物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム
著者:小倉 貞男
2月に、中古で買った坪井善明著のヴェトナム関係新書を読んだばかりであるが、気がついたら、それよりも前に買って積んでいた同じヴェトナムの歴史に関わる新書があるのに気がついた。こちらは、年初に読んだフィリピンの歴史と同じ、中公新書の国別の歴史「物語シリーズ」である。出版は1997年であるので、先日読んだ1994年出版の坪井の新書よりはもう少し新しい本であり、2009年で第4版を重ねているので、それなりに売れているのであろう。
しかし、この本は、坪井の本以上に、古代から中世に至るこの国の歴史にほとんどのスペースを割いており、ドイモイについてさえ僅か2ページで簡単に触れているだけである。そして坪井の本のように、政治・経済・社会等の項目別に整理した分析というよりは、むしろ「抵抗運動」に焦点をあてたヴェトナムの2000年に渡る政治闘争の記録であり、著者は、その夫々の局面で登場した数多くの英雄たちの「物語」を重ね合わせることにより、全体としてのヴェトナム歴史物語を作っていくのである。そんなことから、この評も、どちらかと言うとヴェトナム史を飾った人々の内、特に注目される人々に焦点を当てることにする。しかし、まずホ・チ・ミン等を除き、ヴェトナムの歴史に登場する人物は、馴染みのない名前が多い上に、グエン姓が圧倒的に多い等、皆似通っているので、非常に記憶に残すのが難しい。誰が誰だか分からなくなってしまう可能性が高いので、名前にはあまりこだわらず、大きな流れを中心に見ていくことにしたい。
「『ヴィェトナム(VIET NAM)』という国名は、ヴェトナム自身がつけたものではない。はじめてヴェトナムを統一した王朝に対し、中国の清朝が名付けさせたものである。」この冒頭の二行が象徴するように、ヴェトナムの歴史は、常に中国との対抗関係の中で形成されてきた。「紀元前から始まる中国の1000年の支配、それにつぐ独立の時代。しかし、独立したとはいえ、つねに中国の侵略におびえ、抵抗した1000年だった。」同時に、もう1つの軸として、「東南アジアモンスーン地帯の諸民族―チャム、ラオ、カンボジア、タイ」との関係がある。「北の中国の圧力を受け、朝貢を続ける一方で、南へ勢力を伸張し、チャム、カンボジアの領土を併合していった。」この二つの軸が「交差し、からまりあって成立してきた」のがヴェトナムの歴史である、という。
この観点を下に、記述は紀元前からの中国支配の時代の「物語」から始まる。まずは、現在でも、北部を中心とした「デン・フン」の祭りで祭られる「ヴェトナム建国の王―フン・ヴォン(雄王)」。これは中国の史書に登場する紀元前2000年代の伝説であり、この王国が紀元前258年に滅亡するまで約2600年続いたとする。また別の中国の史書では、現在の中国浙江省にいた越国の諸部族が紀元前3世紀に広西省南部に移動した「ラクヴィエット(楽超)」の王がフン・ヴォンであるとする。ヴェトナムには、そもそも昔話が豊富であるが、このフン・ヴォンはある種の民衆信仰としていろいろな昔話―洪水との戦いを象徴する王女の結婚のエピソード等―に登場しているという。
この王国が、中国秦朝末期の混乱の中で紀元前208年に滅亡し、秦を継いだ漢の下で、1000年に渡る中国支配が始まる。この長い中国勢力による支配の時期は、著者によると、中国の王朝の変遷と対比しながら3つの時期に分かれると言うが、これは余り詳細に見ていく必要はないので、其々の時期の特徴などは省略する。いずれにしろ、その時代は、漢字の導入など、中国文化の影響が強まるが、統治に関しては一部の評判の良い支配者を除き、不正や残虐・貪欲が広がったという。そしてこうした中国官僚の横暴な支配に対するヴェトナム側の抵抗運動が始まることになる。紀元前40年に兵を起こした「チュン姉妹」に率いられた「ハイ・バ・チュン(二人のチュン夫人)」の反乱は、僅か3年の独立を果たした後、漢軍に制圧されるが、これはその後の別の女性に率いられた反乱(チュウ夫人の反乱)と共に、その後のヴェトナムの歴史で「抵抗のシンボル」として語り継がれることになる。また日本との関係で面白いのは、唐に遣唐使として渡り、時の玄宗皇帝に取りたてられた阿倍仲麻呂が、日本への帰国途上で暴風雨にあいヴェトナムに漂着したが、百人一首にある「天の原・・」の歌は、この漂流の直前に楚州で詠んだものであるという。また、その縁で、彼はその後ヴェトナム山岳地帯での部族反乱の制圧の為にその地に送られたこともあったという。
西暦900年代に入り、中国で唐の力が弱まると、ヴェトナムの支配権を巡り中国派とヴェトナム民族派の争いが起こるが、そこから勃興したゴ・クエンがまず939年、中国からの独立を達成。ゴ・クエンの死後、再び流動化するが、今度はディン・ボ・リンが「彗星のように現れ」ヴェトナムを統一、初めての元号の制定など国家の形を成す制度を作ることになる。
しかし、そのゴ・クエンも内部抗争から暗殺され、その後のヴェトナムは一応中国からの独立を保ちながらも、度重なる中国との抗争、及び内部での権力抗争による王朝の変動を繰り返すことになる。中国との関係では、宋の侵入は辛うじて防いだものの、元軍の三度の侵入では危機に晒される。しかし、宋との戦争時と同様、バクダン江の海戦で何とか勝利し独立を維持する。戦後直ちに元に使節を送り、朝貢を行ったことは、ヴェトナム外交の巧みさを示していると著者はコメントしている。そして11―14世紀までは、相対的に落ち着いた状況で、リ(李)朝とチャン(陳)朝という二つの王朝の下で、単なる「中国のコピー国家」に留まらない、「伝統社会のうえに中央集権国家体制」が形成されていったという。またこの時代は、農業国ヴェトナムの基盤である大堤防施設や運河、水利施設などのインフラが整備されると共に、宗教的には、仏教が民衆のみならず、支配層にも受け入れられていったが、チャン朝の後期になると、今度は儒教が次第に影響力を増すことになったという。
14世紀に入ると、この「リ・チャン朝」が、内部抗争で崩壊し、それに乗じた明により再度支配されるが、またそこで救国の士が登場し、新たな独立王朝「レ朝」が成立する。そこでの功労者は、レ・ロイという国王になる指導者と、彼を補佐したグエン・チャイという戦略家・詩人であったとして、著者は彼らの足跡を辿っている。またこの「レ朝」のレ・タイン・トンの時代(15世紀後半)は、中国やチャンパ等の外圧勢力を駆逐すると共に、ヴェトナムの村落共同体の慣行を尊重した律令が制定されるなど、ヴェトナム史上もっとも輝かしい時代とされている。
こうして15世紀以降、今度はヴェトナムの「南進」が開始される。それまでのヴェトナムは、北の中国のみならず、その他の周辺国家であるブナム、チャンパ、カンボジア、ラオ、シャムなどの挑戦を受け、言わば「南北挟み撃ち」状態であった。レ・タイン・トンの時代に、チャンパとラオを破り、それから17世紀に至り、本格的な南部の支配が行われたという。しかし、その間、ヴェトナムも再び内部抗争とそれに乗じた周辺国の侵入の時代があり、この南進が継続的に行われたわけではなかった。そうした中で、タイソン兄弟やグエン・フエ(18世紀後半)といった指導者が、周辺国との戦いを制し、この南進を進めていった。特にグエン・フエは1792年、皇帝を宣言してから僅か3年で白血病のため39歳で死去したが、軍事的な成果のみならず、「経済、社会、文化の面でも旧来の陋習を否定して思いきった改革を行い」、ヴェトナム民衆の心に「政治の新鮮さ」を深く印象付けたという。しかし、彼の死後勃興し、1806年にヴェトナム史上初めて全土を統一したのは、グエン・フック・アイン(ジャロン帝)で、彼はフランスやオランダの支援を得て、タイソン派を激しく粛清することになる。
こうした戦乱の時代は、また多くの心を打つ文学を生みだしたとして、著者は、グエン・ズー(1765−1820年)による「金雲翹新伝」という長編詩を紹介している。これは「一人のうら若い女性の波乱万丈の悲しいストーリー」で、小学校の教科書にも取り入れられ、「ヴェトナム人はしばしばこの物語の文章を日常会話のなかに交える」という。中国の影響下、代々の皇帝が科挙による知識人登用を行ってきたこの国の文化的伝統の一端を示す逸話である。
しかしながら、このヴェトナム独立の歴史は、「1858年8月31日、ダナン軍港に侵入してきたフランス軍艦の砲声一発によって暗転する。」この植民地化の過程は、そもそもジャロン帝が、外国勢力と結んだことに起因するという見方がある半面、第二代のミンマン帝が逆に外国人を憎悪して鎖国政策を取ったことで西欧文明の導入が出来ず、西欧列強の侵略に耐えられなかったという主張もある。いずれにしろフランスは、まだ他の列強が進出していなかったインドシナにターゲットを定め、宣教師逮捕・処刑等を口実にヴェトナム武力制圧に乗り出す。その過程はもちろん単純ではなく、著者は細かく経緯を辿り、同時にもちろん常に存在した抵抗運動も併せて説明していくが、これは省略する。1867年6月19日、コーチシナ全域を支配下においたフランスは植民地宣言を行い、皇帝トゥドゥック帝は服毒自殺する。フランスは更にカンボジアを併合。更にタイからラオの宗主権を奪い、1893年10月に、コーチシナ、トンキン、アンナム、カンボジア、ラオからなるフランスのインドシナ連邦が成立することになる。そしてこれ以降は、主として反仏抵抗運動の主要人物に焦点をあてた歴史が語られていくのである。
ここで登場する多くの抵抗者たちの名前を列挙することもあまり意味はないので、省略するが、大きな流れとしては、20世紀に入ると、主として「知識人たちのゲリラ闘争による勤皇運動」が、一つは「ゲリラ闘争から組織闘争、地域的闘争から民族独立の旗を掲げた国民的闘争への発展を目指す動き」へ、もう一つは「反仏闘争の目標がグエン王朝へも向けられる」ように変貌していく。興味深いのは、20世紀初頭、ファン・ボイ・チャウという由緒ある家系の青年が、フランス総督府からの追求を逃れて中国経由、日本に渡り、そこで近代化を進める日本を勉強するため、本国の若者に日本への留学を奨める「東遊運動」を本国で広め、一時は100人を超えるヴェトナム人学生が日本で勉学していたということ。また彼の呼びかけに応じ、1907年にヴェトナムで「東京義塾」なる学校まで作られたという。これは総督府により結局潰されてしまうが、日露戦争直後の日本が、列強からの解放を目指すアジアの革命家にとって、いかに重要な拠点となっていたかを示す挿話である。ファン・ボイ・チャウら、日本にいたヴェトナム人革命家は、結局日本とフランスの条約に基づき日本からの退去を求められ、香港や中国などを経由して本国に戻り逮捕されるが、「中村屋のボーズ」と同様、こうしたアジアの革命家のエネルギーをうまく支援できず、結果的には列強に替わる彼らの新たな支配者に転じていったその後の日本の進路を残念に思うのは私だけであろうか?
その後も幾多の反仏抵抗運動指導者が紹介されるが、極めつけはもちろんホ・チ・ミンである。彼は1911年にヴェトナムを出てから、1941年に帰国するまで30年間海外で、主としてコミンテルンの連絡員として働いていた。幾多の危機を生き延び、「独立運動を展開するにあたって重要な転機にかならず登場した」という。著者は最後にこの現在のヴェトナム国家の建国者の物語を辿っている。
詳細は省くが、彼が1911年にヴェトナムを離れた時は、フランス船にコック見習いとして乗船しており、そもそも革命運動で追われて出国した訳ではなかった。むしろパリ滞在中に、植民地支配に反対するフランス共産党に共鳴し、その党員となってから革命家としての道を進み、コミンテルンなどの経験を経て、1930年に「ヴェトナム共産党」の結成に中心的役割を果たすことになる。そして1941年2月、欧州におけるフランスのナチへの降伏やインドシナへの日本の進出といった政治混乱の最中にホ・チ・ミンは帰国し、5月に「ヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)」を結成。北部の洞窟を本拠に、反仏・反日のゲリラ闘争を指導することになる。1942年、中国に潜入した際、蒋介石軍に拘束され、いったん死亡説も流れたが、それも生き延び、1945年、日本軍が、これも断末魔の武力行使を行い、フランス総督府を無力化した機会に武装蜂起を決行する。そして日本の敗戦の報が届くや否や、これを絶好の好機として傀儡政権主催の集会を乗っ取り、権力を奪取。1945年9月2日、自ら執筆した独立宣言を読み上げることになるのである。しかし、フランスの復帰と共に、ヴェトナムはまずはフランスと、そして続けて米国との「30年戦争」に突入していく。彼は、1975年のサイゴン陥落を待たず、1969年9月2日、24回目の独立記念日に死去する。
ここでこのヴェトナムの物語は終わる。以前に読んだ本と同様、ホ・チ・ミン後の政治・経済・社会の変貌については残念ながら触れられていない。ドイモイについても、自らのカリスマ化を嫌ったホ・チ・ミンの遺志に反し、ホ・チ・ミン思想が喧伝されるのは、「ヴェトナム共産党の硬直化した体質を全面的に改革しようという、ホ・チ・ミンへの回帰」であるとして言及されるだけである。そして最後に、社会主義国家である前に「むら社会」であり、そこが「外敵との戦いの基地であり、文化の創造基地でもある」というヴェトナム社会の総括で終わってしまう。
ということで、この本は、私が現在の仕事の観点からこの国を見る上では、ほとんど参考にならない。むしろ、この国の2000年に渡る継続的な戦争と抵抗運動の歴史を考えると、1989年9月にカンボジアから撤退し、この隣国との抗争が終息してから約20年に渡り平和が続いているこの国の現在は、長い歴史の中で見ればたいへん珍しいということが分かるくらいである。しかし、坪井の本でも言われているとおり、こうした戦乱の歴史が、大規模な民族資本の誕生・成長を阻み、また中長期的な投資を構想することを困難にさせているというのが現在も当てはまるのか、あるいはそれは偶々過去の歴史がそれを難しくさせていたに過ぎないのかが、現在の視点ではより重要であろう。そうした問題に答えるには、この本の世界は余りに過去の戦争と抵抗の歴史に偏りすぎているのである。
しかしそうした限界はあるものの、見方によっては、この本の世界は坪井の本よりも、もっとヴェトナムの民衆に近い世界といえるのかもしれない。即ち、坪井の世界は、あくまで日本人という外の視点からこの国を観察した時の報告であるのに対し、この本の世界は、むしろヴェトナムの民衆が、日常生活で接してきたものではないか、と思えるのである。日本人が、NHKの大河歴史ドラマ等で取り上げられる戦国時代の武将や明治維新の人物群像等を当然のように知っており、彼らの人生を眺めることでその歴史意識が擽られるのと同様、ここで紹介されているのは、ヴェトナムの庶民にとって常に身近にある歴史上の英雄と彼らを巡る戦争と抵抗の話であるのではないだろうか。その意味では、今後、私の生活の中でこの国の人間と接していく時に、ここで登場する人間と彼らが関わる事件は、彼らの歴史意識の古層に入る際の媒介となりえる可能性もある。これから私のこの国の人々との交流がもう少し進む機会があれば、そうした観点から、是非この仮説の真偽を確認してみたいと思うのである。
読了:2011年4月9日