アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第五部:シンガポール編 (2008−)
Musical - Wicked
日付:2011年12月17日                                                                         会場:Sands Theater 
 サンズ劇場でのライオン・キングに続くミュージカル公演は、12月7日にスタートした「Wicked」である。

 今回のこの公演期間は12月7日から、現時点では少なくとも2月までの約3ヵ月間。前回の「ライオン・キング」と略同じ期間が予定されている。一昨年の「キャッツ」や昨年の「シカゴ」に比べても公演期間が長く、それなりの期待のほどがうかがわれる。席は、$250のエメラルド席から始まり、$165、$145、$125、$95、$55と、「ライオン・キング」と略同じような料金設定である。今回の私のチケットはその内の$145。一階のステージに向かって中央やや左の中央部。「ライオン・キング」よりは、ステージまでの距離はやや遠いかなという感じの位置である。いつものように一階席はほぼ満席である。

 このミュージカルも、ニューヨークやロンドン、そして日本でも公演が行われた人気演目である。2003年のNY、ブロードウェイでの初演の年に、衣装デザインと振り付けでトニー賞を受賞した他、その2年後には作曲を担当したステファン・シュヴァルツ(Stephan Schwartz)が、「ベスト・ミュージカル・ショウ・アルバム」部門でグラミー賞を受賞したとのことである。まずは、このミュージカルが上演される前に、当地の一般紙にこのミュージカルの解説が掲載されていたので、それから見ていこう。

 それによると、このミュージカルは、「オズの魔法使い」に先立つ裏物語、という触れ込みで、そもそもは1995年にグレゴリー・マグワイアー(Gregory Maguire)という作家が書いた、子供向けの古典「オズの魔法使い」を大人用に書き直した小説が基になっているという。フランク・バウム(L. Frank Baum)原作の「オズの魔法使い」は、1939年に製作されたジュディ・ガーランド(Judy Garland)主演の映画が有名であるが、そこではガーランド演じるドロシーが「オズの魔法の国」に入り込み、そこで良い魔女の助けにより、悪い魔女を退治するという、単なる善と悪の物語であった。しかしマグワイヤーの小説及びそれを基にしたこのミュージカルでは、むしろ悪い魔女と良い魔女の交流を描き、実は悪い魔女が、単なる悪い魔女ではなかったようにデフォルメされている。そこではエルファバ(Elphaba)という孤独で緑の皮膚を持つ「西の悪い魔女」と、かつてはスノビッシュで浅はかであったが、今はみなから愛されている「良い魔女」グリンダ(Glinda)の二人が登場し、「ハリ−ポッター」の「ホガース」のような学校に入学する。エルファバは肌の色故に、他の学生たちから嫌われ苛めにあうが、グリンダは人気者で寮を牛耳っている。その二人が同室になり、次第に心を通わせていくのである。

 グリンダは野心家であるが、しかしエルファバは特殊な魔術の才能を持っており、次第にその国を支配する強力な「オズの魔法使い」の注目を集めていく。しかし、エルファバがまさにその栄光と注目、そして財産を手に入れようとした矢先に、彼女は、自分が悪い魔女となり、最愛の友達を失うような事態に直面するのである。それ以降は、見てのお楽しみということである(以上、11月24日「The Straits Times」)。

 そして続けて、公演が開始された12月7日の翌日に、改めて同じ新聞に、上演されたミュージカルの講評が掲載された。そこでは、上記の物語の背景や大筋が改めて説明された上で、初日公演の模様が、以下のようにコメントされている。

 このミュージカルでは、善と悪というテーマに加え、人々が自分と異なる他人をいかにして悪者に仕立てていくかーそれは学校の教室でのいじめから、政治的迫害にまで広がるテーマであるがーを主題としている。ここではエルファバが「異なる他人」として登場する。何故なら彼女は緑の肌をしているからである。

 ステファン・シュヴァルツが作詞・作曲をしたこのミュージカルは、言わば、「伝統と様式の熱狂的な坩堝」で、これらの要素が衝突することが、この作品を現代的な魅力あるものにしている。そこにあるのは、「エメラルドの町の向うみずなWilly Wonka(映画、チャーリーとチョコレート工場で、J.デップが演じた主人公)の世界」への暗喩と多くの政治的皮肉に満ちた、ホガース的な魔術を伴う「卑しい少女」を巡る学園物の世界である。もちろん「オズの魔法使い」の原作を思い出させる部分も多く含んでいる。

 その舞台であるが、全体としてはエルファバ役のジェンマ・リックス(Jemma Rix)の演技を含め、演出・配役共によく出来たブロードウェイ・ミュージカルに仕上がっている。技術的には、空中でのトリック、斬新な照明、巨大な支柱、出たり入ったりする車輪といった小道具を多用しているが、時々痙攣したような咆哮をあげる巨大な龍は、テーマパークのショウのような雰囲気をもたらす点で、ややいただけなかった。

 製作の質やテーマの一貫性などは否定すべくもないが、このミュージカルはそれ以上に評価を高める輝きには欠けている。夫々の登場人物につき観客が想像の余地を広げるだけの複雑性をもたらすような両義的感覚が欠如しているということであろう。善悪二元論を覆すような演劇で、終盤に向けてエルファバに、腐敗した世界に対する決然たる革命家の役割を負わせるのはやや奇妙である。評者は、二人の学校での関係がいかに難しいかというのは楽しんだが、それが進展していくことにはあまり夢中になれなかった。一人の男を巡っての二人の争いは、二人の女性の間で起こる唯一の面白い争いなのだろうか?それに対して、前半の学校の場面は、興味深いものだった。エルファバは「Xマン」のような設定で、肌は緑色、性格は荒々しく、パワフルであり、彼女が怒る時の魔術能力は素晴らしい。他方グリンダ(この日は、本来のSuzie Mathersが体調不良で、代役のAllyce Martinsが演じていた)は、エルファバと対照的に、ブロンド、色っぽく、人気者である。しかし彼女の超能力はといえば、その確固たる自信だけである。

 ルームメイトとなった二人は、グリンダが冗談で送った魔女の帽子を、エリファバが心からの贈り物と誤解して友達になる。Winnie Holzmanの脚本は、機知と温かみで生き生きとしている。少なくともエルファバが政治意識に目覚め、オズの奇妙な策略の犠牲となっていた動物たちを解放するため箒で飛び交う活動家になるまでは。しかしそれまでは軽快で面白かったこのミュージカルが、そこから一転決まりきった凡庸なものになってしまう。そこには明らかにある種の政治家の行動への暗喩がある。オズがエルファバに向かい「人々を統治する最良の策は共通の敵を作ること」と言うが、それは全く独創的でもないし、興味をそそるものでもない。

 オーストラリアのキャストの中では、やはり神経質で辛辣なエルファバを演じたリックスが、歌と踊りで秀でていた。音楽はさして印象的ではないが、特にバラードでの彼女の熱唱が素晴らしかった。マーティンのグリンダは、確かにとてもこましゃくれていて明るい。しかし、彼女は、2001年の映画「キューティ・ブロンド」を意識して演じているが、彼女が愛するのは自分だけだというのは明らかである。

 「Wicked」が意味するところはいろいろある。一つは何か汚らしい物、あるいはその反対で、何か決定的にいたずらっぽい善。私は、このミュージカルが目指したのは後者で、それは正しい方向に向かっていった。しかし、そこに至る前にもう少し別のやり方があったように思えるのである(以上、12月8日「The Straits Times」)。

 以上の予備知識を入れた上で、当日の公演に向かった。今までの当地でのミュージカルに比べ30分早い、7時30分の開演である。ギリギリに到着し、着席すると同時に会場が暗転し、ステージが始まった。音楽は、プログラムによると、指揮者に加え、キーボード四人、ギター、ベース、リード三人、トランペット、トロンボーン、フレンチホーン、ドラム、パーカッションの15人編成。彼らは頭の先だけ見える指揮者を除き、全員ステージ下のオーケストラ・ボックスに入っており、見る事はできない。

(第一幕:7時35分―9時)

 オープニングは、「西の悪い魔女」の死を喜ぶ人々の祝祭である。ステージ上方に添え付けられた、大きなドラゴンの首が蠢く中、ステージ上方より円形の車輪に乗ったグリンダが、お姫様チックな煌びやかな衣装で、オープニング・ソングの「No One Mourns the Wicked」を歌いながら降りてくる。グリンダのみならず、出演者全員のカラフルな衣装と原色を使った背景が、初めから派手派手しい。人々の祝祭の歌が終わったところで、ある者がグリンダに、「ところで、西の魔女と貴女は親しい友達だったのだって?」と聞き、それにグリンダが曖昧に答えるところから回想が始まる。

 母親の不貞と、それにより緑の子供が誕生する場面が手短に演じられた後、シズ学校の入学シーンに移る。「Dear Old Shiz」にのって、集まってくる学生の輪の中にはグリンダがいる。そしてそこにカバンをもったヤボな服装をしたエフファバが登場。彼女は、彼女の出産が原因で足が不自由に生まれついた妹のネッサローズの面倒を見るために、この学校に一緒に入学したのである。皆が彼女の緑の顔を見て驚き飛び退く。

 学長のマダム・モリブルが寄宿舎の部屋割を決めているが、エルファバの相手は見つからない。ところが、魔法の授業を受けたい一心のグリンダが、モリブルの質問を誤解して手を挙げたことから、彼女がエルファバのルームメイトになる。二人はお互いに反目し、グリンダは、「Popular」を歌いながら、ナルシズムに浸り、他方でエルファバは「I’m Not That Girl」を歌い、グリンダとは違う自分をアピールすることになる。そこにハンサムだが軽率な若者フィエロが登場。グリンダは早速アプローチして好い仲になるが、エルファバも密かに彼に気持を寄せる。そしてある日、グリンダがからかってエルファバに贈った魔女の尖がり帽子を、グリンダの心底からの贈り物と考え、二人の仲が急速に接近するのである。

 学校の授業が始まると、エフファバは才能を発揮し始める。学校では、人の言葉を話すヤギの先生(Dr.ディラモンド)がエルファバの能力に気がつく。しかし、その教師は、ある日、分からない理由により教師の職を解かれ拘束される。それまでは、人間と動物が同じ言葉を話し共生していたが、支配者オズの企みで、動物たちが言葉を奪われ、社会から排除され始めたのである。理不尽な仕打ちに怒りを膨らますエルファバ。そしてある日授業に連れてこられた檻に入れられたライオンの子供を助けようと檻をもって逃げだす。フィエロもそれを追いかけて飛び出すが、そこで出会った二人は気持ちを打ち明け合うのである。一方、グリンダに思いを寄せていたブ男で気の弱いボクは、グリンダの思いを引くために、車椅子から離れられないネッサローズの面倒を見ることになる。

 その頃、エルファバの下にオズが面会するという知らせが届く。オズとの邂逅を切望したエルファバは喜び、オズが拘束され言葉を失う動物たちを助けてくれると期待するが、実際のオズは、機械仕掛けの大きな仮面の張ったりをひけらかすだけで、魔法が使えないばかりか、魔法の本も読めず、そしてさらに動物を虐待し始めたのはオズその人の命令だったことが分かる。オズは、マダム・モリブルと組んで、自分の目的を遂げるために魔法が使えるエルファバを利用しようとしただけだったのである。「A Sentimental Man」を歌う生身のオズは、唯の呑気な伯父さんそのものである。彼に絶望したエルファバは、オズの魔法の本を奪い逃亡。期待を裏切られたオズは、エルファバをオズの国の敵である悪い魔女に仕立て上げる。一方グリンダは、エルファバの逃亡を助けながらも、国に残り、良い魔女として国民をまとめる役割を担うのである。またグリンダと婚約したフィエロは、国を守る兵士となる。そしてこのミュージカルの中で最も長い曲である、7分ちょっとに及ぶ「Defying Gravity」がエルファバ中心に歌われる中、箒をもった彼女が、邪悪な魔女となり空中に飛び上がり、第一幕が終了するのである。

(第二幕:9時20分―10時30分)

 20分ほどの休憩の後、第二幕が開始される。後半の最初は、エルファバが姿をくらましたオズの町で、人々が歌う「Thank Goodness」で始まる。今やその街の指導者になっているネッサローズの部屋に、密かにエルファバが現われ、「The Wicked Witch of the East」が歌われる中、魔法でネッサローズの足を直す。おずおずと歩き始めたネッサローズを見て、最早自分の居場所がなくなったと取り乱すボクを、エルファバは別の魔法でブリキの人形に変えてしまう。
 エルファバを探して森に来たフィエロとエルファバの再会。二人の愛が、デュエットでの「As Long As You’re Mine」で歌われるが、それが終わった時、エルファバは、妹のネッサローズに何か悪いことが起こっていると感じる。オズの町に戻ったエルファバが見たのは、竜巻に壊されたネッサローズの家。ネッサローズは死に、それを囮にエルファバを誘き出し捕まえようというアイデアを出したのはグリンダであった。エルファバを助けようと現われたフィエロは捕まるが、エルファバは逃れ、処刑されるフィエロが苦しまないように呪文を唱えるのである。

 エルファバを訪ねるグリンダ。しかし、そこに翼の生えた猿が、フィエロが死んだことを告げる手紙をもってくる。二人のデュエットでの「For Good」が終わった時、エルファバは「もう昔のフィエロには会えないし、私に出来ることはない。あとはあなたが私の出来なかったことをやる番よ」と言いながら、舞台の後ろに退く。そこでスクリーンに映し出されたエフファバの影が、掛けられた水で溶けていく様子が映し出される。残ったのはエルファバの母の形見であった緑の瓶。それを見てグリンダは、エルファバを悪い魔女に仕立て上げたモリブルを逮捕、オズを追放し、自らが国に支配者になるのである。オープニングと同じように、車輪に乗ったグリンダを中心とする全員での「Finale」が終わった時、案山子になったフィエロが登場。床をこんこんと叩くと、開いた床からエルファバが現われ、案山子男となったフィエロと手を携えながら舞台奥に消えていくのである。

 今回の俳優陣は、当然のことながらオーストラリア人が中心である。エルファバ役のジェンマ・リックスは、トライアスロン選手と結婚している26歳の女優で、昨年9月まで行われたオーストラリア・パースでの公演で、3年に渡ってエルファバ役を務めたということである。18歳で、地元シドニーで活動するロックバンドのボーカルとなった後、21歳からメルボルンに移りミュージカル女優に転向。大阪のユニバーサル・スタジオでのショウに出演していた時期もあったという。他方のグリンダ役のスージー・マザーズ(この日は、特段のコメントがなかったので、当人が演じていたのだろう)は、スコットランドはアバディーンの生まれであるが、西オーストラリアのパースで育ったとのこと。そこの大学で演劇を学んだ後、卒業から間もなく、このミュージカルのオーストラリア版に参加し、昨年のパース公演でも数ヶ月間この役を演じていたが、その前後はオーストラリアでの「ママ・ミア」の主役を務めていたそうである。自分自身は「チアガール」風の性格ではなく、むしろエルファバの方に親近感を感じると語っているとのことである。その他、オズ役のバート・ニュートンは、オーストラリアのテレビ等で長く活動してきた俳優、フィエロ役のデヴィッド・ハリスは1997年に「Best New Talent」に選ばれて注目され、その後「ミス・サイゴン」や「ママ・ミア」等にも出演した俳優、マダム・モリブル役のアネ・ウッドは、オーストラリア人であるが長くロンドンのミュージカルに参加してきたといった感じである。

 こうして10時30分にカーテン・コールが終了した。いつものように満席の観客が、唯一の狭い出口に殺到することから、劇場の外に出るには結構時間がかかったが、帰宅のタクシーの列はそれほどひどくなく、11時前には帰宅することになった。

 今まで当地で見た「キャッツ」や「ライオン・キング」は、ストーリーが単純なので、ある意味鑑賞が楽であった。それぞれの場面の意味は明らかで、それを理解することにエネルギーを使う必要はなく、ただ演出や歌、ダンスを楽しんでいれば良かった。

 しかし、この作品の場合は、むしろストーリーが作品を楽しむ上で重要な要素になっている。しかも、その裏にはそもそも「オズの魔法使い」の原作があり、この作品では、この原作を良く知っていることも、この作品を楽しむ条件になっているのである。しかし、私自身は、必ずしも「オズの魔法使い」の原作を熱心に読んだこともなく、そのストーリーの細部が頭にない状態で、前述のような、事前に掲載された新聞情報だけを頭に入れてこの日の公演に参加したというのが実態であった。

 このように事前準備が十分ではなかったことが、この日の公演を必ずしも十分楽しむことができなかった理由に思われる。特に、かつてNYで見た「コーラス・ライン」程ではないが、結構セリフ部分が多く、一部は聞き取れるが、分からない部分も多く、特に言葉で笑いを誘う部分は、何度か聴衆の笑いについていけないところがあった。そして何よりも、ストーリーの展開が、セリフを転機に進んでいくことが多い。それを聞き取れないことで、どうしてもそれぞれ場面の展開を想像に任せざるを得なくなってしまったのである。実際上記の物語も、その後ネットのサイト等を通じて、その時折の場面を思い出しながら再構成したものであり、見ている時に全て理解していたものではない。

 それに加えて、新聞評も指摘しているとおり、「オズの魔法使い」が単純な勧善懲悪物で、キャラクターの色分けもはっきりしているのに対し、このミュージカルでは、エルファバやグリンダだけではなく、夫々の登場人物が善悪の両義性を持っているという複雑な設定になっている。まずエルファバは「悪い魔女」であるが、彼女の緑の肌故に皆から疎んじられ虐めにあうが、実は妹思いで、世間の不合理に敢然と立ち向かう強い意志を持った存在である。それに対し、グリンダは、「良い魔女」であるが、実はミーハーでナルシストの利己主義者である。しかし、同時にオズに対しては面従腹背で、エルファバをひそかに助ける心も持ち合わせている。そして、軽薄な色男から、困難な状況の中エルファバを救う勇気を持った男に変身するフィエロ、同情からネッサローズを介護するが、治癒と同時に翻意するボイ、エルファバに対し愛憎共存するネッサローズ、暢気な伯父さんながら悪意に満ちたオズと、同じように謀略家のマダム・モリブルなど。夫々の人格を多重に設定していることから、ストーリーが頭に入っていないと、夫々の演じ方の評価が混乱することになるのである。例えば、グリンダは、当初はただ単純なナルシストのミーハー娘としてみていれば良かったが、後半その性格が複雑になると、「なぜ彼女が突然エルファバを助けるの?」といった違和感を持つことになってしまうし、それはフィエロの変化についても言えることであった。こうした複雑な人物設定を理解しないと、単純に歌と踊りと、そして次から次に変わっていく登場人物の華麗な衣装を楽しむだけのミュージカルになってしまう。そして、歌を楽しむには、もちろん個々の出演者の歌唱力は素晴らしかったが、夫々の歌が必ずしも印象的ではなく、またダンスにもこれはという抜きん出た特徴はなかったのである。
 
 その結果、今回のミュージカルは、今までシンガポールで見た3つのミュージカルと比較しても、最も「疲れた」作品になってしまった。それは一つには、ストーリーを追うために、セリフにそれなりに集中しなければならなかったことによる。それに加え、ストーリーについての予備知識がなく、そのセリフが十分に理解できなかったことから、結果的に観劇中は、必ずしも十分に演出の意図を理解できなかったことが、次の大きな理由であった。次回同じ作品に接する時は、今回公演後に仕入れた情報でもっと楽しむことができると思われるが、今回はそれがやや未消化に終わってしまったのがやや残念であったのである。

 しかし、こうした舞台が常にそうであるように、非日常的な祝祭空間を形成するという観点では、まさにこの派手な舞台は、当初の目的を十分果たしていると言える。その意味では、この舞台は、個人的にも、3月の日本の震災に始まり、欧州での信用不安、タイの洪水、そして最後は北朝鮮での金正日の突然の死と、公私両面でフラストの溜まる事件の多かった今年の最後に、その日常を一瞬忘れるカタルシスを与えてくれたのであった。

2011年12月24日 記