アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
アウシュヴィッツと〈アウシュヴィッツの嘘〉
著者:ティル・バスティアン 
 この小著は、1995年、日本で「マルコポ−ロ」事件が発生し、日本人の「アウシュヴィッツ感覚」の欠如が露呈された際に訳出されたものであるが、今回新書版に改定されていたことから素早く流し読んだ。

 「アウシュヴィッツの嘘」論は、ドイツ戦後史の中で繰り返し形を変えて現れてきた。1985年の刑法改正で、ナチ支配下で行われた犯罪を否定することは侮辱罪として処刑されることが決まった(194条)ものの、その後は、この条項に抵触しないような表現を用いることにより以前よりも巧みになったと言える。こうしてこの議論は、80年代半ばにはハーバーマスらが反対サイドから参加した「歴史家論争」という形で、また90年代に入ってからのネオナチ勢力の浸透と共に、改めて息を吹き返してきた。アウシュヴィッツその他の強制収容所での死者の数については、一部推定は入っていると思われるが、少なくとも、そこで「最終解決」に向けた意図的な虐殺が行われていたことは、著者が改めて整理するまでもなく客観的な真実として学問的には定着しているが、サブカルチャーにおける意識が、時々の社会経済情勢の応じて揺れ動くのは当然である。90年代のネオナチの勢力拡大が、東西ドイツ統合による経済・社会不安の反映であったとすれば、そこで「アウシュヴィッツの嘘」論が再び息を吹き返すことは、当然予期できることである。そしてまさにハーバーマスらが、ノルテら修正主義者に噛みついたのは、まさにそうした経済・社会不安から、サブカルチャーの危機が醸成されているという認識があったからである。そして、この作品も、そうした流れの中で、改めて、この問題のどこまでが客観的な真実として認識されているかを示したものである。

 著者は、こうした資料の数々−処分を免れた政府文書、証言、収容所設備の発注所等々−を簡潔に示していく。その事実の重み故に、この小著を読み進めていくと、丁度、アウシュヴィッツ訪問の前後に、列車の中で生存者の手記を読んでいた時と同様、気持が暗くなってしまう。しかし広島や長崎での被爆体験がそうであるように、ある悲惨な歴史を人類共有の財産とするためには、その記録は相応のインパクトのあるものでなければならない。その意味では、淡々と事実−それをここで整理することはしないが−が並べられているこの小著の持つインパクトは大きいと言える。

 他方、日本による、中国や朝鮮での残虐行為も、同様の文脈で議論されることが多いが、残念なことにアウシュヴィッツ程、綿密な調査や評価が行われていない。アウシュヴィッツでさえ「嘘」論が出てくるとすれば、今後の日中・日韓関係の緊張が高まってきた際に、こうした「南京虐殺の嘘」や「石井部隊の生体事件の嘘」等が声高に主張されるであろうことは、容易に想像される。こうした議論の社会的影響が高まってきた際に、我々はそれなりに客観的な事実と共に冷静な議論ができるのだろうか。日本人の心情的傾向と、こうした問題についての冷静な事実研究がない状況を考えると、どうしても不安感を抑えることは出来ないのである。

読了:2005年7月5日