アジア・ドイツ読書日誌と
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川崎通信
キム・フィルビー
著者:ベン・マッキンタイアー 
 事実は小説より奇なり。ル・カレの「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」は、対ソ連情報戦で、英国情報部に壊滅的な打撃を与えた「もぐら」を炙り出す作戦を描いたが、この「もぐら」のモデルとなったのがキム・フィルビーであることは言うまでもない。ル・カレの小説では、この「もぐら」は最後に、裏切られたスパイ仲間の親友に殺されることになるが、実際のフィルビーは、裏切りが隠せなくなった後、最後の勤務地であったベイルートからソ連に脱出し、そこで生涯を終えることになる。その脱出自体が、英国情報部が裏をかかれたのか、あるいは意図的に仕組んだものだったのか、といった疑問も、この本の最後で推測されているが、それを含め、この英国最大の二重スパイ、フィルビーを巡る物語は、ル・カレの小説以上に刺激的である。著者はタイムズのコラムニストで、この作品以外にも、大坂剛がイベリア連作物でも使った「ミンスミート作戦(第二次大戦時に連合軍が、水死体を使い、大陸での反攻作戦地を欺くことに成功した作戦)」についての著作を含む「第二次世界大戦諜報物三部作」があるということで、これらについても今後機会があれば読んでみたい気にさせる。そしてこの本のあとがきには、ル・カレ自身も登場し、フィルビーや彼の親友であったニコラス・エリオットとの想い出等を綴っているのも特筆される。

 まずは、このフィルビーに関わる簡単な年譜を確認しておく。

 1934年(22歳):共産党の活動家リッツィと結婚。この頃、ソ連のスパイとなる。
 1936年(24歳):新聞記者として内戦下のスペインで取材。
 1939年(27歳):MI6に採用され、本部での敵国諜報活動監視業務に従事。
 1945年(34歳):ソ連諜報部員ヴォルコフ夫妻の英国亡命申請と、ソ連による
            拉致・誘拐事件。
 1946年(35歳):同棲し子供もいたアイリーンと正式に結婚(リッツィと離婚)。
 1949年(38歳):ワシントン支局長として米国に赴任。
 1951年(40歳):ソ連のスパイであることが判明したバージェスとマクレインの
            ソ連亡命事件。
 1954年(43歳):KGBのペドロフ亡命で、フィルビーへのスパイ疑惑がマスコミ
            でも高まるが、記者会見での名演技で暴露を回避。
 1956年(45歳):オブザバー紙等の特派員としてベイルート勤務開始。フルシチョ
            フの英国訪問時の、ソ連軍艦潜水調査作戦(「クラレット作戦」)
            の失敗。
 1961年(50歳):MI6内のソ連スパイ、ジョージ・ブレイクの摘発、逮捕。
 1962年(51歳):KGBのゴリツィン亡命で、フィルビーへの疑惑が再燃。
 1963年(52歳):ベイルートからソ連に亡命。
 1988年(77歳):ソ連にて死去。

 情報部員にとっては、本質的に秘密保持が最大の義務となるが、その分、狭い仲間内では親密に情報を交換することになるという。そして著者は、このフィルビーの物語を、特に彼を信頼し、公私に渡り深い関係を築いたMI6のニコラス・エリオットとCIAのジェームズ・アングルトンを軸に、「歴史の中で重要な役割を担った一種独特な友情」として描くことになる。

 まずは、フィルビーが、内戦下でのスペインや第二次大戦中の本部での対独、そして大戦後の対ソ諜報活動で周囲の信頼と尊敬を獲得し、組織内でのし上がっていく過程が語られる。一方、エリオットは、フィルビーとは異なり、イスタンブール等の外地の現場で実績を上げ評価を高めるが、二人はお互いに有能な情報員として堅い友情で結ばれることになる。また当時OSSの職員として英国に研修のため送られたアングルトンは、講師として知り合ったフィルビーに魅了され、その後の長い友好関係を維持することになる。しかし、戦後間もなくの時期から、フィルビーによるソ連への情報提供が、米英の活動に大きな損害をもたらし始めることになる。

 大戦中から、ソ連当局では、情報の質が高いことから、逆にフィルビーへの不信が根を張っていたという。しかし戦後まもなく、イスタンブールで発生したソ連情報部高官であるヴォルコフの亡命事件で、フィルビーは、時間を稼ぐことにより、ソ連側がヴォルコフ夫妻を拉致・誘拐するのを助けることになり(そして同時に、彼がソ連のスパイであることが英国側に暴露されるのを阻止した)、ソ連側の不信を解消していくことになる。そしてその後も、冷戦下の東欧で、米英が連携したアルバニア(「どれよりも壊滅的で、見事なまでに無価値で終わった」)を始め、ポーランドやバルト3国、ウクライナ等での侵攻作戦がことごとく失敗することになるが、その背後には反共部隊の侵入の場所や日時について、フィルビーによりソ連側にもたらされた情報があったとされるのである。

 こうした作戦失敗は、当然のことながら組織内の「もぐら」の存在を疑わせることになり、1950年代に入ると、フィルビーの親友であったガイ・バージェスらのソ連亡命事件もあり、フィルビーへの疑惑も強まることになる。組織的にはこの対立は、英国内では、上層階級出身のエリート部隊であるMI6と、中産階級出身者が主体の叩き上げ部隊であるMI5の争いとなり、また同じ構造で、米国内ではCIAとFBIの対立となっていったようである。ただ著者も繰り返し書いているように、フィリビーの有罪、逃亡以降は、エリオットやアングルトンを含め、皆が、「以前からフィルビーを疑っていた」と口を揃えることになるので、真相はもっと複雑なのだろう。ただフィルビーは、1954年に高まった疑惑を、記者会見での「名演技」で切り抜け、そして著者によれば、この時点でソ連との関係を切ることもできたが、それをせず、終生ソ連に忠実であり続けることになるのである。フィルビーは、しばらくの謹慎の後、MI6に再雇用されベイルートに赴任するが、この時代は彼にとっては最後の息抜きの場になったようである。彼はそこで新たな愛人を作り、人的関係も深めるが、ここで知り合ったCIAのコープランドは、ポリスのドラマーであったスチュアートの父親であるというのは、面白い余談である。とは言っても、著者は、同年に発生した「クラレット作戦」の失敗は、彼のもたらした情報であるとしている。

 以降、物語は、フィルビーのベイルートからの「反ユダヤ」新聞記事に怒ったユダヤ人女性、フローラ・ソロモンの告発から始まる、最終的な彼の正体暴露過程に入っていく。それまで彼を守ってきたエリオットも疑いを確信せざるを得なくなり、自らベイルートに赴き、フィルビーの尋問を行い、彼の自白を引き出すが、その後彼に監視をつけることもなく放置し、結局フィルビーはソ連に亡命することになる。これがMI&とエリオットが意図的に仕組んだことかどうかは未だに謎であるが、彼を英国に召喚し、正式裁判にかけた場合に暴かれるMI6内の問題を回避するための意図的なものだった(そして晩年のフィルビーもそう考えていたという)というのが、著者の推測である。フィルビーは、その後、ソ連で四人目の妻を迎えるが、結局彼女とも破綻し、1988年にモスクワで逝去することになる。享年77歳。激動に時代を生きたスパイのまさに波乱万丈の人生であった。

 ということで、読み難いル・カレの小説以上に、のめり込んで読めてしまう作品である。この作品から読み取れるのは、まずは、大戦前後から、英国においてもソ連共産主義は、一部のインテリにとっては大きな希望であり、それはスターリンの粛清等で示されたその本質的な問題にも関わらず、フィルビーのような「エリート」の信念を変えることがなかったということ。そしてそれ以上に、その信念を貫くために、情報活動を通じ、自国やその同盟国の関係者に犠牲を強いることについても、何ら良心の呵責を感じない人間がいたことへの驚きである。そしてそれを30年にわたり隠し通した、フィルビーの演技力は更に驚異的である。また繰り返しになるが、「事実は小説よりも奇なり。」

 あとがきを、ル・カレが寄稿していることは既に冒頭で触れたとおりである。そこでは主として1986年に、エリオットと会い、彼が、ベイルートでのフィルビーとの対決を中心にした想い出を語ったことが紹介されている。それはもちろん、二人の友情の物語ではなく、亡命後フィルビーがエリオットに会いたい、と言ってきた際に、それを断り「ヴォルコフの墓参りをしろ」と返したという逸話で終わる。そしてそのル・カレに対し、フィルビー自身も1987年に「会いたい」と言ってきたが、彼はそれを断わり、エリオットもそれを喜んだとしているが、本当は、エリオットも旧友の消息を知りたかったのではないか、と結んでいる。そしてそのあとがきでは、ソ連軍情報機関であるGRUの高官、ペニコフスキーによる西側への防衛機密漏洩事件についても触れられている。それを素材にした映画、「クーリエ」が、次の話題となる。

読了:2021年10月8日