アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第四節 文学 
ぼくのドイツ文学講義
著者:池内 紀 
ドイツの持つ面白さは、その歴史や哲学の他、文学の面でも際立っている。フランス文学のデリカシ−やロシア文学の壮大さとの比較で言えば、所謂ドイツ教養小説の伝統とロマン主義的感情の奔流は、特に青春文学のみずみすしさと高度の観念性を常に保持すると共に、現代に至っては政治的不安定のせいもあり、アバンギャルド的な表現をも生み出してきた。ティ−ンエイジャ−の頃へッセに傾倒した後、その後外国文学一般に疎遠となってしまったものの、最近になりマンの生涯を知るにつれ、再び自分の中に、文学的感性への懐かしさがこみ上げてくるのが分かる。

著者が序文で断っているとおり、これは相当程度、個人的趣味で選んだ素材を、個人的な関心でまとめた、文学を素材にしたドイツ歴史・文化論である。その結果取り上げられている素材も、王道のドイツ文学史からは外れた作家・作品が多い。その意味でこれはドイツのアウトサイダ−文学史と言える。ここでは、興味深い素材を幾つか備忘録としてメモしておく。

パリ亡命中のベンヤミンが編集し、ヒトラ−が政権を掌握した後の1936年にドイツで出版された「ドイツの人々」。ドイツ精神が鼓舞される環境下で、それを冷ややかに眺める立場から、民族精神への静かなアンチテ−ゼを放ったこの書簡集で焦点を当てられるのは、18世紀末のゲッチンゲンに生きたリヒテンブルク。人間的には唯の変わり者の傍観者に過ぎないが、ベンヤミンがこうした人物の書簡を取り上げたのが意外感をもたらす。

第三講はゲ−テ「ファウスト」の解釈。メフィストが賭けに勝利するには、相手にこよなく高揚した時を与え、その極みに「時よ留まれ」とファウストに叫ばせれぱ良い。こうして第一部では「愛の人」ファウストがグレ−トヒェンを誘惑するが、それは悲劇の内に終わり賭けの結果は先送りにされる。第二部に至り、テ−マは「愛による救済」から「錬金による救済」、即ち金銭のドラマに移る。教会の長椅子(バンク)から石作りの銀行(バンク)ヘの信仰の変化。メフィストがファウストに仕掛けた愛の罠は矢敗したが、錬金術の試みはまんまと成功し、ファウストは「時よ留まれ」と叫ぴ、息絶えるのである。商品経済への移行期に生きたゲ−テの洞察は確かにドイツ的である。

ノバ−リスは残念ながら私には未知の詩人である。22歳の時に12、3歳であったゾフィ−と婚約したが、2年半後に彼女は死亡。その後彼のソフィ−ヘの愛は想像の中で信仰にまで高まり、そして詩人自身も29歳で逝去。歳をとって暇ができたら、キルケゴ−ルにも似たこうした詩人の作品を読んで暮らすのも良いのではないか。

グリム兄弟によるメルヘン収集は、口承の伝統から活字メルヘンヘの移行期を物語る。19世紀後半の小市民的安定期である「ビ−ダ−マイヤ−時代」に改定が続けられたこのメルヘンは、登場してくる女たちが「次第に口数が少なく」なり、男たちには「次第に金銭欲が高まった」と言われる。商品経済中心の産業社会は、物質的な富みへの執着を通じて、男性社会の様相が影を落としてくるが、グリムの作業にもそれが反映した、という見方。

ドイツ・ロマン派の革命詩人ハイネは、実は25年以上もパリで生きた。ドイツ連邦議会による「ドイツ国内での執筆禁止」措置の結果ではあったが、もともと彼はドイツ国内に住むつもりはなく、親戚からの資金援助、フランス政府の年金、そして当時としては高い原稿料のお陰で経済的にも安定していた。死の床で綴った最後の文章は、鉄道株購入の指示であったというのも、人間の一面の真実であろう。

1906年、拡大する都市ベルリンで起こった市長拉致事件−「ケベニック事件」−は、失業者が制服により変身し、プロイセン帝国の権威を茶化した事件であった。ベルリン下町ルナ・パ−クの芝居小屋が「ケベルニキア−デ」と題してこの事件を取り上げ、軽犯罪による服役から出所してきた犯人本人を主人公の大尉として登場させたところ大喝采を浴びたが、その後この演劇は「官憲侮辱」として禁止された、と言う。24年後、迫り来る国家社会主義の嵐を前にツックマイヤ−は、この事件を再度舞台で取り上げた。ワイマ−ルのキャパレ−文化の最後の輝きであったが、ヒトラ−の政権掌握後、再びこの作品は禁止、ツックマイヤ−自身も焚書目録の作家に指定され、1938年亡命の途につくことになるのである。ベルリン独自の風刺文化の、プロイセン及ぴ第三帝国における運命の類似と相違。しかし同じベルリンの放浪の芸人・詩人リンゲルナッツの場合は、ナチに関わるまでもなく、人知れず消えていった。世俗を超越した詩人も許容したベルリン・キャバレ−文化の底深さ。

カフカ、事業に失敗し、負債を抱え家でブラプラしている父親と、喘息持ちで家事もままならない母親、そしておしゃれと音楽学校への進学にしか関心のない妹を抱え、しがないサラリ−マンとして家計を支える大黒柱。その大黒柱が突然ゴキブリに変身した時に周囲の視線がどう変わり、またゴキブリの眼にはその周囲の人間や家族がどう見えるのか。変身の思考実験は、カフカの家族の肖像であった。

最終章は、ナチ支配下のドイツ圏からパリに逃れてきたベンヤミン、∃ゼフ・ロ−ト、そしてジャン・アメリ−の3人の作品と人生を重ね合わせる。何気ないパリの通りすがりの事象に欧州近代の精神史を読み取ったベンヤミンは、パリからの逃避行の最中に自殺、若くして名声を確立しながらパリに逃れざるを得なかったロ−トは、異国の地での緊張を酒で紛らわす内に、大戦前夜に45歳で急逝する。そしてアメリ−はパリで逮捕され、強制収容所と拷問を生さ延ぴた後、戦後60年代から70年代にかけ次々に作品を発表するが、78年自殺して生涯を閉じる。

これは確かに個人的な好みで無作為に凝った作家達を気ままに取り上げた随筆である。随筆であるが故に、そこには決して首尾一貫した主張は見えてこない。しかし、確かにテ−マの選択や視点の位置は、私の関心とどこか似たものを感じる。それは最近新聞紙上で目にした山口昌男の最新作「敗者の精神史」のドイツ版と言えるのかもしれない。残念ながら現在はそうしたロマンチシズムに長く耽溺している余裕はないが、ある年齢に達した時にこうした世界に心行くまで沈潜してみたい、という誘惑に駆られるところを見ると、私の文学心もまだ完全に死んだ訳ではないのであろう。

読了:1996年7月26日