アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第七章 文化
第一節 19世紀末
ミュンヘンの世紀末
著者:宮下 健三 
先日、ある日曜の午後、週末毎に続く不順な気侯にうんざりし、ふらっとフランクフルトから車で30分程のところにあるダルムシュタットヘ出かけて行った。目的はその町の東側の丘(MATHlLDENH0EHE)にあるユ−ゲント・スティルの建築群にあった。19世紀末、ヘッセン公国最後の大公であるエルンスト・ル−ドビッヒがここに芸術家のコロニ−を創ることを計画し、若い芸術家達を、ドイツ各地やウィ−ンから招聘したが、彼らは、そこで、絵画や家具、調度のみならず、建築の分野も含めた総合芸術の実現を目指したのである。オルブリヒの設計による「祝婚の塔」や現在は展示場になっているル−トピッヒ館、そしてロシア正教のモスクや芸術家の作業場として使われたいくつかの住居が、「マチルド丘陵のアクロポリス」を形成している。小雨が降りしきる寒い日曜の午後であったが、こうした芸術運動のエネルギ−が、こうした建築群とル−ドビッヒ館の展示物からひしひしと感じられ、久々に良い芸術に接した時の興奮を感じることができたのである。

ユ−ゲント・スティル自体はフランスのア−ル・ヌ−ポ−が全欧州に与えた影響のうちの、ドイツからの回答と言える。今までは、この動きは世紀末のベルリンが中心になった運動という印象を持っていたため、やや距離をおいて置いていたきらいがあったが、こうして見近に接することが出来ると、突然関心が強まるものである。マチルド丘陵の建築群についても、ドイツ到着後、一度ダルムシュタットまで捜しに行ったことがあったが、場所が分からないまま、早々に諦めて帰ってきてしまった。今回のように、絶対に探すという意気込みがあると、簡単に見つかるから不思議である。そして今回私をこうした気待ちにしてくれたのが本書であった。

タイトルから明らかなとおり、これはミュンヘンを中心としたドイツ世紀末芸術の盛衰を取り扱った作品である。そもそもは、パイエルン公が、時のドイツ芸術の中心ウィ−ンに憧れ、それに匹敵する文化を自国の首郡ミュンヘンに求めたのがこの文化運動の始まりであった。私も、フランクフルトの将来に言及する時、常に「町の魅力により、多民族の頭脳を招聘できるがどうかが鍵である。」と述べてきたが、こうした運動をそもそも分権国家の性格が強いドイツの町で起こすには、国内外に幅広く有能な人材を求めなければならないのである。

その意味で世紀末のミュンヘンはそのための基本的条件を満たしていた。ミュンヘンがドイツの郡市の中では、相対的に「よそ者(ツ−ゲライステン)」に寛大であると共に、陽気で祝祭的券囲気を持っていたが故に、例えば、ドイツ人でも、T.マン(リュ−ベック出身)、S.ゲオルゲ・(ビンゲン出身)、F.ベ−テキント(ハノ−ファ出身)等の北ドイツ人が、また非ドイツ人では、イプセンに代表されるような文学者を引き付け、こうした人々がこの町の世紀末文化を彩っていった。こうしたミュンヘンの世紀末を、著者は社会風俗、建築、給画、芸術雑誌、そして文学の各領域に見ていくのである。

18世紀の半ばに、既に時の君主マキシミリアンが、特に北ドイツから学者、芸術家を招聘し、君主を囲む詩人と学者の円卓会を定期的に開催したのが、世紀末ミュンヘンの前史となり、これが世紀末から20世紀初頭のカフェと酒房の文化に引き継がれていく。言わば上からの啓蒙が、個人の自由な感覚を育てていったのがこの時期のミュンヘンであった。貴族の出身ながら、未婚の母親となり、クラ−ゲスとも一時愛人関係にあったシュバビングの「翔んでいる女性」、レベントロフ伯爵夫人の人気が、この町で生まれつつあった新しい人生観と価値観を象徴している。

次に、建築の分野。ここでまず取り上げられるのは、前述のマチルド丘陵の建築群であるが、これがミュンヘンとの関係で語られるのは、ダルムシュタットの芸術運動の中心人物の一人、P.ベ−レンスがミュンヘンで名を成した後、この町に招聘されたからである。マチルド丘陵の建築群は、その集中した町創りにより、際立った芸術運動を指し示しているが、その原形はミュンヘンにある、と著者は考える。それは例えばR.リ−マ−シュミットの設計によるシャウシュピ−ル・ハウス、G.v.ザイドル設計によるパイエルン州立博物館やドイツ博物館、そして画家、彫刻家のF.v.シュトックによるピラ・シュトック等々のミュンヘンの建築物である。そしてこれらのいくつかは、H.オプリストによる、「フォ−ピズムのエネルギ−と表現主義的な描線の爆発」と評されたフォトアトリエ・エルピィラのように、後にナチにより「頽廃芸術」の烙印を押され破壊される運命にあったのである。

ユ−ゲントシュティルの中で、今回私が最も関心を持ったのは絵画の分野である。世紀末を彩るダダやア−ル・ヌ−ポ−については、その後の表現主義や超現実主義、象徴主義の前段階として既に多くの作品を見る機会があったが、このユ−ゲント・スティルも、そうした20世紀の芸術革命の一つのそして最大の伏線であることを今回改めて認識することができたのである。

まず前述のF.v.シュトックと、A.ベックリンという2人の名前は、私がこの本で始めて接したものであるが、ユ−ゲント・スティルの絵画の主流が、雑詰のイラストやポスタ−にあるにもかかわらず、H.カロッサが戦慄した前者の「罪」とリルケ、ホフマンス夕−ル、更にはノルデに強い影響を与えた後者の「死の島」は強烈な印象を与える油絵の作品になっている。そしてカンディンスキ−やクレイが、ミュンヘンのシュトックの下で学んでいた、という、という事実もこれらの画家の20世紀に向けての意味を明らかにしている。当初の、数々の異国情緒を持つ植物、白鳥、孔雀等の鳥類から氷の妖精、踊る女性といったきらびやかなイメ−ジを媒介にした「鼓動する波状の線」という美的感覚から、次第にエロスと夕ナトスの誘惑へと移行していったユ−ゲント・スティルの画風も興味深い。

しかし、ウィ−ンにおいては、クリムト、そして彼の後継者であるE.シ−レにより、この傾向が性的恍惚と象徴主義的耽溺に向かっていったにもかかわらず、ミュンヘンにおいては、「明るく、機知に富み、時に風刺的だが、限度のあるエロティシズム」に留まることになった。それは確かにミュンヘンとウィ−ンの二つの都市の「文化の成熟度の差」と言えるが、他方ではやはりミュンヘンの人生肯定的な風土にも由来していたのだろう。

雑誌文化というのも、ユ−ゲント・スティルの特徴である。1895年の総合芸術雑誌である「バ−ン」に始まり、「ユ−ゲント」(1896年)、「インゼル」(1899年)、あるいは政治諷刺を盛りこんだ漫画雑誌「ジンプリチシズム」といった雑誌が次々に創刊される(そして多くは短命のまま消えていった)が、それらの雑誌のイラストやジャポニズムの影響等は、現代の飽食の文化が失ってしまった刺激的な冒険心に溢れたものであると言える。

そして最後に、世紀末のミュンヘン文学。画家フォ−グラ−とリルケによるミュンヘンでの共同作業とその終焉、若きホフマンスタ−ルのミュンヘン文学界への衝撃のデピュ−、前述の雑誌の多くに関わり、詩人兼編集者兼マネ−ジャ−という多才な文学者としてミュンヘン文学界に君臨したO.J.ビ−アパウムの存在感、若きT.マンに与えたミュンへンの影響、寄席芸人から劇作家となり、市民社会の偽善と因習的道徳と戦い続けたベデキント、そしてノルウェ−から移り住み16年間ミュンヘンで活動したイプセン等々、ドイツの世紀末文化はベルリンにあり、と考えていた私の想像をはるかに越えるエネルギ−をミュンヘンは有していたと言えるのである。

こうした世紀末ミュンヘン文化はヨ−ロッパの他の世紀末文化がそうであったように、第一次大戦の混乱の中で消滅、そして戦後もミュンヘンでのレ−テの成立からヒトラ−のミュンヘン隆起に至るワイマ−ル期の左右からの政治的緊張故に、この町では復活することがなかったという。あのワイマ−ルの眩くようなドイツの都市文化はベルリンヘ移行し、そして最終的にはこのベルリン都市文化もナチに潰されていくのである。しかし、こうして失われた前衛文化の個人的な発掘ができた、という意味において、この書物の世界は私のドイツ滞在に、多くの楽しみを与えてくれた。雨のマチルド丘陸を思いつくままに歩きながら、この文化をもう少し追いかけてみたい、という切なる誘惑に駆られていたのである。

読了:1993年11日7日