戦後世界経済史
著者:猪木 武徳
戦後の世界経済の歴史を新書の中でまとめるというのは、一見大変な冒険だと思うが、この本では基本的に戦後経済の大きな流れの変化に注目し、それを地域ごとに説明する手法を取ることにより、それなりに上手く整理・分析されている。更に、対象時期である60年強の内、少なくとも後半の30年は、私も直接職業的にも関わってきたこともあり、この時代の経済の変転を簡単に復習することができる。そこでは、戦後経済の牽引役であった米国経済の説明から始まり、80年代、90年代とその中で直接私が関わった欧州経済や、勉強は学生時代に遡るソ連・東欧経済、そして直接深く考えたことはないアフリカ経済やラテン・アメリカ経済など広範な分析が行われているが、ここでは今まさに私が直接関与しているアジア経済に関わる分析を中心に見ていこうと思う。もちろん世界経済は刻一刻相関性を強めていることから、アジア経済に焦点を当てるとしても、それ以外の経済の流れを押さえる必要があることは言うまでもない。
戦後の世界経済の大きな流れを見る時のキーワードは、著者が冒頭に「問題関心」として示している、「市場の浸透と公共部門の拡大」、「グローバリゼーションと米国の時代(とその終焉?)」、「所得分配の不平等」、「グローバル・ガバナンス(の進捗と限界)」、そして「市場の『設計』と信頼」といった言葉に集約される。しかし、こうした問題関心は、戦後だけのものではなく、先般の正村の議論ではないが、「商品経済とグローバル化が進んだ17世紀以降」、経済面では常に意識されてきたと言ってよいであろう。とは言え、取りあえずこうした切り口で見ると、戦後の世界経済、なかんずくアジアの経済は、どのように見えてくるのだろうか?
まず戦後復興から話が始まる。しかし言うまでもなく、この時期の分析の対象は、戦争で疲弊した欧州経済と、それを支えた米国経済の状況、そしてそれに対峙したソ連を中心とする社会主義経済の発展が中心で、アジアについてはごく僅か触れられているに過ぎない。
アジアでのこの時期の最大の政治・経済的事件は、中国での社会主義政権の誕生であるが、著者はその経済政策を中心に、野心的経済計画(「大躍進」1958−60年)の失敗から、文化大革命の混乱を経て、1977年、中国の労働者の賃金が20年振りに上昇するところまでを素描している。
続いて、アジアでの戦後経済成長の出発点として、韓国、台湾、香港、シンガポールの所謂「四匹の虎」を簡単に見ている。ここでの視点は、農地改革→農業の効率化→軽工業への労働力移動→軽工業の輸出竣工による重工業化への原資蓄積、という成長パターンのこの地域における妥当性の検証である。
著者の観点では、まさに韓国と台湾はこの農地改革が奏功し、それが労働集約的な軽工業中心の「輸入代替工業化」を促し、60−70年代に高成長を遂げる。韓国の場合は、これに政府と財閥との密接な関係が、台湾の場合は、「反共の砦」としての米国からの多額の補助金が、経済成長にドライブをかけることになる。
これに対し、香港とシンガポールは、言うまでもなく農業部門からの労働力は期待できなかったものの、香港の場合は「イギリス連邦特恵制や、東南アジアの華僑資本が現地ナショナリズムに追われ(香港に逃れ)たこと」で戦前の中継貿易港から加工貿易港への転換を、またシンガポールの場合は、「60年代以前の金融・保険・海運そしてゴムを始めとする一次産品の加工」から61年以降は「ジュロン工業団地を造成し、(外資主導で)造船・製鉄・セメント・繊維等の工業」中心の産業構造への転換を遂げることになったと説明されている。
著者は続いて、東欧地域の社会主義経済、ラテン・アメリカの「政治が不安定な状況下での、原材料の輸出国から、保護主義の下での輸入代替による工業化」、そして列強の植民地から独立したインドを始めとする南アジア諸国とアフリカの経済と、其々の問題を概観しているが、これは省略し、次に70年代以降の世界の経済秩序の「転換」を見ていこう。
経済成長と繁栄の時代のピークが過ぎ70年代に入ったところで、世界経済は大きな転換期を迎える。それを象徴するのが「ブレトン・ウッズ体制の終焉」と「石油危機」に起因するエネルギー供給問題の発生である。そして「この二つの問題は共に米国の政治・経済の動きと密接に関連していた」として、米国の輸入超過とそれによるドルの世界経済への供給が、もはやコントロールできないところまで進み、米国内でインフレと失業を伴う不況が同時に発生した状況を整理している。こうして欧米経済が全体として凋落に向かう中、まずは日本経済が、このインフレの時代を乗り切る先頭に立つと同時に、「東アジアの奇跡」と呼ばれるアジア諸国の急速な経済成長−「四匹の虎」は、80年代に入るまで8%前後の、またASEAN諸国も70−80年代を通して約7%の実質経済成長―が進むことになる。
著者は、この「東アジアの奇跡」の要因が、「政府の意図的な政策によるか」、それとも「市場がその国・地域の持つ潜在的な供給能力を効率的に引き出したのか」という論争を説明しているが、結局のところそれは「国家か市場か」という単純な構図では説明できず、「自由貿易を基本とする輸出振興策」と「政府のさまざまなインフラ政策」の相乗効果であったというのが結論である。そしてその輸出の急増の背景にあったのは、「日本の労働集約的な工業品の対欧米輸出自己規制」の中で、「海外進出した日本企業と、欧米・日本の技術やマーケッティングのノウハウを吸収した現地(アジアの?)の中小企業と架橋の通信網」との間で繰り広げられた激烈な「アジア間競争」であったとしている。こうしてNIEs4カ国の場合は、70年代には輸出のほとんどが工業製品となり、韓国は繊維・電気・電子部品といった軽工業品から、機械・鉄鋼・石油化学、船舶等へ転換、台湾は機械・金属製品、化学製品、香港は繊維製品、家庭用電気・電子製品、日用雑貨等、そしてシンガポールは「インドネシアという産油国に隣接していたこともあり」、石油化学製品、船舶等が輸出のほとんどを占めるようになったという。
他方、ASEAN諸国の場合は、一次産品と農産物輸出によりまず外貨を獲得する必要があったため、これらNIEs諸国よりも輸出の工業製品への転換が15−20年遅れることになる。しかし、他方でこれらの国々の経済成長が貿易だけにより支えられていた訳ではないとして、むしろ「成長の主要エンジンは国内投資」であり、外資の流入とそれに期を一つにして国内の貯蓄が急上昇したことも指摘している。特に外資に関しては、アジアの成長に日本企業の投資が果たした役割を強調している。そして同時にアジア諸国が、一部の途上国が伝統的に採用してきた「輸入代替工業化策」ではなく、産業の水平分業を意識した「輸出志向工業化」であったことが特徴的であるとしている。そのため韓国や台湾で見られるとおり、「各種保護主義的な政策を撤廃し、関税を引き下げ、為替レートを市場レートに近づけ、金利自由化、外貨規制の緩和」等の市場重視のパッケージと、「輸出産業に対する直接補助金の交付、事業所得税・法人税の減免、特恵的利子率の適用」等の輸出促進策が奏功したと見ている。
こうした「アジアの奇跡」に対し、当時新進気鋭の経済学者であったクルーグマンが、これは単に生産要素の量的増大によりもたらされたものに過ぎないと冷ややかにコメントしたが、その後の研究で、そこには明らかに生産性の上昇があったというのがコンセンサスになったという話は、米国人によるアジア観の一端を示していて面白い。また世銀統計で、1965−89年の間に、高い経済成長と低い所得不平等度を計測したところ、上位7カ国が、韓国、台湾、香港、シンガポール、日本、インドネシア、タイと、全てアジアの国であったというのも興味深い事実である。
続けて著者は、同時期のアジアの社会主義国家として中国、ベトナム、北朝鮮を論じているが、ここではベトナムのドイモイ以降の著者の分析を紹介しておこう。まず1986年から開始される「ドイモイ」は、少し前に読んだ分析(「ドイモイの誕生」−別掲)で、その中心人物として取り上げられていたチュオン・チンではなく、グエン・バン・リン書記長の指導力が大きかったとしているが、これは今後他の資料等で確認する必要があろう。その上で、ベトナムが90年代初めの農業の不振を乗り越え、92年以降「高度成長」の時代を迎えられたのは、「スタート時点で中央集権的な官僚部門が小さかったこと、農業国であったため(工業は1986年の国民所得の28%)農業の市場化の効果が全体として大きかったこと、そして長く市場経済を経験していた南部の存在」という3つの要因によるところが大きかったとしている。
こうした70−80年代のアジアの成長に対する欧米からの回答が「新自由主義」であったとして、レーガノミックスやサッチャリズムが取り上げられる。民営化、規制緩和、税制改革、「サプライサイド経済学」的予算配分(軍事予算の増加)等が、この時期の欧米経済政策のキーワードになるが、これは省略し、むしろ同じ時期に途上国の債務危機が次々に発生し、それがラテン・アメリカ諸国からアジアや東欧に飛び火していったことを見ておこう。
累積債務の構造は、資本蓄積が少ない途上国に対し、欧米金融機関が市場に溢れつつあったオイル・ダラーを還流させたことが、まず発端となる。その上で発生した石油危機によるインフレと利子率の上昇が債務国の破綻を招くことになる。そして90年代末には、その流れが東南アジアに向かうが、この危機の構造は、経済成長を囃した短期資本の流入(例えばタイバーツ為替は八割方ドルリンク)→90年代半ばからのドル高による東南アジア通貨高及び中国の台頭による輸出産業の国際競争力低下→短期資本の逃避という流れであったと分析されている。もちろん、その背景には、投資先を失った過剰流動性の、ハイリスクを求めての短期間でのグローバルな資本移動という、現代的な金融インフラの発展があり、それがまた近時のサブプライム危機でも再び顕在化したと言えるのである。
80年代末の最大の政治的事件であったソ連・東欧社会主義体制の崩壊は、社会主義経済の限界を示した、というありふれた議論を経て、90年代の「経済統合とグローバリズム」の説明に移っていく。ここでは特にユーロの誕生とその後が説明されるが、これは省略する。他方アジアでも同じ地域統合の動きが発生し、初期の国際調整機関の機能不全から次第に形をなしてきたというのは注目される。ASEAN内の貿易自由化はその最たる流れであろう。著者は「政治体制、宗教、価値観などの差」があることから、経済と文化の統合は忍耐を持って進める必要があると指摘しているが、まあこれは常識的なコメントである。
地球環境問題を巡る経済的議論から、サブプライム問題を概観し、最後に著者は、平等化と自由が両立するか、という根源的なテーゼに立ち帰る。それに答えるためにはまず「経済成長、人的・物的資本、デモクラシーの関係をどう捉えるか」という問いが鍵になると言う。これに対し、著者は、「制度優先論」と「開発優先論」という2つの方法論を対比させ、結論的には「人的資本、すなわち人間の知的・道徳的質が、成長にも民主化にも一番重要な要因である」として「国民が倫理的に善い選択を行い得るための、十分な知識と情報が必要」であるという。「知育・徳育を中心とした教育問題こそがこれからの世界経済の最大の課題であることは否定すべくもない。」と結ぶのである。
こうして、戦後の世界経済の大きい流れの中で、アジア経済の成長を見てくると、確かに歴史の大きな流れはアジアが今後の世界経済の牽引となり得る可能性を示唆しているように思える。と同時に、そのとおりであったとしてもその流れは決して単線的ではなく、必ずシクリカルな後退も起こりえるし、また各地域、各国の政治的思惑等も密接に絡みながら、地域的な浮き沈みが繰り返されるであろうことを予感させる。現在米国はサブプライム危機の後遺症から抜けきれず、欧州はそれにユーロの根源的問題である域内信用格差問題が追い討ちを掛けている。他方80年代は隆盛を極めた日本は依然デフレの泥沼から抜けられず、その合間を縫って、サブプライムの傷の浅かったアジアが一人気をはいているというのが実態である。
しかし、そのアジアも、域内大国としての中国との関係という難しい問題を抱えている。中国は一方で、国内市場が必ずしも大きくないアジア諸国にとっての巨大な市場としての可能性を秘めると共に、他方で「輸出志向工業化」という政策が、中国の政策と直接競合する危険も内包しているのである。中国の政治的影響力が拡大すると、それはまさに政治問題と直結する経済成長の問題を惹起させる可能性があるのである。
現在のところ、例えばシンガポールを含むASEAN諸国は、域内の自由貿易化を進めると共に、隣接する2つの大国である中国とインドの双方とバランスを取りながら、消費と市場しての両国の可能性を出来る利用しようとしているように思える。他方、90年代末のアジア通貨危機の教訓から、グローバルなリスク・マネーの動きには細かい注意を払い、場合によっては資本規制を被せる等の措置を維持したことから、今回のサブプライム危機では傷口を最小限に抑えることができた。
しかしながら、今後の政治・経済大国としての中国の戦略にはまだ多くの不透明感が漂う。現在米国が人民元の評価にこだわるのは、一方で経済力と為替政策がバランスしていないという純粋経済的な議論であると同時に、中長期的に中国が経済力を政治面においても利用してくることを警戒しての予防的議論でもある。こうして純粋経済的にも、アジア諸国は域内大国であり、政治的意図も含め為替をコントロールする中国と「輸出」の主導権を巡り競争せざる得ないと共に、中国から溢れ出る資本―その中には政治的な意図を持つ資本も含まれるだろうがーをどのようにコントロールしていくかという問題と直面せざるを得ないと思われる。もちろん中国そのものが内政面で混乱し、その負の影響が、日本を含めたアジア近隣諸国の経済に直接負の影響を及ぼす可能性もなしとしない。その意味で、まさに戦後の世界経済の展開は、常に流動し、力の所在が変化する歴史の力を改めて示すものであり、現在好調なアジア経済も常に潜在的なリスクに備えておかねばならないことを教えてくれるのである。
読了:2010年11月21日