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シンガポール通信
旅行
カンボジア旅行記(写真付)
2009年1月24日―27日 
 アンコール・ワットへの関心は、学生時代にアンドレ・マルローの小説で、当時ゴンクール賞を受賞した彼の出世作である「王道」を読んだ時から心に残っていた。彼自身の実体験をもとにしたこの小説は、当時フランス領であったベトナムやカンボジアのジャングルに、探検の刺激を求め、フランス人の若者たちが入り、そこで発見した遺跡を運び出せる限り持ち出し、故国に持ち帰るという冒険談であった。残念ながら、今手元で、この小説の詳細を確認する手段はないが、これをきっかけに、当時凝っていた戦後フランス文学の中でも、特殊な位置を占めるマルローの作品にのめりこんでいった記憶がある。そして20世紀初頭の上海での蒋介石による反共クーデターを描いた「人間の条件」や確かスペイン内乱が舞台であったと記憶している「希望」等に感銘を受けると共に、60年代には、ドゴール政権の文化相を勤め、パリの街の大規模な煤払いをするなどで話題を振りまいていたこの男の生き方にも興味を覚えたのである。

 そのマルローは、実はこのクメールの遺跡を違法に持ち出した嫌疑で、フランス官憲に逮捕され、かの地で拘束されるが、既に若い才能ある小説家として名が売れていたことから本国の文学者たちが釈放運動を行った結果、自由の身になって中国に移動したという経緯がある。

 その後、1970年代に入り、カンボジアの地は、ベトナム戦争の後背地となり、続いてクメール・ルージュによる「Killing Field」として世界の注目を集めることになる。80年代ドイツでの歴史家論争の主題のひとつとして、「ナチスのユダヤ人虐殺とスターリンの粛清、そしてポル・ポトの虐殺は同じ土俵で議論ができるのか?」と論じられたこのカンボジアでの知識人階級絶滅の歴史は、同名の映画と共に頭に焼きつくことになった。2度と見たくない悲惨な映画であるが、虐殺を生き延びた主人公が、死骸が散乱する湿地帯を歩く中、ジョン・レノンの「イマジン」が流れる最後のシーンを忘れることはできない。

 しかし、こうした苦難に満ちた現代史を辿ってきたカンボジアも、最近は、中国プラスワンの産業立地として、タイとベトナムの双方に近い地理を生かした外国企業誘致による経済成長を模索し、日本のODAやNPOもそれを積極的に支援しているという。こうしたアジアの次を担うであろうカンボジアを一回休暇中に見ておこうということで、旧正月の4連休を利用して一人旅で訪れることになったのである。

1月24日(土)

 旧正月休暇でフライトが混んでいたのであろう。予約できたのは、クアラルンプール、プノンペンと2か所でトランジットの上、最終地シェムリアップに到着するという便。直行が取れれば2時間ちょっとという距離であるので少し馬鹿馬鹿しいが、時期と一人旅ということを考えるとしょうがない。実際トランジットでの唯一の小さなトラブルは、プノンペン空港で、トランジットのチェックイン場所を聞いた係官何人から違う事を言われ、同じようにターミナルの一階と二階を右往左往するフランス人家族と、「どうなってるのだ」と文句を言い合ったくらいで、結局それも、いったん国際空港出口でヴィザ(あらかじめEヴィザを取得していたので簡単であった)を提示し入国の上、改めて国内線のターミナルに移り(といっても小さい空港なのですぐ横である)、改めてそこでチェックインをするということで簡単に解決した。1時間半ほどの時間があったので、まずシンガポール・ドル100ドルをカンボジアの通貨リエル(Riel)に交換する。233,100リエル。インフレ通貨の貨幣感覚にすぐ慣れることのできないのは、昔デノミ前のポーランドに行った時と同じ感覚である。シンガポール・ドルを介在させ、一番枚数の来た10、000リエル札が約400円弱、それ以外の少額紙幣は無視、というイメージを頭に入れた。しかし、後ほど述べるように、リエルへの交換はこれが最初にして最後であり、それからは、この最初に交換したリエルをどのようにして使い切るか、ということに腐心することになったのである。

 プノンペン空港ターミナルの外の気候は曇り。暑いが空気が乾燥しているので気持ちはよい。カンボジア語のアナウンスがややうるさいが、外のベンチで本を読んで時間を潰しながら、集まる人々を眺めているうちに出発時間となった。プノンペンーシェムリアップのバンコックエアー便は久々のプロペラ機であるが、昔日本国内でYS11に乗った時に感じたようなプロペラの音の煩わしさはなかった。1時間もしないうちに、シェムリアップ空港に定刻の午後1時半に到着した。

 シェムリアップ空港は国際空港ではあるが、ブリッジはなく、飛行機のタラップを降り、歩いてターミナルに向かう。既に入国は済ませており、チェックイン荷物もないことから直ちにタクシー乗り場に向かったが、そこで最初の驚きに接することになる。

 出口左横にタクシーデスクがあるが、そこには市内までのタクシー料金は「12米ドル」と表示されており、現地通貨であるリエルは受け取らないという。手持ちは、リエルの他はシンガポール・ドルであるが、これも最初はダメとのこと。押し問答の結果、結局15シンガポール・ドルで了承させたが、この国の流通通貨は米ドルであるということが、その後街の至る所で思い知らされることになる。

 若い男の子が運転するタクシーで街に向かう。20分ほどで、予約した「Prince D’Angkor Hotel & Spa」に到着。到着前に運転手が、「アンコール観光のアレンジは出来ているのか?」と聞くので、「ホテルでグループ・ツアーをアレンジするつもり」と答えると、「グループ・ツアーは出発地でアレンジされているものだけで、ここで参加できるものはない。ツアーは全て個人での観光になる」と言い、「自分はアンコール・ワット地域であれば、25米ドルで回る」とのこと。ホテルで、運転手を待たせ、チェックインした後にコンセルジュに聞くと、やはり現地でのグループ・ツアーはなく、個人観光のアレンジしかしない、とのこと。ホテルでのアレンジが30米ドルであったことから、結局空港からの運転手に、それでは明日は君に頼む、ということで、8時に来るよう約束し別れた。

 部屋で軽装に着替えて、早速街中に繰り出した。ホテルはシヴォッタ(Sivatha St)通りというこの街最大のショッピング街との触れ込みであるが、ホテルのすぐ横が道路工事で通行止めになっている。車はそれほど多くないが、アジアの町特有の、バイクとチュクチュクの群れが行き来する。通り沿いにはほとんど高い建物はなく、ホテルを除けばほとんどが3階までの高さで、そこに食堂、雑貨・お土産屋、マッサージ屋などが並んでいる。乾季であることもあり、舗装されていない道路からあがる埃が空中を舞っている。まず早速通りに何件も並ぶマッサージ屋の幾つかを覗き、そのうちの一つが、まあ小奇麗で、1時間のタイ・ボディ・マッサージ6米ドルを5米ドルにするということで、候補の一つにする。現地向け食堂や観光客向けレストランも数は多く、選択には困らない感じ。小一時間ほど歩き、帰りがけに「オールド・マーケット」も眺めながらホテルに戻り、そのままプールサイドでしばしのんびりと過ごしたのである。

(ホテル部屋よりプールサイドを臨む)


(シヴォッタ通り)
 

 夕刻、プールから上がり、先ほど目星を付けたマッサージ屋(Khmer Hand Spa)に向かう。アジアのどこにでもある、一階がフットマッサージ、2階以上がボディーマッサージという造作。そこで1時間コースでのんびりとしたが、腕は可もなく不可もなく、というところで、ここには結局、3日間全て通うことになってしまった。

 その日の夕食は、偶々到着時、ホテルのコンセルジュが、近所で、7種類のカンボジア・ダンス(アプサラ・ダンス)のショウの付いた、ビュッフェで12米ドルの有名なレストランがある、という話を聞き、初日でもあり、まずはそれに乗ってしまえということで、ホテルの近所にあるその「Koulen」というレストランに行った(確かに、後で「地球の歩き方」を見たら「アプサラ・ショウを観られるレストラン」ということで掲載されていた)。しかし、安易にコンセルジュの勧めに乗ったのは失敗であった。広い、半分オープンエアー風のレストランは、ブッフェ内容はまずまずであったが、なんと日本の団体ツアーの集合場所だった。しかもテーブルが、その日本人団体の周辺であったこともあり、日本人のおじさん、おばさんの行動を眺めながらの孤独な食事になった。ダンスを二つ見たところで、食事も一服したので、早々に逃げ出し、ホテルでゆっくりしたのであった。そしてホテルに帰った時に気づいたのであるが、偶々インターネットでいい加減に予約したそのホテルも、日本人団体客の大量宿泊場所だったのである。

1月25日(日)

 いよいよ、今回の旅行の目玉、アンコール周辺の遺跡めぐりである。日本人団体客だらけの朝食ブッフェを食べ、8時、迎えに来た運転手の車に乗り込んだ。ネット(Neth)という名前の彼は、24歳の独身。うっすらと顎鬚を生やしているが、なかなか可愛い男の子である。まずアンコール地域の入場券を購入する窓口へ。団体客に混じり小さな混乱はあったが、写真を撮影の上、その写真入りの1日券を20米ドルで購入。3日券もあるが、そこまでの必要はない。そして9時前には、アンコール・ワットを囲む堀が視界に入ると、その正面入り口に到着、観光を開始した。

(入口からAWを臨む)


(参道にある経蔵)

   

 南北約1300メートル、東西約1500メートルの堀に囲まれた12世紀後半建立のこのヒンズー寺院に入るには、まず堀を跨ぎ約600メートル続く参道をまっすぐ進む。天気は快晴で、日差しが直接降り注ぐが、早朝で空気が乾燥していることもあり、時折そよぐ風が清々しい。両側に蓮を浮かべた聖池を越えると神殿の入り口になる。三重の回廊で囲まれた建物の中に入り、いくつかの選択肢のある観覧ルートの表示を見ながら、さてどちらに行こうかと思案する。結局、まずは正面にある4つの沐浴の池を横切り、階段を上り第二回廊に入る。そこから中庭を抜けた第三回廊が本堂であるが、ここは立ち入り禁止となっているので、左回りで第二回廊を回り、いったん反対側の第一回廊沿いの中庭まで出たところで引き返し、再び第二回廊の反対側を回って正面に戻った。立ち入り禁止の本堂を見上げると、壮大な4つの塔が聳え立っているのが見え、なかなか壮観である。こんな建物が、20世紀初頭に至るまで世界から遠ざけられていたこと(1914年にフランス人により「発見」されたと言われている)に改めて思いを寄せる。第二回廊の壁の一部にあるレリーフも、なかなかの迫力である。

(第二回廊横の中庭から本堂を見る)


        
    

 しかしレリーフは何といっても外側を取り巻く第一回廊である。正面に戻ったところから、今度は左回りに第一回廊を回る。内部に入っていた時には人も疎らで、ゆっくりマイペースで観覧していたのだが、10時に近くなったこともあるのだろう、第一回廊にはガイド付の団体旅行客が目立つようになってきた。国籍で目立つのは、まずうるさい韓国人のツアー、そしてそれに比べると格段に静かなドイツ人の団体客が目立つ。
そうした団体客がいる場所は素通りしながら、ゆっくり見られるレリーフを観察した。多くはサンスクリットの伝説に基づいているのであろう、戦いや凱旋の図、王宮での生活を記したもの等々、第一回廊のほとんどの壁は、こうした繊細なレリーフに覆われている。ガイドブックによると、左奥のレリーフは、作風が雑なので中国人の作によると考えられている、とのことであったが、それでも十分鑑賞に耐える仕上がりである。こうして第一回廊を30分ほどかけて一周し、正面入り口に戻った。

(第一回廊のレリーフ) 


(正面入口に戻る)

  

 出口に向けて歩く途中で、右側の池の反対側に土産物屋の屋台が連なっているので、眺めにいった。アジアのどこにでもあるような安物の土産物屋であるが、そのうちの一つで売っていたアンコール・ワットを描いた油絵を一つ購入した。米ドル希望ということであったが、そこはリエルしかない、という条件で交渉し、75000リエルを支払った。何かたいへん高価な買い物をした感じがあるが、実際は3000円弱。それでも現地基準では高いのであろうが、まずは、この壮大な遺跡を訪れた記念である。
こうして、11時前に、正面入り口で待っていた運転手と合流し、次の目的地であるアンコール・トムに向かう。

 アンコール・ワットがひとつの遺跡であるのに対し、「大きな町」という意味のアンコール・トムは、一つの古代都市であり、そこに街を構成していた幾つもの遺跡が散らばっている地域である。数分のドライブで、その地域への入口の一つである「南大門」を抜け、まずその中心的遺跡である「バイヨン」に到着する。

 バイヨンは、やはり12世紀末建立のヒンズー寺院であるが、アンコール・ワットに比べると、まだ修復が終わっていない部分も多く、本来の姿からは程遠いという印象である。しかし、「穏やかな笑みをたたえた観世音菩薩のモチーフで有名な寺」と言われるように、いくつかの塔に刻まれた巨大な仏像の表情が印象的で、心を和ませてくれる雰囲気がある。アンコール・ワット以上に団体観光客(ここでも韓国人とドイツ人が目立ったが、アンコール・ワットでは見かけなかった日本の団体客も二組遭遇した)が増え、狭い建造物内は、やや混雑してきている。この寺のレリーフも有名だそうで、一部日本人団体旅行のガイドの日本語の解説を後ろで聞いたりしながら、しかしすぐに彼らのペースに飽きて、また団体客を避けながら30−40分ほどで切り上げ、次の遺跡へ移動する。

(バイヨン側面)


(観世音菩薩像)

    
 10分ほど歩くと、次に出てきたのはピラミッド型寺院である「パプーオン」である。二つの池の中央にある短い「空中回廊」を経て正面に出るが、ここは現在修復中で立ち入り禁止であったので、外から軽く眺め、続けてその隣にある王宮内のピラミッド型寺院「ピミアナカス」に向かう。この遺跡には頂上に登るために、片側のみ柵のついた木製の狭い階段が掛っている。まあ、登ってしまえばこれだけか、という遺跡であるが、下りる際にちょっとした問題が発生した。

 狭い階段は、人一人が上り下りするので一杯で、すれ違うことはできない。結構高さのある、片側が開いた階段は、上から見下ろすと結構スリルがある。そして登ってくる人が切れるのを待って、このスリルを味わおう、と思っていたのだが、次から次に昇る人並みが切れず、結局5−6分、ずっと下を見下ろし続けることになってしまった。私の後ろにも何人か下りを待つ人の順番が出来ているが、登る人々からはそれが見えないのであろう。結局、少し間隔が空いたところで、大声を発し、登りの人々に待ってもらい降りることができたのであるが、観光客がもっと増えたらどう昇降を規制するのだろうかという疑問が残ることになった。

(パプオーン)

              
(ピミアナカス)

  

 ピラミッドの昇降でやや疲れも出てきたので、男女別々の沐浴場である女池、男池を左に見ながら運転手との待ち合わせ場所に向かう。途中、位置的に「像のテラス」と思われる場所に来たが、それらしきものはない。おかしいな、と思いながら幹線道路に向かって階段を下りると、どうってことはない、私の立っていた場所がその「像のテラス」で、下から見ると、像のレリーフが広い壁一杯に描かれているのである。それを見ながら、待ち合わせ場所の食堂に戻り、冷たい飲み物で一服した。

 時間は既に12時を回っている。陽も高くなり、乾燥しているとはいえ、暑さがこたえる時間になっている。運転手は、これからまたいくつか遺跡を紹介する、といって出発。まずは「勝利の門」を潜りアンコール・トムの町の外に出る。途中、「トマノン」と「チャウ・サイ・テボーダ」という小さめの廃墟を短時間で眺め、「タ・ケウ」は車から見たということでパスし、次に向かったのは「タ・プローム」。長い参道を進むと、今まで以上に荒んだ遺跡に辿り着く。まあこれも、似たような廃墟だなと思いながら中に入ると、今までと少し異なる景観が眼に飛び込んできた。廃墟の建物を、大きな樹木スポアン(よう樹)の巨大な根っこが覆っている。しかも、一箇所だけではなく、至る所で、それこそ、映画「カリブの海賊」に登場する蛸の化け物がその足で船を覆うように建物に絡み付いているのである。ガイドブックによると、「熱帯で管理を行わないとどのようになるかという、自然の脅威を身に染みて感じる」とのことであるが、むしろこの光景は、人間の建造物と自然が織り成す大いなる芸術と呼んだほうが良いくらいである。むしろ建物を修復せず、この状態を維持しつつ、次に自然がどのような超自然を作り出すかを見てみたいという感慨を抱いたのだった。

(タ・プローム)



  

 参道が長かったのと、遺跡も奥が深かったこともあり、また疲労が襲ってきた。次に訪れた「スラ・スラン」を早足で眺め、入り口の対岸にある大きな水郷で一服して車に戻った。運転手は、もう少し案内しようといっていたが、時間も2時近くになっていたので、遺跡巡りはここまで、と告げ、ホテルに向かった。

 ホテルの手前で、一箇所運転手に依頼して立ち寄ったのは、前述のポル・ポト時代の大量虐殺の慰霊塔である「キリング・フィールド」メモリアル。かつて監獄として使用され、大量処刑が行なわれた学校は今や取り壊され、仏教寺院となっているが、そこに僅かながら、その蛮行を記録する慰霊塔等が残されている。その慰霊塔の4つの側面にあるガラス窓からは、中に入っている蓋骨や骨が覗かれる。その前の掲示板には、虐殺で死んだか、行方不明になったと思われる人々の、セピア色に変色した写真の飾られた掲示板。たったこれだけであるが、それで十分である。楽しい休暇で訪れる場所ではないが、かつて寒い冬に一人で訪れたポーランド、アウシュヴィッツ収容所跡で抱いたのと同じような感覚を、この暑いカンボジアで久々に感じたのであった。

(慰霊碑の中に積まれた骸骨の山)


(内戦犠牲者の写真)


 ホテルに戻り、疲れた身体を、プールサイドで休めながら、暑くなると軽く泳ぎ、それ以外は本を読んだり、うとうとしたりという、シンガポールと変わらぬ怠惰な時間を過ごした後、夕方再び、昨日行ったマッサージで体を解した。
夕食は外人観光客があふれている通り沿いにあるKhmer Ideaという小さいレストランで、ビールにトムヤンクンと海鮮炒め物プラス白米(計:8.25米ドル)。やはりこっちの方が、昨日の日本人だらけのブッフェよりも気楽である。涼しい風に吹かれながら、ブラブラとシヴォッタ通りを歩き、ホテルを少し越えた反対側にある近代的なショッピングセンターを眺め(きれいであるが、まだ空きスペースが目立っていた。周囲とは全く異なる建物なので、現地基準では賃料も高いのだろう)、そこで買ったアイスクリームを嘗めながらホテルに戻ったのであった。夜は、全豪テニスのテレビを見ながらゆったりと過ごした。

1月26日(月)

 メインイヴェントを終わらせてしまったので、この日はのんびり過ごすことし、昨日の運転手の男の子に9時に迎えに来るよう依頼しておいた。トンレサップ湖の往復で15米ドル、という握りである。

 トンレサップ湖は、「伸縮する湖」として知られている。現在は乾季であるが、雨季に入ると約三倍にまで湖面面積が広がるという。もちろん乾季であっても広大な湖で、この湖からトンレサップ川を下りプノンペンにいたる定期船も出ているとのことである。
シェムリアップから約30分のドライブで、船着場に到着する。手前のチケット売り場で、24米ドルを払ったが、これは一人であることから、やや割高になっているようだ。船着場に至る道は、川のようになっている湖から盛り上がった堤防の上を走る感じであるが、雨季には道路すれすれまで水がくるか、あるいは道が冠水してしまうことがある。道の両側、あるいは道から外れた水がない場所に、高床の住居が林立しているが、これらは雨季には水の上に浮かぶ状態になるのであろう。

 車から降り、堤防から川面に向かって下りて割り当てられた船に乗る。若い男が二人つき、船が出発するが、一人が操縦、もう一人がガイドで、そのガイドは私の横に座り、案内を始める。

 泥で濁った川のような水面を下る。日差しは強いが、空気が乾燥しているので、頬にあたる風は心地よい。川面では、グループ観光客を乗せた大き目の観光船から、私が乗っているような、せいぜい家族4人までといった感じの小型船、それに地元の猟師の船などが多数行きかっている。両側に、水上生活者の船が、ところどころに集まっているのが見えてくる。ガイドが、この「集落」はモスレム、あちらは中国人だが、皆貧乏です、などと解説する。水上生活者の船には、ハンモックがあり、小さい子供が揺れているのが見える。小学生になるかならないかといった子供が、住居の船の周りで小さな船に一人で乗って遊んでいる。「彼らは何で生計を立てているのか」という私の質問には、「漁業や陸にある畑を耕している」との回答が返ってくるが、あまり納得できる回答ではない。

(トンレサップ湖水路)

  
 こうして10分程航行すると、突然湖の全体が眼前に広がってくる。確かに巨大な湖で、対岸は全く見えない。あたかも海に出てしまったような感覚である。湖の上に、何箇所か大きめの浮島が見える。あるものはレストランや休憩所になっているが、ある浮島は「運動場」になっており、子供がバスケットボールをしているのが見える。聞くと、それが学校の「校庭」であるという。しばらく航行した後、陸地に近いところにある浮島の一つに到着し、船が係留される。

(湖上に浮かぶ運動場)


 そこは簡単な休憩所兼レストランになっており、浮島につながれた生簀に数十匹のワニが折り重なっていたり、巨大な鯰がいたりする。天然のワニは現在はもうその湖畔には生息していない、ということであったが、本当かどうかは分からない。韓国人の団体客がうるさいので、狭い梯子を昇り2階の小さな展望台で、しばし風を浴びながら休憩した。

 そこを出る際に、ガイドの男が、「これから水上の学校へ行くが、皆貧しいので、勉強道具の寄付をして欲しい」と言う。まあ、少しくらいであれば、ということでOKすると、浮島の近くにある学用品売店船に案内される。「適当に選んでくれ」と言うと、ノートと鉛筆の束で15米ドルというので、そこはケチり、使う機会がないリエルで買えるだけ、ということにして、鉛筆の束を持って水上学校に立ち寄った。浮島に小さな教室があり、机が並んであるが、授業が行なわれている感じではない。我々の船が近づくと、2−3人いた子供の一人の小学校低学年といった感じの可愛い男の子が船側の扉を開けて出てきたので、鉛筆の束を渡した。そしてそれがトンレサップ湖観光の終わりであった。中州を一周しながら来た水路に戻り、10分位で乗船した場所に戻ってきた。出発したのが9時半頃であったので、約1時間半、湖の上にいたことになる。

 待っていた運転手と合流し、シェムリアップに向かい、昼前に、既に何度か散策したオールド・マーケットで別れた。「明日は、ゆっくりホテルをチェックアウトした後、カンボジアン・カルチャー・ヴィレッジ経由空港に行くので、11時に来られるか」と聞くと「OK」とのことであったので、10米ドルで仕切って別れた。早い時間のオールド・マーケットは閑散としている。何か適当な土産がないかな、と探すが、あまりこれといったものはない。唯一CD/DVD屋で、英国TVの製作したアンコール・ワットのドキュメントDVDを5米ドルで売っていたので購入。同じ値段で映画「Killing Field」のDVDもあり、触手が動いたが、やはり一人暮らしでこの映画を見ると暗くなりそうなので、結局買わずに引き揚げた。

 ホテルに戻り、部屋の再生機でそのDVDのさわりを見た後、プールサイドに向かい、昼食として注文したピザ(6米ドル)を裸で頬張ったりしながら、暇な午後を過ごした。4時前に、プールサイドから陽が翳ったところで部屋に引き上げ、TVで全豪テニスを見た後、夕刻3回目のマッサージに酔いしれたのであった。夕食は、マッサージ屋の通りを挟んだ向かいにある「Damnak Khmer」というレストランで、ビール、酢魚の炒めと白米で6米ドル。小奇麗なレストランで、テーブルも、外人街と異なりゆったり置かれ、食事の量もちょうど適当で、値段もリーゾナブルで満足した。

 帰りに、ホテルと反対側の方向に足を延ばし、「ナイト・マーケット」を覗いた。名前のとおり、ここは外人観光客向けに新たに作ったマーケットであるが、確かに小奇麗なスタンドの数々に、「オールド・マーケット」にはなかったようなしゃれた品物が並べられている。マーケットの中心にあるカフェ・バーも現代風の作りである。とはいっても、それほど買う気にさせるようなものはないが、一つのストールで並べられていた、アンコールの写真に僧侶をかぶせた少しシュールな感じの写真だけは気に入ったため、小さいものを1枚12米ドルで購入した。どのデザインを買うか迷ったのであるが、結局バイヨンの観世音菩薩のモチーフにした。帰途、また別の店で買ったアイスクリームをなめながらホテルに戻ったのであった。

1月27日(火)

 帰国日である。11時に運転手が迎えに来るまで、別にどこかに行くこともできたが、気分が乗らず、むしろゆっくり朝食を食べた後荷物の整理をしてからホテルのジムに向かった。全豪テニスのTV中継を見ながら1時間ほど汗を流し、そのままプールに飛び込み10時過ぎまでゆっくりした。丁度部屋に戻ったところでTVをつけたところ、全豪テニスの杉山・ハンチュコバのペアの準決勝の大詰めであった。第三セットのタイブレークで、4つのマッチポイントをしのぎ、その後もそれぞれが交互にマッチポイントを握る好試合であったが、杉山組が勝利した。10時50分。車が来る10分前であった。急いで最後の荷物を片付け、ホテルをチェックアウトし、出口で車を探した。

 昨日まで案内してくれたNeth君の姿が見当たらないので、遅れているのかな、と思っていたら、別の小柄の若者が、急な仕事が入ったNethの代わりに来たというので、その車に乗り込み、カンボジアン・カルチャー・ヴィレッジに向かう。ほとんど10分程度のドライブで入り口に着く。11米ドルの入場券を買い、中に入る。広大な敷地に各種の民族住居や寺院のミニチュアなどが並んでいるが、まずは既に11時から始まっていた「カンボジアン・ウエディング」の小さなショウを最後の15分ほど見てから、敷地の中を気の向くままに彷徨った。

 「Judgement Tunnell」という、別に1.5米ドルを取るアトラクションがあったので入って見ると、それはカンボジア版「お化け屋敷」で、人工の洞窟の薄暗い灯りの中に、薄気味の悪い人間たちの像が立っている。後ろから来た中学生くらいの女の子の集団が、突然腕を絡ませてきたので、「どうしたの?」と聞くと、英語のできる子供が「一緒に行って」と言う。まあ、別に断ることもないなと思った瞬間、女の子たちの悲鳴があがる。今入って来た洞窟の入り口から、妖怪に扮した2つの人影が、こちらに向かって突進してきたのである。女の子たちは、叫びながら出口に向かい逃げ出し、妖怪たちは、そこに残った私には目もくれず彼女たちを追いかけて行った。静寂が支配する中、のんびりと歩きながら出口を潜ると、妖怪の仮面を取った男の子二人が、女の子たちと談笑していた。熱帯のちんけなアトラクションでの余談である。

(カンボジアン・カルチャー・ヴィレッジ)



   

 以降、人造であるが、ところどころにある落ち着いた景色のところで休みながら、最後にカンボジアの歴史や風俗を象った蠟人形館を見てから、敷地内のレストランでビールとチャーハン6米ドルの昼食をとった。涼しい風が窓から流れ込む中、ウエイターと雑談をして、運転手と同流する1時半を待った。

 到着時に車を降りる時、小さいバッグの手荷物をどうしようか迷ったのだが、貴重品は全てリュックに移してあるので、あえてそれを持って園内を動く必要なない、と考え車に残し、「お前を信用するからな。中身は汚れた服だけだからね」と言い残して園内に入った。食事を終える頃から、それが気になり始め、約束の時間より早めに入口に戻ってきたが、案の上運転手の姿がない。確かに、今日は初めての男だし、もしかしたら鞄だけでも、今日の料金10米ドルよりも高いと考える可能性もある。その場合は、まずは空港に行く別のタクシーを探さねばならないな、とか、窃盗の届け出をしても出てこないだろうな、などと考えていたところ、約束の時間から15分ほど遅れて、運転手の男が声をかけてきた。私は裏の出口から出て、ロータリーをウロウロしていたのであるが、彼は入口の横のベンチで待っていたとのことであった。旅行の最後を、嫌な思いで汚すことにならなかったことにほっとしたのであった。

 空港には15分ほどで到着し、チェックイン。ホテルで「空港税はない」と言われたので、それまでにリエルは全て処分し、米ドルも僅かな額しか残っていなかったが、入口で一人25米ドルの空港税が必要と言われ、そこは内心で毒つきながら最後の通貨交換を行ったのであった。

 15時半、定刻通りシェムリアップ空港を出てクアラルンプールに向かう。ゲートで向かいの席に、二人の小さな女の子を連れた日本人家族がいたが、座席の後ろも別の日本人の子連れ家族で、飛んでいる間大騒ぎであった。18時半クアラルンプール着。トランジットは既にシェムリアップで済ませており、シンガポール行きのゲートもすぐ横であったので、そこでゆっくり本を読みながら搭乗を待つ。しかし定刻の10分前になっても音沙汰なし。突然アナウンスで、ゲートがGからHに変わり、出発が30分遅れるとのこと。集まっている人々が一斉に動き始める。GからHは、行きのように電車でターミナルを移動する必要はなかったが、それでも結構離れていた。午後8時、30分遅れて出発したが、この飛行機は頑張って当初予定よりも15分遅れの8時40分にシンガポール・チャンギ空港に到着した。手荷物だけなので早く飛び出し、旧正月でやや台数の少ないタクシー待ちはあったが9時ちょっと過ぎには自宅に到着した。クアラルンプールを出てから、あっというまの帰宅であった。

 4日間の旅を振り返ってみると、結局アンコールの遺跡は半日強しか見なかったことが、やや心に残る。しかし、20米ドルの1日券の次は、40米ドルの3日券ということになるが、そこまで繰り返し見るほど私は遺跡のプロではないので、まあ、このくらいで十分であったと思う。またほとんど午後はホテルのプールサイドでのんびりしていたが、これもわざわざカンボジアまでいって、シンガポールの日常と変わらない生活をするのも馬鹿馬鹿しい、という感もあるが、他方でこれは一人旅であるが故に許される贅沢でもあった。午前中観光で動いて、午後はのんびりというのは、自分の生活リズムにぴったりあっており、また午前中の観光がそれなりに刺激的であるので、全く退屈することはなかったのである。夕方のマッサージはアジアの旅の楽しみの一つであるし、食事も美味しく、胃も全く疲れることがなかった。

 それでもここは是非もう一度、家族を含め、同伴者と訪れたい場所であることは間違いない。今回は、事前の予習は全くせず、遺跡に到着して初めて、それぞれの場所のガイドブックの説明を読むという感じであったが、今回の旅でアンコールのポイントは分かったので、次回はもう少し効率的に回ることができると思う。そんな思いを抱きながら、購入してきたアンコールのDVDを、これからじっくり見ようと思うのである。

2009年2月7日  記