ビルマ 「発展」の中の人々
著者:田辺 寿夫
1996年出版の新書である。著者は、1943年生まれであるが、父親が大戦中ビルマ戦線で戦ったこともあり、大学でビルマ語を専攻し、NHKのディレクターになってからも、ビルマ語番組を制作する等、この国に深く関わってきた。そうした経歴から、この国に対するそこはかとない愛着を持って、この国の政権側のみならず、アウン・サンスーチー(以降「スーチー」)を始めとする反体制派、そして日本にあるビルマ人社会の様子などを観察している。この本が出版されたのは、1990年の総選挙で、スーチーの率いる国民民主同盟(NLD)が圧勝した後、軍政側がその選挙結果を無視し、民主勢力に対する弾圧を強化、しかし1995年に一旦それまで軟禁されていたスーチーを一時的に解放したことから、僅かばかりの民主化に向けての希望が出てきた時期である。それはまた、日本の経済界が、この国への資本投資を真剣に考え始めた時期でもあった。実際には、その後その動きは止まり、2010年までスーチーの軟禁も続くなど、民主化運動が停滞するのは、既に他の本や、スーチーを描いた映画で見てきたとおりである。その意味では、この本も、他の中古で買った古い作品と同様、それ以降のこの国の政治・経済・社会状況を知った上で読むと、やや時代を感じさせるところもないではない。しかし、それでもこの新書は、この国の歴史や地理、民族分布と、それを念頭に置いたこの国での政治的アイデンティティー形成の難しさ等を認識するための基礎を改めて提示してくれている。実際、最近でもバングラデッシュ国境に近いラカイン州で、モスレムであるロヒンジャーと呼ばれる少数民族と仏教徒のラカイン人との間で大規模な衝突が発生し、主として少数派であるロヒンジャーが虐殺されたり、村を焼き払われたりして、多くの住民がバングラデッシュに難民として流れ込んでいるというニュースが一般の新聞を賑わしている。今年4月の補欠選挙で、正式に国政に復活したスーチーも、こうした民族紛争は簡単に解決することは出来ないのではないか、と言われているが、長い歴史の中で形成されてきたこうした民族間の軋轢についても、この本では触れられている。それも含め、この国について今まで読んだ本の中では、最も広範にこの国を紹介している作品であるとも言える。いつもの通り、現在では古くなった部分は無視して、この国の基層として残っていると思われる部分を中心に見ていくことにする。尚「ミャンマー」という呼称については、著者は個人的なわだかまりもあり、この本では「ビルマ」で通している。それは著者の視点を示しているとも言えるので、ここでは私も「ビルマ」を使うが、残念ながら現在では、「ミャンマー」という呼称が既に一般化してしまったのが現実である。
著者は、日本に在住するチン人カップルの結婚式の話から始めているが、チン人と言われても、ミャンマーのどの地域かを直ちに想像することはできない。実はこのチン州というのは、ビルマ西部のバングラデッシュ国境に位置し、1944年3月から6月にかけて企てられ、大失敗したインパール作戦で、当時のインドを目指した日本軍が国境に向って通過していった地域であるという。かように少数民族が軍事政権に抵抗しているカチン(中国国境)やカレン(タイ国境)、あるいは前記のラカインがどこに位置するかも当初私は全く認識していなかったが、取りあえずここで示されている地図で、ようやくおおよその位置感覚を得ることが出来たのである。州として最も大きいシャン州は、私が昨年訪れたゴールデン・トライアングルに位置している地域である。
歴史的には、上ビルマと呼ばれる北部で王朝が栄え、私が今年2月に訪れたバガンなど、信仰の中心地になっているのに対し、ヤンゴンを中心とする南部は、英国植民地化以降経済的に発展した地域であるという。ヤンゴンの由来が、北部から攻め下った王が、「刃向かう敵をすべて滅ぼして海を望むこの地に至ったときに、『敵(ヤン)は尽きぬ(ゴン)』と述べたから」というのは面白い。そのヤンゴンは、殖民地時代にインド人や中国人移民が多く移り住んだことから多くの民族が混在する様相を呈することになったという。
植民地時代に、英国が、キリスト教化が進んだ周辺部の少数民族を、植民地政府の役人や兵士として利用したことで、平原部のビルマ人からは、インド人と同様の嫌われ者になったというのは、色々な地域に見られる植民地時代の負の遺産である。また日本軍占領下で、日本軍が協力して誕生させたビルマ義勇軍(BIA)が、親英派という理由で例えばカレン族を弾圧したというのも、その後の少数民族と政府の対立の原因の一つである。
また、そうした堅い話の他に、この国の民衆の生活習慣を示すため、著者は、その後至る所で在日ビルマ人の生活習慣を紹介しているが、これについては、4月に行われる水祭り(ティンジャンあるいはダジャン)が、タイと同じ風俗であるということ、及び仏教の民衆への浸透も、タイと似ているようである、ということくらいを確認し、それ以外は省略する。
こうした概略を紹介した上で、1988年以降の民主化運動の説明に入る。スーチーの映画にも登場するネウィンが、1962年にクーデターで政権を奪取してから続いていたビルマ社会主義計画党(BSPP)の一党独裁体制の下、1988年3月に起こった小さな学生同士の喧嘩が、当局の横暴に対する不満が爆発するきっかけになり、全体的な民主化運動になっていったという。これによりネウィンは辞任し、社会主義政権は崩壊したものの、反政府運動が拡大し、8月8日にビルマ史上最大のデモが実現したあたりから、体制側の危機感も高まり、今度は9月18日、国軍によるクーデターという形で、民主化運動は多くの犠牲者を出して鎮圧されることになる。
その民主化運動を弾圧した国軍は、そもそもスーチーの父親であるアウンサンをリーダーとして結成されたビルマ独立義勇軍(BIA)―その中核が「三十人志士」で、ネウィンもその一員であったーは、1930年代後半に欧州での戦争をきっかけに、英国からの独立を目指して結成された青年活動家たちの組織であったが、蒋介石政府支援ルートの寸断を意図した日本軍が目を付け、このBIAと接触し、軍事訓練を施す等の支援を行ったという。その後、日本軍のビルマ進駐に伴い、両者の協力関係は続くが、日本が独立の約束を遂行しなかったことから彼らは次第に反日・反ファシズム運動に転化し、日本の敗勢が明らかになった頃から対日反乱に決起する。そして戦後英国が戻ると、当然今度は反英独立運動の中心となっていったという歴史がある。
こうして1948年1月4日に、ビルマ連邦は、英連邦にも加わらない独立国家として独立を果たすが、アウンサン自身はその直前の1947年7月に暗殺されたことは、スーチーの映画でも冒頭に描かれているとおりである。しかし、独立後は、大幅な自治を要求する幾つかの民族の反乱や共産党勢力の拡大等で内戦状態となったことから、ネウィンらの国軍が台頭し、取り敢えず反乱勢力を地方の一部に抑え込むと共に、一応民主制として出発したこの国の政治に強い影響力を持っていく。1962年3月に、国政の混乱を理由にネウィンを首謀者としてクーデターを決行、1988年まで将校団による革命評議会による社会主義的独裁が続くことになると共に、ネウィン退陣以降も、現在に至るまでこの軍人による支配は継続するのである。
前述のとおり、この本が出版された1990年代半ばは、スーチーの一時的な軟禁からの解放もあり、民主化の希望が高まった時期であった。著者は、その頃の日本での、在日ビルマ人による民主化運動と、独立記念日のパーティで在日ビルマ大使館詣でをする日本企業関係者双方の様子を報告している。日本で民主化運動を行う人々の中には、日本の入管問題から難民認定を受けられず、悩みながら政府に帰順して帰国する人々もいたという。
著者は、1988年以降の国際社会からの民主化運動支援、特にスーチーのノーベル賞受賞とその授賞式への欠席をきっかけにした国際的な関心の高まりを報告しているが、その中で、1990年11月、国連人権委員会から特別報告者に任命された緒方貞子(当時上智大学教授)がビルマを訪問したが、軍事政権側は、日本の過去の侵略も引き合いに出して、国際社会及び日本の人権問題への介入を非難したというという話は、日本の対アジア政策を考える時に留意すべき問題を示唆している(東南アジアの「反日」カードは、常にこの日本の占領と戦後補償問題である)。
しかし、この90年代半ばの時期、経済界では確かに「第一次ミャンマー・ブーム」と呼ぶべき状況があったようである。政治面ではスーチーの軟禁からの一時的な解放と少数民族との停戦合意等が矢継ぎ早に打ち出されると共に、経済面でも、例えば国境を接するバングラデッシュ、インド、中国、ラオス、タイとの国境貿易が、それまでも現実的には黙認されていたとは言うものの、「密貿易」ではなく、政府により公認されることになる。天安門事件以降、国際社会から同じ人権問題で非難された中国との政治的・経済的パイプが太くなり、マンダレーでは中国人と中国製品が急増、中国人経営のホテルも次々にオープンする。他方でこの頃日本でも数多くの「ミャンマー投資セミナー」や、観光招致のセレモニー等も行われ、ヤンゴンでも外人向けホテルの建設ラッシュになっていた、というのは、私には現在の状況と重なって見えてしまう。但し、この時点では(そして最近に至るまで)民主化運動側は、そうした投資は軍事政権を潤すだけであるので控えて欲しい、と主張していたということは留意しておこう。また、こうした観光開発や、新しい鉄道や道路建設を大義名分として軍事政権が行っている強制立ち退きや強制労働への徴集、更には軍が住民を実戦部隊の荷物運びとして強制的に連行する「ポーター狩り」といった裏側についても著者はコメントしている。
実は1988年までは、日本はビルマに対する最大の援助国で、日本からの援助はビルマが受けとる二国間援助の80%は日本のODAであったという。1989年に日本は早々に新しい軍事政権を承認するが、さすがに人権批判もあり、ODAの全面解禁は控え、緊急且つ人道的なものに限定して援助を再開したようである。このODAをターゲットにした日本企業の進出が、この頃、以前ほど活発ではないとしても、「資源と良質の労働力に恵まれた、アジア地域に残された数少ない市場」であるこの国への民間投資として期待されているというのは、前述の通り、現在と重なる姿である。
他方、アセアン諸国とこの国との関係を見ると、この時点では1995年7月にヴェトナムの加入が正式に決まったばかりで、この時点ではビルマは議長国ゲストとして会議に出席しているだけであったが、幾つかのアセアン諸国との条約を締結する等、加盟の条件を整えつつあった(その後1997年7月に正式加盟)。言うまでもなく、アセアン諸国にとっても、この地理的にも近く、未開発資源を持ったこの国は、市場及び投資先として魅力ある存在である。こうしてこの時点で既にシンガポールやタイは、投資面でも貿易額でも日本を凌駕しつつあったという。他方でこうしたアセアン諸国のビルマ接近は、この国での中国の浸透を意識して、中国を牽制しようという意図もある、というのが著者の見方である。更にこの時点では、アメリカさえも、一方では民主化を促す制裁案が議会で審議されている最中であったが、民間資本は、軍事政権のこの国への投資活動は止めていなかった。これが変わるのは、その後2003年5月のスーチー再拘束を受け米国が、また翌2004年10月に、民主化の進展が見られないとして欧州が経済制裁を強化してからである。
最後に著者は、この国と日本との関係を総括し、この新書を締めくくっている。1995年時点で、野党議員中心に「ミャンマーの民主化を支援する議員連盟」があり、鳩山由紀夫等も参加していた。この連盟が派遣した代表団は、ヴィザが発行されずビルマ本国には入れなかったようであるが、帰国後、軍事政権の利益になる経済協力は慎むべき、といった報告書を出しているようである。
他方で、NGOなどのボランティアが、例えば、前述の紛争地域であるラカイン州などで、国連難民高等弁務官事務所などの業務を支援している。このボランティアの関係者によると、前述した、インパール作戦のルートとなったチン州に近いこともあり、第二次大戦中、この地域にも日本軍が進駐し、過酷な労働や物資の強制徴用を行ったことで、「ファシスト日本」が住民の記憶に残っているということ、及び日本の民間人が来ると、次に軍隊が来るのではないかという疑心暗鬼が住民の中にあると指摘しているのは残念なことである。
そもそも独立後のビルマは、日本とは良好な関係を維持し、例えば日本が最初に平和・賠償協定を締結したアジアの国はビルマであり、その穏当な条件が、その後の他のアジア諸国との交渉をそれなりに有利に進める根拠になったと言われる。そんなこともあり、日本はネウィンの軍事政権時代を通じ、インフラ援助を中心としたODAを増加させ、前述のとおり、1988年まではビルマが受けとる二国間援助の80%が日本のODAであるというまで入れ込んだのである。その意味で、この本が書かれた90年代半ばにおいて、日本が再びこのODAの再開を行うかどうかが注目されていたということになるのだろう。しかし、実際には、その後の軍事政権による民主化運動の抑圧が強まる中、前述の欧米諸国の経済制裁なども受け、日本はこの国への援助に対し消極姿勢に転じることになる。
2010年以降のテイン・セイン政権の下での政治犯釈放やスーチーの国政への復帰や、それを受けた欧米諸国の経済制裁解除の動きに起因する現在の「ミャンマー・ブーム」は、言わば、この本が書かれた1990年代半ばのある種の期待感が、15年以上経ってようやく現実の動きになってきたものと考えられる。この時の民主化に向けての期待感は、結局軍事政権の強権支配が復活したことで長く続かず、むしろ経済制裁の強化により、ビルマの成長は止まることになった。その意味で、今回の民主化の動きが、本当に順調に進んでいくかは、まだ必ずしも楽観的に見ることはできないし、また民主化が進む過程で、また少数民族との紛争等が激化して、また軍部独裁に戻ってしまう「いつか来た道」を繰り返すことになってしまう危険も常に残っている。著者は、この本を、一昨年私が、そのタイ側の国境まで旅をした、シャン州東部のチャイントンという町への旅行記で締めくくっているが、こうした観光開発という表の面と、最近でもなお不安定なラカイン州の紛争のような負の面を、この国は依然抱えている。この15年前に書かれた新書は、この国がこうした国内政治の安定化に向けた多くの課題を抱えていることを改めて認識させてくれる。この国を巡る軍事政権とスーチーら民主化勢力の駆け引きと国際社会の対応を引続き追いかけていきたいと思う。
読了:2012年7月6日