東アジア「反日」トライアングル
著者:古田 博司
主要部分は、4ヶ月振りに帰国した日本に向かう機内で読み進め、成田から横浜に向かう車中で読了した。「東アジア」ということで、この対象は中国及び南北朝鮮であり、シンガポールを含めた東南アジアの「反日」は含まれていない。しかし、これを読み始めた動機は、東アジアの「反日」を知ることで、東南アジアのそれもおのずと見えてくるかもしれないと考えたからであった。しかし、結果的には、この本で言われている「反日」は、中国や朝鮮に特有の「反日」であった。そしてそれを分析する著者の議論は、筋金が入った反中、反朝鮮の立場からのもので、希望のかけらもない、冷徹な諦観から引き出された冷たい思考であった。著者は筑波大学教授で、韓国の大学に日本語教師として6年勤務したことがある。その際の印象が、彼の思考すべての原点になっているようである。
まず韓国の「反日」の原理として彼が主張するのは「儒教思想」と「小中華思想」に基づく「正統史」の構築と、そこにおける、日本植民地時代は「朝鮮民族の独立運動と闘争の時代であり、朝鮮自体に内在していた近代化の萌芽は、日本の支配により徹底的に摘まれ、そのため発展が阻害されて韓国や北朝鮮の近代化が著しく遅れた」という主張である。実際には、日本支配の時期に大きな反日運動は組織されず、また一定の経済的な発展も遂げていた。それにもかかわらず、戦後韓国の政権をとった指導者たちは日本の敗戦で帰国した人々であったことから、反日闘争の伝説が必要であったことから、こうしら虚偽の「正統史」を作り上げなければならなかったという。他方、北朝鮮は今や「神秘主義、教祖独裁、恐怖アピールによるマインド・コントロール、排他主義と攻撃性、家族関係の抑圧、選民意識、イコン(金父子の御真影)の存在」からなる「カルト集団」となっている。そしてこの両国に共通しているのが、「中世の歴史は日本侮蔑の中華思想の歴史であり、近代国家の歴史は、その日本への抵抗から始まったもの」であり、「日本侮蔑は伝統であり、反日は修正不可能な、いわば国是」であると考える。そして日本人は東アジアとの連携を夢想するが、「他の東アジア諸国には、近代化志向や中華優越の軸はあっても、連帯の軸はそもそもないのであって、彼らがそのようにいうときには、孫文の「大亜細亜主義」のごとく日本の支援を求める外交戦略上の意図に縁どられている」と考える。
また2005年4月の中国の「反日」デモのみならず繰り返される「官民一体の反日行動」は、決して日本の「戦時中の反省が足らない」からではなく、「彼らの側の根本的な世界認識の方法である中華思想と不可分なものなのであり、日本がいかに対応するかに関わりなく、永遠になくならないものだと覚悟する必要がある」とする。彼らの発想の基底には「道徳的に優位に立っているので、日本には何を言っても、何をやってもいい」という「道徳志向性」なのである。こうした中華思想と近代ナショナリズムの二重構造が現代中国の「反日」の原点であるという。
こうした発想に立つと、共通歴史教科書だの東アジア共同体だのといった試みは、全て始めから無駄な作業になる。始めから向こうは妥協をするつもりはないのであるから、いくら議論を積み重ねても、向こうは自分の主張をおこなうだけだからである。
歴史認識として著者が依拠しているのは、これらの東アジアの国が、欧米や日本と異なる「近代以前」の不安定な時代を生きているという考え方である。そこでは、「近代」の特徴である「自立した自我」や「事故組織性の能力のある市民グループや自然保護派」といった「サブ政治」を行う「市民社会」そして「市場経済」が未成熟で、そのため「国家の正統性」になおも縛られている状況にある。著者はこれを「ヨーロッパ同時代国家群」に対し「東アジア異時代国家群」と呼んでいる。
このように日本と東アジア諸国とは、@東アジア異時代国家群、A東アジア中華思想共有圏、B日本がかれらの近代国民国家の形成のための「忘れえぬ他者」であるという3つの断絶があり、その結果「対話」は不可能である、と断じる。それに対し、我々としてすべきなのは「過去認識の議論は永遠に続くという覚悟を決めて生きる」ことだという。著者は、韓国併合を巡る「日韓併合合法不法論争」を例にあげて、実証研究としては、これは合法論が主流となっているが、政治的に韓国は決してこれを認めないだろう、と見るのである。また「朝鮮人強制連行」問題についても、実証研究としては「在日朝鮮人の一世で日本に来たのは、1930年代の出稼ぎ労働者が典型的であって、戦時中の労務動員で日本に来た者は戦後ほとんどが故国に帰国している」ということも同様である。こうした問題に日本は徹底的に論争する覚悟をもって臨まなければならない。「日本は(敗戦により)アジアの中でナショナリズムの処女性を失った唯一の国」(丸山真男)であるのに対し、「韓国、北朝鮮、中国はまだ冷や水がかかっていない。」それを認識し、安易な「植民地自虐史観」を超えなければならないと主張するのである。
著者は最後に、「カルト国家」としての北朝鮮について議論した後、付録として「シャーマン化する「在日」文化人」として柳美里や姜尚中を論じているが、これは省略する。
さて、この著者のペシミズムに対し、どのように答えるのか?ある意味で、こうした議論は、学生時代からいわゆる「保守主義」に対して行ってきた議論と共通である。即ち、現状認識として、東アジアが日本に対し「侵略戦争や植民地化というカード」をいつまでも確保し、戦略的に使うということを忘れる訳にはいかない。しかし、だからと言って対話を諦める、「正論」という形での自己主張のみを一方的に主張するのも意味はない。心理はこの中間にあるのであって、相手の政治的意図の歪みを冷徹に認識しながらも、同時に本来あるべき姿に向けた亀の歩みは諦めずに進めるということである。著者の「正論」は、現状認識の枠組みとしては参考になった部分も多いが、結局彼がそうした基本的な志向性を欠いているが故に、読了後の感覚は決して気持ちの良いものではなかった。著者の6年間の韓国時代に、よほど個人的なトラウマを負ったのだろう、という感覚だけが残ったのである。
読了:2008年10月11日