オーストラリアはいかにして中国を黙らせたのか
著者:西原 哲也
1968年生まれで、2011年から共同通信グループの豪州駐在員を務めている著者による2021年12月出版の、対中国を中心としたオーストラリアの最近10年程度の外交政策に焦点を当てた報告である。最近のオーストラリアが、新型コロナの「武漢起源説」の調査を唱えたことで中国側の猛反発と貿易制裁を受け対中関係を急速に悪化させ、それもあり米豪日インドによる「クアッド」の結成により対中対抗姿勢を鮮明にした外交を展開していることは確かである。しかし、豪州の対中姿勢はそれほど単純ではなく、それは対日外交姿勢においても明らかである。そうした姿は、本のタイトルにある「いかにして中国を黙らせたか」というだけではない、オーストラリア外交の変遷と、ある意味でのしたたかさを示していると思われる。
冒頭、オーストラリアを舞台にした中国絡みのスパイ疑惑案件等の数々が紹介される。オーストラリアで国籍も取得した中国人で、反体制的な言動を行った人々が中国で拘束・変死したりした事件、あるいは逆にオーストラリア人で中国在住メディア関係者の拘束・追放、更には豪州の主要人物の個人データや豪州の主要ホテルの宿泊者名簿の詐取等々。豪州のテレビニュースが、新型コロナの武漢起源説を最初に報道したことが、一連の豪州メディア関係者への圧力の発端となったことも語られている。これらの事件を受け、オーストラリア国内では、サイバー安全保障の観点から、5Gネットワークからの華為等の中国企業を締め出す決定が行われることになる。
しかし、他方で豪州経済は中国に大きく依存している。オーストラリアの大学には大陸中国からの留学生が溢れ、大学への中国からの寄付も多く、多数の孔子学院が併設されている。その20万人を越える中国人留学生による経済効果は、観光も含め92億豪ドルの経済効果、年間7万3000件の雇用を生み出しているとされる。そしてその学生たちが民主主義思想に染まらないような、当局の息のかかった監視網も敷かれている。その結果、中国人学生の抗議で、ダライ・ラマの講演がキャンセルされたり、中国に不利な国境地図の使用が制限されたりといった事件も発生している。またいうまでもなく中国は豪州にとっては、牛肉や酪農製品、石炭などの鉱物資源の最大の貿易国であるのみならず、2010年の習近平(当時は国家副主席)訪問時に締結された合意に基づき鉱物資源・エネルギー開発関連での買収や投資も活発化していたが、その過程でリオ・ティント・スパイ事件等のスキャンダルも発生したという。特にこの時期首相であった労働党のラッド首相は、大学で中国語・文学を専攻したこともあり親中国色を鮮明にしていた。当然ながら、こうした環境下では、中国系オーストラリア人のみならず、普通の豪州人の中にも親中国ロビーが形成され、そこでも多くのスパイ絡みの疑惑や贈収賄事件などが発生することになる。しかし、それでも全体としてはこの時期は、中国による経済効果を優先する政策が取られていたという。その流れの中で、豪州海軍のみならず、米国海軍も出入りする北部のダーウィン港の民営化で、中国企業が落札するといった事態も発生した(その後、米国からの圧力もあり、これを見直す動きも出ており、この著作の出版時点ではまだ未決着であるという)。他方、この時期日本との関係では、南極海での捕鯨を巡る批判が、両国の外交関係に影を落としていた。
こうした親中国政策が転換するのは、2010年代後半となってからで、特に2017年、中国で「国家情報法」が制定され、中国私企業の情報が政府に吸い上げられる仕組みができたことによる中国企業への懸念や、クライブ・ハミルトンという著者が発表した中国による豪州への浸透を批判した「Silent Invasion」という著作の影響などが指摘される。外国政府によるインフラ関連投資を審査する国家機関(CIC)の設立も、そうした流れの一環である。そして2020年末には、外国政府と州や隼州を含めた国内公的機関が締結した合意を、連邦政府が見直すことができる「対外関係法」が制定され、その結果、例えばビクトリア州が中国と締結した「一帯一路」の覚書撤廃の決定などが行われているという。中国がアジア太平洋地域での海洋進出を強めている中で、中国に対する懸念が広がっていったということであろう。
ただそうした懸念を受けた軍備拡張の一環として、新型潜水艦の導入が検討された際、日本の三菱重工などから構成されるグループが、日本政府の全面的な支援も受け、当初受注を有力視されながらも、最後はフランスに敗れる事態となったことについて、著者は延々とその経緯や日本が敗れた要因等につき報告することになる。この辺りは、豪州の外交面でのしたたかさや日本の情報力不足などを物語るものであるが、この本の主題である対中国政策からは離れることになるので、これに拘る著者の意図はあまり理解できない。ただ、これはその後、将来的な原潜導入の思惑も絡み、結局フランスとの契約も破棄され、英米との共同開発に向かうという紆余曲折を迎えることになったようである。
こうして足元は、オーストラリアの対中姿勢は、経済的利益よりも安全保障や民主主義擁護といった理念が優先する政策になっている。2020年11月のモリソン首相(自由党)の日本訪問に合わせてキャンベラの中国大使館が公表した「オーストラリアに対する14項目の不満リスト」も、むしろ嘲りを持って捉えられたという。その後も、低次元の偽造映像を含めた中国による豪州叩きは頻発するが、それらはほとんど逆効果で、2021年2月には、日本、オーストラリア、アメリカ、インドによる「クアッド」初のオンライン協議も開かれ、中国による海洋進出を念頭に置いた「自由で開かれたインド太平洋」の認識が共有される。原潜導入に関わる英米との連携プロジェクト「AUKUS」も、その一環と考えられる。
ただこうしたオーストラリアの対中姿勢は、この著作で説明されているここ10年のこの国の外交政策の変遷を考えると、必ずしも未来永劫続くものではないことにも注意する必要がある。東南アジア諸国と同様に、オーストラリアも、状況認識を変えながら、中国の経済利権と安全保障を常に天秤にかけながら政策を遂行しているのは間違いないからである。著作の最後で、著者は、日本の外交が、現在に至るまで余りに稚拙で、対中国のみならず、同盟国間でも主張すべきこともきちんと表明しない「曖昧戦略」ばかり取っていたことを批判しているが、そうした姿勢は、また状況によっては裏をかかれる可能性もなしとしない。豪州の最近10年程度の軌跡は、必ずしも表題の様に「オーストラリアが中国を黙らせた」訳ではなく、むしろ国際情勢の中で、一時的に対中強硬外交を選択しているだけかもしれないのである。その意味では、オーストラリアの外交は、そうした国際関係の厳しい現実を改めて日本にも突き付けていると考えた方が良いのではないか、と考えた方が良いのではないだろうか。それを乗り越えていく狡知が、これからの日本には要求されているということである。
尚、著者の関連した情報の収集力については十分評価できるものの、この著作では、中国との経済面での関係強化の様子と、その対極にある中国に対する警戒感が、混然と提示されている感がある。こうしたオーストラリアの対中姿勢の変化をもう少し時系列的に整理して提示してもらいたかったという印象は否めなかった。
読了:2022年12月17日