アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
アジア読書日記
マレーシア
観光コースでないマレーシア・シンガポール
著者:陸 培春 
 日本への一時滞在時に書店で見つけ衝動買いしたのだが、単なる隠された観光地の紹介ではなく、太平洋戦争時の日本が、占領下のマレーシアとシンガポールで行った蛮行の痕跡を訪ね歩き、そうした場所の来歴や、まだ生存する関係者の証言も含めて紹介する作品である。取り上げられている場所、なかんずくシンガポールの幾つかは、私がこちらに来てから既に訪れているが、まだ行ったことがない場所も多い。特に、マレーシアにある戦争の痕跡は、今までほとんど訪れたことはない。まさに先週末の3連休を利用して、1泊2日で、バスを使ったマラッカ旅行に行ったが、マラッカにもこうした場所があるとのことである。時間が限られた今回の小旅行では、そうした場所には行けなかったが、今後機会がある度に、この本は利用させてもらおうと思う。本書の出版は1997年9月。著者は1947年クアラルンプール生まれの中国系マレーシア人。東京外大に留学した後、シンガポールの中国字新聞の東京特派員となり、その時代から一般記事に加え、日本の戦争責任関連の動きを批判的に報道してきたという。まさに私が、日常的にこちらで接している、華僑系の人々と同じタイプの人間である。そして、以前に読んだ「華僑虐殺」が日本人の視点からの研究であったのに対し、これはまさに被害者の側(彼の祖父は日本軍に拘束され、そのまま戻ってこなかったー虐殺されたと思われる。また叔父も、日本軍に受けた拷問のため、家には戻ってきたものの、その直後に亡くなっている)からの、日本の占領時の蛮行の告発である。著者自身も序文で書いている通り、こうした話題は、その後の著者の日本との関わりの中では、双方に不快感をもたらすものであった。従って著者は日常生活では、こうした話題を余り取り上げないようにしたということであるが、この作品ではそのように抑えてきた気持ちが、至る所であからさまに語られている。この結果やや感情的であったり短絡的な議論が至る所に見られるが、いずれにしろ重要な点は、我々日本人という加害者側が、彼ら被害者側の人間と接する時には、いつでもその気持ちを忖度して対応すべきということであることは間違いない。これを確認した上で、幾つか記録に残しておくべき場所を再確認しておこう。

 著者の旅は、まず真珠湾攻撃と同じ1941年12月8日、しかし時間的にはこれよりも1時間早く奇襲上陸作戦を開始した、マレーシア、コタバル海岸から始まる。著者は、この「マレー進攻作戦」を説明しているが、これは一般の資料の確認である。英国軍の迎撃作戦発動が、指導部の優柔不断もあり遅れたことが、この日本軍による奇襲作戦が、上陸時の激戦はあったものの、最終的に成功した主因であった、というのが著者の認識である。

 日本軍が上陸したコタバルのサバク海岸を著者は訪れるが、ここには当時使われたトーチカの残骸が残っている他は、その後日本軍戦死者の関係者により設置された慰霊碑があるくらいで、年配の人々を除けば、地元の人々の戦争の記憶も薄れているという。しかし、多くの戦死者を出したとは言え、この上陸作戦は日本軍の「緒戦でのあざやかな勝利であり、日本国内はその知らせにわきたったが、現地では時をおかず残虐極まる‘敵性華僑狩り’が始ワり、はじめシンガポールで、つづいてマレー半島全体で大量虐殺が重ねられることになる」のである。

 マレーシア、ケランタン州のこの町の中心部で、かつて日本軍の憲兵隊本部であった建物が、現在「戦争記念館」となり、日本軍の上陸作戦時の、浜辺に横たわる日本軍戦死者の写真や銀輪部隊が使用した自転車を始めとする展示が行われている。著者はこれらにつき順を追って説明しながら、「華僑虐殺」に割かれている展示が少ないことを指摘している。著者が示唆している通り、日本軍のマレー支配に際し、中国人に対しては、中国本土での侵略戦争とそれへの抵抗もあり、厳しく弾圧したのに対し、マレー系に対しては懐柔策も含めた緩い対応を行ったこと、またその後のマレーシアにおける中国系とマレー系の民族的緊張もあり、マレー系回教政党が政権を握るこの州(あるいはマレーシア全体かもしれないが)では、中国系に関する展示を少なくしているのではないか、と勘繰ることもできる。

 日本軍がマレー半島を席巻すると同時に、抗日運動も活発化する。著者はこの運動についてまず一般的な解説を行っているが、特にこれが「これ以前に反帝国主義、反植民地主義の民主運動を経験していた」華僑系中心の解説になっているのは、著者が中国系であることと共に、上記の状況を考えると当然の結果であろう。ただ個人的には、マレー系が日本軍から実際にどのような仕打ちを受け、その結果日本に対しどのような感情を抱いていたかも併せて報告してもらいたかチた。

 南洋華僑による抗日運動は、当初は、日本の中国侵略に対する義勇軍としての参加と物資輸送等の支援活動から始まり(雲南省とビルマを結ぶ道路を通じた物資はピストン輸送されたという)、日本のマレー半島制圧後は、国民党派の「華僑抗日軍」と共産党系の「マラヤ人民抗日軍」が、一部は英国軍の訓練も受けた上で、ジャングルに潜伏し活動することになる。こうした抗日運動が、日本側の益々過酷で残虐な占領地支配を強め、著者が紹介する数々の場所での虐殺行動に繋がっていくのである。マレーシアでは、セレンタン近郊の中国系の町ラサやネグリセンビラン州のティティ(虐殺の村)やプルタンといった場所での虐殺の様子が記載されている。

 面白いのは、特に共産党系の抗日軍は、日本降伏後、今度は戻ってきた英国、独立後はその民族国家の指導者から弾圧され、戦後の戦いを繰り広げる。このマラヤ共産党がマレーシア、タイの両政府と武装闘争放棄の平和協定を結んだのは1989年12月であったという事実。スリランカでもつい昨年まで反政府ゲリラが公然と活動していたくらいであるが、マレー半島も20年前までは同じ状態であったということである。

 シンガポールでの中国系の虐殺の実態は、以前に読んだ「シンガポール 華僑虐殺」に詳しく、この本での紹介は、その要約といった感じである。リー・クアンユーが選別から逃れた話や、サウス・ブリッジ・ロードの検問所の話なども重複するので、ここでは省略し、著者がシンガポール内で、この日本占領下での苦難と抵抗の栄誉を象徴するとして紹介している場所だけ、簡単に見ておこう。

 まずは、出張者でもすぐ目に付く「血債の塔」。1967年2月15日、即ちシンガポール陥落の22年後のその日に完成したこの記念碑では、毎年この日に追悼式が行われているという。1995年8月には、時の土井衆議院議長と村山首相が、続けてここを訪れ献花したとのことである。続けて、セントサ島にある「戦争記念館」。「Images of Singapore」と題されたこの展示館は、私が着任当初に訪れた場所のひとつであるが、この中の「降伏の間」が、通称「戦争記念館」と呼ばれているという。著者は細かい展示の紹介をしているが、これ以降も含め、展示内容と彼の解釈は省略する。次はシロソ砦。これは著者に言わせると「シンガポール攻防戦でのイギリス軍の戦略的失敗の象徴」である。

 続けて紹介されている晩晴園―孫文記念館は私が始めて聞く名前であった。孫文がシンガポールを訪れた際に度々宿泊した場所で、その後東南アジアの華僑革命党の拠点ともなった邸宅で、現在はこの革命家をしのぶ展示が行われているという。またより地味な場所としては「口述歴史館」という、戦争証言を集めた歴史観もあるという。シンガポールに関しては、後はチャンギ刑務所・教会・博物館(ここは私は訪問済である)とクランジ戦没者共同墓地及び日本人墓地が紹介されている。

 マレーシアに戻る。これから後の記述は、益々陰鬱になる。というのも、まさに著者はマレーシアでの日本軍による虐殺場所を回る旅に出かけるからである。パリッテインギやシンバという聞いたことのない村の地名が「虐殺の村」として挙げられる。巻頭の地図を見ながら場所を確認すると、今週末私が一泊で滞在していたマラッカと、首都クアラルンプールの間のネグリセンビラン州にある町である。この州だけで6回にわたる虐殺が行われたという。これらの地域はゲリラが根拠とした山岳地帯の麓にあるため、村民虐殺の対象に選ばれたという。僅かに生き残った人々の証言が生々しいが、著者による日本の国家論理の批判は、やや情動的な感じもする。ペナン島にある名門中学で、著者の出身校であるペナン鐘霊中学でも、前述の日本侵略前の物資輸送での抗日運動の中心であったこともあり、占領直後に46人の生徒・教師が一斉検挙・殺害されたという。その検挙の裏にいた台湾系の日本軍協力者の話などはまだ気楽に読めるが、日本軍の拷問体験者の証言などは、余り気持ちの良いものではない。

 抗日の英雄として、林謀盛(リン・モウ・ション)というシンガポール人華僑の話が紹介されている。実業界で成功した後、抗日運動のリーダーとなり、日本軍占領後は、いったんコロンボに逃げるが、そこで英国軍の協力を得て抗日特殊部隊を組織。1943年11月以降は、みずから偽名を使ってマレーシアのイポー市に潜入するが、仲間の自白から逮捕され、拷問の末監獄で死ぬ。彼が死んだバトゥガジャ刑務所や秘密部隊のアジトであった建益桟と呼ばれる建物が紹介される。そしてシンガポールのマクリッチ貯水池畔にある墓に加え、町の中心に彼を讃える「六角記念碑」が建っているという。これはまさに私が毎朝通勤時に、バスの窓から眺めていたものであることに気がついた。

 クアラルンプール郊外のヒンズー教の聖地「黒風洞」は、現在も人気のある観光地ではあるが、ここはまたマラヤ共産党上級幹部が集合した際に日本軍に襲われ、大打撃を受けた場所でもある。そしてその事件を幹部で唯一逃れたロイ・タクというベトナム人の当時の書記長が多重スパイであり、日本軍のみならず英国軍も手玉に取っていた、という話が語られる。この「マラヤ共産党史上最大の犯罪人」は、戦後、正体を告発されそうになると、党の資金を持ち逃げし、姿をくらましたという。その後の行方は知られていないというから、すごい男である。

 続けてマレー半島の至る所にあったという日本軍の「慰安所」と満州の石井部隊に比肩する「細菌部隊」の痕跡を探っていく。前者に関しては、コロニアル風の大邸宅が日本軍の本部として接収され、高級将校用慰安所となったケース(ジョホールバル郊外のダドゥ・ジャファ・ビルや市内のジョホール州美術館、クアラルンプールのセランゴール・クラブやダンスホール「東方舞庁」等)や下級兵士用(クアラルンプール市内のイポー・ロード沿いの長屋やバツー・ロード沿いの赤線地区等)等、ある日本人研究者によると、クアラルンプール市内だけで、こうした慰安所が7か所16軒あったという。シンガポール内にも10か所を越える慰安所があったそうである。著者は、何人かの元慰安婦の証言を引用しながら、日本政府の不十分な対応を批判しているが、このあたりは、以前に読んだ東郷和彦の新書に、其々の立場の議論を整理した上、評価しているので、ここでは著者のやや情緒的な批判は脇に置いておこう。

 後者については、今まであまり語られていない事象である。1991年9月、シンガポールの一般紙ストレート・タイムスが、日本の占領下のマレー半島でも細菌部隊が、ペストに感染したネズミにノミをたからせて大量のペストノミを作るという実験を繰り返していた可能性があると報道した。当時、この部隊で働いていた日本軍兵士の証言から、ジャホールバルの北にある、現在「ペルマイ精神病院」となっている施設がその研究施設であったとして、著者はこの場所を訪れ、現在の姿を伝えている。証言によると、この研究は生体実験までは至らず、日本の降伏により中断されたという。
 こうしてやや気分を悪くする場所を巡った後、最後に著者はクアラルンプール国立博物館の壁画でマレーシアの歴史と、その中での日本による占領時期の意味合いを説明し、そして著者が親しくしている日本軍の占領行為の批判的研究者(日本人)による「マレー半島戦争追体験の旅」と現地での「心に刻む集会」を紹介して、著者の日本占領時期を象徴する場所の行脚が終了する。

 既に私が訪れた場所を含め、シンガポールには特に日本占領下の圧制を記憶させようという記念碑や展示に至る所で遭遇する。そうした記念碑や展示に接する度に、個人的にも、日本の占領当地が、中国や朝鮮半島だけでなく、この東南アジアにも如何に多くの禍根を残したかを思わざるを得ない。シンガポールのリー・クアンユー上級相が、その自伝に書いているとおり、英国の支配も決して強権的な部分がなかった訳ではないが、少なくとも日本が降伏し、かつての支配者英国が帰ってきた時には、ほっとした気持ちがした、と言っているのは、英国の植民地支配の手法が、歴史的に見ても、日本のそれよりも圧倒的に巧みであったことを物語っている。もちろん日中戦争で、既に中国相手に泥沼に入り込んでいた日本が、それを支援する南方華僑にも、中国本土と同じように強権的に対応したということであろうが、それが歴史的に誤っており、その事実は、これらの国と接する後世の日本人が常に認識して行動しなければならないものである。

 他方で、国際法的な国家責任の議論と、同義的な議論を混乱すると、それこそ際限のない補償要求の渦に巻き込まれてしまうことから、戦後日本がとってきた態度が決して全て間違っていたという訳でもない。しかし、最も重要な点は、同義的なレベルで、こうした東南アジアの人々がそれなりに納得できる対応をしてこなかったというのは、日本の戦後政治の失敗であったということである。冷戦下、米国の庇護の下に入り、アジアを軽視した結果が、中国や韓国のみならず、ここ東南アジアでも反日意識として現在に至るまで残ってしまったのである。日本軍の蛮行についてのこうした記録を読むのは全く気分の良いものではない。しかし、この地で生活し、この地の人々と日常的に接している者は、少なくともこうした歴史を一時たりとも忘れることは許されないのである。


読了:2010年5月26日