アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第三節 政治家たち 
ヴァイツゼッカー回想録
著者:R.v. ヴァイツゼッカ− 
 1984年から94年まで、ドイツ統一を挟んで西独及び統一ドイツの大統領を務めたヴァイツゼッカーの回想録である。ネット情報によると、彼は1920年4月生まれで、2015年1月、94歳で死去している。

 この人物の著作については、ドイツ滞在中に、この回想録でも取り上げられている大統領時代の1985年の演説に続き、1995年にインタビュー形式の評論を読んだのを最後に接する機会がなかった。この回想録はそれに続くものであり、原書が大統領退任後の1997年、翻訳が1998年に出版されている。そして私がこの翻訳版をブックオフで入手したのが、私がこちらに赴任する前であるので、もう10年以上も前のことになる。その間、ずっと書架に重ねられていたということであるが、昨今日本語の本が枯渇する中で、ようやく読み始めることになった。しかし、一旦読み始めると、特に私自身のドイツ体験を追想させる部分が多く、半分懐かしさも感じながら読了することになった。20年振りに接する著者の思索は、相変わらず私にとっては刺激的なものであった。

 「4つの時代」という原題を持つこの作品では、@ヴァイマル共和国、Aヒトラーと世界戦争、B二極時代のヨーロッパとドイツの分裂、そしてC統一というそれぞれの時代に即しながら、著者の回想が綴られている。

 最初の二つの時期は、紙数も限られており、興味を引く記載はさして多くない。@の時代については、外交官の父の転勤により、幼少期をスイス・バーゼルとデンマーク・コペンハーゲン等で過ごした後、ベルリンで思春期を迎えたこと。そしてヴァイマル共和国の末期、世相が混沌としてくる中で、「クラスのほぼ半分を占めるユダヤ人の同級生」と普通に交流していたといった程度。そしてAの時代。1933年のヒトラー政権奪取から、戦争にいたる時代については、むしろ外交官として、最後は外務書次官の職まで上り詰めた父親の活動を通して、彼らが戦争回避の努力をしていたことに焦点が当てられているが、それは明らかに戦後の父親の戦犯裁判での弁護を念頭に置いた意図的な記述である。そして著者は、再びスイスでの生活や短期間の英国滞在を経て、徴兵に応じることになる。「命令に従うよう教育され、強制されていた。だから熱狂して前進していったのではなく、義務を果たすのだという自覚に従って」、9月1日、ポーランドに進軍していく。そうした盲目的な従属意識は、現在から見れば非常に問題である。まさにその後、彼よりも若い白バラのグループはヒトラーに対し公然と抵抗し、処刑されていったことを考えると、彼は、もちろん父親の社会的立場はあったにしても、大きな疑問なく、ヒトラーに盲従した青年であったのである。開戦の日、兄ハインリッヒが「私の目の前2,300メートルで戦死した」というのは、悲しい体験だったとしても。またシュタウフェンベルグによるヒトラー暗殺計画への関与にも触れられているが、彼は特段積極的に何か行動したわけではないまま、いずれにしろこの戦争を生き延びることになる。

 終戦後、第三の時代が始まる。戦後のリンダウへの疎開からゲッティンゲン大学での学業の開始。ここではマックス・ブランク研究所がこの大学に移っており、ハーンやハイゼンベルグ等が集っていたというのが、現在の私の仕事との関係で関心を引く。そして1947年から49年まで、学業を中断して、父の戦犯裁判での弁護の仕事を勤めたことが記されるが、これは著者の経歴の中ではよく知られている話である。前述のとおり、父親を含め、戦争の回避のために奔走した人々がいたこと、しかし、それは成功せず、そして反ヒトラーの動きは連合軍が積極的に支持することにならなかった事などに触れられているが、これは父親と自らの行動を正当化するための議論であるのは明らかである。

 裁判とゲッティンゲン大学の卒業以降、著者はマンネスマンを皮切りに実業界で15年にわたり働き、また結婚する。そしてその後、ドイツ福音主義協会での活動と、そこからの東方政策についての発言を通し政党への接近も行われていくが、60年代の新たな風俗へのコメントを除けばあまり面白い記述はない。その68年運動へのコメントも、著者がそれに積極的に関わるには、既に年齢が行き過ぎていたことを物語っている。

 東西冷戦とその中で進められた各方面からの緊張緩和策。信徒大会議長としての、当時35歳の新進政治家であったコールとの最初の接触(1965年)。シュレーダー外相による新たな東方政策の開始(「ハルシュタイン原則」の適用除外)。そして著者の1968年の大統領選挙への最初の出馬と落選。そして1969年、社会民主党のブラント政権が誕生し、著者は、下野したキリスト教民主同盟からであるが、比例代表で選ばれた議員として50歳近くなり、職業政治家としての道を歩み始めることになる。そして東方政策が大きく進展し、著者もそれに積極的に関与していく。

 ブラントの東方政策がすすめられる中での、1970年の議員代表団によるモスクワ訪問。レニングラード戦の慰霊碑訪問の際の「フン族」による攻撃の軍団に著者がいたことの告白。公式日程を抜け出しての、「自由を制限され、親戚の小さな家のごく狭い一室にいた」サハロフの訪問。訪問の翌日、公式筋は、「かれは自由に生活しおり、モスクワ郊外の美しい自分の別荘に住んでいる」とコメントしたという。別の反体制派の訪問時は、彼は当局に見つかりパトカーで連れ戻された。当時のソ連の実情は、今更ながらという感じではあるが面白い。

 1981年、コールの要請を受け、2回目の選挙で、著者はベルリン市長に選出される。ベルリンは、それまで社会民主党推薦候補が市長を独占してきたが、著者がキリスト教民主同盟推薦の初の市長となったという。

 ベルリン市長時代の回顧は、さして興味深いものはない。SS30配備などを巡る東側との新たな緊張の中での当方外交への参画や、内政面での住宅不法占拠対策やトルコ人居住区対応、予算削減の努力が、若干の関心を引く程度である。そして1984年7月の大統領選出に至る。

 時の外相ゲンシャーとの外交面での活動に続き、1985年5月の戦争終結40周年の演説の背景が語られているが、これについては、著者は、今まで多くの人々が言ってきたことを繰り返したまでで、これがあれほどの反響を呼ぶとは考えていなかったと謙遜気味に語っている。しかし、「歴史の回顧と歴史への鋭敏な反応が結びついた」この演説は、「もっとも個人的な感慨のこもった」、かつ未来志向のものであったことは間違いなく、大昔に読んだ永井清彦の解説本を読むまでもなく、著者の名声をいっきに高めることになった。ある意味、この演説で、戦争時期の盲目的な従軍を含めた著者のそれまでの負債が、全て解消されたといっても良い。それ以降の各種外交とそこでのいろいろな人々との交流は付け足しのようなものである。ただその中では80年代初めからのゴルバチョフとの接触が、当時ロンドンからつぶさに眺めていたソ連情勢の激変を改めて思い起こさせるもので、何とも懐かしい。私も、当時のゴルビーの輝きに魅了された一人であったが、ドイツ統一後、フランクフルトに赴任した際に、そこで事務所のドイツ人インテリから、「ゴルバチョフはもう終わった」というコメントを聞いて唖然としたものである。まさにドイツ統一の立役者であったゴルビーは、その時点では既に、ロシアでは裏切り者となっていたのである。またドイツ統一に際してのミッテランの貢献は有名であるが、著者のドロールに対する評価もやや意外であった。やはり、ドイツ統一は、良好な独仏関係の賜物であったことが、ここでも確認される。その他の近隣諸国首脳―ポーランドのマゾヴィエツキやまだチェコ・スロバキアだった頃のハベルとの交流などは、文化人インテリ政治家同士の交流として、如何にも欧州外交の世界という雰囲気をかもし出している。

 そして大統領としての著者の大きな問題意識は、統一後の財政問題であったことが語られている。東独再建のための財源を、連帯付加価値税だけで賄うことはとてもできない。そのために東西双方の国民は、相応の犠牲を払わなければならない。「人間的な連帯と物質的な成果とを、心の問題として結びつけること」、それは厳しい緊縮財政を要求する。その重みに耐える心つもりを持つようなメッセージを伝えることが、インテリ指導者の役割であった。しかし、実際の人々の行動はそうではなかった。私が滞在した時期のドイツは、過剰流動性に苦しみ、それに金融引締めで対応したドイツ連銀の対応を受けて急速な景気悪化が起こり、そして移民問題などの社会問題が先鋭化したのである。その時期のこうした問題に対し、著者がこうしたメッセージを発信していたことには、当時気が付かなかったが、結局こうした合理的な声は大衆の前にかき消されたと言える。

 その他、統合後の東西ドイツ人の感情的相克や歴史問題への認識の相違、あるいは政党間の権力闘争など、この時期の課題に触れた後、最後はやや肯定的なドイツ文化への賛美と退任前後の華やかなイベントなど、ある意味当たり障りのない話題が続く。しかし、末尾は「白バラ」のメンバーが圧政の時代に綴った言葉で、著者はこの回想録を締めくくっているが、これは先に述べたような、この時代に盲目的に独裁者に従った著者の懺悔ではないだろうか。それは少なくとも、1985年の演説の精神を引き継いだ著者なりの人生の総括であったではないかと思われる。

 著者の大統領退任後、ドイツはこうした統合期の困難をそれなりに乗り越えて、新たな欧州の盟主としての立場を強固なものにすることになったが、それが再び昨今の移民問題などを契機に転機に差し掛かっていることは、最近読んだ「EU盟主・ドイツの失墜」(別掲)でも明らかである。その意味で、この文人大統領の約20年前の回想録は、今となっては歴史的な一時代を記した作品に過ぎず、新鮮味を失ってしまっている。それでも、著者と長く付き合い、この本も翻訳している永井清彦が後書きに書いているとおり、この作品は、ドイツの伝統的知性を代表するインテリによる「教養小説」として読むことのできる物である。それをこの歳になって読んで、いったい何が残るのか、という疑問を持ちながらも、それでも僅かながら残された時間を、もう一度彼の人生に思いを馳せながら自分のそれを反省してみるのも悪くないだろう。単に懐かしさだけでない刺激を与えてくれた古い著作であった。

読了:2019年6月8日