アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
ユーロ  危機の中の統一通貨 
著者:田中 素香 
 ここのところ週末が多忙であったことから、読書のペースはずいぶん落ちてしまった。そんな中で今回読了したのは、まさに現在市場を悩ませているギリシャ債務問題を中心とする、統一通貨ユーロに関わる鳥瞰的な考察である。

 この著者のユーロに関する作品は、10年以上も前の2002年に、同じ岩波新書の「ユーロ その衝撃とゆくえ」を読んでいる(前掲)。この当時は、為替こそ不安定に動いていたものの、まさに半年前、ユーロのハード・カレンシーが導入され、ある意味「ユーフォリア」が続いていた時期である。そして、この本でも説明されているとおり、その後、ユーロは存在感を上昇させ、当時12カ国であったユーロ導入国は、現在は27カ国に拡大している。その間の流れを整理しながら、3年前からのサブ・プライム危機、リーマン危機から今回のギリシャ危機を経て、ユーロの信任に対する懸念が沸騰するまでの過程を跡付けているのがこの作品である。ただ出版が2010年の10月であることから、2011年以降も二転三転し、益々混迷が深まった時期についてはフォローしていない。それ以降の時期については、最近、私の業務に関わる業界紙に、著者が別に「ソブリン危機への政策的な対応―ユーロ圏のケースー」という論文を掲載している。ここでは、この論文も念頭に置きながら、一旦私自身の業務上の関心は離れて、大きな枠組みでのユーロの2000年代の歴史と現在の姿や問題点、そして今後の課題、展望等を見ておきたい。

 著者の大きなスタンスは、ユーロは多くの問題を抱えながらも、欧州にとっては今や必要な政治・経済・社会インフラとなっており、今回の危機の中で、例えばギリシャのユーロ離脱とか、ドイツの離脱、あるいははたまた北部ヨーロッパと南部ヨーロッパ(別通貨MEDの導入!)の分裂といった様々な「ユーロ崩壊」論が登場しているが、それらは全て非現実的で、唯一の選択肢は、現在の困難を乗り越えて深化させていくことしかない、という「ユーロ非可逆論」である。90年代にドイツに滞在しこの誕生をつぶさに眺め、その後も業務でもこの通貨にそれなりに関与してきた私にとっては心強い議論ではあるが、他方で現代の政治と金融の関係が全てそうであるように、巨大な力を持っている市場の圧力で、国家意思が捻じ曲げられてしまう可能性もないとはいえない。まさに現在のユーロ危機は、そうした現代における市場対国家(あるいは擬似国家)の攻防が先鋭化した最も直近の例といえる。その攻防の力学をどう見るか、ということがひいてはユーロの将来を占うことになる。

 著者の「ユーロ評価」はまさに今回の危機に至るまでの歴史が、ユーロの威力を示していると考えているからである。それは、まず@ユーロ圏経済の統合を促進し、安定化に寄与し、A欧州の基軸通貨となって中・東欧諸国に安定した為替秩序を提供し、西欧・北欧経済の強化にも貢献したという点に要約される。確かにユーロ加盟前、南欧諸国では「高いインフレ、財政赤字、経済や為替相場の混乱が常態であった」が、それがユーロ導入により安定することになったことは間違いない。そしてこの金融危機の第一波であるサブ・プライム危機と第二波であるリーマン・ショックに際しては、このハード・カレンシーは、市場に狙われた弱い国々を救済する上で貢献し、更にこの危機を通じてユーロの求心力はむしろ強まったと考えられるのである。

 こうして著者は、まずユーロが欧州に「貢献」した2010年までの歴史を概観していくが、特に1970年から1998年のユーロ導入までの説明は、ほとんど復習なので省略し、導入前後以降の主要な効果をまとめておく。

 ユーロの当初の大きな貢献は、域内での為替リスクがなくなったことによる貿易やクロスボーダー投融資の増加と、高金利諸国の国債スプレッド縮小(収斂)による負債調達コストの低下が挙げられる。これにより「南欧諸国の不動産・住宅ブームや消費ブーム」と「中・東欧諸国の新興国ブーム」が湧き上がることになる。特に南欧諸国は、「経常収支の赤字を資本収支の黒字が埋めて、長期間の好況を維持することが出来た」のである。他方で、高インフレ国であった南欧、中・東欧諸国は、ユーロへの加盟に向けて、条件である物価安定などを達成するための経済改革を進めこれを実現。加盟後もECBによる堅実な金融政策で、ユーロ圏全体としての物価水準の安定が確保されることになった。またユーロへの加盟が実現できない国も、自国通貨をユーロに連動させることにより、実質的なユーロ圏が拡大することになる。

 続いて、ユーロを支える経済・通貨同盟の基本的な制度枠組みの説明に入るが、ここで重要な点は、やはり今回の金融危機で露呈した制度的な限界である。それは巷でよく言われるとおり、金融行政と財政が個別主権国家の責任に任されているという点である。前者は、特に英国等、金融業が中核産業であるユーロ域外の国の意向が強く反映したと言われている。また後者はリスボン条約で「EU加盟国は他の加盟国に財政支援を行わない」という規定があり、またEUの基本条約でも「ユーロ加盟国の財政連帯責任性を否定している」ことから、加盟国の財政赤字制限等の一般的な制約を除くと今回の金融危機のような非常事態が発生すると機動的な対応が難しくなってしまう。実際、マーストリヒト条約締結に向け、一定の経済危機を前提としたシミュレーションは行っていたようであるが、リーマン破綻以降の金融危機は、この試算の域を大きく越えていたのである。こうした中で、グローバル金融への西欧主要銀行の急速な進出、世界的な金融緩和下での住宅バブルの膨張、そしてユーロに参加している周辺諸国の産業競争力の喪失という問題がいっきに顕在化したのである。

 こうして今回の金融危機の第一波であるサブ・プライム・ショックでは、アイルランドとスペインを中心に金融機関が、そして第二波であるリーマン・ショックではフランス、ドイツ、ベネルックスなどユーロ中心国の金融機関が破綻するに至り、全体としては当時のユーロ15カ国のGDP(2007年)の約20%にあたる1.8兆ユーロの公的資金が銀行救済に投入される等の措置が実施される。これらは、各主権国家の枠内での対応である。

他方でユーロに加盟していない周辺諸国では、この影響はもっと厳しく、特にポーランド、チェコ、ハンガリー、及びバルト3国等では、ユーロとは管理変動相場制を取っていたにも関わらず夫々の通貨が暴落し、結局IMFの支援を仰ぐ事態に至った。この時ユーロに加盟していたスロバキア、スロベニアではECBによる「無制限の流動性サポート体制」もあり通貨危機、金融危機が発生しなかったことから、その後周辺諸国のユーロ参加への期待が高まり、ユーロの求心力が強化されたと著者は論じている。しかし、ユーロの最大の試練は第三波であるギリシャ危機と共に訪れることになる。サブ・プライムからリーマンまではそれなりの耐久力を発揮したユーロがここでもっと厳しい市場の挑戦を受けるのである。

 ギリシャ問題の発端は、2009年10月の政権交代後に、財政赤字がそれまで公表されていた4%ではなく、実際には11%台であることが公になったことである。その後格付会社によるギリシャ他のユーロ諸国の格下げと、それらの国の国債の暴落が始まり、2010年に入ると、まさに欧州ソブリン危機の様相を呈していくのである。

 こうしてこのギリシャ問題は、時としてポルトガルやスペイン、はたまたイタリアやフランスに対する懸念の拡大をも伴いながら、基本的には@「ギリシャ政府の緊縮財政政策への熱心さと実行可能性」と、A「ユーロ圏によるギリシャ支援の具体策」という二つの論点の間での綱引きが現在に至るまで続き、「ユーロ存亡の危機」とまで言われることになる。言うまでもなく、その根本的な対立構造は、ユーロ参加のメリットを生かして消費生活を享受してきたが、その半面で財政赤字を垂れ流し、産業競争力を失った諸国を、ドイツを始めとする相対的に豊かで産業競争力を有する国が助けるかどうか、という点に帰着する。そしてこれは、財政については主権国家の責任としたユーロが、一部の主権国家のパフォーマンスにより、安定通貨としての信任を失ってしまうこと、をどう考えるかという議論に連なっていくのである。

 この状況を受け、著者は、冒頭に述べたように、ユーロ分裂論者の主張するいくつかの可能性を検証し、ギリシャの離脱やドイツの離脱等、どれも夫々の国や、ユーロ圏に残る諸国にとって受け入れられるものではなく、現実的ではないと論じる。そうだとすると、ユーロは今までもそうであったように、この危機をバネとして新たな深化を遂げるしかない、というのが著者の主張である。それであれば、今何が問題であり、これから何をすべきなのか?

 まず前者についての著者の分析は、ユーロが当初は財政状況が類似するコア諸国で設計されたのに対し、周辺諸国が「二級市民」、「二級国家」の烙印を押されることを忌避して財政再建を行い、その結果ユーロが想定より拡大した。しかし、本来そこで顕在化するはずの「コア(都市)・ペリフェリ(周縁)問題」が、ある種のバブルによる民間資金の流入で覆い隠されたが、それが外部からのショックで逆のスパイラルに向かい、危機がいっきに顕在化することになった、というものである。そこにあるのは、もちろん一般の主権国家の内部でも頻繁に見られる、地域的な成長力の差をどのように平準化していくかという問題である。しかし、例えばその問題がシリアスになっている中国では、別の固有の問題はあるとは言え、主権国家が財政と金融の双方を活用しながら、統一的な指令の下に管理している。しかし、財政が主権国家に一任されているユーロには、それを強力な指導力で進める機能はない。更に例えば中国では、地域の安定・成長の足を引っ張る「ペリフェリ」を切り離すという論点はそもそも存在しないのに対し、ユーロの場合には、これを切り離すという可能性も排除できないことから、問題解決の選択肢の幅が大きく広がることになる。このため既に何度も行われているように、主要国首脳が集まり10数時間にわたる徹夜会議を何度も行わないと何も決まらないということになるのである。

 しかし、それでもこうしたプロセスは、EU結成からユーロの導入に至るまで欧州が今まで果てしなく繰り返していた過程である。ユーロ分裂によりもたらされるデメリットが、ギリシャやドイツを含めた各国にとってとてつもなく大きいことを考えると、確かに著者が主張するように、ユーロはこの危機をまた一つの大きな契機として、どんなに非効率的であっても際限のない議論を繰り返しながら深化させていくしか方法はないのであろう。

 また著者が懸念しているように、そこであらたな「ドイツ問題」が惹起することもあろう。多くの論者が指摘しているように、「ヨーロッパのドイツ化」が動き始めると、ヨーロッパは常に不安定化してくる。しかし、今、ドイツがギリシャを初めとした南欧諸国を念頭に置き、財政や金融政策につきより厳しい監視システムを作っていくという方向自体は、決して本来あるべき「ドイツの欧州化」というベクトルから大きく外れるものではない。その意味では、著者が指摘しているように、「ギリシャ支援と欧州金融安定化策にとの二つの支援メカニズムに最後のOKを出したのはメルケル首相」であり、「統合から最大に利益を引き出しているEU最強国(ドイツ)がその義務を果たすべき時である」というのも頷ける。その具体策は、「コア諸国からペリフェリ諸国への財政資金移転メカニズムを備えたユーロ制度への発展」であり、現在はドイツが反対している欧州「経済政府」の導入や、ある論者が主張している「欧州金融安定化ファシリティ」(3年の期限付)の「欧州通貨基金(EMF)」への発展・継承である、というのが著者の展望である。しかし、それ以上に、特に南欧諸国が財政緊縮を続けざるを得ない中で、如何に労働市場柔軟化や産業育成を図っていくかということが、何よりも優先度の高い政策目標として設定されなければならないのは明らかであるが、その具体策については、ここではあまり議論されていない。

 この本が書かれた時点では、2010年5月の支援ローンの供与を受けたギリシャの財政赤字が改善した、という希望が述べられているが、実際はその後も、緊縮財政を巡るギリシャ国内の民衆の不満が高まる一方で、国債の償還が近くなる都度、支援の継続が問題となり、それが市場の不安を煽るという状況は依然繰り返されている。ドイツ側からの「ギリシャ怠慢論」とそれに対する「ドイツ傲慢論」という感情的な応酬も時として湧きあがっている。まさに今月、昨年から継続的に議論されてきたギリシャに対する第二次支援策(民間金融機関が保有するギリシャ国債の元本カットを含む包括支援)がまとまり一旦市場は落ち着いたが、これでギリシャ問題が解決したわけではない。ユーロを巡る市場対(擬似)国家との緊張は、ユーロ内での「コア・ペリフェリ問題」という地域格差が残存する限りまだまだ続いていくことは間違いないが、他方でそれが新しい歴史を作るエネルギーになる可能性となることもまた確かである。人間が自らの意思で平和的に新しい政治・経済・社会秩序を作るという欧州での歴史的な事業は、まだまだ多くのハードルを抱えているが、これは私にとっても依然としてある種のロマンを有しているプロジェクトでもある。このプロジェクトの展開を、これからもつぶさに追いかけていきたいと考える。

読了:2012年2月21日