アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第一部:ロンドン音楽通信(1982−1988年)
ロンドン (1982年−1988年) その他
 
 私にとって初めての海外駐在であるロンドン時代は、仕事面でも、生活面でも極めて刺激的な時期であったが、それ以上に音楽生活では、まさに故郷に帰ってきた、と感じるような居心地の良さを感じたことは、この序文にも書いたとおりである。

 そうした中で、前掲のような記録に残したコンサ−ト以外にも、多くのライブに参加する機会があったが、それらはただちに記録に落とすことがなかったために、幾つかのライブは当時の印象が薄れてしまっている。しかしながら、既に20年近い時間が流れているとは言え、その多くはまだその折々の鮮明な記憶が残っている。ここではそうしたロンドン時代のその他のライブ体験を、出切る限り時系列に従い辿りながら(但し、一部のライブは、時期自体も分からなくなっていることから、おおよその流れで位置を決めさせていただく)、そうした記憶を甦らせておきたい。

ロック・ジャズ

1982年

(ジェネシス : In Concert 82)

 ロンドン着任後、初めて行ったロック・コンサ−トが、9月にハマ−スミス・オデオンで行われた「In Concert 82」と題されたジェネシスのライブであった。着任後半年が過ぎ、生活が落ち着き始めていた時期、ようやくチケットの調達方法等についての情報も得て、しかし、クラシックやミュ−ジカル系とは異なり、会社の日本人同僚の力を借りることなく、自力でアレンジを行ったことを良く覚えている。もちろん、それまでもコンサ−ト情報自体はメディアを通じて入ってきていたが、とにかくこのジェネシスだけは、絶対に行かなければならない、と考えたことを記憶している。

 会場は、その後繰返し訪れることになるハマ−スミス・オデオンであるが、実は席に着席した記憶はなく、むしろステ−ジに向かって右の通路から、結構至近距離で演奏を聞いたように思う。

 印象の一部は、第二部の「東京編@」のフィル・コリンズ・ツア−の報告で記したが、何よりも来日の機会がなく、日本では遠い存在であったこのバンドを至近距離で見れたことに感激した覚えがある。演奏曲は、丁度私がその時までに聞いていた2枚のライブ・アルバム「Second Out」と「Three Sides Live」の曲のミックスであった印象がある。そして何よりもびっくりしたのは、当初はボ−カルに専念していたフィルが、終盤の「Dance On The Volcano」でドラムセットに着くや否や、変則ビ−トをものすごい力で叩き出したことだった。もちろん、当時既にC.トンプソンが参加していたことから、彼とのダブル・ドラムによる迫力ということもあったのであろうが、とにかく、こいつはボ−カルのみならず、ドラミングもすごい、と感じたのである。

(マイク・オ−ルドフィ−ルド : World Tour ’82/83)

 このコンサ−トと、既に詳細報告したエイジャやキング・クリムゾン公演との時期的前後関係は明確に記憶していない。但し、ジェネシスを契機に、この時期、私はロンドンでの生活が軌道に乗り、堰を切ったようにコンサ−トに行き始めていたのは確かである。これもジェネシスと同じハマ−スミス・オデオン。しかし、こちらは着席しておとなしく聴いていた覚えがある。

 マイク・オ−ルドフィ−ルドは、言うまでもなくデビュ−作である「Tubular Bells」の大ヒットで、「10代のマルチ・プレ−ヤ−」として注目されていたが、この作品自体は、私はレコ−ドを友人から借りて聴いたものの「コンピュ−タ−音楽系のイ−ジ−リスニング」程度にしか感じられず、その後の作品も余り聴いてこなかった。

 それにもかかわらず、彼のコンサ−トに出かけていったのは、このツア−のための新作アルバムである「Five Miles Out」をレコ−ド屋で見つけたことを除けば、とにかく名前を知ったコンサ−トには行っておきたいという、当時の私の好奇心のなせる技であったように思う。

 コンサ−ト自体は、予想通り最新アルバムからの曲が中心で、「Tubular Bells」は演奏されなかった。考えてみれば、この時期のマイクは、「Tubular Bells」のような、どちらかというと「オ−ケストレ−ション的」な音作りよりも、どちらかというとバンド・スタイルに傾倒していたのであろう。演奏は、ジェネシスと比較すれば、緊張感と盛り上がりには欠けていたものの、それでもむしろロック色の強いものであり、やや意外に感じたのを記憶している。

 尚、当時の紅一点ボ−カルとして、このコンサ−トにもM.Reillyが参加していたが、後年、彼女のソロの作品のほとんどを愛聴することになるにも係らず、このコンサ−トの時は、やや奇声を発するチビ・ブスの女性という印象しかなかったのが不思議である。言うまでもなく、翌年のマイクのアルバム「Crisis」からの大ヒットになった「Moonlight Shadow」は、マイクに以上に、この女性歌手の名前を世間に知らしめることになるのである。

1983年

(スカイ:Live In ’83)

 この年の2月、同じハマ−スミス・オデオンでのスカイのコンサ−トを聴くことになった。日本にいる頃は全く関心のなかったバンドであるが、ロンドンへの到着直後、町で彼らのロイヤル・フェスティバル・ホ−ルでのコンサ−トの広告がやたらに目についていて、その頃リリ−スされた彼ら4枚目の新作アルバムを購入していたことから、年明け後、再度のコンサ−トがあると聞いて出かけていったのである。

 しかし、プログラムは手元に残っているものの、実際のコンサ−トについてはほとんど印象に残っていない。その後、このバンドのリ−ダ−格である J.Williams が、英国クラシック・ギタ−界では第一人者のプレ−ヤ−であったこと、あるいはD.Wayと共に Curved Air を結成した F.Monkman が、スカイのオリジナル・メンバ−であったこと等が分かり、そうした知識をもとに、このコンサ−ト後に新作であったライブ・アルバムを含め、彼らの全作品を購入し、クラッシック側からロックに接近したこのバンドの音に親しんでいった。しかしコンサ−ト時点では、余りに予備知識がなかったこと、及び、年齢が増すと共に、今では気持ちよく聴ける彼らの音作りが、20代の私にはやや物足りなかった、というのが、その薄い印象の要因なのではないか、と思えるのである。

(UFO:Making Contact World Tour 1983)

 このスカイと対照的な意味で、強烈な印象を残したのが、同じくハマ−スミス・オデオンで4月に見たUFOのコンサ−トである。大昔に「C’mon Everybody」という、カバ−曲が一曲だけ売れたことのあるバンドであるが、コンサ−ト広告を見つけた時、「まだやっていたのか」という感慨を抱き、何となくチケットを購入した。

 しかし、そのコンサ−トは、まさに「轟音」ハ−ドロックのコンサ−トであり、その後、「生涯で最もうるさかったコンサ−トで、ハ−ドロックのライブに慣れたさすがの私でも、2−3日、耳鳴りが取れなかった」という話題にすることで、私の記憶の中に刻まれたのである。しかし、彼ら唯一のヒット曲が演奏されたかどうかも含め、コンサ−トの中身は、全く記憶に残っていない。因みに、当日のプログラムによると、ギタ−は、かつてこのバンドで名を挙げたM.Shenkerは既におらず、彼と一時ツイン・ギタ−をつとめたP.Chapmanが担当していた。

(Crosby Stills & Nash : Allied UK/Europa Tour '83)

 ウェンブレイ・アリ−ナでのCS&Nのコンサ−トは、第二部日本編での1991年の東京公演のレポ−トで触れているとおり、少なくとも私にとっては10代の頃から親しんできた彼らの初めてのライブということで、期待感が大きかったこと、そしてそれ故にエレクトリック主体のコンサ−トでやや失望したことが記憶に残っている。コンサ−トの様子は、この時期に発売されたライブ・アルバム「Allies」が物語っているとおりであり、演奏自体はしっかりしていたものの、彼らの看板であったアコ−スティックの美学は余り感じられないものであった。

(Buddy Rich & The Buddy Rich Orchestra : The 1983 UK Tour)

 ロンドン、ロニ−・スコッツ・クラブで6月に行われた、往年のス−パ−・ジャズ・ドラマ−のビッグバンド公演である。バディ−・リッチ公演については、爺さんの割に良くやるな、という以外の記憶は残っていないが、ここでは、このロンドン最良のジャズクラブについて、その他のコンサ−トも含めて記憶を確認しておこう。

 ロニ−・スコッツ・クラブ。ロンドン中心部のソ−ホ−裏通り、カ−ル・マルクスがドイツから英国に渡った際、最初に長く住んだフラットから近いところにあるこのジャズ・クラブは、ジャズ好きにとってはこたえきれない雰囲気を持ったライブ・ハウスである。確か数年前に、新聞で死亡記事が報じられていたオ−ナ−であるロニ−・スコッツは、丁度英国の「渡辺貞夫」といった評価の古参サックス奏者であるが、彼が自分の演奏友達のコネを使って連れてくるジャズマン達は一流どころが多く、その割に安い料金で席も確保できることから、私もロンドン滞在中は足繁く通ったものであった。ドリンクのみであれば、出演者によるが、一流どころでも当時5ポンド(当時の換算レ−トで2500−3000円)程度。おいしくはないが、ステ−キ等の食事も採れることから、万一食事時間が取れなくても、ここで腹を満たすことができたのである。

 セッションは通常10時からで、当時はまずロニ−・スコッツが自分のバンドで30−40分ほど軽く演奏し、11時前くらいにメイン・ゲストが登場する。12時過ぎに再びロニ−のバンドが登場し、夜中1時過ぎにメインのセカンド・セッションがあり終了する。さすがに私はセカンド・セッションでメインを見たことはほとんどなかったが、当時の厳しい残業時間を考慮しても、最初のセッションのメインには十分間に合うという具合である。また超一流の流行のプレ−ヤ−でなければ、残業の具合を見ながら、9時過ぎに電話で予約入れても十分席が確保されるということも多かった。

 こうして名もないミュ−ジシャンも含め、ロンドン滞在期間中、結構な回数、ここへは通ったものであった。このバディ−・リッチ・オ−ケストラは、当時偶々日本から出張でロンドンを訪れ、我が家に宿泊していたジャズ好きの友人を、出張の余暇の息抜きを兼ねて案内したものであるが、これ以降も、記憶に残るステ−ジとしては、マッコイ・タイナ−・ビッグ・バンドやギル・エバンス・ビッグ・バンド等が挙げられる。特にマッコイ・タイナ−は、70年代に陶酔し、日本でのコンサ−トに何度も足を運んだプレ−ヤ−であるが、彼のピアノに向かって右横の、腕が接触するような位置で見ることが出来たのが記憶に残っている。

 ロニ−・スコッツ亡き後、クラブが続いているかどうかは知らないが、再度ロンドンを訪れる機会があれば、是非メニュ−を調べ再訪したい場所のひとつである。

1984年

(Whitesnake:Slide It In Tour)

 ロンドンの春もまだ遠い3月3日、前年のエイジャやCS&Nと同じ、ウェンブレイ・アリ−ナで行われたコンサ−トである。

 言うまでもなく、ディ−プ・パ−プルのキ−ボ−ドJ.ロ−ド、ドラマーのI.ペイスと第三期ボ−カリスト、D.カヴァ−デイルが、パ−プル脱退後結成したハ−ドロック・バンドである。ディ−プ・パ−プルは、まさに私の原初的ハ−ドロック体験バンドであり、そのデビュ−からメジャ−になっていく過程をつぶさに追いかけると共に、日本での武道館公演にも参加する等、青春のエネルギ−をぶつける格好の対象であった。従ってパ−プル解散後も、その後続バンドであるこのホワイトスネイクや、リッチ−・ブラックモアが結成したレインボウ、あるいは第二期ボ−カリストが結成したイアン・ギラン・バンド等、機会がある都度、音源を調達してきていた。ロンドンに到着後も、当時急速な円高もあり、レコ−ド価額が日本と比較して相対的に安くなっていたことから、特にホワイトスネイクについては、その1978年及び80年のハマ−スミス・オデオン・ライブ盤を含め、ほとんどの作品を購入。到着直後も、82年の新作「Saints & Sinners」を聴き、彼らの健在振りを確認したばかりであった。

 この日のコンサ−トは、「Saints & Sinners」に続く新作である「Slide It In」のツア−であったが、私はこの新作は聴かずに出かけていった。そして結果的には、このアルバムを含め、これ以降彼らのアルバムを購入する機会がないまま現在に至っているのである。

 このコンサ−トの演奏曲の詳細は、残念ながら記憶に残っていない。新作のツア−であったことから、この最新アルバムからの作品中心のものであったのだろう。前述のとおり、第二期パ−プルのライブで、J.ロ−ドは見たことがあったものの、D.カバ−デイルの生は初めてであり、彼のややかすれた、しかし力強いボ−カルを堪能したのは覚えている。更に、この時期、ドラムは、I.ペイスに代わり、今は亡きコ−ジ−・パウエルが参加していたが、カ−ル・パ−マ−と同じように、背後に2枚の大きなドラを抱え、ツイン・バス・ドラを含た強烈な彼のソロ・パフォ−マンスに接したのも強い印象である。

 しかしそれ以上に、このコンサ−トで記憶に残っているのは、観衆の若者達の「バンギング」である。私は、ステ−ジに向かい右側の二階席であったが、上から見下ろすアリ−ナ席の全体が、演奏中大きく揺れ動いているのである。私の周囲を眺めると、その理由がすぐ分かった。長髪の若者たちが、上体をやや前に傾けながら、リズムにあわせて首を上下に振りまくっているのである。それが遠くから見ると、会場全体が揺れているように見えたのである。

 周囲に合わせて、私も短髪の頭を前後に振ってみたが、どうにも様にならなかった。そして今になって思えば、この体験が、「既に自分の年代の音楽ではない」という漠たる思いと共に、その後、彼らの最新作を含め、次第にハ−ド・ロックのアルバムを購入することが少なくなるきっかけになってしまったように思えるのである(もちろん最近では、パ−プルの映像DVDを含め、時々この手の音を聴くと元気付けられることもあるので、基本的なハ−ド・ロック好みは変わっていないのであろうが)。

(Camel : Stationary Traveller Europa Tour 1984)

 既に報告した10周年コンサ−トの1年後の5月、再びハマ−スミス・オデオンでキャメルを聴くことになった。今回はその時点でのニュ−・アルバム「Stationary Travellers」のツア−であることから、この作品からの曲が中心であり、再びA.ラティモアのメロウなギタ−を堪能することになった。更に、この日はアンコ−ルで、ピ−ト・バ−デンスが参加し、「スノ−グ−ス」からの名曲「ラヤダ−」を演奏するという、思いがけないハプニングがあったのも良い記憶である。またこの時点での最新のスタジオ録音でのベ−スは、昨年のコンサ−トと同じD.パットンであったが、この日は新メンバ−であるC.ベ−スが参加。この後、キャメルの他のメンバ−は変遷していくものの、このC.ベ−スだけは現在に至るまで約20年、A.ラティモアのパ−トナ−として行動を共にすることになる。その意味で、このツア−はキャメルにおける、A.ラティモア/C.ベ−ス体制が成立した記念すべきツア−であったと言える。
 
 後日、このハマ−スミスでの5月11日のコンサ−トが「Pressure Point」というライブ・アルバムになった(更にその後、このコンサ−トの映像版も発売された)が、当時のプログラムで確認すると、まさにロンドンでの公演はこの1日だけであるので、まさにこの音源は私の参加したものであったと、密かに自己満足したものであった。

(Al Di Meola / Paco De Lucia / John McLaughlin : Guitar Trio Concert)

 これから取り上げる2つのフュ−ジョン・ギタ−のハマ−スミス・オデオンでのコンサ−トは、今から思えば、何でこの時記録を残しておかなかったのか、悔いることの多いコンサ−トである。2つ共ツア−・パンフレットがなく、日時もはっきりしないが、それぞれ、それまでの自分の音楽体験での大きな分岐点になった思い出多き、記念すべきコンサ−トであった。

 まずス−パ−・ギタ−・トリオ。アコ−スティック・ギタ−によるフュ−ジョン・サイドからの流れについては、第二部東京編の「パコ・デ・ルシア」の報告をご参照頂きたいが、私にとってのこの最初のライブ体験が、ロンドンでのギタ−・トリオ・コンサ−トであった。

 彼らの最初の作品「Friday Night In San Francisco」の発表が、私のロンドン赴任直前の1981年。これは日本盤で調達していたが、到着後の1983年、第二作の「Passion Grace & Fire」が発表され、当然直ちに購入し、興奮しながら聴いていた時期の初ライブであったことは確かである。ハマ−スミス・オデオンのステ−ジにシンプルに並べられた3つの椅子。しかしそこで繰り広げられる、エレキ・バンド以上に緊張感と迫力に満ちた演奏。新作の作品に加え、もちろん「Meditteranien Sundance」も演奏され、感激の余韻にむせび泣きながら会場を後にしたのである。

(Pat Metheney:Europe Tour)

 ギタ−・トリオと異なり、パット・メセニ−は、既に私が東京にいる頃から何度も来日していたが、偶々参加する機会がなく、このロンドン公演が初めてのライブ体験となった。また第二部東京編によると、ロンドンで二回、83年と86年に彼のコンサ−トに行っているようである(1990年時点での記憶であるので、こちらの方が正確であろう)が、2回目の公演(86年頃なので「First Circle」のツア−であろう)については、今は全く印象が残っていない。最初の公演も83年であったかどうか、今となっては定かでないことからここで触れさせていただく。

 彼らの初のライブ・アルバム「Travels」の発表が1982年であることから、このツア−もその一環であったのだろう。第二部東京編でも触れたとおり、オ−プニングの「Phase Dance」及び彼のギタ−・シンセ参入を高らかに宣言した「Are You Going With Me?」の印象が強く残っている。

(Chick Corea & Gary Burton : Lyric Suite For Sextet Tour)

 ウェンブレイと言えば、これまでここで行われたロック・コンサ−トはアリ−ナのみであったが、今回のチック・コリアとゲ−リ−・バ−トンのデュオ・コンサ−トは、この一画にあるコンベンション・ホ−ルでのこじんまりした、クラシック用会場でのコンサ−トであった。

 チック・コリア、ゲ−リ−・バ−トン共に、モダン・ジャズ界の重鎮である。チックについては学生時代に一回だけ、武道館でのH.ハンコックとのピアノ・デュオを寒さに震えながら聴いたことがあるが、ゲ−リ−についてはライブに接するのは始めてである。言うまでもなく、チックはマイルス学校の優等生、ゲ−リ−はラリ−・コリエルやパット・メセニ−らを発掘したむしろ師匠格。夫々、モダン・ジャズの新たな潮流を作ってきた二人であるが、今回のコンサ−トは、弦楽四重奏を加えた、クラシック的な趣の最新アルバムのツア−。その意味では、チックの前回のライブと同様、私が彼らと今までレコ−ドで接してきたフュ−ジョン的なアプロ−チではないコンサ−トであった。

 コンサ−トは、まさにこの二人の超人的にまで緻密な音作りを体験する、という内容であった。チックのピアノは、クラシカルなフレ−ズを正確に表現し、そしてゲ−リ−の、夫々の手に3本のスティックをもったヴァイブ・プレ−はまさに神業としか言えないような素晴らしさであった。全く予習なく、出かけていった公演であったが、コンサ−ト後前述のアルバムを購入し、まさにライブの記憶とおりに演奏されているスタジオ録音に再度驚いたものであった。

1985年

(Keith Jarrett:Solo Concert)

 以下、日時不明のコンサ−トが幾つかあるので、便宜的にこの年として記載しておこう。まず始めは、前述のC.コリア/G.バ−トンと同じウェンブレイ・ホ−ルでのK.ジャレットのソロ・ピアノ・コンサ−トである。既に1972年のスタジオ版「Facing You」から始まり、翌1973年のブレ−メン/ロ−ザンヌ・コンサ−トで、ソロ・ピアノ・プレ−ヤ−としての名声を確立したキ−スは、その後も大量のソロ・ライブ盤を発表し続け、私も日本でのライブも何度か経験していたが、この日は久方振りの彼のコンサ−トであった。

 しかし仕事の都合で、会場に8時過ぎに遅れて到着すると、既に第一部が終了した後のインタ−ヴァルで、しかも、そこで会った同僚夫婦より、第一部の素晴らしさについて教えられるという按配であった。そして期待して聴いた第二部は、彼のソロによくある「ブレ−メン」や「ケルン」の華麗な展開のアドリブではなく、むしろ1982年にリリ−スされロンドンで購入した当時の最新盤であった「ブレゲンツ/ミュンヘン・ライブ」に近い、内面に閉じこもった暗い演奏であり、結局第一部をミスしたことを大いに悔いるコンサ−トとなったのである。

(Elton Dean Band : パブ・コンサ−ト)

 「元ソフト・マシ−ンのE.ディ−ンによるライブ」。それを見つけた「タイム・アウト」のコンサ−ト・ガイド欄には、そのように紹介されていたように思う。ソフトマシ−ン。この一風変わったバンドは、まずはピンク・フロイドと共に、英国サイケデリックの先端を走るバンドとして日本には紹介された。そしてフロイドで当初のリ−ダ−的存在であったS.バレットが、麻薬中毒でリタイア−したように、ソフトマシ−ンの当初のリ−ダ−であったK.エア−ズも、恐らくは麻薬による精神病で早い時期にバンドから離れていった(後の解説によると、ガ−ルフレンドとイビザ島に隠遁したとのこと)こともあり、この二つのバンドは私の中では当時同じイメ−ジで捉えられていた。

 こうしたある種の神秘性が漂う中、日本にいる頃、彼らのデビュ−及び2作目他をやや遅れて廉価盤で購入したが、内容的にはフロイドと比較しても、やはり相当特異な音楽性を有しており、またK.エア−ズ脱退後の作品は、単調なリフとボ−カルなしの演奏が今一ピンとこず、結局余り聴かずに放っておくことになった。

 唯一の例外は、J.ハイズマンのテンペストから移籍したギタリスト、A.ホ−ルズワ−スが参加した1973年発表の「収束」であり、これだけは、その後入れ込んだA.ホ−ルズワ−スのベスト・トラックとも言えるアドリブに、今に至るまで愛聴することになったのである。

 こうしたソフト・マシ−ンの歴史で、E.ディ−ンは3作目にあたる2枚組4曲という大作から参加し、彼らのフリ−ジャズ的な作品群に貢献した、との最近の解説であるが、彼のバンドにおけるこうした位置については、このコンサ−トの時は全く認識していなかった。しかし、あの「収束」を作ったバンドに一時的にも在籍したメンバ−のパブ・コンサ−トということの興味から出かけていったのである。

 そのパブは、タワ−ブリッジを渡った、テムズの南岸の、私が余り足を踏み入れたことのない地域にあったと記憶している。演奏は、ややフリ−ジャズの要素の入ったモダン・ジャズで、音的には、前述の「ロニ−・スコッツ・クラブ」などで聴いた無名のプレイヤ−の演奏と大差ないものであった。

 しかし、この日特記すべきはインタ−ヴァルでの彼との会話であった。小さいパブでの演奏の合間、メンバ−がカウンタ−でビ−ルを飲んでいる時に、エルトンに話し掛けたのであった。

 話の内容は、今となっては詳しく覚えていないが、間違いなく私は、ソフト・マシ−ンの初期のアルバムを持っている日本人だ、といった自己紹介を行い、エルトンが、珍しそうに話を聞いていたように思う。その後、彼の初期のリ−ダ−アルバム(ピアノは、K.クリムゾンの2作目に参加し、また当時J.ドリスコ−ルと結婚していたK.ピペットが入っていた。ソフト・マシ−ンを含め、今でこそ言われる、「カンタベリ−・グル−プ」一派である)を購入。音的には面白くなかったが、この時の彼との会話の記憶として残したのである。

(J.Etherridge:Pub Concert)

 上記のE.ディ−ンと同様、「元ソフト・マシ−ンのギタリスト」という「タイム・アウト」の記事を見て出かけていったが、こんなところで、これほどのプレ−ヤ−が演奏するのか、という典型例のような(とてもコンサ−トとは言えない)ライブであった。

 「元ソフト・マシ−ン」という紹介であるが、この時は、私はまだ、彼がA.ホ−ルズワ−スの後任ギタリストとして参加した、「収束」の次の作品である「Softs」はまだ聴いていなかった。彼の名前はむしろ、D.Wayと結成し、3枚の作品を残した「Wolf」でのパフォ−マンスからのものであり、特にその第二作である「Saturation Point」における超絶早弾きのフレ−ジングには戦慄さえ覚えたものであった。しかし、ウルフ解散後は、その時点では個人的にほとんど活動の噂を聞いていなかった彼が、パブでのライブを行う、ということで出かけていったものである。

 ところが、である。場所は、リトル・ヴェニスに近い、小さなジャズ・バ−と記憶している。場末の小さい寂しいパブに入ると、空間の片隅に、学校にあるようなちんけなオルガンがおいてあり、その左上方のステ−ジとは言えないステ−ジで何者かが、ガット・ギタ−で音の外れたオルガンとデュオでアドリブを繰り広げているのである。「えっ、これがあのJ.エサ−リッジ?」というのが、その時の正直な印象であった。確かに、アンプも使わない、その演奏は、店の常連客が、たまたま置いてあった楽器で遊んでいるかのような雰囲気であったが、フレ−ズ自体は、ウルフでの演奏を想起させるような、早弾きではあるが、夫々の音がクリア−且つ流麗に流れる演奏であった。しかし。演奏がどれほど続いたかは、ほとんど記憶していない。またパブの狭さから考え、演奏後、E.ディ−ンの時と同じように個人的な話もできたと思うが、そうした記憶もほとんどない。

 彼はその後、ポリス解散後ソロで活動していたA.サマ−ズとアコ−スティック・ギタ−・デュオの作品等でカムバックすることになるが、この時は、あのサチュレ−ション・ポイントで戦慄のアドリブを残したギタリストが、なぜこんなところで、こんな演奏をしているのだろう、という侘しさだけを感じながら家路についたように思う。

(Ossy Osborne:)

 ハマ−スミス・オデオンでのライブ。ブラック・サバス解散後ソロ活動を行っていたオジ−のソロ。UFOほどではないがうるさかったということ、及びサバスの曲も黒ミサごっこもやらなかった、という記憶くらいしか残っていない。

1986年

(Al Di Meola Project:Europa Tour)

 ギタ−・トリオでまずはアコ−スティックを堪能したディメオラであったが、エレクトリックとしては初めてのライブ。

 1982年、CBS最後の作品としてライブ・アルバム「Tour De Force 」を発表したが、その後、彼はマンハッタン・レ−ベルに移籍。1985年、A.モレイラとのデュオの「Cielo e Terra」及び「Soaring Through A Dream」の2枚のアルバムを発表。特に後者は、その後「プロジェクト」名で発表する名作群の嚆矢となったものである。CBS時代の角がとれ、P.メセニ−と同様、ラテン色が強いAOR風の演奏が、非常に心地よかった記憶がある。演奏曲目は、最新アルバム中心で、CBS時代の曲はほとんどなかったと思う。ハマ−スミス・オデオン二階席で、ドリンク片手にゆったりと楽しんだコンサ−トであった。

1987年

(Madonna:Who’s That Girl Tour 1987)

 ロンドン滞在も長くなり、今まで避けていたスタジアムでのビッグ・ア−チストのコンサ−トに参加した第一回が、このウェンブレイ・スタジアムでのマドンナ公演であった。後に、この一連のワ−ルド・ツア−の一環であるイタリア公演が映像化されることになる(そしてその映像は、記憶している限り、この日の公演に限りなく近いように思える)、彼女の最も乗っていた時期の公演であるが、一方ではスタジアムのコンサ−トであるため、当のマドンナ実物は豆粒で、持参したおにぎりを頬張りながら、スクリ−ンばかり眺めていた記憶が残っている。

(Genesis:The Invisible Touch Tour)

 同様に、ロンドン生活最終コ−ナ−に近いところで参加した、彼ら5年振りのツア−である。第二部東京編のフィル・コリンズでも書いたとおり、前回のハマ−スミス・オデオンからウェンブレイ・スタジアムに出世したジェネシスは、今や押しも押されぬス−パ−スタ−に変貌したが、前回のハマ−スミスを見てしまったために、その大スタジアムでの、ポップな作品中心のコンサ−トには一抹の寂しさを禁じえなかったのである。

(後記)2003年になり、このウェンブレイ・スタジアムでの公演が映像化された。それによると、この公演は1987年7月1日から4日の4日間行われ、延べ28万8千人を動員したとのことであるので、私たちも、その一部であったことになる。この映像版を見ると、当然のことながら、やはり アルバムとしては「Invisible Touch 」及びその前の「Genesis」からの選曲がほとんどであり、1982年の公演の選曲とは大きく異なっていたことが分かる。恐らくそれが、この映像を見ても当時の記憶がほとんど甦ってはこないことの一つの原因であるのではないかと思われるが、他方で、この映像を今見て、自分が最も感動したのは、最後に収められている「Les Endos」及びアンコ−ルと思われる「Turn It On Again」(この後半で、こんな懐メロ・メドレ−をやったという記憶もほとんど残っていなかったが)といった古めの曲であることから、自分にとっての伝説はやはりメジャ−になる前のジェネシスであることが明らかである。もちろん、同じ映像版でも、それから5年後に行われた「We can dance」ツア−のライブ(私がチケットを無駄にしたツア−である)と見比べるてみると、まだフィルの髪の毛も豊かであり、かつての「プログレ的雰囲気」を多少なりとも漂わせているのを発見したのは小さな収穫ではあったが。

1988年

(GTR : Debut Concert)

 ロンドンでのロック体験の最後を飾るのは、元YESのS.ハウと元ジェネシスのS.ハケットという、英国ロックのギタ−・テクニシャンを代表する二人を中心に結成されたバンドGTRのハマ−スミス・オデオンでのデビュ−公演である。

 S.ハウはYES脱退後も、時折廉価盤のソロ・アルバム等を調達して聴いていたが、ジェネシス脱退後のS.ハケットについては、それまではほとんど関心を払っていなかったので、このコンサ−トをきっかけに、何枚かソロ作品を購入したものである。

 実際のコンサ−トは、デビュ−・アルバム収録曲を中心に、ジェネシスの「I Know What I Like」やYESの「Roundabout」、更に夫々のソロ・ギタ−(S.ハウは、このアルバム収録のソロ作品+お馴染み「The Clap」であった)も交えた、落ち着いた大人向けロックのコンサ−トであった。その後10年以上たってリリ−スされた、ライブ・アルバム「キング・ビスケット・ライブ」で聴かれる音と略同じであったように思う。

ミュ−ジカル・バレ−等

 ロック・ジャズ以外については、既にミュ−ジカル「エヴィ−タ」についてのレビュ−を掲載したが、それ以外にも、特にミュ−ジカルは頻繁に見ることになった。特に、当時は、A.L.ウェ−バ−が次々と斬新な名作を発表していたこともあり、むしろ本家であるニュ−ヨ−ク、ブロ−ドウェイを凌ぐ勢いであった。

 ここでは、取り合えず備忘録として、ロンドンで見たこうしたロック/ジャズ以外のエンタ−テイメントについて、タイトルだけ記載しておこう。今後、機会があれば、これらについても是非記憶をたどってみたいと考えている。

(ミュ−ジカル)
Tommy Steele’s Singin’ in the rain 、42 nd Street、 Me And My Girl、Cats、David Essex’s Mutiny、West Side Story、Blondel、Chess、Follies、Starlight Express、Kiss Me Kate、Song & Dance 、Les Miserables

(バレ−)
The Nutcracker

2003年11月  記