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アイム・スティル・ヒア
監督:ウォルター・サレス 


 「国宝」や「教皇選挙」について話をする中で、もう一本、映画通の友人から推奨されたブラジル映画である。「国宝」や「教皇選挙」は、エンターテイメント的なフィクションを散りばめた楽しめる作品であったが、やや現実離れしたところもあった。それに対し、こちらは現実に起こった事件を基にした実話ということで、最後の場面では、私としては久し振りにある種の感動を味わうことができたのであった。「教皇選挙」と同じ映画館に向かったが、今回は迷わず直行することになった。2024年制作のブラジル映画。監督は巨匠ウォルター・サレスということであるが、もちろん私は初めて聞く名前である。2024年の第81回ベネチア国際映画祭で脚本賞、第97回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞したとのことである。

 1970年の軍事政権下のブラジルはリオ・デ・ジャネイロ。よく知られているそこの美しい砂浜で、小さい子供たちが楽しく遊ぶ場面から映画が始まる。彼らは、元国会議員の弁護士ルーベンスと妻エウニケ(映画の最後に知らされる彼女の逝去年とその年齢から遡って40代始めということが後から分かった)と、その4人の娘と一番末の男の子(マルセロ)で、彼らは海岸に面した豪華な家で、家政婦も使いながら優雅に暮らしている。丁度長女を英国に留学に出したところで、英国の彼女からは、アビーロードで撮影した写真なども送られてきている。彼らの自宅には「King Crimson」のあの奇怪なジャケットのデビューアルバム等も置かれている。

 その暮らしが一変するのは、ある日軍事政権の息がかかったと思われる公安の一味が突然自宅を訪れ、ルーベンスを連れ去ってからである。「何も心配するな」と言い残して連行されるルーベンス。ただ確かに、それまでも平和な暮らしの中、ルーベンスは時折秘密っぽい電話を受けていた。そしてエウニケや次女もしばらくして拘束され、エウニケは数日に渡り、汚い独房に監禁され、夫の交友関係等につき厳しい尋問を受ける。彼らによると、ルーベンスは1965年頃共産党のシンパであり、現在もそうした反体制派の支援をしているとのことであるが、エウニケは、現在は、夫はそれに全く関わっていないと主張し続ける。結局彼女と次女は解放されるが、ルーベンスの消息は分からず、家族は家の前に停車した車にいる男たちから常時監視されることになる。エウニケは、友人の支援を受け、また海外メディアも使い夫の解放を訴える。また夫が殺されたという噂も聞くが、それを確信させ、メディアを納得させられる確報もないままである。結局、夫からの収入も途絶え、生活費にも困窮し始めたため、夫の生死も分からない中、リオの豪華な家を売払い、実家であるサンパウロに転居することになる。その豪華な家からの一家の引っ越しは1996年とされているので、この間1年ほどが過ぎたということになる。

 そして場面はそれから25年が過ぎた1996年に跳ぶ。60代後半となったエウニケは、弁護士の資格を持ち、アマゾンの環境保全や原住民の権利保護の活動を行っているが、そこに当局から知らせが入る。中年になった長女とマルセロー彼は事故で半身不随となり車椅子での移動であるが、本の執筆でその障害を克服した作家として著名になっているーを伴い行政府を訪れたエウニケはそこではようやく夫ルーベンスの死亡証明書を受け取ることになる。メディアに囲まれた記者会見にも望んでいるが、夫の死因は不明で且つその遺骸も見つからないままである。

 そして最後は2014年。車椅子に乗り、かつての面影を残さない老境に差し掛かっているエウニケは、娘息子やその家族と一緒のパーティーで、無表情にテレビの画面に見入っている。そこでは、26年に及ぶ軍事政権下で多くの人々が不法に拘束され殺害されたことを政府が認めた、というニュースが流れているのである。しかしその被害者の多くは死因も知られず、遺体も見つからないままであるとしてルーベンスの写真も取り上げられているのである。そして2018年、晩年は認知症に陥ったというエウニケが89歳の生涯を閉じた、というルビと共に映画が終わることになる。

 マルセロが2015年に発表した回顧録に基づく実話の映画化ということであるが、南米諸国での戦後の政治混乱や軍事独裁がもたらした悲劇はブラジルでもこうした事件をもたらしていたことを改めて知らされる。冒頭の彼らの生活は、それこそブルジョア的な豊かで且つ幸福に満ちたものであったが、それがちょっとした過去の疑惑から生活が一変することになる。そしてその真実を、生涯を通して追い続けたという人々もいたのである。映画の最後、無表情のエウニケが、軍事政権下での被害を報道するテレビを眺める場面では、久し振りの感涙さえも流してしまったのであった。これを薦めてくれた友人は、さすが半世紀に及ぶ継続的な付合いの中で、私の性格や嗜好をよく分かっているなと思いながら・・・。

 このエウニケ役は、フェルナンダ・トーレスというブラジルでは著名であるという女優が演じているが、晩年の彼女を演じているのはその母親でやはり女優で、同じ監督の作品で数々の受賞歴もあるフェルナンダ・モンテネグロ。映画を観ている時は、これは同一人物が演じているのだろうかという疑問を持ったが、流石にそれは別人であった。しかし、それを親子で演じさせるというのも監督の気の利いた趣向である。

 ということで、「国宝」や「教皇選挙」とは異なる感動を与えてくれた人生で初めてのブラジル映画であった。
                          
鑑賞日:2025年9月10日