アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
アジア全般
最新アジアビジネス熱風録    
著者:江上 剛 
 偶々、週末前に借り、2日で流し読んだ後、その日の夜の衛星放送を見ていたら、金子勝司会の「サブプライム問題」特集に、著者が藤巻健二と共に出演していた。米国での取材役を担った江上は、番組の中で、2回繰り返して、「自分が物書きになったのは、自分がまだその渦中で過ごした日本のバブルの清算が出来ていないからで、今回の米国バブルの取材で、日本のそれを総括するきっかけが見えてくるのではないかと考えた」と述べていた。彼の一般の小説は、それこそ暇つぶしにしか読む気にならないが、この発言と、番組中、「金融とセーフティネットは別物」と言った藤巻に、「金融とはそのようなものではないのではないか」と猛然と食ってかかったところなどは、こいつはなかなかだ、と思わせるものを持っていた。今までは、みずほの統合前に同期入行として著者と同じ銀行に勤務したかつての同級生からも、この同年代の作家に転職した男についてあまり良い話を聞いていなかったこともあったが、これは少し見直しても良いかもしれないと感じた次第である。

 さてその上で、彼のアジア・ビジネス・ルポである。2007年の1月から11月にかけて文芸春秋に連載されたレポートであることから、取材はそれよりも前で、その結果、2008年初めから明らかになってきたアジア経済の変調は、全く反映されていない。もちろん、その前兆を捉えたと言えなくもないコメントもあるが、少なくとも著者自身がそれを強く意識していたとは思われない。そう考えると、この本は、あくまで米国サブプライムに起因する「アジア・バブルの変調」前の作品である。そして、その崩壊直前でも、それがほとんど意識されていないことを考えると、やはり日本のバブルも、米国サブプライム問題も、歴史の中で何度も繰り返されてきたシクリカルな経済変動であるが、その最中に、その転換期を見通すのは簡単ではないという、当たり前のことを思わざるを得ない。結果的に、それがバブルであったことを、人は後から知ることになる。相違は、その危機の源泉が、その時々によって異なっているということだけである。アジア・バブルも、それが弾けたところで初めて「バブル」であったことを認識させられる。しかし、今回のそれは本当にバブル崩壊であったのだろうか?それは市場用語でいうところの「短期的調整」に過ぎないのではないか?そして今アジアに身を置いた人間としては、中長期的には、この市場は再び成長の階段に戻っていくのではないかと考えたくなるが、それは客観的な見方なのか?こうした視点を持ちながら、まだ堅調であったアジアビジネスについての著者の視点を確認しておこう。

 著者がまず取り上げるのは、私の所管地域にも入っているインド。歴史事実で私が知らなかったのは、インドが鎖国型の社会主義政策を市場経済型の資本主義的政策に転換したのが1991年であったこと、そして1998年5月の地下核実験に日本が抗議して経済制裁に踏み込んだため関係が一時的に冷え込んだという事実である。僅か10年ほど前までは、それを意識しないくらい、インドは日本から遠い国であったとも言える。ところが「BRICs」で火がつき、インド投信が8300億円まで一時急増した。しかし、直接投資という観点では、中国に進出した日本企業は2001年時点で2万社以上あるのに、インド進出を果たしたのは2007年初めで300社程度に過ぎないという。

 インドに飛んだ著者の一般的印象は、私自身がかつて2日だけムンバイに滞在した時に抱いたものとあまり違いはない。特にコルカタ空港の印象は、私がムンバイに到着した時に抱いた感想と全く同じだ。しかし、日本企業の動きは、私が知らない部分である。デリー周辺のホンダとスズキは、二輪中心の典型的なアジア型ビジネス。他方コルカタに基盤を置く三菱化学の場合は、その地域が左翼政権の拠点であることもあり、結構進出に当たってはいろいろ議論があったようである。また実質的にインドはムンバイ近郊に本社を移した小諸のペットボトル製造会社ASBの場合は、不退転の決意でインドに賭けた中堅企業の成功例と言える。著者は、これらの会社の話を聞いた上で、インドでの成功のポイントは、権限移譲と我慢だ、というが、まあこれは世界のどこでも同じである。しかし「埃と乾燥して粉になった牛の糞が舞い上がり、部屋がざらざらになる」環境は、正直なところ、軟弱な私などにはとても耐えられるものではない。

 IT大国としてのインドを知ろうと、著者はバンガロールに飛び、インド第三位のIT企業、ウィプロ・テクノロジーの話を聞く。米国企業はシステム開発をインド企業に丸投げするのに対し、日本企業は技術の流出を懸念して、それを行わない。その結果、日本からの発注は増加しないという。ここでの結論は、技術格差がある場合は、それでも競争ができるが、技術がコモディディ化すると、コスト競争力だけの勝負になるという当たり前の議論である。技術力のない米国が丸投げするのは当然なのである。しかし、意思決定の遅い日本企業は、的確なタイミングでその見極めができるのか?アップルのiPodの成功は、これを考える上で一つのヒントになるかもしれない。その他、新生銀行のITコストカットの話やエーザイのインド法人立ち上げの苦労話など。

 続いてわが拠点、シンガポールである。著者は、バンガロールの工業団地に、アセンダスというシンガポール政府系の不動産会社が既に1992年に投資していたことに驚く。時の首相ゴー・チョクトン直々の決断だったという。このように、テマセクやGICを含めた国家ぐるみの投資活動が、この国の特徴であるのは間違いない。著者は、リー・シェンロンとのインタビューに臨む。
 内容的には、私にとって新しいものはない。グローバリゼーションのハブとなることしか、この国の生き残るすべはない。工業団地というインフラに外国企業を誘致するというモデルは、「最近はバイオテクノロジー、研究開発、情報システムに向かっている」というのは、今週(8/18)2時間にわたりテレビで放送された、同じ人物による国民向け政策説明演説の中にも含まれていたとおりである。
 続いて経済開発庁(EDB)。GDPの40%に貢献している、というこの機関は、現在読み進めているリー・クアンユーの自伝でも、この国の経済発展の鍵であったと賞賛されている。キッコーマンの進出に際して、法律改正を含めて支援してくれたという話は、小国であるが故の柔軟性を物語る挿話である。所得税の上限と法人税が20%、金融サービスの場合は、一定の条件を満たせば法人税10%というのは、今私が日常生活をおくっている世界の税制の単純化である。言うまでもなく戦略的な税務体系であるが、これも財政黒字であるこの国の余裕のなせる業であろう。また、実業家としてインドネシアのシナルマスという華僑財閥の一族の投資会社社長と不動産会社社長らと面談しているが、「ライブドア事件にヤクザは絡んでいるか?」と聞かれたことに著者はショックを覚えている。この国にいると、こうした華僑の感覚はしごく当然である。更に著者はテマセクの広報担当とも面談しているが、残念ながら公式情報以外はほとんど取れていない。その他、教育制度(「エリートの早期選別システム」)や研究機関の招致の話など、他で読んだことのある話がほとんどであった。

 ベトナム。このレポートの中でも、書かれたタイミングと現在で状況が最も異なっている国である。「世界中から集まってくる投資」による高度成長は、今やインフレに喘ぎ、株式市場は、今年の上期で、アジア諸国の中で最大の下げ幅を記録している。このレポートは、まさにベトナム・ブームの最中で書かれ、そのバブルがいまや調整の真っただ中なのである。しかし、もちろん直接投資を行い進出した資本は簡単に逃げられないし、中長期的には、間違いなく次なる成長サイクルに入っていくであろう。しかし、この短期間の変化の予兆は、このレポートには全く感じられない。
 住友商事が開発したハノイ近郊のタンロン工業団地へのキャノン招聘までの苦労話。野村証券グループが手がけたハイフォン工業団地(先日の当地でのセミナー後のベトナム視察は、これが目当てか?)、ホンダやロート製薬の苦労話。著者がベトナム進出に際しての懸念材料として指摘している官僚への賄賂は、つい最近、日本で逮捕者を出すことになったが、経済がアゲンストになると、それまで見逃されてきたこうした恥部に官憲の手が入るのは、いつでも、どこでも同じである。

 続いてタイ。6000社以上の日本企業が進出しているタイ。タクシン追放や、この本にも書かれている、私が1週間差で遭遇を逃れた2006年12月のテロなどの政情不安にもかかわらず、日本の直接投資は続く。2007年が日タイ修好120年であったという長い関係が、両国の関係を安定したものにしているという。味の素(その時我々が宿泊したホテルの横に一棟建ての社屋を構えていた)やミネベア(3万人以上を雇用)、そして今や、大田区の家族経営の零細企業さえも進出している(大田区の企業のみが入れる工業団地!)という。自動車のアセンブリーは、アセアンではタイが抜きんでており、今やアセアンの日系自動車メーカーの生産の約7割がタイに集中しているという。

 韓国。日本企業との戦いを避けてインド等のエマージング諸国に注力していた韓国の家電メーカーが、今や日本企業の牙城であったタイ等で攻勢をかけてきているという。特に韓国と言えばサムソンである。日本に追いつくための懸命の技術吸収と、リスクを恐れないといわれる韓国気質そのままに、トップダウンで半導体に戦略的投資を行い、結果的に成功した。しかし、その韓国経済も、輸出の四割以上を占めている半導体(製造装置・主要部材)、携帯電話(部品の6−7割)、自動車(表面の鋼材と部品)、平面ディスプレー(素材)、船舶(硬材)といった5大品目で日本に依存している部分も多いという。その結果、韓国企業と運命共同体的になっている日本企業が進出してきている。また韓国企業は、スピーディなソルーションは求めるが、基本的な技術の習得については関心が弱いという。
 1997年の経済危機とIMFによる管理により、雇用環境は徹底的にアメリカ化され、成果主義の体系になったため、生存競争が激しくなっているという。「勝ち組」は英語とITであった。また経済面では、日本との関係は、ソニーとサムソンの合弁事業に見られるように「大人の関係」を築いているが、著者は基本的なところでの共感を欠いているという印象を持ち、そこに「歴史問題」の影を見ている。

 インドネシアは、「国家の成立にまで日本軍が関与している」国であるという。日本軍がオランダ軍に拘留されていたスカルノを解放し、「ジャワ防衛義勇軍」を組織させたが、これが日本降伏直後の独立宣言の基盤になったのである。スハルトもこの部隊の出身であり、これが「親日派のDNA」になった。また日本側でも東アジアへのODAの35%程度をインドネシアに供与するなど、その緊密な関係は続いている。LNGを始めとする資源供給国でもあり、またマラッカ海峡という日本の交易にとっての要所を管理する国でもあるというのが、日本の対応の基礎にある。しかし、先般のOPECからの脱退に示されるように、資源の枯渇と国内需要の増加で次第に輸出に振り向ける余裕がなくなり、それが日本への供給契約の更新に影を落とし始めている。直接投資に関しに関しては、インフラの未整備と労働者の質の比較劣位から、他の南アジア諸国に見劣りし始めているという。ソニーの撤退のような例も目立ち始めている。マンダムやエプソンといった成功例も記載されているが、周辺諸国に比較して経済政策面での指導力が弱いのは確かである。信条面での「親日」を、如何にこの国の経済成長への支援を通じて強化していくかが課題なのであろう。

 そしてこのレポートの最後は中国である。まさにこれを書いている今日、17日間にわたって繰り広げられた北京オリンピックが閉幕する。オリンピックに至るまで、チベット侵攻やそれに伴う聖火リレーへの抗議活動、それと時を同じくして発生した四川省大震災など、大きな議論や事件が発生した。そしてこの半年、現在に至るまで中国株は大きく調整し、まだ底入れ感さえ出てきていない。こうした中国とオリンピック後も、如何に付き合っていくのか?
 言うまでもなく、日本の直接投資に関しては最も重要な国であることは間違いがない。他方で、以前仲間と議論した際に出た「中華意識の塊」としての中国の戦略の意図を見誤ってはいけない、という論点もある。著者は、中国を見るのに、まず浅草での、中国版クレジットカード「銀聯カード」の普及を報告することから始めている。それは中国の裕福な人口が幾何級数的に増加すれば、間違いなく成長する分野である。続いて株に群がる「民間股神」(株で儲けた人)。著者も感じているとおり、これは「賭場か場外馬券場」の様相である。この報告が書かれた時点(2008年8月中旬)の上海取引所の時価総額が約490兆円。今や、それは略半分に低迷している。中国個人投資家のこの株への熱狂が「政府への妙な信頼(究極の官僚インサイダー市場)」と「将来への不安」の産物であるとすれば、株価が大きく下落した今、彼らは何を考えているのであろうか?著者は、中国は、日本の経験を十分学習しているので、バブル崩壊はなく、むしろ蓄積する外貨準備を戦略的に活用し、元経済圏を作る戦略を取るだろうという議論を展開しているが、実体経済が歪んでいる社会は、簡単に経済成長をする訳ではない。文化大革命がそうであったように、中国民衆の力を利用すればする程、そのアモルフな集団は暴走し、コントロールが利かなくなるリスクを持っている。現在の調整局面でも、こうしたリスクは中国の場合常に存在する。オリンピック後に何が起こるかが注目されるところである。

 最終章は、この国に進出した日本企業のレポートである。最初の投資から、その投資の回収に入っている現在、それが簡単ではないという意味で「曲がり角を迎えている」中国直接投資の苦労について、キリンビ−ル、ソニー、コニカミノルタといった「ハイエンドを狙う」日本企業の戦略が紹介されている。しかし携帯から撤退した東芝のような例もあるという。その他、みずほの現地法人化や偽物天国とコピー天国としての中国という、よく知られた話題を繰り返しつつ、最後は「現地企業になる」という、ありふれた教訓を垂れて、このレポートは終了する。

 日本企業の苦労話は、取材さえできれば誰でもかけるテーマであるが、結局この本で書けていないのは、日本企業が進出しているアジア諸国の実体経済が今どうなっており、その中で地場企業が、どのような戦略で経営を行っているのか、そして当の中国の民衆自体が何を感じているかという点である。まずは、マクロの市場展望があり、次にその中での現地企業の戦略がある。そしてその上で、日本を含めた外資独自の戦略が出てくるのである。全二つの議論を欠いた上で、最後の例だけを示しても、それはただの偶発的なケーススタディに過ぎない。アジア諸国が中長期的に成長することは間違いないとしても、そこに戻るまでにどのような紆余曲折を経ていくのか。まさに、これら諸国の経済ファンダメンタルズが節目を迎えている今、これを念頭に置いたレポートが必要である。さもなければ、それは株に群がる中国の多くの民衆と同じように、単なるブル・マーケットの熱狂に何も考えず乗っているだけと言われることになろう。

読了:2008年8月3日