アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第一節 ドイツ戦後史
ドイツ人
著者:A.クレイグ 
 7000円近い値段から、存在は知っていながらなかなか読むことのできなかった作品であるが、保土ヶ谷図書館にあったことから、最初の借入本として読み始めた。しかし結局3−4回、借りては延長し、返してはまた借りることを繰り返し、そしてこの夏季休暇中の伊勢志摩の早朝の時間に最後をいっきに読み上げることになった。

 アメリカ人のドイツ研究家によるドイツ論で、原書は1982年の発表、その後のドイツ統一を受け、1991年時点での補論が追加され、日本語版は1993年5月に出版されている。ドイツにかかわるいくつかのテーマ毎に論ずるという手法は、1991年ドイツに赴任した際最初に読んだ、D.マーシュの「新しいドイツ」と同様のものであり、こちらの作品を読みながら、実はD.マーシュは、この作品を意識しながら自分の本を書いたのではないか、などと考えてしまった。もちろん、D.マーシュはジャーナリストであることから、内容はより現実的であり、他方こちらは歴史学者であることから、時折ペダンティックなディテールにこだわりすぎるきらいがなくもないが、それはそれで両者の書かれたタイミングも含め比較してみると面白いかもしれない。いずれにしろ大部の作品なので、まずは簡潔に個々のテーマを整理してみよう。

 第一部の「過去と現在」は、1991年までのドイツの歴史や社会についての概観である。F.ヘルダーリンの「ドイツ人は、近代のほとんどあらゆる時期にわたって、絶えることなく引き裂かれ、分割されてきた」という言葉が引用されているが、特に17世紀の30年戦争での都市の荒廃(著者は、繁栄していた都市マグデブルグが破壊される経緯を描いている)と、その後のウエストファリア条約で、300を越えるドイツ諸邦が、主権をもった単位として承認されたことで、ドイツの細分化状態が確定、合法化され、その社会的・心理的影響が長期にわたってドイツ近代史にのしかかっていた、と言う。中規模の村落共同体の個性が守られ、「ふるさと」意識が「強い地方的誇りと共同体意識(Gesellichkeit)」を維持させることになったのである。そしてそれが、19世紀末のビスマルクによる統一後も、「地方的な怨恨とか、俗物根性、かたくなさといった形で生き残った」と見るのである。またこうしてドイツが外部世界から切り離されたこと、更には「ブルジョアジーの伝来の自信欠如、密やかな権力への賞賛、さらには、難局にあっては自由よりも権力を優位におこうとする姿勢」といった要因が、18世紀の啓蒙主義という知的運動が、ドイツの地では相対的に失敗した主因となったのである。
 1922年、哲学者で神学者のエルンスト・トレルチが、「ドイツと西欧の隔たり」を「自然法概念」を使って解決しようとしてから20年、ドイツはヒトラーとナチ国家による究極の共同体思想=究極的ドイツを実現し崩壊した。1949年ドイツ連邦共和国の創立と共に、19世紀の啓蒙思想が実現できなかった新たな試みが開始される。
 戦後の国家再建過程が語られるが、著者は、老齢のアデナウアーの西欧志向を特に評価しているように思える。東の国民を犠牲にしながらも、ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)やEDC(ヨーロッパ共同防衛体―但し、フランスの拒否権により短命で消滅)に象徴される新しいヨーロッパ秩序を目指し、その未来像がドイツの国民をとらえたとしている。そして「彼が長期にわたって在職したことにより、西ドイツ国民に継続性と持続性の感覚がもたらされ、民主主義的な諸制度に慣れ、これをいかに運用するかを学ぶために必要な時間が与えられた」としている。しかし他方で政権末期には、「国内の制度を特徴づけていたコンフォーミティ(同調性)のいっそうの強まりと、西ドイツの対外政策における硬直性や不活発さをもたらした」とも指摘する。
 
 続けて著者は旧東独の建国と初期の政治過程を概観しているが、これは省略し、西独の60年代に移ろう。
 アデナウアー末期から漂っていた「政治的エネルギーと理想主義の欠如」への不満は、ナチ関係者であるキージンガー大連立政権の成立と右翼政党の復活で爆発し、1969年、ブラントが率いる社会民主党政権の成立となる。沈滞していた外交は新たな「オストポリティーク」で息を吹き返し、また国内政策においても、続くシュミット政権とも合わせ「民主主義の実践を制度化した」時代と評価されている。
 こうした政治過程とは別に、著者は、戦後繰り広げられた「ヒトラー」を巡る議論の数々を紹介しているが、これは一般的なヒトラーによる政権奪取の要因分析から、「ヒトラーのテーブルトーク」に示される彼の個人的特徴に関する議論、はたまた英国人学者によるヒトラー擁護と、それを巡るドイツ側の議論、そしてその戦後教育への影響など、様々な側面からの「戦後のヒトラー論議」の総括として面白い。しかし、ここでは詳述はしない。

 第二部「変化と継続」では、個別のテーマ毎にドイツの伝統と変化のダイナミズムを分析していく。まずは「宗教」。
 ドイツでは、アメリカ以上に宗教が「依然として活力を持っており」、その結果として宗教を巡る論議が常時行われているが、これはまさに「宗教改革」にまで遡るドイツ的特性であると著者は考える。即ち、ハイネが指摘したとおり、「ドイツの教会の統一性を破壊した」ルターは、「彼の言葉によって社会的政治的変革をするよう勇気づけられた人々と対決した世俗権力を断固として支持したため、たんに精神の内的領域の自由を制限することになっただけでなく、プロテスタントの運動に対しては、その誕生の瞬間から保守的な刻印を押した」のである。その結果、「ルター主義が浸透したほとんどの地域で、地方の地主から君主にいたるあらゆるレベルで、権力に対する受動的な服従が助長される傾向が見られた」のである。そして、その後の啓蒙主義の時代も、フランスと異なり、無神論者や共和主義者からの宗教に対する激しい攻撃は起こらず、またナポレオン戦争後も、むしろ「神に導かれた情緒的な宗教が、フランスの合理主義や世俗主義に対する最上のイデオロギー的武装になる」としてビスマルクも含めたプロイセンの支配層まで広がっていったのである。
 他方、カトリック教徒は、バチカンの権威を背景にしながらも、ドイツでは少数派に留まり、政治的には大きな役割を果たさなかったようである。それでも、19世紀半ばには教皇ピウス9世の「無謬論」に反旗を翻し、またカトリックも標的としたビスマルクの文化闘争に抵抗するなど、時として存在感を示してきたという。そしてプロテスタント、カトリック共、ヒトラーの時代には、多くの迫害にあいながらも、ある程度は抵抗勢力であり続けることができたのである。
 1945年10月の告白教会による「シュトゥッガルト」宣言で、教会は、ナチ時代の不作為に対し自己批判を行い、戦後の活動に入る。権威に服従した、という過去の反省から、政府の対外政策に反対し、ポーランドとの政治関係の改善を要求するなど、オストポリティークとデタントへの移行に影響をあたえ、「賞賛すべき精神の独立性」を示す。一部には、60年代の学生運動に際して左翼学生の支援を公然と行うこともあったという。
 他方で、教会の近代化という論点で、両宗派共、微妙な教義的問題とも取り組まざるを得なかったという。1979年には、カトリック神学教授キュングの著書を巡り、彼がカトリック教師と神学者としての権利を剥奪されるという事件が起こった。また1980年の教皇ヨハネ・パウロ2世のドイツ訪問は、ほとんど200年振りのカトリック首長のドイツ訪問として、いろいろな議論を巻き起こし、「少なくとも、宗教が西欧世俗世界では依然としてきわめて重要な力をもっていること」を示したのである。

 次のテーマは「マネー」。「ドイツの統一が、中産階級の革命の成功によってではなく、プロイセンの軍隊とビスマルク外交を媒介に古い封建階級によってなされた」ため、イギリスやフランスのように「金銭がすべて」とはならなかったとしても、19世紀末のドイツの工業が大成功したことから、大工業家に対する賞賛が浴びせられ、彼らはある意味で「文化的英雄」になった、という。その例として著者は、大砲王クルップ、鉱業、石炭貿易、内外運送から製紙、鉄鋼、エネルギー、銀行等々からなる一大帝国を築いたシュティネス、そして石炭・鉄鋼で財を成したフリックという3人を挙げているが、あのヒトラーでさえ、シュトラッサーが財閥からの財産没収を主張した際に、「かれらは指導力を持っている」として敬意を表した(あるいは「利用することに専念した」)のである。他方で、「魔術師や魔法使いのようなカテゴリーに属する」金融業者は、成功した実業家のような賞賛を受けなかった。高利貸を禁じる教会の措置の結果、もっとも効率的な金融業者はユダヤ人であったというのがその最大の理由であるとして、著者はヨーゼフ・ジュス=オッペンハイマー(ヴュルッテンベルグ公爵側近)、ゲルソン・ブライヒレーダー(ビスマルク側近)、ヤコブ・ゴルトシュミット(ワイマール時代の黒幕)、ヘルマン・アプス(ドイツ銀行頭取、アデナウアー側近)らに対し、時として国民の非難が浴びせられたことを指摘しているが、これら銀行家の「堕落」の要因が、「繰り手と考えられている人間ではなく、金銭それ自体にあることは偉大な思想家たちには明白であった」としてマルクスとワーグナーの「貨幣による疎外」への呪詛を挙げている。
 特に1871年の軍事的勝利に続くバブルが崩壊した1873年、そして1923年のハイパーインフレ時代に、こうした金融資本が投機家として便乗したこともあり、一般民衆の中の反ユダヤ主義を刺激し、ナチスの台頭を招いたとされるのである。
 第二次大戦後、丁度1923年と同じ状況の中で再出発をすることになったドイツは、逆に「奇跡の経済」により、結局この「金銭や物質主義や軍国主義といった復古的世界」に対する反省を行わないままになってしまった。一部の知識人による懸念は、「文化的悲観主義や、ドイツの民主主義の存続に対する疑い」として度々議論されることになるが、普通のドイツ人の共感を得ることはなかった。結局、経済復興により、「マネー」に対してとってきたドイツ人の思いは、根本的に議論されることなく、一般の政治過程のテーマとしては消えていった。これが戦後ドイツにとってよいことであったのかどうかについては、著者はコメントしていない。しかし、金の世界を支配する「ユダヤ人の陰謀」については、次のテーマとして引続き語られることになる。

 ユダヤ人問題は、かつてD.マーシュが、「戦後ドイツにはユダヤ人はいなくなったが、ユダヤ人問題は存続した」とコメントしていたが、著者は、ドイツにおける反ユダヤ主義の要因は、他の問題と同様に「ドイツにおける国家形成の遅れ」と、そしてそれ以上に「啓蒙主義の失敗」と「急激な工業化と社会変化に適応する際にドイツが抱えていた困難」の産物であるとする。ドイツにおけるユダヤ系知識人の受けた反応としてメンデルスゾーンやハイネの例が示されているが、特に19世紀後半以降、ドイツが劇的な経済的変化を遂げ、それが多くの「苦痛に満ちた社会的変動と数多くの個人的悲劇を含んだデラシネを生み出す」と、こうした「新しい状況に適応するユダヤ人の優れた能力」が、むしろ「ユダヤ人が社会の解体を促進し、そこから利益を得るのではないかという疑惑を強めた」と言う。1873年の株式市場の崩壊も、実際にはユダヤ人銀行家が損害の拡大を防ぐために奔走したにもかかわらず、これを契機にした新たな反ユダヤ主義のプロが登場、更にワグナーやトライチュケといった著名人が反ユダヤ主義を正当化したことで、ユダヤ人のステレオタイプ化が行われていった。実際、ナチスがユダヤ人に対して使用した主張は、ホロコーストという発想も含め、すべて1914年以前に形成されたもので、唯一の相違点は、「ナチスがそれに強い確信をもち、自分たちの主張を具体的な行動計画に移したこと」だけであった。
 戦後のドイツでホロコーストに対する反省は大いに語られたが、しかしマーシュも指摘したとおり「ユダヤ人に対する敵意に余り変わりない」というのが著者の見解である。これはドイツ人のイスラエルに対する複雑な思いに反映し、また知識人の中にも多分に「左翼ファシズム的傾向」が存在しているとする。しかし、1979年にアメリカで作られたTVプログラム「ホロコースト」に対するドイツの若者の真摯な態度は救いであったという。彼らにとって、「自分たちが(ホロコーストを行った)ドイツ人であるという事実を受け入れるのは、のがれることのできない運命なのである」から。

 「女性」問題は、初期においてはユダヤ人の解放と類似性があったというが、18世紀以降、啓蒙主義の影響下で、特に上流中産階級の中で女性教育に対する関心が高まり、ベルリンのサロンのリーダーや学者の娘たちが、知的世界の歴史に登場し始める。ブルジョア支配の19世紀に入ると、この啓蒙的貴族主義の反動として「知的装いをもち、みずからを男性と同等のものとすべく決意した女性を外に出さずにおこうとする傾向」が現れ、流れはやや停滞することになったという。第一帝政時代に入ると、ベーベルが社会主義者の視点で「女性と社会主義」を発表し、また小説家テーオドール・フォンターネが、「自国の女性が犠牲にされている状態を非難」し、自分のほとんどの作品の主人公を女性としたと言うが、中産階級には大きく影響を与えるには至らなかったという。
それでも、1948年革命前後に貧民救済を国王に訴え続けたベッティーナ・フォン・アルニムや「不屈な民主主義の戦士」エンマ・ジークムントらの記録が残されているのは、「日本の200年」で触れられている日本でのジェンダー論の登場よりも早い時代にドイツでの女性解放の動きが進んでいたことを物語っている。
「すべての国で、第一次大戦は古い正統主義と権威を弱めた。」ワイマール時代に入ると、それまでの保守的傾向は一変し、ジェンダーの世界にも「新しい自由と新しい成果」が生まれる。演劇、文学、歴史といった各分野で女性の成果が生まれ、またライヒ議会では1919年から1933年にかけて111名の女性議員が活動したという。そしてその内の何名かは、ナチスの勃興に果敢に抵抗したことで、その後厳しい運命を甘受することになったというが、こうした女性たちの個々の名前は省略させてもらう。
 他方、この時期、ヒトラーが多くの女性票を惹きつけていたのも事実であった。「ドイツの母」としての女性固有の尊厳を回復する、という彼の主張に多くの女性たちは「催眠術的」に惹かれたというが、これはその後に読んだ「ヒトラーをめぐる女たち」でも一端が示されている。しかし、ヒトラーは、「あらゆる官職や、才能ある人々を養成する機関から女性を遠ざけ」、他方で「結婚や家族養育のために職を離れる女性にはかなりの報償を提供」するという「アメとムチ」政策をとることになる。著者は、女性とナチズムの関係につき2つの観察を述べている。ひとつは、ヒトラーを尊敬せず、彼のために働くことを喜ばなかった女性も多くいた、ということであるが、この例としては「白バラ」のゾフィー・ショルらが挙げられている。もうひとつはーそしてこちらのほうが面白いのだがー「社会における女性の役割についてのナチスのイデオロギー的、生物学的偏見が、彼らの敗北を早めたことはありえなくはない」として、A.シュペーアが軍需生産のための女性動員を繰り返し主張したにも関わらずヒトラーに受け入れられなかった事実を挙げている。これによる追加的な兵力投入が行われていれば、戦争の結果は少し違っていたのではないか、という推測であるが、これは日本の女性動員を考えると然程大きな違いはなかったと思われる。ただ、この議論は言わばイデオロギーの皮肉を示そうという著者の諧謔と捉えてもよいだろう。
 戦後にこうした状況が一変したことは言うまでもない。しかし、理論的な「男女平等」が現実化していくには1968年を待たなければならなかった。著者は連邦共和国における女性の雇用機会に関するデータを挙げて、先進国の中で相対的に低い女性進出の状況を説明しているが、このあたりは日本と軌を一にするところである。戦後ドイツにおけるこうした女性の地位の停滞の理由については、著者は、@戦闘的フェミニズムの闘士たちの目標が分裂し、最も徹底した女性たちがテロリストに参加する等、逆に流れを阻害したこと、及びA「多くの女性たちが、(中略)性の領域での男性支配を攻撃する急進的フェミニズムに、自分たちのエネルギーを投入」し、政治・経済・社会的努力を怠ったことを挙げているが、これも日本と類似の流れであるのは面白い。

 「教授と学生」は、ドイツにおける大学の機能についての考察であるが、これは「現代ドイツの諸制度のうち、変化に対してもっとも抵抗したのは大学であり」、それを保証したのが「大学の自治」であったという逆説である。そしてそれは、何故1960-70年代の学生運動が教授たちを保守主義の牙城として攻撃することになったのか、という理由にもなっている。
 著者はドイツにおける大学と教授たちの社会的地位の変遷を辿っているが、それは1848年革命(教授たちが大きな影響力を発揮した)の失敗の後、彼らが政治の領域から撤退し、学問の世界に引きこもった(世間離れ「Weltfremdheit」の賞賛)時から始まったと見る。その結果、確かに自然科学、人文科学双方の分野で、19世紀後半のドイツの教授たちの業績は世界的な栄光に博することになった。
 他方学生たちに関して言えば、19世紀始めの「アルゲマイネ・ブルシェンシャフト」の高揚に示されるとおり、時として政治的な発言力をもってきたが、概して政府による統制を受け、全般的に保守的傾向を維持してきたという。そして1906年には、この学生団体は、ユダヤ人メンバーの承認を停止するなど、反ユダヤ主義の影響下に入っていたというが、これは「学生の出身が圧倒的に上層中産階級と貴族の家族だったという事実と重なっていた。」そしてワイマール期には、学生の大多数が反共和主義の立場をとり、ナチスの時代には、「全ドイツの自由主義的な教授の講義室にテロを持ち込んだ。」こうして「退廃した民主主義の破壊に学生がはたした貢献は、ドイツの大学のもっとも不幸な一章をなした」のであった。
 著者によれば、1960代末から70年代始めにかけて起こった大学紛争は、政治的には反対側からのものではあったにしても、ナチス時代の暴力と崩壊の場面を再現するものであった。学生数の増加に伴う指導力の不足に「文化的ペシミズム」が重なり、社会民主党員でさえ、ナチスの一員(キージンガー)を長とする政府を支援するといった状況に異議を訴えたのである。しかし運動の先鋭化が、大衆の中からの否定的反応を引き出し、シュプリンガー系の保守メディアの反学生キャンペーンを許すことになった。こうして1973年、憲法裁判所における決定も経て、スタッフの平等化を進めた集団的な大学「Gruppen Universitaet」のモデルが進められ、ようやく大学は落ち着きを取り戻したという。しかし、1970年代末の調査で、学生の10%が毎年脱落するなど、政治的に移り気な「アカデミック・プロレタリアート」が形成されるなど、ドイツ民主主義にとっての大学の問題は依然残っていると指摘している。

 ドイツの歴史と文化を語る時に、大きなテーマとなるのは「ロマン主義者」を巡る評価である。
 ロマン主義は、1770年から1830年の間に始まった、年長者の古典主義に対する若者たちの異議申し立てである。それはトーマス・マンによれば、一見したところの「幸福な放浪、民謡、ファンタジー、心に浮かぶ夢のような憧れ」ではなく、むしろ「夜、樹々の陰で動く本源的な力に熱烈に服従」するという暗い側面にその本質があった。それは生の豊穣を目指した冒険と成長の賛歌というよりも、死の誘惑を同伴した破滅への意志を内在していたと言うのである。そして文芸運動としてのロマン主義は1830年代に終わったものの、この理念や思考は影響を持ち続け、「もっと一般的には政治・社会問題へのドイツ人の態度を色づけすることになる。」
 ドイツ人のこうしたロマン主義への傾倒を著者は何人かの芸術家に即して語っているが、ワーグナーのオペラへといった典型的な作品以外で関心を引いたのは19世紀後半のベストセラー冒険・空想小説作家というカール・マイ(1912年没)で、彼の作品は1970年代に至ってもまだ売れ続けていたというのである。「ワンマンの夢工場」であった彼の作品は、一般の民衆のみならず、アインシュタインやヒトラーも愛読したと言われている。彼の空想の王国では「宇宙の究極的な秘密が示され、工業主義と物質主義からいかにして世界を解放するか」が示されたのである。著者はこれを「ブルジョアの逃避主義の痕跡」と呼んでいる。
 しかしこうしたロマン主義はまだ比較的無害であったが、ヴィルヘルム時代に登場した社会地理学者W.H.リルや評論家のP.D.ラガルドやJ.ラングベーンらの思想では、近代的なるもの、あるいは合理性や進歩への敵意や問題の暴力的解決といった「文化的ペシミズム」が鮮明になっていた。「神話と血の叫び」「陶酔(Rausch)」といった、ナチスの神話に連なる語彙が、ルドルフ・ペッヘル、ゲルハルト・ハウプトマン、エルンスト・ユンガーといった作者の名前と共にワイマール時代の流れとなる。池田の「虚構としてのナチズム」でも取り上げられていたメラー・ヴァンデ・デン・ブルックの1923年の「第三帝国」でこの流れは確固たるものになる。しかし、著者によれば、「彼らはヒトラーにそれほど敬服していたわけではなく(実際一部の者は公然と彼を軽蔑していた)」にも関わらず、ヒトラーは「彼らの活動の恩恵を受けた。」しかし「ヒトラーは彼らの貢献になんら感謝もせず、彼の第三帝国は、彼らの夢とは似ても似つかないものになってしまった」のである。
 戦後の連邦共和国はこうした政治的ロマン主義からは自由であったが、著者は1970年代のテロリズムの台頭にこうした「文化的ペシミズム」の気配を感じている。その特徴は、@「現実世界からみずから創造した世界への逃避」、A「理論への敵意」と「公然たる理性の軽蔑」、そしてB何に反対するかという明確な意識はあるが、何を作るかについては提示できない、という点であった。そしてこのテロリズムは「民主主義の権利と原理の制限」という議論を生み出したが、著者は、「もしこのような事態が生じていたならば、新たな政治的ロマン主義者たちは、かつてと同様にみずからが破壊的な存在ということを証明する結果になっただろう」と結んでいる。これは、日本の学生運動は、丸山真男が叫んだような「左翼ファシズム」であった、という議論にも共通する、「批判される側」の論理という感じがする。。

 ドイツの「文学と社会」では、まず1950-60年代が、「経済の奇跡」の時期である以上にワイマール期に匹敵する「文学的ルネサンス」の時期であったと指摘される。その中心になったのはハンス・ヴェルナー・リヒターとアルフレート・アンデルシュが主催した「47年グループ」であるが、この特徴は、「同時代性、政治・社会問題への関心、そして時事問題に示される率直な態度」であり、伝統的なドイツ文学の態度、即ち「政治的統一と経済の近代化の遅れ」に起因する、「哲学的、精神的な価値だけが文学のテーマであるという頑迷なしきたりから」の「地方的偏狭さと日常的な問題からはっきりと距離を置くという態度」と対照的なものであった。そしてこれらの作家は、「ナチの経験との対決」を、形而上学的あるいは極度に象徴的なアプローチではなく、直接的にはっきりと行っていった。こうしてエイザベート・ランゲサーやヘルマン・カザック(年長グループ)、ブルーノ・ヴェルナー、ジークフリート・レンツ、ヴァルター・ケンポヴスキーら多くの名前と作品が紹介されるが、やはり著者が個別に言及しているのは、既に私が接してきたエンツエンスベルガー、グラス、ベルの3人であり、彼らの戦後西独文壇での位置が特徴的であったことが示される(グラスの「ユーゲント」問題がそれなりの衝撃であった理由でもある)。また映画や演劇の分野での戦後の成果についても触れられている。詳細は省略するが、1963年に上演されたロルフ・ホーホフートの「神の代理人」(教皇ピウス12世の不作為のナチ協力を告発)や、同じ作者による右翼政治家フィルビンガーの戦争犯罪を取り上げた「法律家たち」等は結構面白そうである。また著者は、ヴォルフ・ビーアマンを始めとする旧東独における批判的文学者に対する引き締めと、その犠牲者たちについても語っているが、それは詳細は省略する。

 「軍人」。19世紀のドイツの欧州での発展を支え、そしてナチによるその破壊をもたらした中心に常にいたのが、ドイツの軍人たちである。そして「近代ドイツの歴史は保守主義勢力と自由主義勢力のあいだの長期にわたる憲法闘争であると主張できるならば、(中略)重要な時点で決定的な役割を果たしたのは軍隊であり、そのさいはあらゆる場合に、人民主権の正当性に反対する立場」であったが故に、誰もが、ひとたびナチズムが敗北すればドイツの再軍備は許されないだろうと考えていた。しかし、冷戦の勃発が、この確信を変えた。それでも、「誇りのできる伝統」をもたずに、いかなる軍隊が建設されるのか、そしてそれは国民の支持を得られるのか。1954年12月のパリ協定で、連邦共和国はNATOのメンバーとして承認され、50万の将兵からなる派遣軍を創設する権限を受けた後、「民主主義的な共和国のための新しい型の軍隊創設」が模索される。日本の自衛隊創設と同様に、ドイツにおいてもそれは多くの議論をもたらすことになった。著者が特に注目しているのは、1965年7月にカイ=ウヴェ・フォン・ハッセル国防相が6年にわたる検討の後公表した指令である。それは軍人のアイデンティティを回復させるための「内面指導」と「市民的軍人の理念」の宣言であったが、そこでは「1807年から1813年のプロイセンの改革者たちの理念や価値と、将校による対ヒトラー・レジスタンスのメンバーが持っていた理念や価値とのつながりを示す」ことにより、過去のドイツの軍人の誇りと、民主主義社会に対する責任を両立させようと試みていたのである。
 もちろん、事は簡単ではなく、その後も1980年のブレーメン事件のような、反戦運動との衝突を契機にした議論は間歇的に発生している。そして1960年代以降、所謂「良心的兵役拒否」は増大し、少なくとも壁の崩壊前まではあまり減少していないという。「戦時における国防軍の信頼性」の問題は、何処も同じであるが、しかし、現在はむしろ「ポスト冷戦期」の軍のあり方が新たな問題として議論されている。この点、ここでの議論は、歴史を踏まえてはいるものの、新たな課題に立ち入っている訳ではない。

 変化と継続についての最後の議論は、首都「ベルリン」を巡る歴史物語であるが、これは省略して、最後の第三部「現在と未来」に入ろう。

「民主主義とナショナリズム」は、ワイマールが失敗した経験を受けて、ドイツで民主主義が根付く可能性とその脅威について考察しつつ、東西ドイツの統合問題に「ナチオーン」の統一という視点から切り込んだ論文である。どこの国でも多かれ少なかれ言えることであるが、1871年から1918年の帝国を継承した共和国は「新しい自由の王国を打ち立てる責任を引き受ける意志と、その実現の過程でぶつかる問題の解決に必要な実際的能力をあわせもった十分に精力的で献身的な国民を欠いていた。」指導力を欠いた指導者と未熟な国民。これは危機において常に発生する組み合わせである。
 しかし、戦後、ハバーマスらによる、「正統性の危機」や「歴史の重み」による民主主義意識の発展の妨害といった警告(1979年刊行の「現代の精神状況」)にも関わらず、経済成長が、ドイツの民主主義意識を浸透させたという(アレンズバッハ世論調査研究所1978年調査)。実際、ビスマルクを始めとする「歴史上の人物」に対する関心は、時と共にますます希薄化している。しかし、ハバーマスらはなおも「権威主義的な行動様式や伝統的な精神的パターン」は継続していると見た。
 実際、戦後の高度成長が失速した際のネオナチの登場が示すように、「経済不安の兆候にたいする脆弱性」は、かつてマーシュも指摘していたドイツの弱点であり、また1972年の「急進主義者条例」に見られるとおり「非同調化や異論に対する涵養の度合いが低い」という傾向は、それがナチの経験を受けた右翼に対する規制で特に示されたとしても、基底に存在しているのは確かであろう。他方、70年代のテロの経験と、その後のエコロジストらの急進化とそれに対する規制も、同様にドイツの政治文化の未熟さを感じさせるものであったと著者は考えている。
 他方、東独における民主主義の欠如は、著者があえて指摘する必要もないが、こうした「二つのドイツ」が民主主義という視点から統一する可能性はあるのか?と自問している。そして、西ドイツの外交政策が「ハルシュタイン」から「オストポリティーク」に移行していった過程で著者は、統一のチャンスが遠のいたと見ており、また「ナチオーン」を統一のキーワードとして使い続けている間は、統一はあるべきではないとまで考えている。そしてH.シュミットを引用しながら、統一の可能性は、「文字通りの蓋然性として、ただ長期にわたる平和の後にのみ到来するであろう」と結んでいる。
 
 しかし、この本の初版が刊行されて10年も経たないうちに、このドイツ統一が現実のものとなった。次の論文「1980年代を考える」は、この統一を受けて1991年1月に書かれた追補である。
 ここで注目されるのは、1979年にシュミットのSPD政権が決定した「パーシングU」ミサイルの配備という米国寄りの政策が、80年代に入ってからの国内での反対運動と、米国による、ドイツの頭越しのソ連との外交交渉に対する懸念の中で、結局最終的な撤去にまで至り、「その最強の同盟国に対外政策を支持されるままにはならない」という兆候が出ていた、という指摘である。そしてこの新たなドイツの自信は「国家のアイデンティティをめぐる、苦悩にみちた自己探求の論争を経て、始めて形をとるにいたった」ものであると考える。その「苦悩にみちた論争」とは、ナチとその戦争に関連する80年代の数多くの記念日であり、またその中で行われた、コールによるビットブルグ記念墓地へのレーガンの招待といった事件をめぐる論争であった。しかし、ワイツゼッカーの演説を経て、ドイツ人はヒトラーの幻影を追い払うことができたという。そうした中で発生した東欧での革命と東独の崩壊。コールはこの状況を見事に利用することができたが、その最大の要因は「過去の失敗を心に刻んでおくことこそが現在の自由と幸福を守る最良の方法である」というヴァイツゼッカーの警告がドイツ人に浸透してきたことであった、としている。「ヨーロッパ文明の流れに沿って動くことに慣れてきた」ドイツに著者は希望を見出しているが、もちろん、これは、統一の熱気と希望があふれていた時期のコメントであることは言うまでもない。その後の統一の困難を著者がどう見ていたかは、この本からは覗うべくもない。

 最後に付論として付いているのは「ぞっとするドイツ語」と題された、歴史パースペクティブを踏まえたドイツ語論である。これはタイトルから想像されるような軽い議論ではないが、まずは、この言語に関わる面白い話から始まる。ビスマルクの演説を通訳付きで聴きに行ったものの、演説は進んでいるのに、通訳は一言も発しなかった。「何を話しているの?」という問いにたいし、通訳は、「我慢してください。私は動詞が出てくるのを待っているのですから」と答えたというのである。ハイネによると、現在のドイツ語はマルチン・ルターにより創作されたという。そして著者の考えでは、ゲーテにより文化的言語としてはいったん洗練されたが、ロマン主義者により、再び「音楽的言語」に退行し、またヘーゲルにより学問的及び科学的著述の言語としては曖昧化される。更に19世紀の官僚主義は、「生気がなく、冗長で法律的形式的な散文」を急増させ、そしてナチスの時代にもっとも極端な表現をとるにいたったのである。著者はナチスの言語利用と意味転換につき具体例を指摘しているが、それは戦後G.グラスの「犬の時代」により痛烈に批判されたものである。この結果、戦後はこうした「過剰なレトリック」や「軍事イメージ」、そして「誇張された虚飾性」は消滅したが、他方で、価値観の多様化のもとで壮大な理論的条文を書かなくては主題に入れない、という傾向は強まっているという。日本語もそうであるが、言語自体まさに時代の傾向を反映しつねに変転していくが、ドイツ語の場合は、そもそも多言語社会の中で、方言をベースに近代になり「創造」されたが故に、より変化に対する脆弱性が強いのであろう。これからも引続きドイツと関わっていこうと決めている者にとっては、この言語との対決は避けられない宿命であろう。

読了:2007年8月11日