アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第六章 思想
啓蒙の弁証法
著者:M.ホルクハイマー/T.W.アドルノ 
 フランフクルト学派の創世記指導者二人による、この伝説の主著邦訳版が、この学派の日本での最も深い研究者である徳永恂の翻訳で初めて日本で出版されたのが1990年2月。丁度、ロンドン勤務を終え日本に帰国した私は、活字に飢えていたこともあり直ちにそれを購入したが、その難解な議論から冒頭のみで挫折し、その後ひたすら書架を暖めるだけになっていた。そしてそれから約30年、手元にある日本語の作品が少なくなると共に、余暇の時間的余裕も出てきたことから、ついにこれを通読することになった。

 既に学生時代、あるいはその後も時々読んできた、徳永を初めとする、この学派の数々の解説書で、この作品の骨子は何度も反芻されてきていた。自然を「神話=野蛮」から解放し、合理的に理解し、支配する対象として把握することを目指す「啓蒙」が、その内在的な要因から、再び「神話=野蛮」に回帰していってしまうという「啓蒙の自己崩壊」。それをオデュッセウスの神話での比喩と重ねながら、ニーチェやサドによる「啓蒙」批判、そしてその外面的な顕在化としての、ベンヤミンが「複製芸術」と呼んだ大衆文化や反ユダヤ主義に見ていくという論旨は、現代社会の人間のある種の横暴さに対する根本的な批判であり、私自身の社会観の原点ともなった。しかし、その原典は、手元にありながらもなかなか読み進めることができなかった。その要因は、何よりも、(訳者の解説では、それぞれ主要な書き手は分担されているということであるが)恐らくはアドルノが主導したその難解な文章にある。かつて、大学時代のゼミで、ドイツ語原典でヘーゲルの「歴史哲学」を購読した時に感じた、ドイツ語哲学書の抽象的・概念的な表現は、歳を重ねるごとに、ますますうっとうしく感じられるようになっている。そして今回、改めてこの作品に挑戦したものの、その思いは益々強まったのである。いったいこの筆者の頭はどうなっているのか?大きな論旨は理解しながらも、その細部の表現については、やはり理解不能の部分が圧倒的に多かったというのが実態である。従って、ここではそうした部分は省き、現在の私にとって、意味がありそうな考察を中心に見ていくことにする。

 「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでいくのか」という冒頭の問いが、この本の全ての意図を表現している。20世紀に至る人類の「進化」。しかし、それがドイツにおけるナチ政権の権力掌握で、あらゆる抑圧を合理的に遂行するという悪夢の時代に転化していった。大衆扇動と暴力の最大限の発動。近代の合理主義は、何故突然その対極的な社会に変わってしまったのか?そこで迫害されたユダヤ人知識人にとって、それは存在の根源に迫る問いであった。そして著者たちにとって、その答えは、近代の「啓蒙」そのものの中にあるというものであった。「啓蒙が事物に対する態度は、独裁者が人間に対するのと変わるところはない。(中略)事物の本質はいつも、不変の同一のもの、支配の基体としてあらわになる。」啓蒙の概念とは、人間も自然も、すべて客体として、操作可能なものとしてしまうものであった。それが「啓蒙の自己崩壊」の根源的理由である。

 そうした合理性は、ホルクハイマーが別の著作で「道具的理性」と名付けたものであるが、その要点は、認識の対象の「社会的・歴史的・人間的意味」が捨象され、「あらゆる存在を論理的形式主義」に従属させるられることへの警告である。目の前の対象や課題を、その意味を反省することなく「合理的」に処理することが、全体主義体制の下では、その野蛮に加担することになってしまう。そして、そうした極端な全体主義体制が崩壊した後も、現代の「管理国家」では、科学技術の更なる発展が、そうした「道具的理性」への依存を益々強めてしまう危険を秘めている。まさに、ナチの全体主義を目の前にして著者たちが発した悲痛な叫びは、戦後も、フランクフルト学派第二世代による、「管理国家体制」批判となり受け継がれていったのである。

 オデュッセウスの神話は、呪術から逃れるために、「技術的に啓蒙された者の取る処置として、自分自身を呪縛させる」というパラドックスである。それは実証科学が理性では分析できない対象を不合理なものと規定することで、逆にその理性を不可侵のものとして神話化してしまうことも示唆している。またサドやニーチェによるカントの道徳批判は、内的欲望や感情を徹底的に抑圧することが、人間性を奪い、その結果「強者による弱者の支配を合理化」することを看破したとされる。ナチ・イデオロギーに利用されたと批判されるニーチェであるが、その「人間愛」は、サドによる「欲望のあくなき追求」と共に、著者たちにとっては、自然と共生する人間への愛を高らかに歌い上げたと評価されることになる。

 「大衆欺瞞」としての文化産業は、ベンヤミンの「複製芸術」批判を受けた論考であるが、ベンヤミンのそれと共に、私にとってはやや違和感のある議論である。もちろん、管理された被支配層の「ガス抜き」手段としての大衆芸術や支配者の宣伝手段としてのメディアという側面は、現代においても残っているし、そしてそれ以上に今ではネットやSMSは、所謂「ポピュリズム」の有効な手段となっている。

 しかし、そうした「複製芸術」の機能は、あくまでその中身の問題であり、それが実際に演じられたり、演奏されたりすることを通じて醸成される公共的な「アウラ」を導くことがないとしても、一定の社会批判としての機能を持つことは確かである。60年代の米国でのフラワームーブメントは、複製芸術が社会批判としても機能した社会現象で、それ故に、マルクーゼを含め、この著者に通じる者たちも積極的に支持していったのである。ただ昨今は、文化面で、そうした社会批判を含めたアバンギャルドな動きが、社会の成熟と共に、むしろ「ダサイ」物として敬遠されるようになってきてしまっている。管理社会批判、といったこの学派の第二世代、第三世代の議論も、いまやあまり関心を持たれることがなくなっている。日本における「戦後派知識人」や「戦後教養主義」の衰退と同じ現象が、ここでも発生している。大きな敵の存在がなくなった時、人々の関心は、著者らが展開したような「哲学的」議論からは離れていき、「複製」ではない芸術でさえ、社会の支配構造の安定化の道具と化すことも肝に銘じておかねばならないだろう。

 それに対し、最後の「反ユダヤ主義」に関する論考は、現代の移民排斥や反イスラムの傾向と重なる部分であり、アクチャリティーのある議論である。「リベラルなユダヤ人が信頼を表明していた社会の調和なるものは、結局のところ、民族共同体の調和である。」すなわち、それは開かれているように見えても、実はユダヤ人のようなよそ者には排他的、暴力的なものであり、ユダヤ人迫害は、その社会秩序の本質が姿を現したものに過ぎない、とされる。その上で、商業主義の時代に資本家に姿を変えた支配階級は、労働者の側に身を置き、経済的に裕福なユダヤ人を、経済的不正の責任を負う罪人として断罪するが、それは本当の搾取者、支配者としての自らの良心のやましさ、自己嫌悪の反映なのであると論じる。

 ユダヤ人論は、ドイッチャーやサルトルなど、これまでも数多く接してきたが、このユダヤ人論は、まさにこの抑圧が極限まで実行され、且つ著者たちがそれから命辛々逃げ出してきた中で書かれたものであるだけに一層痛切である。社会がそのむき出しの偏見をさらけ出す時に、それは簡単に暴力的なものに転化してしまう。それはその後も、欧州社会の中で、例えば、D.マーシュによる、「戦後ドイツで、ユダヤ人はいなくなったが、ユダヤ人問題は残った」という指摘のように、依然潜在的に持続し、ドイツでのトルコや南欧系の移民問題、フランスでのマブレブ移民問題として、時折形を変えながら社会問題として浮上してきた。そして現在は、それがアラブ系難民やモスレム移民問題として、テロとも重なりながら、新たに大きな政治課題となってきているのである。そこで見られる構図は、洗練された啓蒙的市民となったはずの西欧社会が、社会の異質な部分に対し拒否反応を示すという、変わらぬ姿なのである。もちろん現代のそれは、一部のネオナチ勢力を除き、暴力的な形をとることは少なくなっている。しかし、それが所謂「ポピュリスト」的指導者の登場で、いつ何時暴力的なものとなるかは予断を許さないのである。

 こうして改めてナチ時代の激しい全体主義、民族主義、強制的同一化という絶望的な雰囲気の中で書かれたこの難解な著作が現代にもっている意味が明らかになる。それは、啓蒙化されたはずの民衆が、突然その啓蒙に反旗を翻す、いわゆる「大衆の反逆(オルテガ)」が、現代においても依然政治的・社会的リスクとして残っていることを示しているのである。トランプや欧州ポピュリストの動きは、こうした「啓蒙の弁証法」の現代における顕在化として注意してみていかなければならないことが再確認されるのである。

読了:2018年7月12日