アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
川崎通信
ケン・フォレット レベッカの鍵
著者:ケン・フォレット 
 この作家については、シンガポール滞在時に知り合った英国人から薦められ、2011年8月に偶々見つけたペーパーバックで、「Triple」という小説を読んだのが最初である。その友人が薦めたのは、同じ作家の「The Pillars of the Earth」という中世英国を舞台にした分厚いペーパーバックであったが、その作品は、バーゲンで仕入れはしたものの、その厚さから、なかなか手を着けられずにいたところで、スパイ小説風のこの作品を空港の本屋で見つけることになった。厚さの点でも、それほど負担はないだろうと考えて読み始めたのであるが、これが結構面白く、今後同じ著者の同種の作品を読みたいという気にさせるようなものであった。著者は、1978年、29歳で書いた「Eye of the Needle」で一躍有名になり、この作品はそれに次ぐ作品として1979年に出版されている。ということは、私がロンドンに赴任した1982年には、既にこの作家の名前も売れており、今回読んだ作品も出版されていたことになる。しかし、その時は、ロンドンで彼の名前を耳にすることはなかった。それから40年。彼のHPを覗くと現在までに少なくとも18冊の作品が紹介されていた。そして「Triple」であるが、テーマは、イスラエルによるウランの乗っ取り事件で、終戦間もない1947年、オックスフォードの教授宅で行われたホーム・パーティで、何人かの学生が邂逅するところから始まり、それから20年が過ぎたところで、そこで出会った男たちが、敵味方に別れて戦うことになる。イスラエル・モサドによるウランの強奪が計画され、それを阻止しようとするエジプトの諜報員とパレスチナ・ゲリラ、そしてソ連・KGBの三つ巴(Triple)による戦いの物語で、結末はモサドの勝利に終わるのであるが、その展開は手に汗を握るたいへん読みごたえのあるものであった。そして、著者のサイトによると、このイスラエルによるウランの秘密裏の盗難は、実際にあった事件で、その巧妙さから、直後は公表されることはなかったというが、その後、少しずつこの事件の一端がメディアに出てきたという。著者は、そうした記事を丹念に読みながら、それが具体的にどう行われたのかを推測して、この作品を書いたとしている。実際、この作品の発表後、著者は、モサドが、著者はこの小説に使われている情報をどこから手に入れたかを調査していた、という話しを聞いたという後日談まであったということである。

 そして続けてその翌年、2012年12月に、同じ著者の「On Wings of Eagles」という作品を読むことになる。こちらは、1979年のイラン革命の前から、この国の保健省のデータベース構築を受託していた米国ソフト会社の社員が、1978年12月、汚職容疑で拘束されるが、まさにその時にホメイニ革命が勃発、アメリカ人に対する敵意が広がる中、まず米国国務省や政治家を使った外交筋からの交渉が進められるが、それが無為に終わった時から、自力での拘束された二人の救出、そしてイランからの二人を含む関係者全員の脱出作戦が実行されるという、これも実話に基づいた小説である。ただこの実話の中で、イランにいる社員の救出の指揮をとる米国ソフト会社(EDS社)の創始者でオーナー社長が、1992年、1996年と2回米国大統領選挙に出馬した大富豪のロス・ペローモデルとしていたことから、読み進めるにつれ、二人の社員を救い出すために、如何に彼自身も危険を冒したか、そしてその結果として彼に対する社員の求心力がいかに強まっていったかが、これでもか、これでもか、と書かれていることで、結局この作品は「感動の救出劇」に託けたペローの自己宣伝ではないか、そしてフォレットも、恐らくはペローから膨大な対価を受け、この作品の執筆を引き受けたのではないか、という感覚が広がりややうんざりしてしまったものであった。しかし、この年の11月、同じイラン革命時に、米国大使館から隣接するカナダ大使館に避難した6人の大使館スタッフの脱出劇を映画化した、ベン・アフレック監督・主演の「Argo」という映画を観たことで、改めてこの小説を楽しめることになったのであった。そして、かつてロンドンで親しくなった友人の中に、亡命イラン人がいた。彼は数年前にガンで既に他界したが、当時彼の周りには時々パーレビ派のイラン人亡命者たちが集まり、酒が入ると「Long Live Shah!」と気勢を上げていた。彼が生きていたら、この小説や映画に彼がどのような気持ちを抱くのか聞いてみたかったという思いがふと頭を過ったものであった。

 しばらく後の2017年6月、著者の作品としては3冊目のものとして、「World Without End」を読むことになった。こちらは、前二作と異なり、13世紀イングランドを舞台にした小説ということで、当初は、「これは本当に読み進めることができるかな」と不安に感じていたが、度重なる中断にも関わらず、途中で放り出すことなく、1年以上の時間をかけてこつこつと読み進めることになった。読み進めることのできた要因は、13世紀イングランドという、私にとっては全く知識のない時代を舞台にしているものの、登場人物がそれなりに生き生きと描かれていることであったと思われる。そして、フランスとの百年戦争やペストの蔓延といった当時の大きな歴史的事件の中で主人公たちが、逞しく生き延び、そして主人公たちが人々の賞賛を勝ち得ていくまでに立ち向かう苦難が、時としてスリリングな展開と共に、雄大なスケールで描かれていることも、もう一つの大きな要因であった。そして読後に検索した、ネット上の本書の解説によると、こちらは、同じイングランド中部のKingsbridge(西デボン州に同じ名前の町があるが、ネット解説によると架空の町とのこと)という町を舞台にした「The Pillars of the Earth」という作品の続編で、発表は2007年。2012年には8回の連続ドラマとしてTV版が制作されたということである。

 こうして、シンガポール時代にこの著者のペーパーバック3冊を、時間はかかりながらもそれなりに面白く読んだが、日本への帰国後は、この著者については全く忘れていた。ところが、何となく眺めた図書館の文庫本小説コーナーで目にしたこの小説を、著者の作品としては初めて翻訳で読むことになったが、その面白さで、ペーパーバックとは比べ物にならない速さで読了することになった。今回の舞台は、第二次大戦中のエジプトで、英国が支配するこの地にロンメル軍団が迫る中、ロンメルに送り込まれたドイツのスパイ、ヴォルフと、それに対する英国情報部将校のヴァンダムの息詰まる闘いを描いている。

 小説は3部構成となっているが、まず「トブルク」と題された第一部は、砂漠を越えてカイロに侵入したヴォルフが、偶々遭遇した英国の警備兵にバックの中の大金を問い詰められたことから、その警備兵を殺すところから始まる。そのヴォルフは、ドイツ人の母親とエジプト人の養父によりカイロで育てられた後、ドイツで訓練を受けたスパイで、良く知ったカイロに潜伏しながら、ロンメルの指令による英国軍の情報を送る工作を始めることになる。他方、警備兵が殺された事件はドイツのスパイと関係があると睨んだヴァンダムは、本格的な捜査を始めようとするが、英軍上層部は真面目に取り合おうとしない。そしてヴォルフは、通常のスパイが入手できる情報以上の軍機密を取得すべく、まずは、旧知のエジプト人盗賊の富豪を使い、街で混乱を起こさせ、その隙に英国情報将校の機密書類が入ったと思われる鞄を奪うが、これは中身がレストランのメニューであり失敗。そして次は、かつての恋人でカイロの人気スターであるベリーダンサーであるソーニャを使い、スミスという別の情報将校を誑し込み、ついにトブルクと呼ばれる英軍の抵抗線の弱点を知りロンメルに伝達。ロンメルはまんまとこの抵抗線を制圧するのである。他方、ヴァンダムは、最初の混乱で鞄がなくなったのは、スパイが絡んでいると睨むが、相変わらず上司は真に受けず、そしてトブルクの陥落は、情報漏洩を阻止できなかったヴァンダムの責任と攻め立てることになるのである。

 そして第二部「マルサ・マトルーフ」。既に第一部で、ヴァンダムは、ヴォルフがポンドの偽札を使って高価な食品を買い漁っていることを突き止め、エレーネというユダヤ人女性を、その食品店に張り付けている。実は、ヴォルフがドイツ軍から工作費用として渡された大量のポンド札は偽札であり、英軍はそれに気がついていたのである。そして食料品店でヴォルフと親しくなったエレーネの情報で、ヴォルフがソーニャと訪れた高級レストランが監視され、そこでヴォルフが偽札を使ったことで、英国官憲との追跡劇が始まり、駆け付けたヴァンダムも彼と激しく格闘することになるが、結局彼は顔をナイフで傷つけられ、ヴォルフには逃げられる。英国に拘束されたソーニャは解放され、住居であるハウスボートに戻るが、そこはヴァンダムの指示で監視されているが、ヴォルフは海からそこに戻ることになる。しかし、彼はエレーネとの逢引きを忘れられず、改めて彼女をデートに誘う。しかしヴォルフは慎重で、エレーネの情報を受けて張り込むヴァンダムを何度かすり抜けることになる。そしてカイロへの最後の防衛線となるマルサ・マルトーフ要塞も陥落の危機に瀕している。カイロの英国軍は、エルサレムへの撤退を念頭に、重要書類などを焼却し始めている。しかし、エレーネと結ばれたヴァンダムは、ヴォルフがロンメルとの通信に、「レベッカ」という小説本を使っていることが分かったことで希望を捨てていない。ヴォルフを捕らえて、その暗号表さえ手に入れれば、ロンメルに偽の情報を送ることができる。それが英軍を救う最後の手段であると考えている。

 第三部の「アラム・ハルファ」。再度ソーニャのもとを訪れたスミスから新たな重大な作戦情報を仕入れるが、それに気をとられている内にヴォルフに気がついたスミスと格闘になり、そしてスミスを殺し、重りを付けて海に沈めることになる。そしてヴォルフは、再度エレーネの家を訪れるが、そこには偶々ヴァンダムが滞在していた。そこでヴォルフと対決することを避けたヴァンダムは、出ていった二人を付けてハウスボートに向かうが、そのハウスボートでは、ソーニャを入れた3人でのセックスが繰り広げられる。それが終わったところで、エレーネは、ヴォルフの通信用の暗号表を手に入れて逃げようとするが、ヴォルフに見とがめられ拘束される。一方、二人を追いかけてきたヴァンダムは、ボートを監視しているので、そこから動くことができず、エジプト人警官に支援を求めるが、その情報を受けたケメルという上官は、サダトと共にエジプトの英国からの独立運動を行っている人物で、そのためにドイツの力を借りたいということから、その情報をもみ消し、ボートを訪れ、ヴォルフに危険が迫っていることを告げる。それを聞いたヴォルフは、エレーネに加え、ヴァンダムの息子ビリーも自宅から誘拐し、車と列車で北方に向けて移動。ヴァンダムは、バイクで列車を追いかけ、途中駅で列車に乗り込み、車掌を装って3人と接触するが、彼に気がついたビリーとエレーネには、自分に気がつかなかったように振る舞うよう指示する。そして最後列車を降りた街で、タクシー運転手を装ったヴァンダムとヴォルフの最後の戦い。ビリーを人質にとったヴォルフであったが、最期は予期しないエレーネからの攻撃を受けてヴァンダムは勝利し、ヴォルフを確保、暗号表を手に入れる。そしてそれによりロンメルに発信された偽情報で、英国の最後の防衛線である「アラム・ハルファ要塞」を攻撃したドイツ軍は、英国軍に敗れ、カイロは死守されることになるのである。

 かつてペーパーバックで読んでいたこの著者の小説を、今回初めて邦訳で読む事になったが、数多くのトリックによる予期せぬ展開に一気に読了することになった。解説によると、エジプトに潜入したスパイからの情報に基づくロンメルの攻勢の背後には、カナリス提督が構想した「コンドル作戦」があり、実際に砂漠を越えてカイロに入ったスパイがいて、ベリーダンサーなどから英国軍の情報を得てロンメルに伝えていたことが知られているという。また小説で描かれているとおり、このスパイは若きサダトとも接触があったが、スパイ逮捕後、英国軍にそれを追及されたサダトは、「知らず存ぜず」を貫き、戦後の独立運動の指導者の一人となるまで生き延びたそうである。かつて読んだペーパーバックの内の2冊がそうであったように、歴史的事実を踏まえながら、細部を構築してこうした作品に仕上げた著者の筆力には感服させられる。シンガポールからの帰国時に、彼の「Fall of Giants」という分厚いペーパーバックも仕入れており本棚に眠っているのであるが、これからしばらくは彼の翻訳本を読み続けることになりそうである。ということで、早速彼のデビュー・出世作である「針の眼」に取り掛かることにする。

読了:2023年3月2日