アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第五部:シンガポール編 (2008−)
Riverdance
日付:2010年12月4日                                                         会場:Sands Theater 
 セントサ島のカジノでのショウは、10月のレポート(「シンガポール通信」掲載)で報告したとおりであるが、カジノ自体、セントサより少し遅れてスタートしたマリーナベイでも、それ以外のエンターテイメントが少しずつ始まっている。これ以前にも、このカジノの横に設けられた劇場では、韓国の人気女性グループのコンサート等が散発的に行われていたようであるが、今回ようやく本格的な連続公演として、アイルランドを代表するダンス・エンターテイメントであるRiverdanceが、約2週間の公演を行うことになった。

 アイルランドといえば、私のビジネスの関係では、近年、リーマンショックと呼ばれる金融危機の中で、多くの銀行が破綻、または実質破綻し、その救済のため、国家自体の財政状況も急速に悪化、ユーロの通貨危機の一つの焦点になってしまった。最近の報道でも、2010年の財政赤字が、何とGDPの3割を超える水準となり、EUの緊急支援を受けるに至っているというが、当然この金融支援は、財政状態の改善のための厳しい緊縮政策が条件となっており、ギリシャと同様に、政府がこうした政策を国民に納得させられるかどうかが、今後の大きな課題となっている。

 しかし、そうした事態は、この国の歴史を眺めると、さして厳しいものとも思われない。そもそもアイルランドは、近代以降、まず英国の植民地支配との戦いがあり、同時に荒れた土地と厳しい気候から何度も飢饉に襲われ、その結果、特に新大陸に多くの移民を送り出したことでも知られている。また現代でも、つい最近まで北アイルランドを巡る英国との軋轢に巻き込まれていたことは言うまでもない。かつて英国にいた頃、英国人に「アイルランド旅行を考えているのだけれど」と話すと、「暗い、雨の多い気候が好きなのであれば楽しめると思うよ」と、英国人特有の皮肉な返事が返ってきたことを思い出す。更にアイルランド人を見下したアイリッシュ・ジョーク集が英国の本屋で平然と売られているのに驚いたこともある。

こうした災禍と差別に包まれた過酷な歴史の中で、この国の音楽は、ある種の悲しい叙情を秘めた独特の調べを育んできた。そして現代に至り、こうしたアイルランド特有の音楽が、英国を基点に、それなりの存在感を持って世界中に広がって行った。私自身も、ある時期、こうしたアイルランド民謡を現代的にアレンジした音楽に凝ったものであるが、著名なところではエンヤから始まり、よりポップなコアーズやケルッティック・ウーマン、あるいはもう少し通好みではアルタンやカパケリ、クラナドなど、私が愛聴したアイリッシュ・トラッドの音源は、枚挙に暇がない。そしてこうしたアイルランド音楽に、ダンスという視覚的要素も取り入れ、世界的に有名になったのが、このRiverdanceであった。因みに、このショウの初演は1995年のダブリンである。

 このRiverdanceは、日本では既に何度も公演を行い、固定的なファンもついているようである。しかし、私自身は偶々、今まで日本では見る機会に恵まれなかった。ということで、今回冒頭に述べたとおり、新たなカジノ・コンプレックスの一部に作られた劇場の実質こけら落しとして企画されたこの公演に出かけていった。因みに、このショウは、シンガポールでは、前回は2000年にインドア・スタジアムで行われたということである。

 今回の席は、正面に向かい右側の前から4列目。かぶりつきとは言えないが、ステージ至近距離である。そこから後ろを振り返ると、エスプラネードやセントサ・カジノの劇場と略同じくらいの大きさ(席数は1600席とのこと)という感じである。また、インターバルの際に気がついたのであるが、この日の公演には、シンガポールの首相であるリー・シェンロンとその夫人ホー・チン(政府系投資機関であるテマセクのCEO)が揃って、私の後方、真ん中の席に座っていた。一国の首相夫妻がSPに囲まれることもなく、一般の聴衆に混じってこうしたコンサートに来ていることに、ややびっくりしたのであった。

 8時丁度に会場が暗転し、ステージ中央のスクリーンに、夜の空が映し出される。物語の始まりを告げるモノローグに続き、たて笛(Low Whistle)によるアイルランド音階の静かなメロディーが奏でられ、そして薄暗いステージの上に、ダンサーたちがゆっくりと統制された足取りで登場、最初のタップダンスが始まる。ダンサーは女性が12人、男性が6人。音楽は賑やかなアイルランド調のアップテンポな曲。すらりと伸びた全員の姿勢の良さと、細かいリズムを刻みながらきれいに動く足のラインが素晴らしいダンスである。

 演奏者は、ステージ向かって左奥に、左からたて笛(及び後述のパイプ)の男性、バイオリンの女性、ソプラノ・サックスの男性が並び、後方上方に各種のパーカッションを繰るドラマーが陣取っている。この日の音楽は、テープを主体に、この4人の生の音が被さることになる。

 賑やかな音楽とダンスが終わると、今度は一転静寂の中、大きな蝋燭を抱えた女性ソロ・シンガーと数人のサポート・コーラスが現れ、ソプラノのハイトーンできれいなメロディーのソロとコーラスがアカペラで披露される。このあたりはいかにも神秘的なアイルランドの深い森を連想させる。

 以降、ダンスは、男性メイン・ダンサー(Padraic Moyles―彼はアイルランド人ではなく英国人とのことー後記の新聞評参照)によるタップダンスやスパニッシュ音楽に乗ったフラメンコ(Rocio Montoya)などが続き、最後に、女性メイン・ダンサー(Chloey Turner)と男性其々によるソロから二人のデュオ、そして全員のラインダンスになり、前半を終える。その間に、楽器演奏者が、其々のソロを聴かせるが、特にアイルランドのバグパイプとも言うべきUilleann Pipeの調べ(Matt Bashford)が、アイルランドっぽさを心置きなく味あわせてくれた。バイオリンの女性(Niamh Fahy)も、最初は自分のポジションで、続いてステージ全体を移動しながら陽気なアイルランド音階の演奏を聴かせるが、このあたりは、何となくコアーズのSharon Corrのソロやケルティック・ウーマンといった雰囲気である。演奏しながら笑顔を絶やさないのもなかなかの芸人魂であった。

 15分ほどの休憩の後、後半の最初は、如何にもフォークダンスといった踊り。これは衣装も、如何にもそれっぽいデザインである。前半にも登場した女性のソロ・ボーカルに続き、初めて登場する黒人歌手(Rohan Pinnock-Hamilton)のソロ。そして、そのまま黒人二人のタップダンサーが登場するが、それが一段落したところで、メイン・ダンサーに率いられた白人3人組が登場し、丁度街角での与太者の喧嘩をイメージさせながら、タップダンスの対抗戦を繰り広げる。黒人二人にはサックスの男性が、白人3人にはバイオリンの女性が伴奏者として付いている。

 前半の真っ赤な衣装から、今度は真っ黒なドレスに着替えたフラメンコの女性ダンス。再び、バイオリンやパーカッショニストのソロから、男女メイン・ダンサーによるデュエット・ダンス。最後に全員が揃い、大団円のダンスが終わったのは丁度10時であった。

 帰宅後、当日購入したパンフレットで、この日の公演の復習を行った。まず、当日もところどころでコメントされていたが、公演全体のストーリーが説明されている。

 まず前半は、原始の世界に人々がやってきて、自然の力と共存しながら、その世界を自らの家としていくまでを描いていると言う。日の出と共に人々がこの世界に現れるが、ここは荒れ狂う自然と神秘に満ちた世界であった。しかし歌の力は、人々に自然との共生する知恵を与える。更に女性のダンスの力が男たちを圧倒していく。青銅時代の伝説の英雄を称えるパイプ演奏から、荒れ狂う自然に立ち向かう勇気を称えるダンス。太陽の地からもたらされる火と矜持と美が表現される。そして中世からアイルランドに伝わる気狂いスイーニー伝説。人々は月の狂気に敢然と立ち向かう。季節は秋から冬、そして春に移り、全てが新たに蘇る。そして流れ出した川が新たな喜びに満ちた世界をもたらし、ここに新たなRiverwomanの物語が始まる。

 そして後半。飢饉と圧政、強制移民という苦しみに満ちた世界で、人々は守るべきものが何かを学び、自分自身であるように努めていく。新たな勇気を授かり、人々がこの世界にいる場所を見つけるまでを描くという。19世紀のアイルランドを襲った飢饉の中で人々は新大陸へ渡る。家族が離れ離れになりながら、しかし彼らはその新大陸で新たな希望を見つける。音楽とダンスの力で、それまでの苦難を上回る大きな表現力を見出していく。そしてそこで生まれた子供たちが、今度は自分たちの故郷に向けた新たな自信に満ちた旅に出る。そこで人々は一体となり、世界の至る所で偉大な音楽が奏でられるのであった。

 上記のそれぞれの場面が、このストーリーに合わせて展開しているということであるが、必ずしもこうしたストーリーを認識していなくとも、ショウ全体は十分楽しめる。そして個人的な印象としても、確かに前半は、単なる踊りだけでなく、歌や演奏など、刻々と展開するステージに直ちに引き込まれていったのである。またドイツでライブを見たコアーズ除けば、トラッドなアイリッシュ音楽をライブで聴くのも私自身は初めてであったこともあり、パイプやフィドルでのアイリッシュの旋律はなかなか聴きごたえがあった。しかし、一旦レパートリーが出揃った後の後半は、衣装や音楽は変化したものの、基本的には前半のパターンの繰り返しで、もちろん全体で2時間弱という公演時間を考えると、特段飽きると言う訳ではなかったが、前半に比べて感動は小さかったというのが正直な感覚であった。

 当方が参加した公演の前に、当地の新聞(12月2日付Business Times)に始まったばかりのこの公演の評が掲載されている。ややペダンティックな評であるが、いつものように、これを要約すると、概ね以下のとおりである。

 「Riverdanceは、ダンス世界では女性向け(chick flick)という評判である。ダンス・マニアにとっては、その大衆迎合的な姿勢を正面から嘲笑するのでなければ、やや大声では語れないような罪の感覚をもって楽しむ種類のダンスである。しかし、こうした女性向きパフォーマンスも、明らかに価値があった訳で、さもなくば15年にわたって、このダンスが観衆の評価を受け続けることはなかった。」そして「このダンスは決して前衛的なものではなく、むしろ観客を単純に楽しませるように演じられている」として、アイリッシュ・ダンスやタップ・ダンス、フラメンコ、それぞれの楽器演奏が、全て観客の気持ちを幸せにするように演出されている、としている。内容的には、当地での10年前の公演とほとんど変わらず、またそれぞれの音楽も、後半の黒人歌手によるソロを除くと原版に忠実に再現されていたことも驚きであったという。

 面白い指摘は、タップダンスの音は事前に録音されていて、それが時々実際のダンサーの足捌きと異なっていたというもの。実際に見ていて、私はそれほど不自然には感じなかったが、確かにあそこまで正確なタップダンスを生で再現するのは不可能に近いのだろう。しかし評者も、だからといってこのダンスの魅力が落ちるわけではない、と述べている。

 男性ソロ・ダンサーがアイルランド人ではなく、英国人であることをちょっと皮肉ってはいるが、彼とパートナーの女性ソロ・ダンサー、そして集団でのダンスの卓越した技術と、それを2時間の公演の間持続させたことを評価する。そして「このショウは良く訓練された素晴らしいパフォーマンスであるが、一方で、単なる拍手喝さいを受けるだけのパフォーマンスに留まらず、私生活をハイキックさせる(刺激させる)ようなものであることを期待する気持ちを残した」と結んでいる。最後の一文は、やや逆説的なニュアンスを含んでいると思われるが、その真意はやや自信がない。

 最後に、公演後購入した、彼らのジュネーブ公演(2001年)の映像と簡単に比較してみよう。

 まず、この映像では、演奏者が、今回のシンガポール公演よりも圧倒的に充実している。パーカッションが2名。更に今回はフラメンコの伴奏は、録音であったが、映像ではギタリスト(別にエレキギターのソロもある)が生演奏を聞かせている。また映像版で参加しているベースやアコーディオンも、今回の公演ではいなかった演奏者である。しかし、中核であるパイプの独奏などは、略同じであり、バイオリンは、今回の奏者のほうが、視覚的にも圧倒的に魅力的であった。

 ダンスは、略今回と映像は同様であるが、前半ではFiredanceの演出は、まったく異なっていた。また後半では、映像版では男女3人で繰り広げられるアクロバティックな見ごたえのあるダンスが、この日の演出では省かれていたように思う。細かい点では、白人対黒人のタップダンス対抗戦が、映像版では3対3であったが、この日の公演では黒人側が2人であった。いずれにしろ、本国と近い欧州での公演と、そこから遠く離れたアジアでの公演の規模が異なるのは当然といえば当然であろう。

 新たな政治・経済危機にあるアイルランドにあって、大きな文化的資産であるケルトの音楽とダンス。明るい熱帯とは、やはり少し感覚が違う文化であるが、それ故に、この公演後、当地での日常性の中では感じられない爽快感を抱きながら、劇場前で延々と続くタクシー待ちの人々の列に加わったのであった。

2010年12月8日 記