アジア・ドイツ読書日誌と
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マラッカ物語
著者:鶴見 良行 
 ここのところ、アジア物については、読み残していた教科書風の作品を読むことが多くなっていたが、9月の夏休みに家族に持ってきてもらったこの本は、久々に創造力と夢想を刺激してくれる一冊であった。著者には、今まで二冊の新書で接してきたが、1981年出版で、既に廃刊になっているこの単行本は、それらの新書よりも圧倒的に著者の東南アジアに関する知識が詰め込まれている。むしろ新書が、著者の個別地域に関するフィールド・ワーク的な作品であったり、その方法論だったりするのに対し、この本はまさに私が暮らしているシンガポールとその周辺、マレーシアとインドネシアの歴史物語である。

 しかしながら本の冒頭は、本のタイトルからするとややイメージの異なる、水爆を使ったクラ地峡(タイ・マレーシア国境に近いマレー半島の狭窄部)での運河計画の話から始まっている。両岸の迫った地点で幅60キロ、長さは800キロに及び、水深も浅く「もっとも混雑した海」と言われる難所のマラッカ海峡のバイパスとして、半島の付け根の部分に運河を建設する計画が1970代初頭に真剣に検討され、日本の財界なども強い関心を示していた、というのである。そしてこの計画には欧米の原子力学者が参加し、掘削のコストを削減するために核爆発で工事できる区間の調査・提案などが行われていた。

 著者が、この作品を出版した時点では、まだこの計画が白紙になったという確認はなされていない。しかし、現在こうした話は、当然のことながらほとんど聞こえてこないので、この計画はそのまま御破算となったということであろう。そしてこの運河計画という「今世紀最大の夢」は、「外国資本の夢であって、半島住民の夢ではない。」そしてこれが、著者がこの地域の交易の歴史を遡っていく契機となるのである。

 マラッカ海峡とその周辺は「大地と海に奇妙な配分が生んだ地球上でも稀に見る東西南北の十字路」であるが、「ものみな大地に還元される熱帯モンスーン地帯」であるこの地域については文字による記録が多くは残されていない。それを辿るには、中国、インド、あるいはアラビアの文献を探っていかなければならないと同時に、近代以降についての記録は其々の植民地宗主国に眠っている。「ヨーロッパに留学しないと自分たちのことが研究できないという悲しみ」がこの地域の国の歴史研究家にはある。また古代の文献に関しては、そこに登場する地名が未だに特定できず諸説が存在するようなケースも多いという。著者は、「隋書」に残る「婆利(ボーリ)」という地名につき、9つの説があるという例を紹介している。

 古代のマラッカ海峡は「モンスーンの始まり終わるところ」である。この風に全てを任せた中国とインドを結ぶ交易がおこなわれていたことが、既に一世紀半ばのギリシャ系の航海者の記録に記されている。「インドからマラッカ海峡に達して往復するのに2年かかった」が、そのうち数カ月は「海峡内部における風待ち時間」であり、16世紀になっても「シンガプラ」で風待ちをしていた、というポルトガルの航海者の記録もあるという。

 後に「香料諸島」の名前で知られ、西欧列強の植民地支配の直接の誘因となったこの地域の香料取引の歴史が、推測を交え詳細に説明される。そして重要な事件としての、西暦1−3世紀のこの地域の「インド化」。「何でインド人が故郷を離れたのか」とインド文化が「かくも深く、内陸部に至るまで入りこめたのか」につき論争が続いているという。支配文化伝来の歴史としては「仏教が先行し、その後を追って、仏教系のシヴァ信仰、六世紀になってヒンドゥー教のヴィシュヌ信仰とブラーマンが渡来した」というが、このように仏教が先行したことによりこの「インド化」は緩やかなものになり、インドの厳格なカースト制はこの地域には根付くことがなかったという。同時にこの「インド化」は、この地域における王権の成立と定着農耕社会の成立をもたらすことになる。面白いのは、13世紀に流入したイスラム文化がマニラにまで影響を及ぼしたのに対し、フィリピンではこの「インド化」が行われていない。なぜ東南アジアの「インド化」がインドネシアの島々で終わり、フィリピンに至らなかったのかというのも、この地域の歴史の中で論争が行われている分野であるという。

 この地域の海洋民族の歴史と生態が詳細に語られる。スワウェシのブギ族は、「水軍集団として名を売り、後期ジョホール王朝の宮廷に入り活躍」したが、それは例外的で、多くの海洋民族は地域の王権(イスラム化により「サルタン」と呼ばれることになる)が気に入らなければ「帆をあげて、さっさと他岸へ去る」流浪の民であり、彼らはその巧みな航海術により、19世紀に至るまで漁民、船乗り、そして時には海賊として、この海域における交易の歴史にいろいろな形で関わっていくことになる。

 島嶼東南アジアの海洋民族の拠点は、3つあったということで、@マラッカ海峡南半分、ジョホール、シンガポール、リオウ・リンガ諸島、Aスラウェシ島南西部マカッサル周辺、そしてBボルネオ島北部、スルー諸島、ミンダナオ島南部が紹介されている。ここで面白いのは、@の中心が歴史的にビンタン島(リオウ本島)であったということで、これはその後、マラッカ王朝の発祥地として改めて説明される。また「マラヤ」概念の生成についても説明しているが、これは7世紀に当時のパレンバンにあったシュリビジャヤを訪れた中国僧義浄によりスマトラ東部の名称として触れられ、その後「沿岸マラヤ人」という内容で半島部の人々のみならずインドネシア、フィリピンを含む海洋民族全般の呼称に拡大していったという。他方でマラッカ王国が、「その最盛期でも、伝統的定着社会の特徴である水田耕作をなんら発展させなかった」と言われる通り、「海洋生産系と水田耕作系の対立を含んでいた」ことが、後の「マラヤ」ナショナリズムを巡る議論の遠因になったとのことである。更にこの「マラヤ」概念は支配層が独占し、民衆の世界に基盤を持っていたものではなかった、という指摘も面白い。

 こうして海洋民族の漁民や海賊としての活動が紹介される。ここでも興味深いのはブギ族が「勇猛果敢な海賊」として知られているが、彼らは「その他の群小の漂海部族などよりはるかに高度の文化と社会組織を育てた」「武将格」であり、17世紀にはセランゴールに植民地まで有していたという点。これはシンガポールにも今尚「ブギス」として名を残す彼らの栄光の歴史なのであろう。

 マラッカ王国の成立に至る歴史。まず「この地域に最初に成立した交易帝国」であるシュリビジャヤの支配権が、15世紀初頭にマラッカ王国に引き継がれる。ここで「マラヤ編年記」に書かれているマラッカ王国建国神話が説明されているが、ここで面白いのは、伝説ではこの王朝の祖先がアレキサンダーの血を引いていると説明されていることで、それはサルタンが、アレキサンダーのマラヤ語対音「イスカンダール」を名乗るケースが多かったことにも示されているという。この名称は、最近注目されているジョホール州での大規模な居住用不動産プロジェクトにも使われており、ここに住んでいる我々には馴染みのある名称であるが、こうした歴史的由来があったということは、ここで初めて知ることになったのであった。またこのマラッカへの遷都は、パラメスワラというパレンバン貴族が、ビンタン、シンガポール、ムアール河口を経て移動することで行われるが、何故この遷都が行われたか、あるいは何故その先がマラッカであったのかということは、ここでは説明されていない。前者については、おそらくスマトラ島西部のミナンカバウ=ジャンピに成立した権力との対抗関係があったからと想像される。いずれにしろマラッカに移動した王権は、ここで主として「700年間にも及ぶシュリビジャヤ時代に準備されていた」海洋民族の労働力を動員し都市建設を進めるが、これは他方でこの王国が農耕社会の基盤を持っていなかったことを示しているという。ここで次第にマラッカ宮廷に統合され、階層化されていく海洋民族(スク)の中心は、ビンタン島を含むリオウ・リンガ群島を基盤とするリオウ族であったという。

 交易国家としてのマラッカが成立する。15世紀におけるこの王国の支配権は、半島南部とリアウ諸島、そして対岸であるスマトラ島東部であったが、交易自体はモルッカ諸島を含むインドネシア地域、フィリピン、カンボジアやミャンマー等のインドシナ大陸部、そしてインド及び中国と、従来からの歴史的な交易関係を引き継ぐことになる。中国との朝貢貿易についても触れられているが、この本では鄭和の来訪は「伝説」として説明されている。まだこの本が書かれた時代は、鄭和の航海は歴史的に検証された事実ではなかったのであろうか?
 
 こうしてマラッカは、ポルトガルに占領されるまでおよそ110年に渡り、香料諸島、インドシナ大陸部、そして中国、インド、アラブを結ぶ交易都市として繁栄する。「この都市の住民の全てが外来人で、マラッカ人という原住民はいなかった。」そこに周辺諸国から多くの移民が集まり、出身地毎の集落を構成したが、これは「多民族国家である今日のマレーシアの原型」であると共に、シンガポールも後にそのモデルを受け継ぐことになる。この都市国家のサルタンを頂点とする支配構造について著者は細かく説明しているが、この辺りは省略する。面白いのは、マラッカを中心とする当時のマラヤ社会が、一定の広がりを持つ土地ではなく、河川の要所を押さえる領主が支配する「河川封建制」とでも言える構造を持っていたということ。これは基本的にこの社会が農耕社会ではなかったことによるもので、18世紀以降、まず華人のガンビー農園が内陸に進出、19世紀にはスズ鉱山やゴム園が拡大するが、これも河川に沿って開発が進んだことの結果であったという。しかし1511年、マラッカはポルトガルの手に落ち、1641年オランダに取って代わる。王朝はジョホール、リアウ群島に落ち延び、細々と生き延びることになる。

 ラッフルズの活動が説明される。彼の功罪は既に色々なところで学んできたので、新しい点だけ書き留めておこう。

 まず面白いのは、ナポレオン戦争のこの時代に、ラッフルズは個人的には親フランス、反オランダで、これがフランスを脅威とし、それを緩衝するためオランダを利用しようという本国の方針とは一貫して食い違っていたという点である。それは時として、植民地サイドの暴走を招くことになる。またラッフルズ自身の一生は、「4人の子供のうち3人をベンクレーンで一時に亡くし、最後の帰国に際して書きためた記録類や標本のいっさいを船火事で失い」そして帰国後2年で45歳の若さで亡くなる等、決して恵まれたものではなかった。更に、彼の「自由主義」は、「きわめて手前勝手なご都合主義」であったというのも定説になっているようである。しかし、ポルトガルやオランダに遅れてこの地域に進出した英国が、この地域での基盤を拡大するための様々な提案を行い、かつ実行していったという点では、やはり彼がこの時代の植民地官僚としては出色の人物であることは間違いない。ジャワ進攻を準備していたマラッカ時代に、中部ジャワのマタラムに、マラッカ在住のジャワ貴族を密使として送るという「CIAのような工作」活動を行ったり、1911年のパレンバンでのオランダ人虐殺に彼が関係していたという説などもある。シンガポールの獲得はその「陰謀家としての策略」の結果であったが、その背景にあるリオウ・ジョホール王朝の統治権力の状況も含め細かく説明されている。そして彼によるシンガポール割譲により、「マラッカの後継者リオウ・ジョホール王朝は分断され」「マラッカ伝統の崩壊」を招いたとされる。そして最後に、シンガポールを含めたオランダとの支配地域を巡る紛争は、1824年の英蘭協定で、スマトラの英領ベンクレーンとマラッカの交換などが合意され、これが結局今日のマレーシアとインドネシアの領土を規定することになる。ラッフルズはその2年後に「新しい時代の進展を見ずに」亡くなることになる。

 これ以降、「マラヤ半島の内陸部の開発が進み、植民地経済と結びついていく」。1830年代、ペナン島の対岸では「犯罪による死亡者数よりも、虎に喰い殺された人間の方が多く」、シンガポールのブキティマロード沿いでも虎が出没していたというのは、この時代の自然環境である。この時期、「スズ鉱山、バンビール、コーヒー農園の開発が始まり、道路や鉄道も敷かれる。」中継貿易に関しては、1832年にペナン、マラッカ、シンガポールの三港が「海峡植民地として統一」され、シンガポール総督府のもとに置かれる。19世紀シンガポールを経由して其々の貿易相手国に輸出・輸入された製品リストが掲載されているが、これは中継貿易としてのシンガポールの面目躍如という感じである。そしてそうした交易資本が、内陸開発に進出し産業資本に転換していく。その流れにうまく乗った「海峡商人」が、この地域の新たなブルジョアジーとして成長していくが、その中にはアラブ、華人商人に加え一群のヨーロッパ商人もいたとして、その一例で、且つ半島全体の英国保護領化を促すなど政治的にも暗躍した商人としてウィリアム・H・リードなる商人の履歴を紹介している。またこの時代の「膨張主義者」オルド総督や、極東艦隊司令官ケッペルなどが、今でも道路や港の名前で残されているが、「植民地主義者の名前を地名に残している点では、シンガポールは、東南アジア諸国の優等生である」と皮肉っている。またオルドの次の総督であるクラークの時代である1870年代のセランゴールでのスズ権益を巡る大規模な内紛は、英国当局のマラヤ諸国の内政干渉への転換を明確にする。これは、リード等の海峡商人が英国当局の介入を催促していった結果であるという。またこうした海峡商人のマラヤ内陸の進出に際して発生した内紛の陰に、常にジョホール王朝のマハラジャ・アブバカールというサルタンが関与していたが、このサルタンは、欧化主義者で日本の鹿鳴館のような舞踏会を開催したりして派手な生活を送ると共に、海峡商人たちの借金漬けになり、彼らの意のままに動かされていたという。

 他方で、こうした英国人と彼らと結託した地元貴族の内陸部への進出に敢然と戦いを挑んでいった勢力もいた。その最大のものが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて半島東岸のパハンやトレンガヌーで勃発した反乱である。それぞれの反乱の性格や指導者は異なっていたが、植民地支配者たちの反乱鎮圧方法が「村々に火をかける焦土作戦や強制移住計画」であったのは、その後、現代にヴェトナム戦争でも同じであったと著者は看破している。また1895年に鎮圧されたパハンの反乱の指導者の一人で、戦闘で死んだと思われていた一人が1969年、100歳を越えて名乗りを上げ、時の州政府が「対英叛乱の指導者としての彼の栄誉を承認した」という後日談も紹介されている。

 華人移民の技術を使ったスズ鉱山の開発と内陸部の開拓。マラッカ社会が、「ジャングルや海の自然産物からその日の糧を得る自給経済と、市場に生産物を輸出する賃金経済が共存する」状況になり、「新しい人口集中地帯」が出来上がっていく。クアラルンプールもそうした開発の基地として利権を巡るセランゴールでの内戦の最中に作られたという。そして自給経済はマラヤ人、賃金経済は華人を中心とした移民が担い、「人種別、産業別の集団分化」が進むことになる。集団間での争いも激化し、華人による「自衛のための秘密結社」が発達する。著者は、こうしてスズ鉱山、その後はゴム産業が、マラヤ半島を「海峡の航路」から「世界市場に従属する新しい産業社会」に決定的に変容させてしまったとしている。更に、当初は華人が独占していたスズ産業が、一世紀を経て英国資本の技術力に取って代わられる。著者は、この「マラッカ社会が初めてもった産業らしい産業」の成長も、「今日のマレーシアの原型」であると看做している。またこのスズ鉱山で働く華人苦人を核に、時にはマレー系サルタンなども含め、地域的にも半島部から香料諸島等のインドネシアの島々まで広がっていくアヘン流通の拡大についても面白い歴史的考察を行っているが、これはここでは省略する。

 植民地支配下での伝統的権力であったサルタンの凋落。「ラッフルズによる分割でリオウに取り残されたブギ族指導者」ラジャ・アリ・ハジの残した歴史書が、サルタンの不徳により王朝が傾いた例を描いているという。リオウのサルタンは、リオウに西欧風の館を建て(現在でも残っているのだろうか?)、シンガポールでは「ムスリムとして好ましからざる場所に出入り」したりしたために、オランダ当局により「素行不良」を理由に1857年サルタンを廃絶されてしまう。マラッカ王朝末裔のサルタンも「明らかに男妾を思わせるインド人を寵臣とし、マラヤ人の人気がなくなり」、1835年マラッカで孤独の内に死に、マラッカ・ジャホール朝の王位が途絶えることになる。

 20年代の世界恐慌から、日本の侵略とそれからの解放・独立に至る激動の20世紀初期の、この地域の動きが語られる。労働運動の高揚。しかし「国際共産主義運動の中枢がマラヤ半島を気にかけた様子はない。」現場の活動は華人が中心であったが、「かれらのこころは本国の解放に向いていた。」他方、「マラヤ王族の立場は、イギリスの統治下に入って、少なくとも民衆に対しては、安定したものになっていた。」即ち、英国植民地当局によるマラヤ王族を利用した間接統治がそれなりにうまく機能していたという。少なくと、「西ジャワやスルーで力をもったダルール・イスラム(イスラム神聖国家)の叫びは、この土地でついぞ聞かれなかった」というのは、現在の「生臭イスラム国家」マレーシアのこれまた原型のように見える。この「サルタン愛国主義」は、現代でも華人の財力に対抗しようとする時の一つのよりどころとなると共に、インド系を含め「人種の壁の克服を阻む要因となった」という。戦後のマレーシア独立の経緯とその際の政治力学についても説明されているが、結果的に「マラヤ人が半島東岸の農民に集中し、華人、インド人が西岸の商工業、官僚に多いという地域的、職業的分断を抱えた」「統一国民不在の国家マレーシア」が成立したのである。また同様に「多様性の中の統一」を目指したスカルノによるインドネシア独立に至る経緯も語られている。スカルノは、早くからカリスマの立場を確立したものの、オランダが一貫してインドネシアの分割支配を狙ったために、独立後も地方の反乱が相次ぐことになる。彼が「民族主義、社会主義、イスラムの折衷を模索し、これに人道主義と民主主義を加えたパンチャシラ、建国五原則を憲法の基本として打ち出すのも、分裂の危機感からであった。」引続き現代でもアチェを含め民族紛争の火種を抱えているこの国も、マレーシアと同様、「統一国民」意識の育成が依然課題となっていることは、いうまでもない。

 最後に著者は、これまでのマラッカ海峡を巡る物語のまとめに入る。現代の「膨大な物質とエネルギーを消費する近代産業社会の成立は、マラッカ海峡の意味を、ラッフルズの時代と比べてもはるかに複雑なものにしてしまった。」この本が書かれた時代で、「日本の原油の80%以上、鉄鉱石の21%」が通って日本に入ってくるこの海峡は、日本資本主義の「生命線」(経済同友会幹部発言)である。他方で、大型化したタンカーが、満潮時を狙って殺到する海峡は、航海上の難所であり続けているようである。実際、海峡を通過する船では、船底の深さにより航行が制限され、それを越える船舶は大きく迂回し、ロンボクやスンダ海峡を迂回しなければならないという。そしてマラッカ海峡を通過できる場合も、シンガポール沖の通行可能な領域の地図が紹介されているが、それは航路がとても狭い範囲に限定されている危険な航海である。「面積わずかに140平方メートルのサトゥミ島」にある、「1854年にヴィクトリア女王の誕生日を祝って定礎式が行われた」ラッフルズ灯台等が、この航海の指針となっている。更にそうした重要な海峡であることから、航行規制の問題のみならず、そもそもそれが国際海峡であるかどうかにつき、シンガポール、マレーシア、インドネシアの間での議論も、この時代はまだ続いていたようである。

 日本の経済成長路線の結果、この海峡問題は日本が直接利害関係を持つ問題となった。この問題解決のため、冒頭のクラ運河建設や、ロンボク、あるいはパラオといった迂回路の島に日本の備蓄基地を作るような計画も検討されていたようである。そして著者は、この海峡の負荷が拡大する過程で、この地域を巡る問題が「爆発」する可能性もあるとする。それを避けるための解決策は、「海峡の重みを住民と利用者が平等に負担する」ことである。マラッカ海峡を「民衆の海、民衆の島」に変えることに協力することが日本人の求める道である、として、著者はこの物語を締めくくっている。因みに、冒頭に触れられているクラ運河計画は、依然残ってはいるものの、タイ国内の事情、特に南部モスレム問題から計画が動く兆しはないようである。また海峡の安全航行問題については、21世紀に入ってからも、日本は、マラッカ海峡、シンガポール海峡の電子海図作成に協力したり、円借款による安全広告のための無線局設置を行っている他、海賊対策として海上保安庁の巡視船が現在もこの地に派遣され哨戒に当たっているという。

 30年前の出版であることから、恐らくここで紹介されている現代の問題は、既に大きく変わっていることは間違いない。最後に触れられているマラッカ海峡の国際海峡性を巡る関係国の議論なども現在は全く聞かないし、関係サイトでもコメントされていないので、恐らくはほとんど決着していると見て間違いないだろう。また、ここで紹介されている古代からの地域の歴史も、その後の研究で多くの新たな修正が行われていることであろう。そしてこうした理由から、この本も既に絶版になってしまったということなのであろう。

 しかし、そうした古さにも関わらず、この本は、私のこの地域での生活に改めて多くの刺激を与えてくれた実り多い作品であった。既に多くの本で関連記述は読んでいたとは言え、この地域の海洋民族の歴史と運命を改めて生き生きと浮き上がらせてくれた他、リアウ群島等、これまでは「歴史的にはただの無人島の群れ」と考えていたシンガポール近郊の島々が、実はマラッカ・ジョホール王朝の起源であったということを認識させてくれた。フィールド・ワークから入った著者の東南アジア研究の世界であるが、実はその前に、これだけの事前学習があったのだ。改めて著者のこの世界への造詣に敬意を抱くと共に、また近い時期に、この本を携えてマラッカの街を再訪してみたいと考えているのである。

読了:2012年10月28日