アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
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アジアの激動を見つめて
著者:ロバート・A・スカラピーノ 
 前作を読んでから、1か月以上、新たな本を読了することが出来なかった。その要因は、言うまでもなく、10月第一週の日本出張であるが、もう一つの理由は、前作のペーパーバック読了後読み始めた新たなペーパーバックが面白いため、日本滞在中も含め、これに時間を使うことが多かったこと、そしてそれを上回る面白さのある日本語の本に巡り合わなかったことである。しかし、日本滞在中に最近の新刊本として購入したこのアメリカ人のアジア学者の回顧録は、読み始めるや否や、そのペーパーバックを休んでもまず読み進めようという気にさせてくれた作品であった。

 朝日と日経の双方の書評で取り上げられていたものの、この米国人のアジア学者の著書を読んだことがないのみならず、名前を聞くのも初めてであったことをまず記しておこう。しかし読み進めるにつれて、この1919年生まれ(今年91歳)の著者が、米国の戦後日本の占領政策から始まり、その他のアジア諸国に対する米国の外交政策に大きな影響力を及ぼしてきたことが分かってきた。そして、何故、この必ずしも私の勉強不足で名前を知らなかったという訳でもないこの学者が、米国の対アジア政策に関し、歴代大統領を始めとする政策決定者にそれなりの説得力を及ぼしてきたかを、この回顧録の中から読み取ることができる。それは、日本を含めた多くのアジア諸国を、各国に有する相当の情報源との交流を通じて内在的に理解していこうという著者の姿勢と、そして何よりも戦後間もない時期から旺盛に地域内を動き回ったその好奇心であると言える。所々で自慢話が出るところは、やや鼻につくが、それでも、こうした著者の公平且つ冷静な、アジアの政治、経済、社会の分析視点は充分に尊敬できるものである。こうした全体観を基に、著者のアジア諸国との交流・分析に関わる回顧の中から、幾つか特記すべきものを抜き書きしておこう。

 カンザスでの子供時代から、カリフォルニアでの学生時代、そしてハーバードでの研究者としてのキャリアをスタートするまでは、特段記載すべきものはない。著者がアジアとの関わりを持つのは、まさに太平洋戦争が始まり、日本語将校として語学訓練を受け軍属となる1944年7月以降であり、それから家族と離れた18カ月の生活が始まる。まず暗号解読将校として、そして米軍が太平洋にある日本の拠点を徐々に席巻していく過程では日本軍捕虜の尋問官となり、米軍の占領直後の沖縄に入ることになる。自決しようとした男を説得した話を含めた占領地沖縄でのいくつかのエピソードと共に、著者が沖縄のインテリを集めて小さなグループを作り、定期的に「アメリカに関する情報交換のほか、太平洋戦争での体験や、沖縄の人々が開戦以来アメリカにどういった感情を抱いてきたか」等について話し合ったと語られるが、まさにこうした姿勢が、その後の著者のアジア理解の基本的な方法論になるのである。そしてフィリピンを経て、敗戦後の大阪に入った後も、こうした手法は、戦後日本の占領政策の基礎になる日本人の意識調査のために使われるのである。この間、著者の沖縄や大阪での生活の回顧には、戦後の混乱の一旦も感じられるが、京都訪問の印象など、著者が初めての日本滞在をそれなりに楽しんだ様子が伝わってくる。またこの時期から早くも、蝋山正道、丸山真男、辻清明らの戦後派インテリとの交流が始まっているのも印象的である。

 1946年1月に軍属から離れ帰国してからは、米国でのアジア研究者としての道を進んでいくが、この過程で彼を指導したのがライシャワーである。J.Fフェアバンクが音頭をとったハーバードでの中国研究センター設立の参加した他、北京大学のある客員教授との出会いに触れられているが、この中国人とは、著者は、彼が中国に帰国し文化大革命の試練を受けた後、1972年12月に再会することになる。

 1950年春、再び著者は日本の共産主義運動の研究と、米軍駐在者の教育のため日本に戻り名古屋に3か月ほど滞在するが、1952年秋には、今度は家族と共に1年滞在する。この期間に東南アジアや南アジアを回り「アメリカの民主主義が世界中のどこでも適切なものか、ということに初めて疑問を抱くようになった」というが、これは今から見れば当然すぎる見解であるが、当時の米国人としてはやはり画期的な、それ故になかなか理解を得られないものであったことは間違いない。しかし、この見方はその後の著者のアジア研究の原点となるのである。

 50年代後半から60年代にかけてはバークレーを根拠とする生活が続くが、この時期の回顧はまず米国内の、公民権運動家からフリースピーチ・ムーブメント、そしてベトナム反戦運動という学生運動との関係が中心になる。同時に、東南アジアへの関心が1958年と61年の2回のベトナム訪問となる。著者は、一貫して教育者の立場から学生運動とは対立し、また反共産主義の立場から、南ベトナムへの米国の支援には賛成派であった。ベトナム戦争賛成派と反対派に分かれたある全国放送での討論会で、偶然の成り行きから賛成派の代表になったことから、活動家たちの「戦犯委員会」の標的になったという。しかし、こうした中でも彼のアジア研究は大きく妨げられることなく進み、一般の研究・教育活動に加え、1962年からは30年以上に渡りアジア研究の雑誌の編集長を務めたり、米中関係全国員会やバークレーの東アジア研究所の設立を行った他、アジア各国の大学での共同研究や公演活動にも勤しんだという。このあたりは、やや自慢が鼻につくが、続いて語られるアジアの各国との著者の関わりを見ていこう。

 まず彼のアジア研究の出発点である日本。しかし戦後間もない時期からの日本観察を20ページでまとめるというのはやや難しい課題である。50年代終わりからの経済成長とそこからの日本社会の変動を語った後に直ちに現在の日本に飛ぶのは、あまりに唐突である。しかし、50年代終わりに、既に沖縄返還がアメリカの長期的国益に合う、という報告を挙げていたという著者の言葉が正しいとすれば、まさにこうした日本理解者を将来的に米国の対日政策関係者の中に作り、維持することが出来るかが、今後の日米関係にとって如何に重要かが理解できる。普天間基地移転を巡る日米関係の軋みが、中国の尖閣を巡る強硬路線を引きだしたことを考えると、現在は良く言われる通り、米国政権の中の知日派の力が弱まっていると考えざるを得ない。

 中国との関係も、まずは40年代終わりの、中国共産党対応や台湾問題という時代を感じさせる議論から始まるが、興味深いのは、60年代の半ばに、政治的な議論を入れずに中国を客観的に分析するための研究機関の設立に奔走し、立ち上げたことである(米中関係全国委員会―1966年)。この組織は、米国大統領に意見を具申すると共に、中国側からも注目されることになり、1972年に、中国各地を巡る旅行に招待される。この最初の中国各地を回る旅行の回想は、文革後、毛沢東死去(1976年)前の中国の雰囲気を生々しく伝えていて面白い。文革を巡る著者の突っ込んだ議論への中国側からの反応というシリアスな話に加え、「アメリカで行われている現代中国研究をまったく反映していない(欧米著者による)書物」が並んだ図書館の見学など、著者の茶目っけのあるコメントも見受けられる。

 80年代以降も、著者は度々中国を訪れ、改革・解放時代の変化を回想している。もちろん天安門事件をきっかけとする保守派の復活といった流れもあったが、最終的にはケ小平が経済成長優先の政策を強力に推し進めていく様子が語られる。また「外国人旅行者としては初期の部類に入る」チベット旅行で、「チベットの人々の心に、ダライ・ラマが依然として深く根をおろしていること」を実感したことにも触れている。著者と接した中国の学生たちの議論も次第に柔軟になってきているようで、著者は「全面的な権威主義から、権威主義的多元主義への移行」が行われているとする。しかし他方で「国民の団結と支持を促していくためにナショナリズムを利用し、またそれを制御すること」がこれからの中国指導者に求められているという指摘は、まさに足元の尖閣を巡る中国側の対応そのものを看破している。そして著者が、中国との関わりに、日本に関する回想の倍近い約50ページを費やしていることに、現在のアメリカ人でのアジア諸国研究の重要性が端的に示されていると考えるのは私だけであろうか。

 韓国及び北朝鮮も著者は度々訪れている。韓国には朝鮮戦争終結後の1957年に、また北朝鮮には1989年に初めて訪れているが、ここでも著者は朝鮮半島での共産主義の歴史等、幾つかの研究を残しているようである。この本では、もちろん北朝鮮関係者との寄贈図書を巡る皮肉な会話なども回想されているが、紙数の多くは其々の国の戦後の歴史を語られるのに使われており、またこの両国の抱える問題や統一に関してのコメントもごく常識的なものであり、あまり特記すべきことはない。またその他の北東アジア諸国との関係としてモンゴル、極東ロシア、中央アジア、そして台湾を見ているが、ここでは特に1998年の、モンゴル・ゴビ砂漠などの旅行記が少し面白いくらいである。

 こうしてようやく、この回想録は、私の現在の生活世界である東南アジアに入る。まずは、ベトナム他のインドシナ3カ国である。

 東南アジアとの関係がベトナム戦争から始まるのは、いかにもアメリカ人らしい。著者が東南アジアを研究に加えたいと考えた1954年は、まさにベトナムを巡り「これ以上ないほど非現実的な」ジュネーブ協定が締結された時期であり、著者は、既にこの時期のベトナムが「まとまりを欠いた社会」であったとしている。しかし、1958年と61年にこの国を訪れた著者は、「この国の人々が共産主義政権のもとで暮らしたくないと思っている」こと、及び「この地域で共産主義が勝利すれば、東南アジアの他の国々も危険にさらされる」と考え、政治姿勢としてはその後、反共の立場からの提言を貫くことになる。
 しかし、結果的にベトナムでは米軍は反共の戦いに敗北するが、この原因を著者は、来たベトナム指導者チュオン・チンの耐久戦略と中ソの介入を恐れた米国の中途半端な介入に求めている。
 戦後、著者は頻繁にベトナムを訪れることになり、ある時は、元反戦活動家のオーストラリア人学者から、「スカラピーノは、戦争とベトナム政府を支持していた」と公然と非難されたが、ベトナムの人々は反応しなかったことが語られている。その頃は、既にベトナムにとっての脅威は中国になっていた、という訳である。その後のドイモイの成功もあり、人々の率直な発言も以前より垣間見られるようになってきているが、権威主義的政治体制は以前強固であるというのが、最近のこの国についての著者の総括である。

 カンボジアに最初に訪れたのは、クメール・ルージュが力を伸ばしつつあった1974年であったが、これは大使公邸での短い滞在であり、その後2005年と2006年に訪れているというが、その時の印象は特段語られていない。カンボジアの一般的な現代史が語られ、また最近のフン・セン政権の評価が簡単に記載されている程度である。そしてラオスではベトナム戦争中の1973年に、小型飛行機で遭難しかかった話が語られるが、それを除くと、「ベトナムが歩んできた道を進んでいる」という認識が、取り敢えず書きとめる価値があるコメントである。

 そしてその他東南アジア諸国。まずはフィリピンであるが、ここには、前述の通り日本滞在後の1953年に初めて訪れている。この国に対する著者の印象は、「イスラムや共産主義との絶え間ない暴動やさまざまな軍事クーデター(中略)にもかかわらず、フィリピンの民主主義は生き延びてきた」が、これは「かつてのアメリカの植民地支配から利するところがあった。」しかし、同時に「政党間、個々人の間の絶え間ない抗争であり、そのため不安定な時期が続き改革を実行できない」としている。「『強い』指導者を熱望する気持ちと自由を求める気持ちの間を揺れ動いている」のである。また長期間に渡るスペインやアメリカの支配と、島国で大陸からの移住者が少なかったことで、「フィリピン人の多くは、自分たちをアジア人とすることに抵抗を感じており、これほどの抵抗感を感じている国は東南アジアでは他にない」というのも、初めて聞く分析であった。

 インドネシアは、バークレーとインドネシアの学生の交流組織を作ったことで1954年にジョグジャカルタを訪れたのが初めての経験であったという。列車の中でスリにあった話やスカルノ専用列車が手配されたかと思うと、バス窓にかかった皮製カバーの錘で打ちのめされた話など、時代を感じさせる回想が多い。しかし、この時代に果敢に国内を見て回る好奇心は立派なものである。「それから何年もして」東ティモールで反インドネシア運動の司祭と面談し、軍に脅された話やインドネシア領ニューギニアでの戦闘服に身を包んだ原住民を目撃したが、それは隣村に対する本当の戦闘の準備であったというのも、フィールド・ワークとしては面白い挿話である。スカルノからスハルトの時代(彼の失脚と逝去のタイミングで偶々ジャカルタに滞在していたという)を簡単に回想、ユドヨノをそれなりに評価した上で、最後に「東南アジア最大の国であるインドネシアが、民主主義と開放経済のテストケースとして重要であることは間違いない」と結んでいる。

 シンガポールに関しては、まずリー・クアンユーがアジアの指導者に説教するという話が語られる。45分ほどの彼の説教を聞いたケ小平が、「あなたには上海市長になってもらいましょう」と言ったというのは、リーの回想録には書かれていなかったと思う。「興味深いのは、リー親子の後にシンガポールがどうなるか」と結んでいるが、それは実際には「リー・クアンユーの後は」と言った方が正確だろう。

 マレーシアは、マハティールと米国で一回会ったが、「アメリカ嫌いの毒舌家」が「貿易や投資を促進する目的で訪問していたこと」を皮肉っているので、著者はあまりウマが合わなかったのであろう。アジア周辺諸国や中国を含め外交関係は「建設的な関係が築かれている」ので、問題は「マレー系に対する優遇措置のため、少数派(華僑25%、インド系8%)の間に累積している不満」といった国内問題をどう処理していくかである、としている。

 タイは、「アジアの民主主義の未来にとって極めて重要な試金石となるだろう」というのが著者のポイントである。「比較的人種的にまとまった人々、豊富な資源、そして国王という国家統一の象徴を有する」というメリットを生かしながら、「確信的なアイデアと、明るい政治を実現させる能力をもった若い指導者が登場するか」、そして「より近代的な企業家精神が縁故資本主義にとって代わり、政府の指導が少なくなる日は来るだろうか」としているが、今年初めのタクシン派による抗議運動など、最近の情勢への言及はない。

 最後はミャンマー。著者は1974年に最初に訪れている、この時の旅の経験は、この国がまだ政治的に開けていた印象である。また1980年にはアウン・サンスーチーが率いる政党の集会で講演まで行う。2006年の訪問時には、既に強権的な軍部による支配となっていたが、それでも著者は楽しい郊外観光をしたという。

 東南アジアを総括して、著者は基本的にこの地域が「多様な地域」であり、それが継続的な問題を生じさせるであろうとする。しかし同時に、「東南アジアの人口の大きさ、豊富な資源、主要国間の勢力均衡上、また主要国間の緩衝地帯として果たし得る役割を考えれば、この地域の重要性はこれからも変わらない」と結んでいるが、まあ常識的な見解である。因みに、著者がこの地域で行ったことがないのはブルネイだけであるというが、ここはまさに私も今週初めての訪問をするところである。

 南アジアのインド、パキスタン、バングラデッシュについても簡単に触れられている。インドについては、1959年の訪問以来、ほぼ全土を旅した他、若きダライ・ラマと会う機会もあったという。民主主義の維持に感銘を受けると共に、巨大な官僚機構や経済における公共部門の存在や大幅な財政赤字、貧困そうした地域への極左グループの浸透に懸念を示している。もちろんこの国が地域大国としての地位を高めていることも否定していない。

 これに対し、パキスタンはもっと複雑であるという。著者は、やはり60年代からこの国を何度も訪れ、ペシャワールのような辺境部にも足を伸ばしているというが、「幸い、ビン・ラディンとは鉢合わせせずにすんだ。」しかし、この国の民主主義は脆弱で、外交面でも、現在は「共通の戦略的利害を軸として中国やアメリカと良好な関係を保っている」が、将来引続きアメリカの対テロ戦争に協力するか、あるいは中国の影響力に対する懸念やインドとの対話の継続できるかなど、不透明要素が多い。そのとおりであろうが、こうした「国内情勢・国際関係の不透明さは、中東やアジアの多くの国にも当てはまる」と言うのは、やや安易な一般化であると思う。

 アフガニスタンも「南アジア」なのだ。1970年代終わり、ヘラートからカブールへの飛行機がキャンセルされ、1500キロを自動車で移動した旅が語られているが、現在では、こうした旅をする欧米人は間違いなくテロの標的になっていたであろう。これ以降、この国は内戦に巻き込まれ、ソ連の侵攻、タリバン支配、アフガン戦争と混乱を極めていく。さすがの著者も最近は訪問の機会がないようである。

 スリランカについては内戦の終結がない限り、政治・経済情勢は安定しないと結ばれ、訳者が既に2009年5月に内戦は終結したと注を入れている。バングラデッシュには著者は二回だけ訪れているが、「低迷する発展途上国の問題を典型的に示している国」との認識である。ネパールについては一般的な現代史の解説。かつて独立国であったシッキムという国に1965年訪問し、国を維持するためのナショナリズムの育成方法について質問されたという。王妃がアメリカ人であったことによるが、その10年後にこの王国は崩壊し、王は国を離れ、シッキムはインドに吸収されたという。

 こうして各国を回想した後、最後の総括に入るが、著者が書いている通り、彼が同時代のアメリカ人の大部分よりも、アジアのみならず世界の多くの場所を旅行し、見聞を広げることが出来たことは間違いないし、また彼はそうした経験を自分のアジア研究の方法論や、分析の基本姿勢に反映させてきたのはりっぱである。そしてそうした自らの実感に基づく地域研究であったが故に、米国政権内部でも、それなりに著者の議論が尊重されると共に、対象国からもそれなりの経緯を持って処遇されたのであろう。同時に、そこには専門研究者の選択を巧みに行いながら、地域外交政策を構築していく米国政権の姿勢を感じるが、一方で、繰り返し述べているとおり、現在の日米関係の軋みと中国に対する対応の迷走を考えると、現在の米国でのアジア政策に影響力を及ぼしている人脈はどうなっており、また彼らと日本はどのような関係を有しているのかと不安になってしまう。

 ただこの著者の総括に関しては、それ以上は、丁度日経新聞の「私の履歴書」の最終回のような、個人的な自慢の世界に入ってしまう。もちろん、さすがにアジアを中心に国際関係を見てきた学者らしく、最後は、国際主義とナショナリズム、共同体主義の関係につき論じ、また米国指導者のアメリカ型民主主義への盲信やエンターテイメント化したメディア、そして米国で優秀な若者が公職から離れているといった事態への懸念を述べることを忘れない。そしてそれにも関わらず、著者自身はアメリカと世界の将来に「慎重な楽観論者」であると言う。一週間の内、月、水、金は楽観的に、火、木、土は「困難な面を含め、問題の全貌を考え直し」、そして日曜日は休む。彼が幸福な人生、幸福な老後を過ごしていることは間違いない。巻末には教え子の一人である緒方貞子の解題が掲載されているが、学者として、教師としてアジアと70年近く関わった著者の生き方は、アジアに生活し、そしてそこにある諸国とまだ主体的に関わることのできる可能性を持っている私にとっても大いに参考できるものであることは間違いない。

読了:2010年10月23日