アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第一節 ドイツ戦後史
二つのドイツ 1945−1990
著者:メアリー・フルブルック 
 ドイツ戦後史、それも第二次大戦後、ドイツが東西に分断されてから、1990年に再統一されるまでの戦後史を、統一後公開された多くの文書や両国での研究も踏まえ、より客観的にアプローチすることを目指して執筆された著作である。量的には、それほど多くないが、東西ドイツが夫々何らかの意味で影響し合いながら展開されてきた戦後の分断の歴史を、その両国の立場を内在的に意識しながら、簡潔にまとめた一冊である。著者が気を配っている過去から最近までの著作や研究の索引が充実しており、言わば東西ドイツ戦後史研究の研究、という評価も出来るものになっている。著者は英国の歴史家であるが、母親がベルリンからの移民(亡命者)であるとのことである(ユダヤ系と想像されるが、明確には書かれていない)。

 戦後の冷戦は、ドイツを分断し、相互に対立する存在の二つの政治体制を作ることになった。その対立は、政治的、軍事的なものに留まらず世界観の対立であり、その結果として政治的な議論や価値観が、アカデミックな世界でも通用してきた。西独から見た東独は、スターリン主義に犯された、市民的権利が侵害されている独裁国家であり、他方東独からみた西独は、ナチスの犯罪を清算できないまま、その残党が生産手段を独占し、市民の「実質的な自由」が抑圧されている社会であると主張されていた。他方で、1989年、突然東独の共産主義体制が崩壊したのは、西独から見れば単に「社会主義の死」と「資本主義の勝利」以上のものではなかった。東独は、崩壊するべくして崩壊したに過ぎず、偶々1989年に、この条件が満たされることになったに過ぎないと看做されるのである。

 しかし、これらは余りに政治的・党派的な議論であると著者は考える。むしろ東独社会主義が、西独議会民主主義に吸収された現在こそ、其々の体制のもとで自国と相手がどのように認知されてきたのかをより冷静に分析・評価できる。其々の国で、実は単なる党派的な議論ではない双方のドイツに関する多くの客観的な研究が行われていたというのである。例えば、東独の反体制派の著作は言うまでもないが、国家の研究機関で行われた未公刊の社会分析やあるいはシュタージ等による世論・社会問題等に関する調査などは「効果的な政策形成・政治的統制のためにかなり正確に現実問題を確認したいという切実な政治的関心によって推進されていた」こともあり、一次資料としてのみならず、この時代の東独の現実を冷静に分析する格好の素材とされる。また西独では、自国と隣国についての様々な論議が、継続的に行われていた。こうした議論を踏まえ、著者は4つの観点で、二つのドイツの戦後史を整理しようとする。それは其々の国において、自国と他国の戦後史をどのように捉えていたかという観点である。それにより、この壮大な戦後の実験の真の姿とその総括が、より冷静に行われると考えるのである。

 こうした分析の大きな枠組みとして、この2カ国を見る時の歴史区分から著者は議論を始めるが、ここで既に両ドイツの見方は異なってくる。西独においては、両国とも政治リーダー毎に区分する考え方が標準的であるが、東独では自国の歴史を社会主義の発展段階として捉える見方が一般的であった。これを両独史として総合して考えると、「相互の結びつき、歴史における並行性・非対象性がどの程度であり、どのような意味を持っていたのか」という観点が重要になると著者は考える。これを受けて、ここでは、@占領と分断(1945−49年)、A結晶化(1949−61年)、B1960年代(過渡期の10年)、C「確立期」(1972年頃―89年)、D東独の崩壊(1989−90年)、E二つのドイツの終焉?(1990年代の統一ドイツ)の6つに区分して、二つのドイツ史を簡潔に描写している。

 それぞれの時代に、いまだ定説が定まらない議論がいくつもあることを著者は指摘している。例えば@の時代、西独は本当に「ゼロ時間」であったのか?あるいは東独でのスターリン主義の押し付けに対する「より有効な反対・対抗はなしえなかったのか?」等々。しかし確かなことは、「このとき、分断状態がかくも長く続く、あるいはまたかくも異なる二つの国家と社会が生み出される、などという事態はほとんど誰も予見していなかった」ということであるとする。

 Aの時代は、其々の政権の性格が確定していく過程であり、この時代は1961年の壁の建設で固定化する。この時期両国は、其々の国の野党勢力が、冷戦体制強化と言う現実政治とそれに伴う理想主義の後退から弱体化していったという点で類似性を有しているという。こうして固定化した体制の過渡期がBの60年代となる。東独でのウルブリヒトの位置付けにつき、この時代の「新しい適応性と安定化」という成果をもって「旧弊なネオ・スターン主義者」から「少なくとも有能な改革主義者」に変更してもよいのではないか、という議論も出てきているようである。実際、東独では、この時期、「伝統的な特権の基盤解体と労働者・農民出身の政治的同調者の急激な上昇移動」を伴う「劇的な社会革命」を経験したという。そして、こうした議論は、その後の「統合」を受け、東独が「最初から滅亡する運命であった」とする主張を斥ける理由になると著者は考えている。他方この時期、西独では、「これと対照的に、1945年という分水嶺を越えて連続しているものが(中略)重大な変化に直面し始めた」とされる。

 Cの時代は、双方の政権とも安定し、其々のブロックでの優等生としての評価が確定していく時期である。表面的な成功の中で、西独が1980年代の「右旋回」にも関わらずゲンシャー外交のような「経済・外交政策上の注目すべき連続性」が見られたのに対し、東独のホーネッカー政権の「老人政治」はこうした柔軟性を持てなかったとされる。こうしてDの1989年が訪れる。壁に崩壊から統一までの1年については、既に私も散々勉強してきたが、ただ現在も多くの「歴史的イフ」が残っていることは間違いない。これらの問いが「歴史的出来事の偶発性に対するわれわれの意識をより研ぎ澄ます」と共に、この東独崩壊の本質的要因についての生産的な議論に寄与するのではないか、と著者は考えているようである。

 Eは、「1990年の合併が(中略)社会政治的、文化的、経済的にまったく異なった二つの統一国家の統合であったことがはっきりするのに、さほど時間は要しなかった」と総括される。それは私がドイツにいたこの時期に既に明らかになっていたことである。

 しかしこうして要約される両国の戦後史は、相互に影響を与えると同時に、どちらか一方にのみ大きく影響を与えた要因もあり、統合後の時点から統一的な歴史を作っていくのは容易な作業ではない。こうした両国の相互作用を、続いて著者は「政治」、「経済社会」、「文化」といった個々の分野ごとに見ていくことになる。

 政治はもちろん重要な考察対象であるが、ここでは詳細に追いかけるような面白いテーマは見られない。分断直後からの東西双方での他方の体制に対する非難の応酬から、相互の関係の変化に従い、こうした態度への変化が見られたという。しかし、統一が達成された1990年以降、再び「安易な白黒二分法による、東独への非難に満ちた見方が登場した」という点だけがやや気になる。また「コーポラティズム」論を始め、いろいろな議論はありながらも、基本的に西独の民主主義体制は、「40年間を通じて、弾力性に満ち比較的柔軟であることを証明した」ことについては余り異論がないが、東独の社会主義体制については、当初は壁の建設により「国民を実質的な監獄体制下におく方法に頼らざるを得なかった」ものの、その後の安定化の中で「力の行使がどれほど重要だったか」については議論のあるところであるという。著者は特に、東独の体制を単純に「全体主義的」と規定してしまうことについては、この概念の恣意性・多義性を指摘しながら明確に反論している。そしてこうした単純な議論を避けるため、個々の特殊な領域に関する議論を積み上げるべきと主張する。それは例えば、「社会主義統一党事態の発展とその内的ダイナミズム、政治的決定が行われる実際の構造、キー・エリート集団の政治的志向と役割。異議申し立ての思想と組織の発展(以下略)」といった課題である。

 「東独と西独の間の富と経済的実績の違いは、外側からそれを見る者にとって、おそらく壁が崩壊したときの最もきわだった特徴であろう」し、「西独経済の成功はほとんど疑い得ないものだった」が、東独の経済的発展を「共産主義体制について単純な表現でかたづけるならば(中略)もっと複雑な様相を覆い隠すことになる。」西独の成功の軌跡を、著者は、戦後直後のコーポラティズム的な「連続性」の維持とネオ・リベラリズム的政策から、60年代の「国家による経済の操縦をかなり志向する新ケインズ主義」、そして70年代の「より反応的な危機管理方式」を経て80年代のネオ・リベラリズムへの回帰と総括する。これに対し東独は基本的には「研究者たちが『国家資本主義』と呼ぶ」体制での経済発展を志向したが、経済の集中化とソ連圏の中における経済的リーダーシップ確保という執念が、70年代の急激な債務増加をもたらした。特に、この過程で東独が「フランツ=ヨーゼフ・シュトラウスのような人物に体現される、連邦共和国の保守政権からの援助をますます当てにするようになっていた」というのは皮肉な現象であった。

 この西独との関係(東西間ドイツの貿易は「国内貿易」として無関税・無課税であった!)は、東独に他のコメコン諸国と比較して有利な立場を与えた。光学・化学コンツエルンという伝統的分野から、マイクロエレクトロニクスやコンピューター分野まで、「西側との関係を保ちながらも、同時に西側との競争に晒されない」というメリットを享受したというのである。もちろん壁崩壊後は、西側との競争には全く耐えられないことが明らかになるのであるが。

 続いて著者は、こうした両国の経済の構造・実績の大きな相違が、社会構造や社会的流動性に与えた影響を考察している。ブルーカラーのホワイトカラーに対する比率が減少した点は両ドイツ共通であったが、都市化の速さにはかなり顕著な相違があったという。所得格差は、もちろん東独では少なかったが、西独通貨や寡少商品、そして何よりも西側に旅行できる権利といった特権が格差の象徴であり、これを得るには「収入や財産ではなく政治的忠誠」が不可欠であったのは当然である。そしてその「政治的忠誠」は、個人の教育機会と社会的上昇においても必須項目であったが、社会の安定化と共に70年代、80年代には「一定の階級構造の再生産が再現」したという。東独での女性の地位は、男女平等というイデオロギーの強調のもと、各種の出産奨励策が取られたとは言え、結局それは「人口学的にいびつな状態のもとで労働力を最大限に利用する必要があった」が故であり、著者は「差し引き総合してみれば(中略)結局女性にとって楽園ではなかった」と結論している。言うまでもなく、東独では「『政治局による官僚的支配』の異常な権力と重みによって国家社会主義社会に問題が蓄積されていった」のである。

 こうした経済生活・社会構造上の問題は、文化やアイデンティティといった主観的な面にどのような影響を及ぼしたのか?ここで著者が注目するのは、両ドイツ共「戦勝国がドイツを『再教育』しようとして、(中略)ドイツ人の『人格』タイプを新しい型に変えようとしたという事実」である。しかし、東独でより極端だったこの試みは「必ずしも望ましい成果をもたらさなかった一方で、顕著な変化そのものは、しばしばまったく別の要素に基づいていた」というのである。

 具体的には、西独においては「民主主義的国民」を作ろうという意図は、直ぐに「経済性」重視に取って代わられ、また東独においては「ほとんどの東独国民が西独にテレビを視聴できた」こともあり、表面的な順応の裏でのシニカルな感覚は結局払拭できなかったという。しかし、ハイ・カルチャー面では、東独作家(例えばクリスタ・ヴォルフ)の体制順応的な姿勢は、その作品が検閲の目を潜り抜けるために色々な工夫を凝らしていたにしろ、「体制とのいわば臆病な距離の取り方によって実際には、抑圧的な体制権力の維持に貢献していたのではないか」といった議論を契機とする論争(1990年)も惹起したという。

 他方で、宗教と教会の社会的政治的役割は、東西で異なっていた。西独では、「教会の組織的役割と発言権が強かった」が「日常生活における宗教の重要性は低下していった」が、東独では、「特にプロテスタント教会が多くのーときに紛糾したー場面で、次第に重要な役割を果たす」ようになっていったという。そして1989年革命に際してプロテスタント教会は重要な役割を果たすことになるが、但し統一後、「教会指導部のメンバーとシュタージの緊密な関係」については「かなり論争的な主題」になっているということではある。

 アイデンティティの問題は複雑であると著者は言う。西独では、戦争責任をヒトラーに押しつける戦後直後の傾向が、「過去の克服」問題として多様な議論を生んでいくが、東独でも「公式の創設神話、反ファシズムの英雄たちの物語は、けっして鵜呑みにされず」、むしろ「かつてのナチスの復権・同化」が行われたという。また「東西で図られた民主主義的・社会主義的人間の育成」という試みは、西独においては経済成長に伴う「お天気民主主義」を生み、他方東独では逆に経済停滞により当初の「順応主義」に耐えられなくなった人々の離反を招いたのである。そしてこのアイデンティティ構成の東西格差は、統合後にいっきにその相違が問題化することになるのである。

 1989年10月7日の東独創立40周年記念式典から1年もしないうちに、突然東独は崩壊し存在しなくなった。この「異常に早い劇的変化」を説明する論点として、著者は@統一前40年間の独・独関係が持った長期的影響、Aより直接的な東独革命にかかわる要素、B共産党支配の崩壊は事態の中でどのように定まっていったのか、という角度から解説している。@については、アデナウアーの「磁石理論」やブラントの「東方政策」以上に、「ソ連・東欧における事態の発展」がより重要であったと考えている。そして「ソ連の介入の欠如」とソ連共産主義の方向転換が「東独社会主義統一党内での新しい議論の種と党派闘争を持ちこんだ」ことが、ABの直接の要因を形成していったとされる。

 しかしこうして解放された東独の新しい姿は、東独改革運動の先頭に立っていた人々が描いていた民主主義的社会主義とは異なる、「西独の条件に沿った資本主義経済」への統合であったのは知られているところである。それは「統合を欠いた統一?」であったのか、として90年代のドイツを素描しているが、これはまさに私がこの「ドイツ読書日記」の主要部分で記録している、統合の負債が明らかになり、それと格闘せざるを得なかった90年代のドイツの姿である。そしてそれはユーロ導入による欧州統合の深化が、統合ドイツという内政問題を背景に押しやってしまう過程でもあった。私が帰国した直後の1998年の総選挙は、「連邦共和国史上はじめて、政権交代が(中略)自由民主党の連立行動ではなく、投票の直接の結果を受けて生じた」という点で、著者は「ドイツにおける新しい時代の幕開け」と位置付けている。

 冒頭にも述べられているように、1945年から90年までの両ドイツの歴史は、「歴史に類を見ない大きな実験であった」と著者は考える。それではその実験で敗北した東独は何が間違っていたのか?

 これに対する答えとして、著者は、「マルクス主義イデオロギーに対する見方しだい」という冷静な切り口を示した後、結論としては東独指導部のより戦術的な誤りが1989年段階で露呈したという考えを示唆している。しかし、東独が仮にそれなりの成長を遂げたとしても、西独がかくも急速な発展をしていなければ、統合のインセンティブは盛り上がらなかっただろう。そしてその西独の成長要因は、やはり政治家・実業家・労働組合が一体となった「(ネオ)コーポラティズム」的な新体制への献身であったというのが著者の総括である。これにより西独の体制は、「より大きな経済的困難を切り抜けられる」と共に「周辺の政治的過激派からの挑戦にも対抗し、過去への対応を巡っても最低限の寛容を保持しつつも、ときに厳しい議論を行うほど安定したものになっていった」のである、とまとめている。

 こうして久し振りに、戦後分断期の東西ドイツ史を概観してみると、基本的に西独部分については、今まで様々な機会に接してきた情報や分析と大きく異なることはないことが分かる。従って結局統一的な戦後ドイツ史を記述するという問題は、東独の歴史を、それが崩壊した現在からどのように位置付けるかに帰結することは明らかである。

 この本の初版は1992年、そしてこの翻訳のベースは2000年の改定版であるようなので、ここで展開されている議論は、私がドイツから帰国した1998年時点から余り時間を経ていない時点でのものと考えられる。従って、この作品で見られる著者の東独の見方も、私がドイツにいた頃に明らかになっていた情報を基礎にしており、またここでの議論も、多くは既に私が現地で接していたものということになる。
確かに、ここで触れられている「教会指導部のメンバーとシュタージの緊密な関係」等は、当時既に議論になっていたと記憶している。他方で、そうだとすると、まだ東独崩壊から10年程度しか経っていないこの時期に、既にウルブリヒトの評価を始めとする、単純な「国家社会主義の敗北論」に留まらない議論が出ていたことは注目に値する。おそらく、それは、丁度私が「ドイツ読書日記」序文で書いたとおり、統一の熱狂が覚め、他方でその負債が意識されるようになってきたこともあり、東独の見方も、偏った議論が修正されてきたということなのであろう。しかし、同時に、繰り返しになるが、90年代のドイツでは、統一の熱狂はむしろ背景に後退し、次の新たな統合であるユーロ導入に邁進していった時期でもある。このドイツ統一を上回る世紀のプロジェクトを前に、東西ドイツ人のアイデンティティの相違といった問題は、欧州全域から見れば大した相違ではなくなってしまったように思われる。

 歴史が常に現在から見た評価であることを考えれば、それから更に10年を経過した現在から見ると、この東西ドイツの戦後史評価もまた新しい議論が出てきているのだろうが、しかし、それは余り聞こえてこない。この本で、「新しい幕開け」と評された社会民主党・緑の党による連立政権も既に崩壊し、現在はキリスト教民主同盟と社会民主党の大連立という、これまた評価の難しい政権が成立している。他方、欧州から聞こえてくるのは、ギリシャから始まり、アイスランド、スペイン、ポルトガルへと飛び火しそうな構成国の過剰債務問題であり、それに伴う通貨としてのユーロの軟化に関わる情報ばかりである。

 まさに、こうした構成国の財政問題による通貨価値の下落というのは、戦後の西独の経済運営からは考えられない事態であり、言わばマルクを放棄したことによる負の遺産が、ここにきて全欧州規模で顕在化したと考えられる。こうした統一欧州規模の問題が発生している時に、もはや旧東独の戦後史をあえて議論の俎上に乗せようということにはならないのだろう。

 しかし、少なくとも、この大欧州の成長の大きな契機となったのがドイツ統合であることは、現在から見ても変わることのない事実であり、そうだとすれば欧州統合の前史として、東西ドイツの戦後史を総括しておくことは引続き意味のある作業である。やや発表・改訂のタイミングが古いという問題はあるが、その時点でのより客観的な分析の大きな枠組みを示してくれたという点で、復習を兼ねて面白く読めた作品であった。

読了:2010年2月11日