アジア・ドイツ読書日誌と
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物語 フィリピンの歴史
著者:鈴木 静夫 
 3年振りの日本での年末・年始に読み続け、帰国直前に読了した。東南アジア物を読み始めてから、なかなかフィリピンに関する本に出会うことがなかったため、これが初めての本である。しかし、この新書も、目録には載っていても、必ずしも書店の新書コーナーに在庫があることはなく、前回10月の帰国時にようやく見つけたものである。いろいろな意味で日本とも歴史的な関係が深いにもかかわらず、フィリピンという国が、余り日本では関心を引かないことがその一つの理由であるような気がする。そして実際この本を読み始めてみると、この国の姿を具体的にイメージすることが難しく、本を読み進めるのにやや難儀したというのが正直なところであった。もちろん私が物心をついた1960年代以降のこの国の歴史は、マルコス時代からアキノ暗殺と人民革命を経て、その後の民政の定着という同時代的な流れとして把握しているが、それ以前の歴史は、ポルトガル及びアメリカによる植民地支配が長く、フィリピン独自の歴史がなかったことが、その最大の理由であると思われる。そして、そうした長い植民地支配の歴史は、戦後の独立後も、同様の植民地支配が長かった他のアジア諸国以上に、この国に影響を残しているように思える。この国の産業構造や経済成長のモーメンタムのみならず、文化的な特徴が分かり難いのとある意味では平仄が合っていると言えなくもない。そんなフィリピンの歴史を、この本に従い私なりに整理してみよう。著者は1932年生まれの、毎日新聞記者バンコク特派員等を経て東南アジア研究の道に入ったが、2000年に逝去している。この本も、出版は1997年ということで、コラソン・アキノ時代までで終わっており、まさにその年に発生したアジア通貨危機とその影響等については全く触れられていない。

 まずフィリピンの歴史を見る時に、著者が提起しているのは、スペイン、そして続くアメリカ、更に短期間であるが大戦中の日本によるこの国の植民地化の過程で、丁度中南米のスペイン植民地で起きたような残虐な植民地化が行われたのかどうか、そしてそれに対する現地人からの抵抗運動は発生したのかどうか、という論点である。植民地支配の記録の多くがキリスト教修道士(ドミニコ会が勢力を持っていたという)による支配者側からの記録であることから、実際の社会の様子を描くのは簡単ではないが、著者は結論としては、フィリピンでも「経済的奴隷化」のみならず「精神の奴隷化」が行われ、それがフィリピン人に対して一般的に言われる「人の良い」性格を作りだした一方で、植民地支配に対する抵抗運動も継続的に発生したとする。マゼランによるこの国の「発見」は、コロンブスによる新大陸到着から僅か29年後の1521年。従って、この国の植民地時代の歴史は、スペインによる中南米支配の歴史を現地人の側から見直そうとする「『盗まれた楽園』に対する500年の抵抗の歴史」、と同じ視点で描かれることになる。

 フィリピン史を、マゼランのセブ島到着から始めるというのは、長らくフィリピン人にとっては屈辱であったとして、著者は、1990年に発見されたある「碑文」と、それにより10世紀のフィリピンに「かなりハイレベルの“社会”が存在した」ことが明らかになった、というところから始める。そしてそれ以前の約4万年前から、この群島を囲む遠浅の海を伝ってマレー系の人々がここへ移住し、また中国系の人々も結構早く渡ってきたことも証明されているようである。紀元一世紀頃には、アジアの海洋民族が「たくましい交易者」として「インド洋、シャム湾、南シナ海を結ぶ海上交通路」を開拓し、フィリピンの人々もその中に参加していたことも間違いないようである。

 しかし、書かれた歴史が少ないことから、マゼランの来訪以前の歴史は、この程度の記述が限界である。そして欧州の大航海時代の歴史の中に、この国も巻き込まれていく。そしてポルトガルが、ガマによって開拓された東回り航路を使い1511年にマラッカを手に入れたのに対し、スペインはマゼランが西回り航路の冒険に出発し、1521年にフィリピンに到着するのである。

 同行した船員ピガフェタが残したマゼランの航海記録は驚くほど詳細で、フィリピンに到着した以降の彼らの行動や現地人の様子も克明に記録されているということで、ここにフィリピンの「書かれた歴史」が始まることになる。そしてやはり船団265名に加わっていた唯一の奴隷兼通訳であるエンリケ・デ・マラッカの活躍で、セブの首長フマボンとの交渉や800人のキリスト教への集団洗礼などが行われていくことになる。しかしマゼラン自身は他の首長との戦いで戦死し、追われるようにフィリピンを出発した船団がスペインに帰還した時には、5隻あった船は僅か1隻、船員は18人になっていたという。
 
 スペインの攻勢は続く。1565年にフィリピンに到着したレガスビは、武力による恫喝で、セブにスペインの完全な主権を樹立する「平和友好条約」を締結。3年後の1568年にはある事件をきっかけにマニラを占拠し、スペイン人の統治者が一定地域の徴税とキリスト教の布教を担当する「エンコミエンダ制度」の下でのフィリピン全土の植民地化が始まる。マニラを含めたフィリピンは、植民地として発展していくが、ここで重要な点は、スペインがマニラを「全アジアへのスペインの前進拠点」と位置付けたことである。実際、マニラは日本への宣教師派遣の基地であると共に、マラッカ、ボルネオ、カンボジア、ベトナムなどへの遠征もここから行われたという。経済的には、マニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン貿易が活発になるが、これは教会を含むスペインの資本家に膨大な利益をもたらしたものの、マニラはあくまで中継基地で、原住民は物流の労働力として強制的に狩り出されただけで、地域への恩恵は全くなかったという。また宗教面では、スペイン人にとってはフィリピン社会には根強い宗教や社会組織は存在しないと認識されたことから、原住民は「すべて野蛮人」であり、キリスト教の伝播と一部のモロ(モスレム)の改宗は正当な活動と看做されることになり、また彼らによれば原住民は簡単に新しい宗教としてのキリスト教を信じたという。しかし実際にはこの土地にも固有の土着信仰の神概念や偶像崇拝、迷信があったが、著者によれば、それが「必ずしもキリスト教宣教の障害にならず、ときにキリスト教受容を容易にさせる要素にもなった」という。

 こうしてフィリピンでは18世紀後半までに修道会が土地所有と住民の宗教的な洗脳を通じて独裁的権力を確立し、他方住民は貢税・奴隷化・強制労働という三重苦を課せられることになる。

 もちろん住民側も、スペイン教会権力の思うままにさせていたわけではない、として著者は次に反スペイン・反教会運動の歴史に入っていく。幾つかの規模の大きな反乱が紹介される。まず1587年の「トンドの謀議」はマニラ周辺の首長がボルネオの首長や停泊中の日本戦船長らと共に起こした反乱。続いて原住民キリスト教徒の抗議運動であったダゴホイ事件は1744年から1829年まで続き、フィリピンでの反スペイン反乱の中で最も長期間「独立を維持した」という。また1762年から64年まで、英国がマニラを占領した際に、これに乗じてスペイン権力を一掃したディエゴ・シランの反乱等。しかし、これらの18世紀中葉の事件では、外国との連合による形をとったが、ある歴史家によると、これらの闘争形態は「民衆の苦しみを食い物にして利を貪る将来の(フィリピンの)指導者の原型」であるということになる。また直接的な反乱ではないが、18世紀に始まったカトリック教会の兄弟会の設立と活動は、祈りにより反スペインの気持ちを表現するということで、やはり当局の弾圧の対象となったが、土着信仰と混淆した草の根のキリスト教信仰として「“宗教のプロ”である修道士たちもたじろがせる内面的な強さ」を持っており、ある歴史家は「19世紀初頭の民族主義的フィリピン独立運動の先駆的運動」であったと評価しているという。

 前述のとおり、ガレオン貿易は、原住民に何らの利益ももたらさなかったが、この植民地経済で次第に勢力を伸ばしていった勢力が「中国系メスティーソ」であるとして、この中国移民の歴史を追いかけている。

 レガスビ到着直後から中国人商店の数は増加し、1591年で200店舗、人口は2000人に達していた。主として対岸の中国・福建省出身の彼らは生糸市場を牛耳ると共に、食料品貿易などの経済活動にも進出する。スペイン人は、この“あまりに有能”な中国人を弾圧し、また中国人側からも反乱で対抗するが、次第にスペイン側も彼らと共存することが自分たちのメリットになることが分かっていったという。またこの中国系メスティーソは、18世紀末から19世紀にかけて、フィリピン農業が、自給農業から換金作物の輸出型農業へ転換するのにも貢献し、そこで中産階級化した彼らから高等教育に進む者や“母国”スペインやフランス、英国などに留学する者も現れるようになったという。そうした中国系メスティーソの留学生の中からフィリピン民族主義が芽生えていくことになる。

 その初期の一人、ホセ・リサールは、留学先のスペインで、彼らのフィリピン支配を告発する本を書き、またフィリピンで彼の作品に共感する新聞発行者等も現れることになる。マドリッドで活動していたリサールが、スペインでの開明派であったフリーメーソンからの支援を受けたというのも、本当であればメーソンの国際的な革命支援の初期の形態として興味深いところである。

 リサールは、1892年フィリピンに戻った後、1896年の蜂起である「カプティナン革命」の首謀者として逮捕・処刑されるが、その隆起はボニファシオやアギナルドといったフィリピン解放の闘士たちに受け継がれていく。ボニファシオもまた逮捕・処刑されるが、残ったアギナルドは「市民の権利をスペインに売りつけようとする」交渉を重ねた末、香港に逃れたという。そしてその後アギナルドは、その時期、キューバを手にした後、太平洋での拠点を求めていたアメリカと手を組み、1989年にフィリピンからスペイン勢力を駆逐するが、マニラ解放と同時に独立を認めるとしたアギナルドの約束は反故にされ、短期間の独立の後、アメリカ軍とアギラルドの民族勢力の武力衝突を経て、1999年以降、今度はアメリカの植民地になっていったというのは皮肉である。またこの時マニラに進駐した米軍の将軍の一人がアーサー・マッカーサーで、その息子ダグラスも、軍人としてマニラに舞い戻った後、第二次大戦後の日本占領総司令官として君臨することになるというのも面白い歴史である。

 1942年の日本軍の進駐で米軍支配が終了するまでの約40年間は、米国がフィリピンの「帝国主義的な領土拡大」欲求を「友愛的同化」という言葉で糊塗しようとした歴史であると著者は指摘している。そこには前者の姿勢をあからさまに出す共和党と、後者の精神で国内の支持を得ようとする民主党のアメリカ国内での覇権争いが影を落としており、それを意識していたマッキンリーからルーズベルトに至る共和党政権は、あえて民主党寄りのスタンスを出すことで、選挙対策上「『平和なフィリピン』というイメージを作りだす」必要があったという。親米的なスタンスで、「合衆国の一つの連邦となること」を主張する連邦党等も結成され、アメリカの支配の正当化のために利用されることになる。また「米国は当初から、英語を教育の手段として用いることで、フィリピン社会のアメリカ化を促進させようとした。」即ち、「スペイン人修道士が教会を通じて行った平定作戦を、米国は学校(での英語教育)を通じて行った」という訳である。

 しかし、そうした米国支配の下でも時として反乱は勃発し、米国の過酷な弾圧を受けるが、同時に合法的な独立運動も発生し、1907年に、フィリピン初の国政選挙である下院議員選挙では、高額納税者に限定された投票であったにもかかわらず「即時、絶対、完全独立」を掲げた民族政党が多数派を占め、米国の「友愛的同化」政策に拒絶を突き付けることになる。これを受け、米国もこの民族議会の権威を承認すると共に1916年には、地方知事から米国ワシントン常駐のフィリピン議会代表として活動したケソンが、「フィリピン独立に法的基礎を与える」ジョーンズ法を、米国議会を通過させることに成功する。ケソンはその後、フィリピンの更なる自主権限拡大に努め、1935年には米国自治領への移行を勝ち取ることになる。同時にケソンは、フィリピン最後の軍政長官であったアーサー・マッカーサーの息子ダグラスが1903年と1928年の二回に渡りフィリピンに駐在している期間に極めて親密な関係を結び、彼の後ろ盾を得て、1944年米国で客死するまで独裁的な権力を行使したという。

 面白いのは、この時期、議会での英語演説が行われるなど、英語文化の一層の浸透があったと同時に、米国共産党の指導下で、フィリピンにも共産党が結成され、社会党と共に無産階級による社会革命の機運も高まったことである。しかし、この動きは、日本の脅威が高まる中、最終的には米国の意図した戦略により、反ファシズム統一戦線に組み入れられていったという。

 1941年12月8日、真珠湾攻撃から僅か10時間後に日本軍によるルソン島の米軍基地攻撃が開始され、フィリピンの米軍は壊滅、日本の占領時代が始まる。
 
 この時代は、日本軍による「バアタン半島の死の行進」という捕虜残虐行為等もあるが、同時にフィリピンの民族エリートが「“民族主義的”対日協力」を選択するという現象があった。しかも当初の時期にその姿勢を明確にしたのが、後に暗殺されるベニグノ・アキノの父親で農商務長官等を勤めたベニグノ・アキノ・シニアであったというのは、フィリピン人の「日和見主義・ご都合主義」を示していると言えなくもない。しかし、その親日的な姿勢から、日本軍に占領下での大統領に指名したラウレルも、「独立」を盾に日本軍への協力姿勢を示すものの、英米に宣戦布告するという日本軍の要請は、「米国に恨みを持つ理由はない」と言い、最後まで首を振らなかったという。そして1943年10月に、「戦時下を意識した型破りの独立宣言」を行った後も、日本と英米との距離を微妙に均衡させる努力をする。こうした日本占領下のフィリピン・エリートの姿勢を、著者は「戦後も十分申し開きができる民族主義の土俵の中に日本軍を引き入れ、そこで真剣な勝負を挑んだ」と表現している。またこれは別の見方をすれば、日本軍の占領政策は、中国やシンガポールのような、恐怖支配ではなかったことを物語っており、それが戦後の日本との関係にも、それなりにポジティブな要因として作用したように思える。これは中国や、中華系を大量虐殺したシンガポールなどと比較すると、戦後処理の問題がそれほど厳しくなかったことにつながったのだろう。

 それでも、もちろん日本軍の占領下での抵抗運動は続けられる。その中で最も力があったのは、共産党により設立された抗日人民軍、通称「フク団」と呼ばれるゲリラ組織であるが、この組織の内部でも反日はともかく、反米を掲げるかどうかについては見解が分かれたという。そして米軍の支援を受けた他のゲリラ集団とは、時として抗争も起こしたというが、他方でこのフク団が、撃墜された米軍パイロットの保護を行うなど、米軍の支援を行ったケースもあったという。

 いずれにしろ、解放後を展望した米国、フィリピン支配層、共産党勢力の駆け引きは、早くから始まっていた。しかし、最終的には、米軍指揮官となっていたマッカーサーからの待機命令により、現地ゲリラ勢力は日本軍との直接戦闘を禁止され、フィリピンの解放は米軍により行われることになるのである。

 しかし、米軍が進駐した際に、日本軍と行動を共にしていたロハス(元々は米国支配時のマッカーサーの補佐官であったが、日本軍の占領下でラウレルに次ぐ政府高官に就任していた)は、逮捕されると同時に、マッカーサーから米軍将校の軍服を提供され、更には、対日協力を恩赦されることになる。これはフク団を初めとする抗日ゲリラを唖然とさせるが、米軍は間髪を入れず、次にこうしたゲリラの武装解除を強権的に行う。まさに冷戦を意識した米軍による、共産党勢力の弾圧が、進駐と同時に始まったのである。この対立が深まる中の1946年7月、フィリピンはアメリカ合衆国から独立し、第三共和制の大統領にはロハスが就任するが、こうした対日協力者の登用は、日本で天皇制を残した米国占領軍の判断等とも共通するものがありそうである。

 ロハス政権の下では、終戦後、どこでも見られたような混乱と対立が続く。48年4月、ロハスが米軍基地内での演説中に急死すると、アントニオ・キリノが大統領を継ぐ。彼は外交を得意としたが、内政面では、失業とインフレやフク団対策で効果が出せない上、政府内での汚職と腐敗が進んだという。そして、このキリノ政権で、地方長官としてフク団対策等で実績を挙げた元抗日ゲリラのマグサイサイが、1954年1月の選挙でキリノを破り、次の大統領に就任するが、彼の当選は、米軍の後押しに加え、当時21歳のジャーナリストであったベニグノ(ニノイ)・アキノ・ジュニアの報道での強烈な支持があったためであったという。

 このニノイが、17歳のフィリピン大学の学生時代から、二足の草鞋で朝鮮戦争の報道を始め、特ダネを連発する「天才記者」として名を馳せた様子が語られる。彼はまた、フク団の指導者タルクと単独会見し、彼の投降と、それによるフク団の活動の沈静化に貢献するが、逆にマグサイサイと米軍は、ニノイとタルクの間での約束に反しタルクを逮捕し、ニノイを怒らせることになる。マグサイサイは、ニノイの正義感を宥めると共に、かねてからの恋人であったコラソンとの新婚旅行を兼ねて、米国に「CIAの研究」のため送り出し、ガス抜きを図る。1年の米国滞在を経て、ニノイは本格的な政治活動に入ることになるが、まずは地方の町長から始まり、続いてマグサイサイの補佐官を勤める。しかし、1957年、政権基盤を固めていたマグサイサイが不慮の飛行機事故で死亡すると、一旦ニノイは親戚が保有する農場の経営者に転進した後、1963年再び州知事として政界に復帰するのである。彼はその時まだ31歳であった。

 その頃頭角を現しつつあったのがファルディナンド・マルコスであり、マルコスは1965年の選挙で、現職のマカパガルに大勝し、大統領に就任する。しかしニノイが長官を務めるタルラク州での敗北を、マルコスはニノイのせいであると考え、最初の邂逅の時から二人の間には敵意が目覚めたといわれる。

 そのマルコスに対しては、著者はかなり否定的な書き方をしている。フィリピン大学法学部始まって以来の秀才とうたわれ、司法試験も歴代最高点で合格するという頭の良さから、ロハス大統領の補佐官を経て32歳で最年少議員として当選するが、彼の周辺には当初から汚職や地下組織との関係といった噂が付きまとっていたという。周辺の議員が彼に口出しを出来なかったのは、彼の頭脳と、それ以上に報復への恐怖からであった、というのが著者のコメントである。他方、米国との関係については、マルコスは、折からのベトナム戦争の激化と米国の反共意識を利用し、飴と鞭を使い分けたという。マルコス体制は、謂わば、「アジアの安全保障に名を借りたアメリカの勢力圏維持と拡大政策に取り付く形で、政権維持をはかり、強権と腐敗の政治構造を生み出した」のである。

 こうしたマルコスの「恐怖政治」を公然と批判したのがニノイで、特に犯罪歴のある男を集めた秘密部隊で、北ボルネオに進行しようというマルコスの計画を暴露するなどして、反マルコスの寵児となっていった。そして1971年になると、学生や市民も巻き込む形で、大規模な反マルコス運動に広がっていく。著者は、これを1986年2月の「ピープルズ・パワー」革命の原型とみている。しかし、マルコスは、逆にそれを口実に1972年9月戒厳令を布告し、むしろ73年末で切れる大統領の任期を無期限に延長する動きに出る。ニノイも戒厳令布告直後に逮捕され、軍事法廷で銃殺刑の判決を受けるが、ハンストを含めた獄中闘争の結果、健康を害し、結局治療のためという名目で米国に追放される。

 戒厳令の期間、実質経済成長も低迷し、貧富の格差は拡大し、失業も高止まりする。開発独裁のための「立憲的権威主義」という名目も、看板であった農地改革も実行できず、1986年に打倒されるまでに360億ドルの対外債務をつくりだし、国家財政を麻痺させることになった。

 他方で、反マルコスの抵抗運動には、共産党を中心に「解放の神学」の影響を受けた司祭や教員なども集結する。そして1983年5月、アメリカから帰国したニノイが、到着した飛行機に乗り込んできた警察官により暗殺された事件で、いっきに市民を巻き込んだ動きとなっていくのである。1986年の大統領選は、マルコスと「殉教者の妻」であるコラソン・アキノの一騎打ちとなるが、マルコスの勝利宣言や軍を使った示威活動にもかかわらず親コラソン派が状況を支配するに至り、マルコス夫妻はハワイに逃亡するのである。

 しかし、マルコスの没落とコラソン政権の成立後も、実際の政治は決して明るいものではなかったという。コラソン政権を支持した保守層は、軍部を使い、解放の中心勢力となった共産党を弾圧し、またコラソン政権での農地改革も、全く農民たちが満足できるものではなかったという。更に米軍基地撤廃問題で、コラソンは大黒星を喫したと書かれているが、これはコラソンが「米国による集団安全保障と基地賃貸料によるフィリピン経済の危機回避」を意図したのに対し、ナショナリズムが勝利し米国の基地を撤退させることになった、という流れのようである。著者の書き方が曖昧で分かり難いが、むしろそうだとすれば、まさに米軍基地の存続でもめている現在の日本政府の問題を、フィリピンは20年前に経験していたことになる。またタガログ語と英語の「二言語教育」は、子供の言語環境を混乱させ、「国家の活力を奪っている」として、ここでもコラソンは中途半端な改革しかできなかったと評価されているが、これも近時フィリピンが英語力を生かしたBOSビジネスで国内労働力を活用していることを考えると、著者のこの時点での評価にはやや疑問が残る。

 いずれにしろ、この本はこうしてコラソンの6年間を簡単に記載したところで終了し、その後のアジア通貨危機や、ラモスやアロヨ等の政権下での動きについては触れられていない。著者は、フィリピンの歴史が、土着化したキリスト教信仰に根ざした「パシヨン」の生命力に基づく「民族の戦い」であり、これからもそれがダイナミックに続いていく、と結んでいる。

 冒頭にも述べたとおり、この国の歴史は、植民地時代に、支配者の側から書かれた記録が多く、その中では、この国の住民が「野蛮人」として描かれているために、そこでの固有の文化を捉えるのは難しい。そこに入ってきたキリスト教は、土着信仰と混淆したとは言うものの、結局はキリスト教、なかんずくカトリックの影響が圧倒的に強くなり、結局この国固有の文化と言うものは形成されなかったといえる。そして続く米国支配の時代は、それに英語という別の輸入文化が加わることになる。

 そう考えると、この国の支配者のみならず国民は、ある特定の固有の心情を持っているというよりは、やはり流れに対して柔軟な対応で生き延びてきたと考えることが出来るような気がする。文化的な核がないことから、植民地支配者の文化を簡単に、他方では柔軟に受け入れることができる。政治面でも、時の支配勢力に、ある意味では「節操無く」なびくが、他方ではそれが必ずしも全幅の信頼を置ける訳ではない、一筋縄ではいかない柔軟性をもっている。しかし、結局のところ、こうした国民全体としての傾向が、18世紀中葉の反乱に既に「民衆の苦しみを食い物にして利を貪る将来の(フィリピンの)指導者の原型」が示されていたと言われる通り、時の支配勢力を利用し、結局は自らの利益を確保するような現代のフィリピンの政治スタイルをもたらすことになってしまったような気がする。先に読んだ岩崎の「アジア政治」では、フィリピンの政党制は、「堅固な党組織を持たず綱領も不明瞭で党の規律も緩く、頻繁に他の政党と合併したり、現在の政党を解党して新しい政党を作ったりする政権党」が中心の「個人政党型政権党」と位置付けられているが、言わば数件の財閥系家族が、政党を利用して政権の争奪戦を行い、権力を持った集団が、その果実を独占するというような社会といった評価が出てくることになるのである。そして個人的にも、この本を読んで、どうもこうした評価はそれほど外れている訳ではないような気がしている。シンガポールがその典型であるが、開発独裁で特定の政党が権力を掌握するが、その正当性を国民の生活水準の向上に求め、それを実現した結果権力を維持することが出来たのに対し、フィリピンの場合は、権力者がその力を国民生活全体の向上に向けることができなかったのである。もちろん、ここ10年のフィリピンは、それなりに国民全体の経済力も上昇し、我々も業務上はこの国の成長にある程度のコミットをしている。しかし、個人的には、まだまだこの国の潜在力に自信を持てないでいるが、その理由は、まさにこの本を読んで感じた、この国固有の文化が曖昧であり、その結果、この国の将来像に関し具体的なイメージを持てないことにある。この国には、まだ出張で一回訪れただけであるが、もう少しじっくりと見ていく必要があると痛感したのであった。

読了:2011年1月2日