年の、ジョグジャカルタをオランダ部隊から奪還した「暁の攻撃」等の武勲で、彼の評価は確立されていた)、陰謀に満ちた世界を生き延びる術を習得し、スカルノ時代を生き延びていくことになる。
著者は、1965年までのスハルトの経歴を詳細に追いかけているが、それを経て、同年の9月30日事件で、彼の運命は一転することになる。ここでは、彼が反乱軍将校と面談した後、彼らの見方と思わせながら、結局は裏切った様子が語られている。この事件は、共産党陰謀説、陸軍内部説、共産党関与説、スカルノ関与説、スハルト関与説等、現在でも様々な解釈が語られているが、この事件に際し、スハルトが、スカルノから「治安秩序回復」に必要とされる全ての権限を手に入れ、それにより「共産党の物理的破壊」と「指導民主主義の解体」を行い、最終的には1966年3月、大統領権限のスハルトへの委譲により、スカルノの権力を奪い取ることに成功したのは歴史的事実である。
以降はスハルトの「新秩序」の成立と強化が語られることになるが、これは一言で言えば、パンシャシラ(建国五原則)と1945年憲法に基づく「安定と開発」体制である。そしてその体制を支えたのは、共産党弾圧を目撃した国民の「死への恐怖」に根差した「国民的合意」とヴェトナム戦争に深入りしていた米国を核にした「国際的合意」であった。そして日本も含めた自由主義諸国からの経済援助を元手に、インドネシア経済の成長とそれによる社会の安定化が、事実上のスハルト独裁の基で進められていくことになる。
このスハルノ体制下での「開発独裁」については、よく知られているとおり、「バークレー・マフィア」によるインフレ克服、財政再建、経済安定化と、それによる国際援助や日本企業などの民間直接投資によるその他の製造業の促進と石油依存からの脱却などが説明される。他方での低い公務員給与を原因とする「汚職・腐敗」体制が、「スハルトとその側近の実力者はもとより、各省庁においても省庁単位、局単位できわめてシステマティックに政治資金を作り、裏給与の財源作り」を促すことになる。私が社会人生活を始め、若干ながらこの国に関与し始めた1977年は、こうした体制を前提にこの国での業務戦略を考えた記憶があるが、それから20年が経ち、この著作が刊行された1997年は、この30年超に渡るスハルト体制にほころびが見え始めた時期であった。著者はその要因を「世代交代のなかで家族と国家の矛盾が顕在化」したことに見る。国軍におけるスハルトの娘婿プラボウォへの継承問題や、スハルト一族が進める「ファミリー・ビジネス」と他国籍企業や華僑財閥との摩擦、これらが老境を迎えたスハルト以降の軋轢を予感させるということになる。また政治の世界でも、1987年、92年の総選挙での野党民主党の健闘とそこでのスカルノの長女メガワティへの支持の高まりが、民衆のスハルト政治への「飽き」を物語る。著者は、「スカルノの亡霊が、たそがれを迎えたスハルトとスハルトの新秩序を脅かす」とこの本を締めくくっているが、それから半年後に発生したアジア通貨危機が、この著者の「予言」をまさに示すことになったのは、冒頭に触れたとおりである。
ということで、インドネシア政治は、その後ハビビ、ワヒド、メガワティの短期政権を経て、ユドヨノ(2009年―2014年)、そして現在のウィドドに引き継がれることになる。スハルト時代の終焉を迎え、カリスマ指導者による長期政権とは無縁となったインドネシアは、少なくとも民主主義的な政権選択ができるようになった。それは現在から見ればあたりまえの政治体制であるが、しかし、そこに至るまでの苦難の歴史を形成してきた要因が、決してこの国の基盤から消え去ったことを意味する訳ではない。東南アジア最大の人口を有する地域大国インドネシアの原点と課題を改めて確認することが出来た著作であった。
読了:2021年12月2日