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韓国現代史ー大統領たちの栄光と挫折
著者:木村 幹 
 これを読了した7月7日(木)の未明、南アフリカ、ダーバンで行われたIOCの総会で、2018年冬季オリンピックの開催地が韓国北部の平昌(Pyeong Chang)に決定した。早朝のTVニュースでは、この会場で、最後のプレゼンテーションを行った李明博大統領やバンクーバー冬季五輪女フィギュア金メダリストのキム・ヨナらが決定に感激する様子が映し出されていた。これにより韓国は、2018年冬季五輪、1988年夏季五輪、2002年サッカー・ワールドカップ、2011年世界陸上という4大国際スポーツ大会全てを招致した5番目の国になったという(それ以外は、フランス、ドイツ、イタリア、日本のみ)。

 韓国については、よく「近くて遠い国」という言い方がされるが、確かに私の中でも、韓流ドラマのブームや最近のKポップの隆盛にもかかわらず、この国は中国と並んで、近隣アジア主要国の中で唯一足を踏み入れたことのない国である。もちろん、それは、行こうと思えばいつでも行ける、という感覚の裏返しで、偶々行こうと思い立つことがなかったということであるが、同時に考えてみると、足を踏み入れたことがないだけではなく、私自身、この国の現代史をきちんと勉強したこともなかったような気がする。韓国を含めた周辺諸国との戦後補償や反日運動に関連する本は、時々眼にしていたが、その現代史を全体として振り返る機会はほとんどなく、唯一のまとまった分析は、別掲の岩崎育夫の2001年刊行のアジア政治分析での韓国の章くらいであった。実際、物心ついた頃から、この国の出来事は、日本でも多くの報道が行われていたことから、この国の戦後史は、同時代的な記憶として断片的には頭に入っているが、論理的な流れで把握していたかというと、甚だ疑問であった。その意味では、2008年8月出版のこの新書は、恥ずかしながら私が初めて接した韓国現代の通史に特化した作品であるということができる。その結果は、上記の断片的な記憶をそれなりに脈絡づける上で大いに参考になると共に、読み物としても結構面白く、短時間で一気に読了してしまったのである。

 この作品では、韓国の通史を、二つの軸から描こうとしている。一つは、韓国戦後の10人の大統領のうち、7人の視点で、またもう一つは、夫々の時代のいくつかの象徴的な事件である。内容に入る前に、この夫々の軸を、一回整理しておこう。

 まず、韓国戦後の大統領であるが、日本の無数に入れ替わる首相と異なり、就任したのは10人に留まる。彼らを簡単に紹介すると以下のとおりである。そして著者が取り上げるのは、CDEの3人を除く7人である。

@ 初代〜3代:李承晩(1948〜1960年、自由党)
A 4代:尹潽善(1960〜1961年、民主党)
B 5代〜9代:朴正熙(1963〜1979年、民主共和党)
C 10代:崔圭夏(1979〜1980年、民主共和党)
D 11代〜12代:全斗煥(1980〜1987年、民主正義党)
E 13代:盧泰愚(1987〜1993年、民主正義党)
F 14代:金泳三(1993〜1998年、民主自由党→新韓国党)。
G 15代:金大中(1998〜2003年、新政治国民会議→新千年民主党)
H 16代:盧武鉉(2003〜2007年、新千年民主党)
I 17代:李明博(2007年〜、ハンナラ党)

他方、夫々の時代の事件ということで言うと、目次の通りであるが、

@ 日本敗戦(1945年)
A 大韓民国建国(1948年)
B 朝鮮戦争勃発(1950年)
C 4月革命(1954年)
D 5・15軍事クーデター(1961年)
E 日韓国交正常化(1964年)
F 維新クーデター(1971年)
G 朴正熙暗殺(1973年)
H 「新軍部」による支配
I 「第六共和国」の興亡(1987〜2002年)
J 「レイムダック現象」(2002年〜)

ということになる。これを確認したうえで、特記すべき点を見ていこう。

 まず、日本の敗戦を、彼らのうちの何人かがどのような状況で如何に受け止めたかが序章として語られる。成績優秀な学生であった金大中は、就職したばかりの日本の船会社の社員として、反対に彼と略同年代ではあるが、成績はぱっとしなかった漁村の資産家の御曹司、金泳三は、学校を退学させられて戻っていた実家で玉音放送を聴くことになる。また彼らよりも年代の上の尹潽善は、半島有数の資産家の御曹司ではあるが、社会経験のないボンボンとして、またこの時既に70歳であった李承晩は、亡命先のワシントンでこの瞬間を迎える。そして興味深いのは、軍人であった朴正熙は、満州国軍歩兵隊の副官として、行軍中に北京放送から流れてきた蒋介石の演説で、日本軍の敗戦を知ることになる。このうちの年長者3人が、まず戦後約25年の韓国を作り、それを若い二人が90年代以降の民主化過程で引き継いでいくことになるのである。

 1948年8月15日の大韓民国建国に至る過程が、李承晩を軸に語られる。それまで政治家としては不遇であり、年齢的にも盛りを過ぎていた彼が、帰国後、米国との関係を梃子に、対抗勢力を潰しながら、建国時唯一の大統領候補として認知されていく。彼を看板として利用しようとした周囲の思惑に反し、彼はまだ「枯れて」いなかったのである。李承晩のもとで、ボンボンの尹潽善は、父親と李承晩の関係からソウル市長に抜擢される。その頃、朴正熙は復員し、新たに組成された韓国軍の軍人となり、金大中は実業家として自らの船会社を設立、そして金泳三は地方訛りに劣等感を抱きながらもソウル大学での学生生活を満喫していたのである。

 続いて1950年6月25日の朝鮮戦争勃発の瞬間の彼らの姿である。金大中は、ソウルでビジネス・ランチ終了時に始めて、その日の午前4時に、北朝鮮が38度線を越えて侵攻したことを知る。大統領の李承晩が侵攻の報告を受けたのは午前8時以降と言われるが、彼はそれを北朝鮮のいつもの挑発と考え、日課の魚釣りを止めなかったと言われている。

 しかし、それから2日後、北部の重要な防衛線が破られると、韓国首脳もようやく事の重要さに気が付き、李承晩も米軍に支援を依頼すると共に、極秘のうちにソウルを脱出する。そしてその数時間後には、早くも北朝鮮軍はソウルに突入し、漢江の橋を爆破、ソウルの人々は逃げ場を失った。

 こうした中、ソウルに残された「資本家」金大中は、北朝鮮支配下で行われる人民裁判を眼のあたりにして徒歩でソウルを脱出。320キロ離れた故郷木浦に20日かけて辿り着くが、そこでは既に北朝鮮軍が彼の会社を摂取した後で、金大中も逮捕・連行される。2カ月近く収監された彼は「処刑場」へ移送されたが、丁度その頃仁川に上陸した米軍による孤立を恐れた北朝鮮軍が突然撤退し、彼は九死に一生を得たという。

 ソウル大で、将来の政治家志望を公言していた金泳三は、下宿で北朝鮮軍の最初の戦車が通過するのを眺めた後ソウルを脱出し、約50キロ離れた友人の実家があった寒村に潜むことになる。そこが尋問の対象になり、彼が「命からがら」そこを逃げ出した頃は、既に仁川に上陸した米軍が進撃を進めていた。故郷では音信が途絶えた彼は死んだと思われていたが、その後無事帰還を果たすことになる。

 朴正熙にとってはこの戦争は「僥倖」であったという。軍隊に復員した彼ではあったが、それまでは不遇であった。一つの大きな要因は、彼の兄が左翼勢力のデモに参加し警察に射殺されたことから、彼の家族が左翼政党である南朝鮮労働党の経済的支援を受けており、彼も軍隊内の粛清で、この政党に関連する重要人物と看做され逮捕・収監され、そして判決で武官の地位を失っていたのである。戦争が勃発したのは、まさに彼がこうした不遇に見舞われていた時期であり、彼はそこで決死の脱出行で軍隊に帰還することにより、自らの軍への忠誠を強烈にアピールすることができた、ということである。これにより彼は武官への復帰を認められ、遅れはあるものの、取り敢えず昇進を開始することになる。

 李承晩政権で商工部長官に任命された尹潽善ではあったが、その間幾つかの事件で二人の関係は悪化し、戦争直前に尹潽善は商工部長官を辞任していた。そしてこの戦争中も関係は更に悪化し、尹潽善は李承晩との最終的な訣別を決意したという。そしてその李承晩は、戦争を機会に大きく変質する。一つは、緒戦の惨敗で自らの軍隊の指揮権を米軍に譲り渡したことで大きくプライドを傷つけられた彼は、その後米国の決定に対して悉く抵抗するようになり、その結果米国側も彼の排除を考えるようになったという点。そうした国際関係への配慮の欠如は、日本との関係でも悪名高き「李承晩ライン」の設定という強硬策となって現れる。また国内でも国会内の安定勢力を確保できなかったことから、1952年に強引に憲法を改正することになる。
 
 時は跳び1960年3月、既に85歳になっていた李承晩は、大統領選挙で大規模な不正選挙を敢行する。この選挙は実質的な李承晩の後継者となる副大統領が焦点であったが、この選挙の不正工作に怒った学生たちの反発により町は騒乱化し、そして最終的に6月、李承晩は辞任を受入れハワイに亡命、副大統領に就任した李起鵬も一家心中をすることになったという。

 この反対運動に、金大中は野党側で参加していた。船会社で成功を収めた彼は、1954年以降政治家に転身していたのである。選挙では辛酸を嘗めていたものの、野党の民主党内では彼は重用され、この時は党の副スポークスマンに起用されていた。しかし、彼が議員の地位を得るにはもう少し待たねばならなかった。

 他方、金泳三は、政界のコネに乗り、既に1954年、26歳という現在までも破られていない最年少で与党から国会議員に当選する。しかし李承晩政権の憲法改正の動きに反対し、彼は野党側に転じることになり、また1958年の選挙では野党民主党側から出馬し落選するという試練を受ける。李承晩が退陣したこの時、彼は落選議員という立場で迎えることになる。しかし、彼は民主党内で青年部長として「4月革命」で重要な役割を果たした学生たちと直接接触・交渉する役回りを任され、それをうまくこなすことで党内での評価を上げることになるのである。

 この反対運動を野党側から距離を置いて観察していた尹潽善であったが、既に訣別していた李承晩の退陣を受け、俄かに存在感が増していった。とは言え、彼が最終的に狙ったのは、議員内閣制を採用したこの「第二共和国」では形式的なポストになっていた大統領職であった。しかし、彼はこの形式的なポストでさえ、僅か1年で失うことになる。

 1961年5月のクーデターによる朴正熙の権力掌握により、韓国の開発独裁時期が開始される。既にこれ以前から、自らの立場に不満であった朴正熙とそのグループは、何度か粛軍のアピールを行っていたが、それを懸念した政府・軍の上層部が攻撃の動きに出る前にクーデターに打って出たものであった。政府・軍上層部が朴正熙とそのグループをやや甘く見ていたことも、「わずか3600名の兵士」による「無謀としか思えない」クーデターが成功した理由であった。国務総理の張勉は行方をくらまし、参謀総長の張都暎は、彼を立てるという朴正熙の説得に応じクーデター側に回る(しかし実際には3か月後に軍事政権から放逐される)。更に大統領の尹潽善は、軍の反攻要請にも首を振るなど、このクーデターを暗黙に承認した。これにより大統領の地位は「第二共和国下の実質的な権力を持たない、しかし行動の自由を有する形式的元首から、権力も行動の自由も持たない形式的元首へと転落させただけだった。」そして尹潽善が、最終的にこの軍事政権から降りることを決意した時、朴正熙は、彼に「政治活動浄化法」への署名を条件として突き付ける。これに署名することにより、4373人に昇る政治家の活動が禁止されると共に、その活動再開に当たっては軍事政権の許可を得なければならなくなることになる。

 金泳三もそうして政治活動を禁止された一人であった。そして軍事政権からの協力を求められるが、彼はそれを拒絶し、1963年には逮捕される。しかし世論の反発とアメリカの強い抗議で朴正熙も、金泳三らを釈放する。しかし、その後行われた第三共和国の大統領選挙で、金泳三らは、尹潽善を対抗馬として擁立するものの、野党勢力を糾合できず敗北する。これが金泳三にとっては「朴正熙との長い戦いの第一幕」となったのである。

 一方金大中は、1961年の選挙で念願の国会議員への当選を果たしていたが、このクーデターでやはり逮捕され、「その職をわずか二日で失った。」彼も軍事政権の協力要請も拒否し、尹潽善の擁立に加わるが、前述のとおりこれは失敗。但し、彼自身は、この時の選挙で故郷木浦から立候補して大勝することになる。

 日韓国交正常化(1965年)。ここで突然若き李明博が登場する。苦学して進学し、当時高麗大学の学生会長であった彼は、朴正熙の進める日韓国交正常化に反対するため、学生代表として朴正熙と直接面談する。ここで朴正熙の眼にとまった彼は、その後逮捕・投獄も経験するが、最終的に朴正熙と関係のある現代グループの鄭周永の寵愛を受け伝説的な「スーパーサラリーマン」として「高速出世」を遂げることになる。しかし、彼が政治の世界に入るのは、まだ先の話である。

 日韓国交正常化に戻る。朴正熙が、これを進めた背景は、@「クーデター後、不安定な状態にあった軍事政権の国際的な地位を安定させること」、及びAアメリカのヴェトナムへの関与が深まることで韓国への軍事的・経済的援助を減らす中、「去りゆくアメリカに代わって」日本から「深刻化する経済問題に対処するための開発資金を獲得すること」であったという。

 しかし、1961年から始まった日韓交渉は、日本の植民地支配を巡る「請求権」の合意を巡り、韓国側の世論が硬化する。李明博ら学生の抗議もその点が最大のテーマであった。その結果、1963年に成立した朴正熙率いる第三共和国は、早くも窮地に追い込まれたという。

 しかし、学生たちと共にこの条約に反対する野党側も足並みが揃わなかった。経済援助を重視する金大中は、植民地支配の賠償は無償でも良いと主張。他方金泳三は、賠償よりも李承晩ラインの堅持による漁業権の保持を優先。そして朴正熙にプライドを傷つけられた尹潽善は、ひたすら条約反対の強硬路線をとる。その結果、結局与党主導の条約調印を阻止することはできず、1965年8月、与党単独による採決で批准されたのである。

 1963年、67年、71年と尹潽善を相手に戦った大統領選で勝利した朴正熙であったが、75年の選挙は、共和国憲法が四選を認めていなかったことから、与党側は憲法改正をもくろむことになる。これに反対する学生運動を抑えるため、朴正熙は1972年10月、突然「10・17特別宣言」を発表し、「維新クーデター」と呼ばれる「上からのクーデター」に出る。第四共和国の始まりである。

 この「特別宣言」発表時、金泳三は米国ハーバード大学に滞在中、金大中は1971年に発生した交通事故を装った暗殺未遂事件の治療と療養のため東京にいた。70年代に入り、野党の世代交代の波に乗り、道は異なるが、其々党内での地位を挙げてきた両者であったが、クーデター後の対応は分かれることになった。金泳三が直ちに帰国し、逮捕・監禁されたのに対し、金大中は、日本と米国を行き来しながら、外からの反朴正熙キャンペーンを進めることになる。この金大中の動きが朴正熙を刺激し、1973年8月の東京での拉致事件を生むことになる。

 この拉致事件の頃から、韓国の歴史は、私の同時代的な記憶の中に刻印されることになる。このグランド・パレスを舞台にした事件の勃発から、日韓両国による「政治決着」まで、大きく世間を騒がせたことがありありと思いだされる。米国の介入により九死に一生を得た金大中はその後自宅軟禁となるが、政治的影響力は維持する。そして彼はここで初めて同世代の野党政治家としてライバルであった金泳三と連携することになる。その金泳三は、維新体制に対し決然と対決するという「鮮明路線」を掲げ、野党内の激しい権力闘争を勝ち抜いていく。そして1978年末の国会議員選挙で、得票数で野党が与党を上回るところまで勢いを回復する。朴正熙暗殺事件が発生したのは、そうした状況下であった。

 70年代に入り、野党の反対運動が高まると、政府がそれを弾圧するという繰り返しであったが、その過程で維新体制内でも自らの地位を脅かす可能性のある後継者を粛清していった朴正熙の孤立感が強まっていく。更に1974年には妻を暗殺事件で失ったこともあり、朴正熙は特定の側近を重用するなど、政治手法が次第に独裁者末期の典型的な神経症的な症状を呈していく。そして1979年5月の野党党首選挙で、金泳三の総裁就任を阻止する工作の失敗の責任を押し付けられた中央情報部部長により、1979年10月射殺されるのである。この暗殺の直前、現代建設の社長に昇り詰めていた李明博は、突然大統領官邸から呼び出しを受けて大統領への「あらかじめ発言内容が定められた」進言を行った。彼の印象では、朴正熙はその時既に相当やつれた様子であったという。

 朴正熙が暗殺された頃、新たな政治家が歩みを始めていた。当時33歳の弁護士盧武鉉である。しかし、苦学し司法試験をパスし、租税専門の弁護士となり、当時の趣味はヨットであったという彼が、政治に目覚めたのは朴正熙の暗殺後の全斗煥時代に行われた人権裁判に関わってからであったというので、彼が政治家として登場するのはまだ先のことである。

 朴正熙暗殺後、戒厳令が敷かれると共に、国軍保安司令官の全斗煥が暗殺事件の捜査を行うことになる。大統領代行には、憲法の定めにより国務総理の崔圭夏が就任し、その後12月には正式に大統領に選出されるが、実権は「新軍部」と呼ばれた全斗煥に移行していく。朴正熙後、いったん民主化の希望が見えたものの、1980年2月には、全斗煥がクーデターを行い、旧政権の有力者や野党政治家を逮捕する。このクーデターに反対する学生運動が盛り上がり、特に逮捕された金大中の地盤である光州では大規模な市民蜂起となる。これが死者240名、行方不明者409名という悲惨な弾圧となった「光州事件」である。現代建設社長の李明博でさえ、突然連行され取り調べを受けるが、これは現代財閥による金大中、金泳三らに対する献金疑惑の捜査であったという。取り敢えず李明博はこの危機を乗り越えるが、その後も、この新たな軍事政権と財閥との間には何度か厳しい軋轢(自動車産業再編問題など)が生じたという。

 経済界に対してさえ厳しい姿勢を示した軍事政権であるので、野党指導者たちは尚一層厳しい試練に立たされる。「光州事件」の首謀者と見された金大中はいったん死刑判決を受けた後、諸外国の世論を受け、減刑嘆願書と引き換えに二度目の亡命生活に入りアメリカに渡る。他方金泳三は、逮捕・軟禁後、国会議員を辞職する政治引退声明を行い、趣味である登山に勤しむことになる。しかしこの登山グループは野党有力議員の新たな糾合の場となり、それなりに勢いを回復したことから軍事政権を刺激し、彼は二度目の軟禁を受ける。そこで彼は「光州事件」の3周年を期して、軍事政権批判の断食を敢行し、内外メディアの注目を浴びる中政治活動の自由を取り戻すのである。亡命中の金大中との新たな連携も成立し巨大野党が成立、「『第五共和国憲法』が自ら大統領選挙の年と定めた1987年に向け攻勢を強める」ことになる。

 こうして野党勢力は全斗煥政権を追い詰め、1987年6月、与党代表の盧泰愚による「6・29宣言」で、大統領直接選挙、金大中の赦免・復権と政治犯の釈放等を認めさせる。しかし、その直後から野党の大統領候補を巡り、金泳三と金大中が対立する。その結果、大統領選挙は与党候補である盧泰愚が勝利するが、その政権は不安定であったこと、そして金泳三の統一民主党も、その後の国会議員選挙で大きく当選者を減らしたことから、1990年盧泰愚の提案を受け、与党との合同による政界再編という「ウルトラC」に打ってでる。そして、彼の経歴で初めて与党として参加した政権で次第に「新軍部」勢力を駆逐し、1992年12月の大統領で勝利することになる。こうして韓国の歴史で初めて、選挙による文民政権が誕生することになるが、これはまた民主化の一定の達成ということでもあった。

 岩崎の著書でも指摘されている通り、韓国の民主化の特徴は「その後半部において、権威主義体制を支えた勢力と、民主化勢力との破滅的な衝突をもたらさず、比較的スムーズに進展した」ことであり、「1987年には、(1980年の光州事件のような)大きな事件は起こらなかった。」言わば、盧泰愚政権が暫定政権としてクッションになり、その政権与党の中身が金泳三らにより、徐々に変質していくことで、ドラスティックな事件を回避できたということが出来る。

 金大中は、盧泰愚からの与野党合同の提案を受けながらもこれに乗らなかったことで、この過程では少数野党として蚊帳の外に置かれることになった。1992年の大統領選挙でも金泳三に大敗し、いったん政界引退を宣言するが、1995年再び復帰し新たな野党で、内部抗争の続く与党からの受け皿的な役割を果たしたという。そして、一時は苦境に陥ったものの、1997年の経済危機で政権与党への批判が強まる中行われた12月の大統領選挙で、彼は与党候補李仁済に僅かの差で勝利し、4回目の挑戦で念願の大統領の座を射止めることになるのである。

 その頃、李明博は政界入りから僅か5年で、政治生命の危機に立たされていた。「スーパー・サラリーマン」という経歴を買われて与党議員として鳴り物入りで政界入りした彼は、最初は全国区で、そして1996年4月の選挙では「政治一番地」のソウル中心街の選挙区で勝利し、メディアでも注目される。しかし、この直後から選挙資金違反で取り調べを受けることとなり、裁判で敗訴、選挙法の規定で政治活動を禁止され、失意の中アメリカでの学究生活に逃げることになる。

 人権弁護士として頭角を現した盧武鉉は、1988年金泳三からの誘いにより政界に進出、「『第五共和国』期の不正と光州事件の責任追及のため、前政権の有力者を対象に行われた」聴聞会で一気に名前を公衆に知らしめることになる。しかし彼もその後幾多の危機に直面する。まず彼を政界に誘った金泳三による与野党合同。盧武鉉はこれを批判し、野党に残り金大中側に移る。しかし、大与党の攻勢の前に、1992年の選挙で敗北。金大中が大統領になり、1998年の補欠選挙で勝利するまで党内での活動を続けることになる。

 2000年の選挙では、彼は野党が圧倒的に強い選挙区に鞍替えするという無謀な挑戦を行う。そこでは敗北したものの、ネットを中心に彼の落選を惜しむ声が殺到し、「韓国初の政治家のファンクラブ」が出来ることになる。「地域主義反対」「三金主義反対」を「愚直なまで貫いた」彼が時代を作りつつあったのである。

 こうして最終章に入る。2003年2月、大きな国民の期待を受けて大統領に就任した盧武鉉政権は、しかしその後急速に失速していった。その最大の要因は、この政権が国会では少数与党であったことであり、盧武鉉は何度か政党再編でこの状況を打開しようとしたが成功しなかった。そして自らはメディア改革やソウルからの行政首都移転構想などの施策を打ち出すものの、大きなこの国の将来像を示すことが出来ず、また対外政策でも期待に答えることが出来なかった。こうしてこの政権が「レイムダック現象」に陥ってしまった要因を著者は、そもそも世界でのグローバルカが進む中で、ナショナリスティックな期待を実現することが難しくなっていたことを挙げている。言わば彼は「ナショナリスティックで改革志向的な人びとの期待と、実際には政治が無力であり、これ以上の改革は不可能だ、という現実の間隙に落ちた」のであった。それは韓国における「改革の神話」の終焉でもあったのである。大統領引退後の彼の自殺については、この本では触れられていない。

 そしてこうした中、現在の大統領李明博が託されているのは、最後の神話である「経済成長の神話」である。

 1998年、選挙資金問題で有罪判決を受け、アメリカに逃亡した李明博は、そこで都市改造のアイデアを得て、翌年の帰国後、それを元にソウル市の再開発をぶち上げる。200年6月、北朝鮮金日正との劇的な南北首脳会談を実現した金大中が行った恩赦で政界に復帰すると、彼はそのアイデアを争点に、ハンナラ党内を制し、続いて2002年ソウル市長選挙にも勝利する。市長となってからは、国会は彼のソウル改造計画には否定的であったものの、大統領である盧武鉉の支持を得て無事着工。この工事は内外の注目を浴びるが、続けて彼は「韓半島大運河構想」も提案し、それらを梃子に2007年の大統領選挙に打って出るのである。「盧武鉉政権が『改革』の方向性を失って支持率低下に苦しむなか、李明博の大胆な構想と自身溢れる姿勢は、人々に夢を与えた。」更に彼は「平均年七%の経済成長を達成し、一人当たり国民所得四万ドルを実現し、イタリアを抜いて世界の七大経済大国入りを実現する」という「七四七政策」、そして「核開発を放棄するという前提で北朝鮮への大規模な経済援助を実施、北朝鮮の一人当たり国民所得三〇〇〇ドルを実現する」という「非核・開放三〇〇〇構想」を打ち出す。2007年の彼の大統領選挙での勝利は、まさにこうした経済成長への期待の結果であった。

 就任後、彼はこの期待の大きさに苦しめられることになる。特に就任直後から世界を襲ったサブ・プライム/リーマン・ショックは、まさに経済成長を推進する彼の計画に冷や水を浴びせている。2008年8月に建国60周年を迎えたこの国は、その間あまたの試練を乗り越え「平和な民主主義国」となったが、他方で政治指導者が果たす役割が小さくなり、それと国民の期待の間のギャップを如何に埋めるかという難しい問題に直面しているのである。こうして、この国がいま大きな曲がり角に差し掛かっているということを指摘して、著者はこの韓国現代史を締めくくっている。

 こうしてこの本の記載を眺めてくると、これは言わば韓国現代史の「オーラル・ヒストリー」を目指しているような印象が残る。著者が主として依拠しているのは、ここで取り上げられている主要な大統領経験者たちの回想であり、其々の歴史的瞬間において世代と立場を異にした其々が如何に感じ、その後如何に行動したか、そしてその結果韓国現代史がどのような展開を行っていったかを「ポリフォニー的」に描こうとしている。その結果、取り上げられている現象は純粋に政治的な現象がほとんどで、その背景にある経済や社会の変化については余り触れられていない。

 また韓国民主化の過程で、ある意味最も重要な全斗煥と盧泰愚については、おそらくこうした回想がないせいであろうが、全くコメントされていない。この開発独裁から民主化への以降期の大統領二人が、引退後揃って告発され、囚人服で連行される様子が私の記憶に残っている。その時の私は、大統領経験者が、引退後逮捕され、またそれをあたかも自然であるかのように受け止める韓国社会の様子に、個人的に驚きを禁じ得なかった。

 しかし、この本を読むと、幾多の危機に直面した金大中のみならず、一見穏やかな経歴を辿ってきたように思える金泳三でさえ、数多くの逮捕・議員資格剥奪・政治活動禁止等々の試練を受けてきたことが改めて確認できた。その意味では、韓国現代の政治家は、日本の政治家以上に命をかけてこの仕事に従事してきたことが分かる。そしてそれは、最終的に自殺で終わった盧武鉉のみならず、現在それなりに勢いのある李明博でさえ、例外ではなかったことが分かる。こうした現代史の延長上で、この近くて遠い国韓国が、民主化以降も、日本とまた違う意味で多くの課題を抱えているのは確かであり、これらに現職大統領である李明博がどのように取り組んでいくのかを、改めて注目して見ていきたいと思う。

読了:2011年7月7日