ユダヤ人 最後の楽園―ワイマール帝国の光と影
著者:大澤 武男
今までも何冊も読んできた、ドイツ日本人学校の理事である著者による最新作は、私が課題としてきたワイマールを支えたユダヤ人と、その崩壊を整理した作品である。このテーマは、今年初めにもドイツ人によるマニアックなレポートを読んだところであるが、こちらは、その概要を整理したものであり、特に多くの新しい事実が述べられている訳ではない。その意味で、ここでは復習を兼ねて、簡単に内容に触れるだけとする。
ここでの主題は、反ユダヤ主義は欧州の歴史を通じて常に存在したが、「ヒトラーが狂気ともいえる偏見と憎悪、無根拠な『反ユダヤ主義』を掲げて政権へ突っ走るワイマール共和国時代こそ、まさにユダヤ人の活躍と業績が頂点に達していた時なのである」という、何度も指摘されてきた認識である。著者は、それを自分の中で改めて整理していると思われる。
著者は、近代ヨーロッパでのユダヤ人解放の歴史から始めるが、ここで新しく聞く名前は、ナポレオン失脚後のウィーン体制時代に、それに対抗する自由主義者の中にさえ反ユダヤ主義の気配が残っていた、と指摘したジャーナリスト、ルードヴィッヒ・ベルネ(1786年―1837年)である。彼は、「公職に就きながら、ユダヤ人の市民権取り消し政策によりその地位を失ったドイツ最初のユダヤ人ジャーナリスト」と言われる。また私がドイツを出る直前に150周年記念イベントが開催されていた1848年のフランクフルト国民議会にハンブルグ市を代表して出席し、国民議会副議長になったガブリエル・リーサーというのも初めて聞く名前であった。
ユダヤ人は、国家の政治、官僚、軍事機構などには入り込めなかったが、自由業で且つ社会で高く評価される職業である経営者、医者、弁護士、芸術家、ジャーナリストなどの分野で、「都市の民」として資本を蓄積していった。そして「ユダヤ人の解放と市民権獲得から半世紀に及ぶ彼らの努力の結果がいっせいに開花する」のがワイマール共和国時代なのである。
ワイマールの初期に目立った活動を行ったユダヤ人として著者が取り上げるのが、まずバイエルン王国を倒して「レーテ共和国」を宣言したクルト・アイスナー。彼自身は急進的左翼ではなく、社会主義的平和主義者であり、バイエルンの革命も「平和的」なものであったというが、これがきっかけでウィルヘルム二世も退位した、ということもあり右翼急進派の攻撃の的となり、1919年1月に暗殺される。これはまさにワイマール時代の右翼テロの開幕を告げる事件であったという。そして左翼運動が、ロシアのトロツキーに始まり、ドイツのローザ・ルクセンブルグ、「彼女の信奉者で恋人でもあった」弁護士レヴィ・パウル、あるいはロシア出身の革命家オイゲン・レヴィーネなどユダヤ人に担われたことが、反ユダヤ主義者による格好の攻撃材料となったのである。
しかし、こうした反政府運動家とは別に、ワイマールの成立と安定に貢献したユダヤ人も多かった。共和国憲法を起草した法学者フーゴー・プロイス(「ユダヤ人により作られたワイマール憲法」との誹謗)、共和国の立ち上げにあたり連立政権を構成した社会民主党議員を16年勤めたフーゴー・ハーゼ(右翼テロで暗殺)、共和国最初の法務大臣で、社会民主党右派のオットー・ランズベルグ(最後は亡命)、そして言うまでもなく、外務大臣として共和国に貢献しながら暗殺されたW.ラーテナウ。ユダヤ人の台頭とそれに対抗するように拡大した反ユダヤ主義。これらのユダヤ人の「ユダヤ意識」が弱かっただけに、皮肉な歴史と言えよう。
続いて文化活動におけるユダヤ人の台頭。最初に取り上げられるのはアインシュタインであるが、彼が「ワイマール時代にノーベル賞を受けた(1921年)最初のドイツ・ユダヤ人」であるということは知らなかった。また彼が、平和運動家としてだけではなく、パレスチナ建国を目指すシオニストとして公然と活動したというのも余り意識したことがなかった事実である。他に科学者としては、第一次大戦で使用された毒ガス兵器を開発したフリッツ・ハーバー。科学肥料開発でノーベル化学賞を受けながらも、他方で毒ガス兵器開発に抗議した妻が自殺しながらも、ひたすら愛国主義者として化学兵器開発を続けたハーバーも、ヒトラーが政権を握ると英国に亡命したが、そこでも毒ガス開発者としての冷たい視線を浴び続け、最後はスイスで死んだという。その他、文化人としては個別にカフカとフロイトが取り上げられ、またベンヤミン、ホルクハイマーからシェーンベルグ、シャガールに至る多くの名前が挙げられている。ワイマール文化が「ユダヤ人同士・内部の対話(innerer Dialog)」と言われていたというのは面白い。更にゲーテ研究者の中にも多くのユダヤ人がいた、というのも、ユダヤ人の同化意欲を示す特徴的な傾向である。
またドイツ・ユダヤ人が、ドイツ文化の発展に寄与した例として、エジプトでの発掘に資金を投じ、1912年、そこで発見されたネフェルティティの胸像をベルリンに持ち帰り皇帝に寄進したユダヤ人富豪ジェームス・シモンや、フランクフルトのシュテーデル美術館に多くの美術品を寄付すると共に、それを運営したFRZ創刊者レオポルド・ゾンネマンなどを挙げている。後者は、現在はメッツェラーが運営しているというが、私もドイツ滞在当時ここには何度となく通ったものであった。
最後の章は、このワイマールのユダヤ人天国が、今度は地獄に落とされていく過程を整理している。そもそも近代に同化を試みたユダヤ人が、自己のアイデンティティで悩んでいた様子を、人気作家ヤーコブ・ヴァッサーマンを例に語っているが、それはもはや個人的な悩みには留まらなかったのである。
この過程は、多くの専門的研究があるので、ここでの著者の整理は省略する。やや付加価値があるのは、ヒトラー台頭の過程で、ユダヤ人も黙っていたわけではない、ということで、「ユダヤ教徒ドイツ国民中央連盟」や学生ユダヤ人会などが、積極的にナチスのデマを正すべく宣伝・抗議活動をしていたということである。しかし、その抵抗は空しく、ワイマール共和国は、ユダヤ人にとって最悪の帰結をもたらしてしまったのである。
フランクフルト日本人学校理事として、私がかつて生活したこの「ユダヤ人の町」に根を下ろし、そこから次々に新書の形で自分のドイツに関する関心を整理している著者の生き方には、少し羨望を覚えるものがある。その関心が、まさに私自身のそれと重なるが故に、それは尚更である。
しかし、今や、私自身には東南アジアという新たな環境が加わった。かつてドイツに移った時に、その前に住んだ英国との比較を一つのテーマに挙げたが、今度はそれに東南アジアが加わることになった。文化という観点では、かつての欧州とここ東南アジアが重なるところは少ないが、政治・社会史的に見れば、それは近代植民地帝国の発展過程で、多くの論点が出てきそうである。従来の欧州近代史を、アジアからの視点でもう一度見直すということもできるのではないか。ワイマールとユダヤ人という近代欧州独特の現象を、例えばポルポトのカンボジアと比較するというのは余りに乱暴な議論である(そもそも80年代のドイツ歴史家論争で、「修正主義者」がヒトラーのユダヤ人虐殺と、ソ連の収容所やポルポトの虐殺と同列に論じていたことは忘れてはならない)が、それでも、そうした攻撃的独裁とその悲惨な結末ということを、政治支配の近代化への一段階と捉えて比較することもできるのではないか。少なくとも、自分は、同じワイマールとユダヤ人問題を眺めるときに、アジアからの視点を加えることができるのではないか。これからの課題として、時々ここには立ち帰りたいものである。
読了:2008年7月26日