アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第二節 中欧
解体ユーゴスラビア
著者:山崎 佳代子 
 1993年6月出版の旧ユーゴスラビア(以下「旧ユーゴ」)・レポートである。私が記憶している限りでは、ドイツからの一時帰国時に、当時凄惨を極めていた旧ユーゴ情勢を詳しく知るための一冊として購入したが、結局ドイツ滞在時は読む機会がなく、そのまま日本に持ち帰ってくることになった。その後、旧ユーゴの内戦が終わり、巷での話題が、当時のセルビア首脳を中心とした戦争犯罪人の国際裁判くらいになった頃から、このテーマは私の中では次第に関心が薄れ、そのままこの本は書架の奥に眠ることになってしまった。

 今年の正月、シンガポールから一時帰国し、何気なく書架を眺めていて、この本を含め、以前に購入しながら、このように眠っている本があることに気が付き、その内の何冊かを、今回こちらに持ってくることになった。その動機は、こちらでアジア物中心の読書生活を送ってきたが、時にはアジアと全く関係ない作品で気分転換をすることも必要かな、と考えたことによる。そしてそこで約20年振りに手に取ったこの作品は、その時代にドイツや日本から見ていたこの旧ユーゴ内戦の記憶を呼び戻すと共に、その頃は見えていなかったその内実や、現在私が生活するアジアでの民族問題を考える上での重要な視点を提示してくれたのである。著者は、旧ユーゴの各地の大学に留学した上で、この本の出版当時はベオグラード大学で日本学の教鞭を取っていたが、現在もこの地域に在住であるのかは定かではない。アマゾンの書籍欄で調べてみると、著者は、スロベニア語の辞書を出したり、内容は不明ながらこの地域の作品と思われる本の翻訳など、最近でもコンスタントに活動しているようである。

 旧ユーゴは、私にとっては青春時代から、いろいろ思い入れのある国であった。学生時代、ロシア・ソビエト現代史を勉強している過程では、当時ソ連・コメコンと一線を画して、自主管理に基づく独自の社会主義路線と西側との独自の関係を含めた非同盟外国を進めているチトー率いるこの国は、冷戦の中で小国が存続していくための独特な戦略として強い印象を受けた。実際、ユーゴの自主管理社会主義のレポート等も学生時代に読んだ記憶がある。また80年代、ロンドンに滞在していた時期には、私は生憎訪れるチャンスはなかったものの、この国のスロバニアやクロアチアの海岸リゾートは、英国からの安い休暇先として人気があった。イタリアのベニス近郊で一週間の休暇を過ごした際に、レンタカーで、ユーゴ国境のトリエステまで足を伸ばし、「あと少し走ればユーゴだな」等という感慨を抱いた記憶が残っている。

 しかし、1980年、建国の父としてカリスマ的にこの国をまとめていたチトーが死ぬと、次第に歴史的な「火薬庫」であるこの地域の分裂が進む。そして冷戦終了後、この地域では連邦を形成していたスロベニア、クロアチア、そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナ等の独立運動が高揚し、それをきっかけに内戦が激化していくのである。それは1991年の「十日間戦争」と呼ばれるスロベニア独立戦争で始まり、同年から1995年まで続くクロアチア紛争、最も内戦が悲惨な様相を呈した1992年から1995年までのボスニア紛争を経て、1999年から2001年にかけてのコソボ紛争、マケドニア紛争へと連なっていくことになる。そして、この本は、この10年近く続いたこの地域の混乱の内、1991年初めから、夏の内戦勃発を経て1991年11月に至る、初期の動きを、著者が日常生活で接触した一般の人々の証言集として報告したものである。

 1990年12月、紛争が勃発していたスロベニアとクロアチアを、ドイツが単独で承認。他のEU諸国がこれに従ったことにより、旧ユーゴの解体は決定的となった。学生時代から、旧ユーゴについて語られる時は、常に「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの宗教、3つの言語、2つの文字、1つの国家」という説明が引用されていたが、こうした複雑な文化・民族が、それこそモザイクのように入り乱れていることから、この地域の政治・社会環境は歴史的に常に不安定であった。それでも、第二次大戦後、チトーのパルチザンが自力でのドイツからの解放を果たし、またその後ソ連から距離を置いたことで、チトーの求心力による安定が保たれてきた。この本でも度々証言されているように、セルビア人であろうが、クロアチア人であろうが、スロベニア人であろうが、一般の人々は、日常生活では、相手がどの民族であろうと関係ない付き合いを続けてきた。また民族をまたがる結婚も一般的で、純粋な民族的特性なども薄れてきている。しかし、いったん政治・経済危機が深化すると、こうした民族性を無理やり表面化させ、それを求心力にして政治・経済危機を乗り切ろうという誘惑が政治指導層に芽生えてくる。まさに、旧ユーゴ解体のきっかけになったスロベニアとクロアチアの独立は、冷戦後の政治・経済危機の中で、相対的に豊かである両国が、そもそもハブルブルグ帝国の枠組みに組み込まれていたこともあり、西欧の支持を背景に、「大セルビア主義」からの離脱を図ったもので、それがその他の地域の独立の動きを刺激してしまったのである。

 この内戦初期の状況を、ベオグラード在住の著者は、周囲の人々の証言で綴っていく。その証言を細かく見ることはしないが、まず感じるのは、1991年初めは、社会的緊張と不安が拡大していく様子が感じられるものの、セルビア人中心の多くの証言が「民族の違いなど関係ない」といった趣旨を繰り返している。この年夏のスロベニアでの内戦勃発を受けて、ベオグラードに避難してきたセルビア人の夫とスロベニア人の妻は、それでも自分たちがスロベニアで差別されたことなどなかった、と話す。しかし、それが避難する直前から突然変わってしまったという。それまで普通の関係であった人々の関係が突然冷たくなり、そしてあからさまな差別に転化するにはほとんど時間を要しなかった。クロアチアからも、セルビア系の人々が続々とベオグラードに避難してくるようになる。彼らが語るのは、スロベニアやクロアチアでの「チェトニク」(「第二次大戦中の偏狭なセルビア民族主義者によるテロ組織」−著者注)批判の高まりである。それに対し、セルビア系亡命者の口からは、ナチの傀儡政権であった「クロアチア独立国」時代の強制収容所と、そこでのセルビア人虐殺、そしてそれを実行したクロアチア人テロ組織ウスタシャの記憶が語られることになる。そして、時間が経過し、状況が悪化するに従って、著者が接しているベオグラードへのセルビア系避難民の中でのこうした反スロベニア、クロアチア、そしてそれを支持する西欧を批判する発言が多く聞かれるようになってくる。そして彼らの多くも認識している通り、一度戦争状態になると、「イエス」か「ノー」の選択以外の立場はなくなってしまうのである。そうした状況は、やはり多くの人々がコメントしている通り、政治家の権力志向と都市インテリの偏狭なナショナリズムがもたらしたもののようである。そうした人々が始めた戦争と非難の応酬に、冷静な態度を呼びかけたり、徴兵を拒否するなどして抵抗する人々もいる。しかし、動き出した歯車は止まらない。そして10月に入ると、戦場となった地域での悲惨な光景を伝える証言も多くなる。そしてこの証言集の最後は、戦場となったクロアチアのセルビア人地域に残る祖父に宛てた、ベオグラードで避難生活を送る12歳の少年の手紙で終わるのである。そしてそれ以降、旧ユーゴ内戦の主戦場は、この一連の紛争の中でももっとも悲惨なものとなったボスニア・ヘルツェゴヴィナに移っていくのである。

 民族や宗教のモザイク状態という地政学的条件は、長い歴史過程での産物であり、それを無理やり民族浄化しようとすると常に悲惨な結果がもたらされることになる。チトーの時代に、民族主義的発言が禁止され、その結果、逆に第二次大戦中のクロアチアでのウスタシャによる虐殺事件や1970年代に起こったスウェーデン駐在大使をウスタシャの海外亡命者が暗殺した事件等をうやむやに扱うことになったという。そうした過去の遺恨が、一度危機が表面化すると、あたかも昨日の出来事であるかのように蒸し返されるのである。

 こうした「民族や宗教のモザイク」という状況は、ここ東南アジアでも決して別世界の出来事という訳ではない。特に、シンガポールやマレーシア、インドネシアは、常にこうした民族紛争の火種を抱えている。昨年当地で、「反マレー的な人種扇動」を公共のウエッブに投稿したということで、中国系の中年女性が公務員を首になった事件が新聞で報道されていたが、これなどは、民族的な偏見がシンガポールの社会にもたらす危険性を認識する政府による見せしめ的な対応であったと考えられている。シンガポールの場合は、まだ国の面積が小さく、こうした監視が行き届くが、マレーシアやインドネシアの規模になると、それもなかなか難しくなる。この両国では、多くの場合は、社会的緊張が高まると華僑系中国人に対する差別や暴動が発生するという歴史があるが、それに留まらず、所謂「ブミ」内部でも異なる民族・宗教をまたがる戦いになる危険は常に内包しているのである。そしてシンガポールでさえ、チトー以上に個人的カリスマ力で、この異民族が入り混じった社会の統合を保ってきたリー・クアンユーという重しがなくなるとどうなるかは分からないのである。

 いまや日本の観光客が休暇でクロアチアを訪れる等、この内戦から20年近く経過し、この地域の政治・経済的安定感は高まっているようであるが、それでも、この地域での紛争が今後また発生しないという保証はない。そしてそれは私の現在生活するここ東南アジアでも同じである。この旧ユーゴ内戦の記録は、人間の浅はかさとそれがもたらす悲惨な結果についての、あらゆる地域の人々に対する警告として心に刻まれるべきものであろう。

読了:2013年4月16日