帝国のシルクロード
著者:山口 昌之
久し振りに読むこの著者による、シルクロード関連企画に寄稿した短い論考を中心にまとめた2008年8月出版の新書である。イスラム圏を中心とした歴史学者として、中世から現代にかけてのこの地域と日本の関係等に係る各種の話題を論じているが、イスラムに留まらず、中国などの仏教圏や欧州キリスト教圏、そしてインドなども含めた「シルクロード」全般に及んでいる。時事的な話題については、やや状況が変わって古くなっている部分もあるが、全体としてはそうした時限性を越えた説得力を持っていてたいへん面白い。そうした中でも、特に印象深かった論考についてまとめておく。また論考中で言及されている著作には、原本を読みたくなったものも多いことから、そうした著作の備忘録にもさせてもらう。
まずは、司馬遼太郎の「蒙古桜」とカフカの「皇帝の使者」の対比。オゴタイ・ハン死去の報を前線で戦う将軍に告げるために、モンゴル平原から欧州まで10日で駆け抜ける「鷹の羽」(「走れメロス」と同様の発想?)と、限られた宮殿空間の中からいつまでも出ることのできない屈強な使者。狭い空間でのカフカ的不条理と対比される時、モンゴル帝国の広大な空間を結んだ「効率的な運輸通信システム」はより印象的である。
2006年のノーベル文学賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクの「わたしの名は紅」と「雪」。前者は16世紀イスタンブールの細密画師と工房を巡る歴史ミステリー、後者は1990年代にトルコ東部で起こるクーデターを素材にした作品であるという。
20世紀初めに、結婚直後から一人で37年に渡るアジア旅行に出て、「パリジェンヌのラサ旅行」を著したフランス人女性アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール。13−15世紀にアナトリア地方に実在した人物を主人公とする滑稽話、頓智譚を日本人学者が編集した「ナレスッディン・ホジャ物語」。イタリア人作家エーリオ・ヴィットリーニの「シチリアでの会話(2005年)」に登場する中国人行商人。イスラムの数学的貢献やチュルケス美女をネタにしたマオバ・タハン著「かぞえびと(1925年)」。カフカ―ス諸民族とロシアの対立を描いたトルストイの「ハジ・ムラ―ト(1904年)」や、レールモントフの「現代の英雄(1840年)」。9−10世紀の「海のシルクロード」の様子をイスラム海洋商人の目から見た作者不詳の「中国とインドの諸情報(邦訳2007年)」や、イブン・バットゥ―タの「大旅行記(邦訳1996年カラ002年)」等々。著者の読書範囲の広さには驚嘆するばかりである。
続いて、中央アジアを巡る2000年代初頭の政治変動について、2003年のグルジアでの「バラの革命」、2004年ウクライナでの「オレンジ革命」、そして2005年のキルギスタンでの民衆運動とアカ―エフ大統領の辞任等が紹介されている。あるいはトルコとアルメニアの紛争、イランでの大統領交替等。この辺りはその後20年余りを経て、更なる変化が起こっているので読み飛ばすことにする。その中では、この地域に2000万―3000万人の人口を持ちながら国を持たないクルド人問題(12世紀初頭、十字軍と戦ったサラディンもクルド人)は、現在でも依然課題となっていることは改めて認識しておこう。
イブン・ハルドゥ―ンとハンニバルというチュニジアの二人の偉人。アゼルバイジャンの石油資源開発を巡るロシア、イラン、米国との確執は、現在の状況が気になるところである。3つの宗教が聖地とする「記憶の都」エルサレムの宿命、オスマン帝国と江戸幕府の「大奥」や「台所」の、そして19世紀前半の、薩摩の島津斉彬とエジプトのムハンマド・アリーによる外国の侵攻に対する対応の比較なども面白い小文である。
松本清張の小説「火の路」での、ゾロアスター教が飛鳥時代の日本に既に伝搬し、影響を与えたという、小説の形をとった「学術論文」。これはぜひ原本を読んでみたいという気にさせられる。そして新書の最後は、三蔵法師こと玄装の「大唐西域記(西遊記)」での世界像を念頭に置いた、世界史と日本史の統合的理解や「新ユーラシア外交」の勧め等で締め括られることになるのである。
「新ユーラシア外交」については、まさに昨年末、高市首相が中央アジア5か国の首脳を東京に招き、資源開発を含めたこの地域への日本の積極的な協力姿勢を示したところであり、この著作の時期以上に、日本でのこの地域への外交的関心は強まっている。アセアン諸国、インドに続くアジア外交の延長であり、また「自由で開かれたインド太平洋」という「海洋戦略」を補完する、「陸のシルクロード」への影響力を強めようという戦略は、中国の「一帯一路」に対抗するという意味でも必要であることは間違いない。著者が、著作とは別に力を注いできた民間や研究ベースでのこの地域での活動が、そうした政治・経済的関係強化に貢献していることは確かであろう。外交的には、米中ロシア、そして北朝鮮といった課題が優先するのであろうが、そうした中での、中央アジアや中東を含めたパイプ強化の今後は注意して見ていきたいと思う。
そうした政治・外交的視点とは別に、著者の相変わらずの博識振りを楽しめた著作であった。ここで紹介されている多くの著作のどこまでこれからカバーできるか。残された時間はそれほど長くはない。
読了:2026年1月1日