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東南アジア 多文明社会の発見
著者:石澤 良昭 
 講談社学術文庫「興亡の世界史」21巻の一冊として、上智大学の考古学者で、アンコール・ワットの発掘・研究に打ち込んだ碩学による2009年のオリジナル作品を改定の上、2018年に再刊されたものである。かつてこの遺跡(だったか、インドネシアのボロブドゥールであったか、記憶が定かでないが)を訪れた際に、この大学の研究に関する小さな展示を見た記憶があるが、プロとしての考古学者がここまで詳細な調査を行うのかと驚嘆させられる作品である。しかし、他方で、ここまでのマニアックな分析は、一般読者としてはついていくのがやや難儀に感じる部分もある。そんなことで、ここでは、アンコールを巡る大きな議論について書き留めておくことにする。

 今まで、私が2回訪れたことがあるこの遺跡で、まず感じるのは、何故この巨大な遺跡群が11世紀にこの地に生まれたのか、そしてそれが何故打ち捨てられ、永きに渡り森林の中に埋もれていたのかという2つの疑問である。

 双方について、著者は詳細に検証しているが、まず最初の疑問については、まとめると次のとおりである。一世紀初め頃からメコン川のデルタ地帯に「扶南国」と呼ばれる国が建国され、3−4世紀頃には「チャンパー」と呼ばれる国が、中国とインドを結ぶ交易で勢力を拡大することになる。そして9世紀以降、シェムリアップ川が、都南アジア最大の湖トンレサープ湖に注ぐこの地が、農業経済に必要な水利に適していた(その基礎は、乾季にも農業用水を確保できるバライ(人口の貯水池)の建設であった)ことが、聖山・聖河・聖都として、約600年に渡り王都として栄え、その強力な権力が、数々の巨大寺院を建設されることになった主因ということになる。

 こうした水利技術に支えられた農業基盤と、その上に建設される巨大寺院という都市建設のコンセプトは、つい1か月前に訪れたスリランカでも、既に紀元前後にも使われていたということであるので、既に人類の知恵として知られており、その技術がインド等との交易により東南アジアに伝えられたということなのであろう。

 二つ目の疑問である、約600年続いたこのアンコール王朝滅亡については、本の後半で説明されることになる。それによると、この王国の滅亡の主因は、14世紀半ば以降の40年に渡るアユタヤ王朝との抗争であった。あるフランス人学者によるより詳細な説は、「過度の推理灌漑施設の開発が、農業経済を破綻に追い込んだ」ことで、「王権の弱体化、過酷な徴税、ヒンドゥ教的思想の停滞と行き詰まり、上座仏教の浸透」が発生した、とされている。最終的に、1431年頃、アユタヤ軍により攻撃され、7か月に及んだ包囲作戦の後に徹底的に打ち壊され、そしてこの都城は放棄されることになった。そして、「フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来てキリスト教を伝えた同じ頃(1549年)、ポルトガル人やスペイン人の宣教師たちが旧都アンコールを訪れ」「その素晴らしさに胸を打たれていた」が、彼らは、近隣の住民に、これは誰が造ったのか、と聞いて回ったが、それに答えられる住民はいなかったという。既に崩壊から100年程で、「村人や僧侶たちは栄光の歴史を忘却していたのであった」。そして、この王朝が蓄積した膨大な財宝の一部(青銅製の神像)が現在のミャンマーのマンダレーで発見されたというが、それは、アンコール朝を滅ぼしたアユタヤが、次にミャンマーのタウングー朝の軍に攻撃され略奪された結果であったという。まさに東南アジアの歴史は「マンダラ国家の成長と衰退の繰り返し」であるという、以前にも学んだ歴史を象徴する出来事である。

 そうした私の大きな疑問以外にも、著者は、碑文や壁画を丹念に読み解きながら、26代に及ぶ王たちの肖像や、軍隊組織、法制度や裁判制度・刑罰体系などを含む王権の支配構造、あるいは当時の経済活動や庶民の生活、あるいは細かいところではハンセン氏病の施療院から寺小屋による教育施設等を紹介し、当時の社会全体を描写しようとしている。碑文や壁画のみならず、1296年にカンボジアを訪れ、「真隴風土記」なる旅行記を残した、中国人、周達観の叙述も、それらを検証する資料として利用されている。また面白いのは、この地における仏教とヒンドゥ思想の影響に関する分析で、起源1−2世紀に略同時にこの地域に入ってきた二つの宗教が、ここでは土着の精霊信仰とも結合し、共存していたという点。しかし、著者が主導した発掘隊が、2001年に偶然ある遺跡の境内で埋められていた274体の廃仏を発見したが、それが物語るのは、13世紀頃と想定されるが、それまで共存してきた仏教とヒンドゥ思想の間で緊張が高まり廃仏が行われたのではないかという解釈である。両宗教の共存という観点では、私が1か月前に訪れたスリランカの山中にある仏教寺院(ダンプッラ石窟寺院)で、ヒンドゥの神であるヴィシュヌ神が守護として洞窟の入り口に飾られたいたことを想い出していた。その時は奇異に感じ、ガイドにもその理由を質問したが満足な回答は得られなかった。しかし、この本を読めば、両宗教の共存というのはこの地ではごく自然の現象であったことが理解できる。しかし他方で、廃仏が示しているのは、現代の宗教紛争と同様、ある種のバランスが崩れると宗教間の軋轢は簡単に高まり破壊活動にまで至るということである。因みにアンコール・ワットはヒンドゥ寺院として建立されたが、12世紀末には当時の国王が大乗仏教を「国境」として定めたという。王位継承を巡る権力抗争も絡んだそれへの反動が、13世紀の廃仏であったというのが著者の見方である(バイヨン寺院は、もともと仏教寺院として建立されたが、13世紀に相違した王によりヒンドゥ寺院に改宗された)。そしてそうした宗教対立から間もなく、この王朝がアユタヤに滅ぼされ、アンコール遺跡が放棄されたというのも歴史の運命だったような気がする。

 またインド文化の影響については、その2大古典文学の一つであるマハーバーラタ(4−5世紀)の詩節が、既に5世紀頃のこの地の碑文に刻まれているのみならず、アンコール・ワットの回廊彫刻には、もう一つの古典であるラーマーヤナの一場面と共に残されているというのも、当時の知識階級へのインド文化の浸透を物語る逸話である。

 その他、16世紀以降、この地を訪れた欧州の修道士たちの記録や、そうした記録にも登場する17世紀以降のこの地域での日本人移民の活動、そして17世紀に描かれて現在も残っているアンコール・ワットの平面図が描かれた「祇園精舎絵図」の作者は誰か、といったミステリーも、多くの資料を丹念に読み解く、著者ならではの緻密な推測が語られている。そしてこの本は、我々の東南アジアに対する姿勢についての著者の問いかけで幕を閉じることになる。

 何よりも、以前のアンコール訪問前に、この作品を読んでいれば、という想いを強くする作品である。しかし、冒頭にも書いたように、旅行ガイドとして使うには、この作品はあまりにマニアックである。その意味で、私にとっては、アンコールに象徴される東南アジアの権力興亡と宗教受容の大まかな歴史の概観を再確認できただけで十分な作品であった。それにしても一流考古学者のプロ意識には、改めて大きな敬意を示したい。

読了:2020年2月22日