アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第五部:シンガポール編 (2008−2020年)
スティング Songs From The Labyrinth
日時:2008年12月8日         会場:Esplanade Theatre   
 シンガポールに来て実質初めてのコンサートは、スティングが2006年にリリースした「Songs From The Labyrinth」という作品のソロ・コンサートである。到着直後の6月にコンサート予定を見つけ、直ちに予約をしたのだが、あっという間に半年が過ぎ、当日になってしまった。場所は、まさにその前売り情報を見つけた週末に下見でうろついていた、マリーナ地域に位置する別称「ドリアン・ホール」なる「エスプラネード・シアター」。シンガポール唯一といって良いコンサートホールである。

 スティングについては、私がロンドンに渡った1982年が、略ポリスの末期にあたっていた。既にビッグバンドとしての地位を確立していた彼らのウェンブレイ・スタジアムでのコンサート情報に接したことがあるが、当時の私にとってはポリスはややポップな人気バンドで、そのミーハーに乗ろうという感じではなかったことから、その時まで音源を自分で購入することはなかったし、そのコンサートに行こうという気も起こらなかった。

 彼の音楽に対する関心が変わったのが、偶々彼のソロになってから発表された2枚組ライブのLPをロンドンのレコード店の安売りで購入してからである。B.マサリスらジャズ系のミュージッシャンの参加を得て製作されたそのライブ・アルバムで、このポリスを実質率いてきた男の音楽性が、決して当初言われたパンクやその延長にあるポップス系の音ではなく、むしろ深い感情に裏付けられた大人の音楽であることが分かった。そしてそこから彼のソロ・アルバムを同時代的に聴くと共に、そこから遡りながらポリスにまで戻っていったのである。しかし、丁度昨年、そのポリスの再結成ツアーが行なわれ、日本のみならず、ここシンガポールでも公演が行われたというが、その時もまだ是非見に行こうという感じではなかったのである。しかし、今回は、こちらに来てから、なかなかこうしたミュージッシャンのライブに接する機会がないように思えたこともあり、早々にチケットの手配をしたのであった。

 今回のコンサートは、彼のソロとしては始めてのケースであるが、英国中世はビクトリア時代の作曲家であるジョン・ドーランド(John Dowland)の音楽を、やはり古典楽器であるリュートの伴奏で聞かせるというCD「Songs From The Labyrinth」のツアーで、リュートはCDと同じエディン・カラマーゾフ(Edin Karamazov)が同行するとのことである。

 コンサート前に、このCDを買い、予習をする。音楽自体は、ギターに似た、しかし長短2つのブリッジに夫々6弦を有するリュートの伴奏だけでスティングが英国古典音楽を歌う、シンプルなアルバムであるが、スティング自身の長いライナーノーツが印象的である。これを簡単に紹介すると、以下の通りである。

 J.ドーランドの音楽は20年以上もスティングの周りを彷徨っていた。1982年、ロンドンはドゥルリーレーン劇場でのアムネスティ・インターナショナル主催のコンサートに参加した際に、ソロ・ステージ終了後俳優のJ.バードから、J.ドーランドの名前を始めて聞き、直後に彼の作品集を買って聴いたという。

 その後、ピアニストのK.レベッカからも、自分の「正規教育を受けていないテノール」が、ドーランドの作品に合うのではないかと言われ、彼女のピアノ伴奏でまず3曲を歌ってみた。同時にこの作曲家が、欧州大陸で得た名声にもかかわらず、もっとも希望していたエリザベス1世の宮廷音楽家として迎えられることがなかったことも知ったという。また長い友人であったドミニック・ミラーはスティングのドーランドへの関心を知って、音響版が、彼がシャルトル教会にあるもののスタイルを真似て自分の家の庭に作った「迷宮」を基にデザインされた特別なリュートをプレゼントしてくれた。このギターに似ているが、チューニングも指使いもギターとは異なるこの古典楽器に、彼は夢中になっていったという。

 そしてそのドミニックが、ボスニアはサライエボ出身のリュート奏者であるエディン・カラマーゾフを紹介したのである。フランクフルト、フェストハレでのコンサートの舞台裏で初めて会ったエディンは、持っていたアークリュートを取り出し、バッハのトッカータとフーガーを演奏したが、それはあたかも協会のオルガンのような壮大な響きを感じさせたという。そしてエディンはそこでドーランドの一曲を示し、彼に歌うことを薦めたのである。

 数ヵ月後英国を訪れたエディンと再会し、スティングの家の庭の迷宮を、婦人であるトゥルーディと散歩しながらエディンの故郷サライエボの内戦や、彼のギタリストとしての経歴、そしてリュートとの出会いを知った。エディンはスイス、バーゼルの音楽学校で、この楽器の教育を受けたという。またこの散歩の間に、エディンは、それ以前の1992年に二人は既に会っていたと言った。スティングははたと、昔ハンブルグで見たあるサーカス公演でモーツアルト等を演奏していた3人の演奏家に思い至った。その演奏が見事であったので、公演後楽屋裏を訪れ、後日イングランドに来て、自分の誕生日パーティで演奏して欲しいと申し入れたことがあった。しかし、その演奏家たちは、スティングの申し出を拒絶した。プロのミュージッシャンはロックシンガーの私的なパーティでの演奏などしないものだ。それを思い出したスティングは恥ずかしさで一杯になったという。「すまなかった」と、その夜に一緒に撮影された古い写真を示しながらエディンは言ったという。そしてスティングはというと、そのまま叢に倒れこみ、エディンが困惑する中、ひたすら笑い転げたのだった。そしてその夜、スティングは改めてドーランドの音楽に向き合ったのだった。

 1563年生まれのドーランドは、言わば古典的シンガーソングライターの草分けの一人である。しかし、陽気なダンス音楽が人気を博したこの時代に、彼の物悲しい、憂鬱な音楽は受けなかった。1594年に、女王の宮廷ルート奏者が死んだ際に、ドーランドは後任に応募するが、採用されなかった。これは自分がカトリックに改宗していたからに違いないと考えたドーランドは、イングランドに絶望し、ドイツを経てイタリアへ向かう。

 当時の欧州では、ドーランドのような音楽家は自由に、政治的には対立している諸侯の間を動くことができたという。そしてそれ故に、彼らは往々にしてスパイ活動やゴシップの情報源ともなった。実際、ドーランドはイタリアで英国カトリックの司祭から、スパイ活動の話を持ちかけられたようである。当時の英国は、エリザベスのスパイマスターであうウォルシンガムが、英国のみならず欧州大陸にまで張り巡らせた情報網を使い恐怖政治を行なっていた。この網に捕まった者には、拷問と公開処刑が待っていた。ドーランドは結局こうした恐怖もあったのだろう、カトリックではありながら、その反政府活動に同調することはなく、ウォルシンガムが死去した後スパイ網を引き継いだセシル卿に対し、女王への中世を誓う手紙を送っているという。しかし、こうした懇請にもかかわらず、彼が英国王室の音楽家としての地位を得ることはなかった。そしてスティングによると、彼の音楽には、自分の希望が叶えられない憂鬱が反映しているというのである。

 その後、ライナーノーツでは、CD収録曲が一曲ずつ紹介されていくが、詳細は省略する。しかし、そのCDのオープニングが、そのスパイマスターである「ウォルシンガム」で始まっているのは面白い(ただ、これはスパイマスターに捧げたものではなく、ノーフォークにある、聖マリア教会のある同名の村を歌った曲とのことである)。

 こうして、エディンとのレコーディングを終えたスティングは、ライナーノーツを以下の一文で終わらせている。「彼の音楽は、その深遠さと複雑さで独特のものではあるが、同時にエリザベス時代の偉大な芸術パフォーマンスとして位置付けられる。この音楽は、その人生において悲劇はあったものの、人生そのものは決して悲劇ではなかったことを思い起こさせるのである。」

 ということで、CDの解説が長くなってしまった。次にコンサートそのものに移ろう。

 まず、コンサート前、11月21日の当地の一般紙The Straits Timesに、このコンサートの紹介記事が掲載されている。これも簡単に紹介しておこう。

 「今年のはじめに、多くの人がS$600払ってポリスを見た。そして今度も多くの人が、そのリードシンガーがクラシックを歌うのを聴くために同じ料金を払うのである。」これがこの記事のタイトルである。「俳優で、環境活動家、そしてセクシーなポスターの被写体でもあるこの英国人、―働き蜂のようにせわしく動き回るというニックネームで呼ばれる、本名Gordon Sumner―は、世界的に有名となったポリスのフロントマンにも、またソロとなってジャズやオペラ、そしてワールド・ミュージックをやるのにも飽き足らず、今度は400年前のエリザベス朝時代の音楽を聞かせるためにやってくる。」今回披露されるのは、2年前に発売されたCD、「Song From The Labyrinth」の音楽である。このCDは、11月下旬まででシンガポールでは3000枚売れているが、通常のクラシックCDの売上が1500−2000枚ということを考えると、まずまず商業的にも成功していると言える。

 今年2月にシンガポール・インドア・スタジアムで行われたポリス再結成コンサートは、記事によると、シンガポールでの単一コンサートとしてはS$3百万という最大の興行収入を稼いだ。それと比較すると、今度の試みは「空虚な企画」と言える。しかし、それは単なる「我儘」な企画ではない、と言う。そもそも、エリザベス朝時代の、シェイクスピアと同時代のJ.ドーランドという作曲家・歌手は、スティングに言わせれば、この時代の「ポップ・スター」であった。そして彼は周囲の人々から、自分の声が彼の作品を歌うのに適していると言われ、またツアー中にであった古楽器リュート奏者のエリン・カラマーゾフとも意気投合し、CDの企画になったという。2004年、Wiltshireの彼の自宅でエリンとともに、1597年―1610年までのドーランドの曲で構成されたこのCDが録音される。そしてスティング自身は、このCDがファンからは無視されると思っていたが、商業的な成功にびっくりしたという。

 6人の子供の父親―2人は前妻であるアイリッシュの女優、F.Tomeltyとの間の、そして4人が現在の妻Trudie Stylerの子供。長男は、ポリス再結成ツアーの前座を務めた3人組ロックバンド「Fiction Plane」のフロントマンである。スティングは、「もうポリスをやることはないし、おそらくクラシックをやることもないだろうが、自分がやりたいのはただ自分の音楽を進化させることで、それは人生最後の一息を吸うまで続けるだろう。グラミー賞やプラチナ・ディスク獲得といったことは、こうした音楽への愛が偶然生んだ結果に過ぎない」と言う。

 それでは、この日のコンサートを見てみよう。

 7時40分、男女4人ずつの白人コーラス・グループが登場し、クラッシック風のきれいなコーラスを聴かせる。会場の雰囲気にはあった上品なコーラスであるが、まあ、早く終わって欲しいな、という感覚しかない。知っている曲は「きよしこの夜」だけで、20分ほどでこの前座が終了した。

 15分の休憩の後、メインコンサートが始まった。ステージは2つの椅子と、夫々の背後に、今日の主役であるリュートが、3本ずつ立てかけてある。そこに二人の男が登場。向かって左側は、マッシュルーム・カット風の髪型のエリン・カラマーゾフ。そしてその右に今晩の主役のスティングであるが、2階席中央から見ている私の目では、やや薄くあご鬚を生やしているせいだろうが、それが直ちにスティングとは分からなかった。そう感じた聴衆は私だけではなかったのであろう、彼は「Behind this beard,I am Sting」と自己紹介し、聴衆から笑いが漏れる。その紹介から、エリンがリュートの伴奏を始め、それにスティングの歌が被さっていく。リュートは、弦楽器としてはやや鋭い音感がある響きを奏でるが、音響の良さもあり、なかなか心地よい。続いてスティングも自分の背後にセットされたリュートを抱え、デュエットでの演奏を聴かせる。終わったところで、スティングが、「今日の一番緊張するパートが終わった」と呟き、会場を沸かせるが、正直、結構彼はこの楽器を練習したのであろう。さすがに彼は伴奏が中心で、ソロは全てエリンがとっていたが、それでもスティングの器用さは感じられた。その後、前座で出ていた8人組のコーラス・グループも加わり、コーラスに重点をおいた曲が続く。合間合間で、スティングは、CDのライナーノーツでも解説されていた、今日の音楽の作曲家であるJ.ドーランドの生涯を語る。15世紀のイングランドに生まれたこの作曲家は、当然貴族の庇護を受けるしか自分の才能を発揮し、生活を確保するしかなかった。しかし、カトリックの彼は、「警察国家」(スティングの表現)であったエリザベス時代のイングランドでは迫害され、結局大陸に渡り、ベルギー、ドイツ、フランス、そしてイタリアと庇護者を求めて放浪したと解説される。

 ドーランドの音楽が続き、さすがにやや退屈し、眠気が忍び寄った頃、「これは60年代だ」というスティングの紹介で、Beatlesの「In My Life」のイントロがリュートで奏でられる。そしてCDにも収録されている、彼の持ち歌「Field of Gold」と「Message In A Bottle」。夫々オリジナルからペースを落としてバラード的に歌われる。いったん引き揚げた後、一回目のアンコールとして、コーラス・グループを従えてのクリスマス・キャロル。私の知らない曲である。そして、再度のアンコールとして、彼がソロの弾き語りで、これまた私の知らないブルースっぽい曲。もう少しポリスの曲が出てくるかと思ったのだが、結局CD収録の2曲だけで、これで終演となった。終了は、8時40分。約1時間20分のステージであった。

 後日、12月10日のThe Straits Timesに、改めてこの日のコンサート評が掲載された。それによると、前座は英国アカペラ・グループ、Stille Anticoであったという。その記事では、30分のラテンと英国の曲を聴かせたこのコーラス・グループについては、プログラムの解説も口頭での紹介もなかったことから、「清しこの夜」を除き、ほとんど記憶に残らなかったが、コーラス自体は心地よい、ハーモニアスなものであったために残念であったと書かれている。

 しかしメインプログラムは、異なった音楽スタイルを対比させるというアレンジと、照明や対話といった現代的技術の統合されたコンセプトの結果、成功したと評されている。
音楽の構成は、まずドーランドのメランコリーが表現された「Flow My Tears」でコンサートが開始され、そしてCDに収録された作品を続けられた。これらは、そもそもリュートで演奏された曲ではないこともあり、カラマーゾフのアレンジにより「規制」されたクラシックのパフォーマンスから一歩はみ出たアレンジで演奏されたという。スティングの歌は、どちらかというと原曲に忠実なストレートなアプローチである。筆者は、特にスローバラード「In Darkness Let Me Dwell」での、スティングの歌が、原曲の悲しさをうまく引き出していたと評している。スティングが最小限の身振りで忠実に原曲にアプローチするのに対し、カラマーゾフのほうはむしろ、ややアンチ・クラシック・スタイルを貫いたように思える。

 ドーランドが影響を与えた、E.Elgar (Where The Corals Live、1898年作)や V.Williams (Linden Lea、1912年作)の曲から、Beatlesに移り、彼のオリジナル2曲で終了した、というのが大まかな評である。

 また別の批評でも、スティングはドーランドの作品に対しては敬意を払い、むしろ遠慮気味に歌っていたと書かれている。一方では、リュートの最終音をミスったスティングが、彼とカラマーゾフはどっちが最終音を出すか競っていたのだ、という冗談で紛らわしたという。楽器に関しては、スティングは、カラマーゾフの「シルキー」な音質と比較すると、まだまだ素人だと言うのが、ここでの評価である。

 個人的には、私はS$200という、下から2番目の安い席であったが、この日のコンサートが、この金額に見合うものであったかというと、残念ながら首を傾げたくなる。それは、その後、当地で行なわれたオーストラリア出身のポップ歌手カイリー・ミノーグのコンサートが、普段のハリウッド的演出とは程遠いシンプルなステージであったことが、「期待はずれであった」という評価を招いたのと同じレベルでの正直な感想である。しかし、もう少し冷静に考えてみると、このかつてはスーパースターであったロック歌手の飾らない生の歌を、それほど大きくない音響のしっかりしたホールでじっくり聴けるという点では貴重な機会であったことは間違いない。更に、この日初めて生の音に接したリュートの響きは、今まで私が接したことのない心地よいものであった。時折聞かせるエディンの早弾きソロは、私が好んで聞いてきたパコ・デ・ルシアらの、土地の香りを感じさせると同時に緊張感を高める音楽であった。長くそれだけ聴いているとどうしても飽きてしまうというのは、この手の企画の避けられない運命ではあるが、それでも、今後、この日のコンサートの余韻を感じるべく、時々このCDには帰っていくことになるだろう、そんな気持ちが残ったコンサートであった。