アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第五部:シンガポール編 (2008−2020年)
Cats - Musical
日付:2019年12月21日                                                                 会場:Esplanade Theatre 
 前回、当地でこのミュージカルを見たのは2009年4月であるので、約10年振りの再会である。しかし、当時の評に書いたとおり、その前に見たロンドン公演からは約20年振りであったので、それに比べると、まだ間隔は短い。

 その後、当地では数々のミュ−ジカルを見てきたので、現在は、これが貴重な公演という訳ではない。しかし、今回の公演も、年末の12月17日(火)から1月5日までの3週間弱と、短い期間限定である。年末25日には日本に一時帰国してしまい、帰国は終了日である1月5日朝であるということもあり、帰国前唯一の週末である21日(土)のマチネのチケットを早々に押さえることになった。

 当日の席は一階、ステージに向かってほぼ中央。ステージまではやや距離があるが、まあ、S$154 のチケットなのでよしとしよう。開演直前、私の後方には結構空いた席も目立っており、もちろん開始後遅れて来る客もいたが、インターバル後もあまり変わらなかった。期間限定の公演の週末である割には、人気が今一であるのは何故だろうか?ステージのセッティングは、いつもの通り、タイヤや水道管などが散在するゴミ置場のイメージである。

 定刻2時を少し過ぎると会場が暗くなり、事前のアナウンスで、撮影の禁止と、演奏は生であることが告げられる。プログラムには、指揮者に加え、キーボード3人、ギター、ベース、ドラム、及び管楽器二人と「Orchestral Management」1名の、計10名がクレジットされている。

 イントロのシンセサイザーによるテーマが流れる中、多くの猫が会場の通路を通りステージに向かう。30年前のロンドン公演時、この演出のため、遅刻した私は、最初の15分程度、外で待たされることになったが、今回も同じ演出である。私の横も一匹が通り過ぎて行き、冒頭のカンパニーでの「ジェリコ・キャット(Jellicle Cat)」の歌とダンスが始まる。前の評に書いた通り、このミュージカルは、内容はどうってことはない。満月の夜に、それぞれの猫が自分たちの特技を披露してチャンピオンを競うというだけであるが、相変わらず、アンドリュー・ロイズ・ウェーバーの音楽と、それに合わせたダンスと演出が素晴らしい。ウェーバーのこの前後の他のヒット作も、以前の評に書いた通りであるが、スロー・バラードからアップ・テンポのハリウッド風フォービートのスイングまで、今回は、事前にオリジナル版のDVDをそこそこ予習してから公演に向かったので、曲は、ほとんど聴きなれたものである。ダンスも、映像とほとんど変わらぬ感じである。Rum Tum Tugger のマッチョなセクシーダンスや Mungojerrie & Rumpleteazer のデュエット・ダンスの最後のキメもいつものとおりである。主役である Grizabella が登場し、主題である「メモリー」の一部が披露されたところで、第一幕が終了し、20分ほどの休憩に入る。休憩中は、王様猫がステージに残り、観客との写真撮影に応じていたため、ステージ前にはそれを待つ長い列ができていた。

 後半は、「The Moment of Happiness」で、「メモリー」のさわりが別の雌猫により歌われた後、Theatre Cat のスローな囁きから、アップ・テンポのダンスに移る。10年前の公演では、タイの戦士の衣装を着た一団と山車によるダンスが披露されたが、今回は、こうした演出は見られなかった。The Railway Catでの、汽車のパーツを組み合わせ、それが最後にまたバラバラになる演出や Macavity を巡る若い雌猫のセクシーなデュエット、Macavity の一団による王様猫の網を被せての拉致、そして The Magical Cat の華麗なダンスと赤いシートから王様を再登場させるトリック等は、DVDで見慣れた風景であるが、夫々の歌唱力やダンスはなかなかである。そしてそこからグリザベーラによる「メモリー」へ。若い猫との歌い分けも、オリジナル通り。やはり、このメインテーマは、何度聴いても感動的である。そこで祝福されたグリザベーラが「天国への旅路」を辿るが、今回の演出は、王様猫と一緒に乗った古タイヤ(ここまではいつものアレンジである)からワイアーで右上方に釣り上げられ消えていくという演出であった。こうして最後のエンディングが終了したのはほぼ4時30分頃であった。カーテン・コールでは、また猫たちが会場を回り、私の横の通路にも一匹、しばらく戯れていたが、今回の席は中央部なので、猫にはやや距離があった。このミュージカルの場合は通路側の席を取っておくべきだったと反省したのであった。

 公演後、前回同様、プログラムをもう一度眺めると共に、オリジナル版のDVDを眺めてみた。

 まず俳優陣であるが、グリザベーラ役の Joanna Ampil は、ロンドン・ウエスト・エンドを中心に活動しており、ミス・サイゴンの Kim や、レ・ミゼラブルの Eponine、Fantine 等を演じた他、Abbey Road Studio で録音された2007年のソロ・アルバムを始めとして既に3枚の作品を発表しているということであるので、知名度はあるようである。ネット情報によると、1975年マニラ生れのフィリピン人。アジア系であることから、今回の公演でも主役を務めることになったのだろうが、それを別にしても、マニラから出てきて、ロンドンで成功しているところはたいしたものである。また王様猫は、Nicholas Pound という俳優が演じている。彼は、生活の拠点をスペインに移して既に9年ということであるが、活動はウエスト・エンド中心で、レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンやエヴィタのペロンを演じているという。それ以外は若い俳優が多いが、彼ら、彼女らもウエスト・エンドの実績が中心であるところをみると、今回のカンパニーは英国中心に構成されている感じである。10年前のシンガポール公演は、オーストラリアの劇団で、出演者のほとんどがオーストラリア出身者であったことを考えると、素人にはその差は分かり難いが、今回の方が、より本場に近い公演であったように思えてしまうのは、私のウエスト・エンド贔屓の故であろうか?

 今回の公演全体を評価すると、前回同様、期間限定公演であることによるセッティングの限界を除けば、原作の素晴らしさもあり、それなりに十分楽しめる内容であったと言える。また10年前の公演も、一部生演奏であったと記憶しているが、今回は生演奏であることが最初にアナウンスされていたことから、音楽もそれを意識して聞いていたが、キーボードでの主旋律のみならず、舞台の進行に合わせたドラムのリズムの調整など、見事であった。まさに今回の世界公演のために、相当リハーサルを積んだあとが伺われた。もちろん、ステージまでの距離故に、オリジナル版のDVDのように、それぞれの猫の豊かな表情などは、この日も楽しむことはできなかったが、それを割り引いても、十分価額に値する舞台であった。

 これからあと何回、この地でこうしたミュージカルを楽しめるかは分からないが、今後もこうした機会逃さず参加したいと痛感した、雨模様の週末であった。
                          
2019年12月22日 記

(追記)

 2019年12月24日付、当地新聞(The Straits Times)に、近々公開されるこのミュージカルの映画版との比較も交えた評に加え、その舞台裏が紹介されている。この公演のために226の衣装と180の予備が準備され、一回の上演毎に洗濯されているという。また照明担当も激務で、公演の間に285もの合図に合わせ点滅や暗闇などを演出しなければならない。またグリザベーラ役の Joanna Ampil の化粧中の写真や、主要キャラクターの映画版との写真比較もあり、映画版が公開されたら見てみようという気にさせる(映画版では、雌猫のセクシーなデュエットの一人は、Taylor Swift が演じている)。

 肝心の評は、「このミュージカルは、初めは奇妙に思えるが、これは気ままな歌と踊りで楽しませる現実逃避者の幻想なのだ」という副題がついている。原作であるT.S.エリオットの詩作活動などにも触れた、ややペダンチックなものであるので、詳細は省略するが、要点は以下のとおりである。

 評は、猫の衣装をまとった俳優が、T.S.エリオットの詩を歌いながら踊るこのミュージカルが、ロンドンはウエスト・エンドで初演された1981年から、分裂した評価があったとしている。しかし、今回初めてこの公演を見た評者は、これは、筋書きのない奇妙な舞台であることを楽しむものである、という。

 評者は、ロンドンでの初演のリハーサルで、主演女優がアキレス腱を切り交替したという逸話や、当初ロイド・ウエーバー自身が、これは失敗作だったと考えたことを紹介している。しかし、もちろんこのミュージカルは、米国ブロードウエイでも、一時は最長のロングランとなった(それを超えたのはLion King、Chicago、そして彼自身のThe Phantom Of The Operaであった)。

 これを見た後、数日たっても印象深いのは、俳優たちの運動(ダンス)能力である。もちろん多くの旋律も残っているが、それは、子供の頃から幾度となく聴く機会があった「メモリー」だけではない。またこの作品のもう一つの大きい魅力は、猫の名前などのユーモアで、これがコーラスで歌われると、つい吹き出してしまった。そしてロイド・ウエーバーの旋律は、エリオットの詩にぴったりと合っている。例えば、Rum Tum Tigerについての詩は、突き刺すようなロックンロール以外では聴くに堪えないものである。

 評者は、エリオットの書いた滑稽な猫のデッサンや、その奇妙な数々の名前の由来について触れている。そして、glamour cat であるグリザベーラは、もともとの本にはなかったが、2003年に発見された、夕食に招待してくれた友人宛ての、お礼の手紙の中に発見されたという。グリザベーラについてのエリオットの詩は、特に若い人々には、余りに物悲しいが、それは「メモリー」の旋律にはぴったり合っている。

 この作品が1982年にブロードウエイで初演された際は、The New York Timesの評者は、「これは劇場の中でしか存在しない完璧な幻想を観客にもたらしたが、他方でしっかりとした輪郭と感情を欠くことになった」と書いた。その他の多くの評者も、この作品は感情的な重みがなく、「メモリー」が歌われる場面以外は、素晴らしい景観以上のものではない、とコメントした。しかし、こうした表面性は、この作品の実態そのものなのであり、またそれ以上のものでもない。かつて、ロイド・ウエーバーは、米国の著名な演出家であるハロルド・プリンスにこの楽譜を演奏してみせた。プリンスは、その後、ロスアンジェルスの新聞に、この時のことをこう書いた。「私は彼に言ったんだ。アンドリュウ、私にはこれは理解できない。これは英国の政治を皮肉ったものなのか?例えば、これらの猫は、ヴィクトリア女王、やグラッドストーン、ディズレイを模したのか?彼は、長い間、いかにも私を、気が違ったかのように眺めてからこう言ったんだ。ハロルド、これはただの猫についての話だよ、と。」そう、風景が流れていく、それだけで、この作品は「現実逃避者の幻想」なのだ。そして歌とダンスを愛したエリオットは、それだけで満足しているだろう。

 エリオットが神経衰弱を引き起こす2年前である1919年のエッセイに、彼はこう書いている。「詩というのは感情を解き離すものではなく、それから逃れようとするものだ。それは人格の表現ではなく、それから逃れようとするものだ。でも、そうした人格や感情を持っている者だけが、それから逃れようと欲することの意味を分かっているのだ。」

 今週シンガポールで封切られるTom Hooper監督の映画版のCats は、半分人間、半分猫のデジタル衣装で飾られた奇妙な生き物が登場する。これは批評家たちを悩ませており、ある評者は、「ゴミ箱の中での、毛皮の乱交の一歩手前」の映画とまで言わせた。でも忘れないでほしい。生のミュージカルも、エロティックな要素は持っており、それは Rum Tum Tiger の尻振りと、それに恍惚感溢れた叫びでひれ伏す雌猫たちを思い浮かべてほしい。そうした馬鹿馬鹿しさがなければ、それは Catsではない。少なくとも、エリオットの家の管理人であった女性は、そう考える一人である。先週、英国の新聞は彼女が、「エリオットはおそらくそれが大好きだった」と言ったことを伝えている。「彼(エリオット)は、ユーモアのセンスが抜群で、広い心を持ち、そして自分の頭を吹き飛ばすようなことが好きだった。彼は変わった人物で、彼の作品もそのように変わったものなのです。」

 まあ、このミュージカルは、あれこれ考えず、夫々異なる外見の猫の、ただ刹那的な歌と踊りと楽しめば十分というのが、この評の趣旨であれば、それはそのとおりである。やや分かり難い文章ではあるが・・。これから始まる年末年始の休暇明けに、まだこの映画版が上映されているようであれば、比較を兼ねて見ておくことにしたい。

12月24日 クリスマス・イブの夜に。