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アジア読書日記
アジア全般
海の帝国ーアジアをどう考えるか
著者:白石 隆 
 夏休みの一時帰国時に仕入れ、休暇中に読了した。インドネシアの専門家による、アジア政治秩序の形成に関する歴史的分析である。出版は2000年とやや古いため、後半の現代アジアの分析は、丁度その数年前のアジア通貨危機とそれに伴うインドネシアの政変などのインパクトが色濃く出ていて、古さを感じざるを得ないが、前半の歴史分析は、この地域のダイナミズムを独特の観点から捉えており、面白く読むことができる。

 タイトルのとおり、この本はアジアの政治秩序の形成を、海上交通の発展およびそれを巡る西欧列強の覇権闘争に焦点を当てて説明すると共に、それを念頭に日本がこの地域との関わる際の立ち位置を模索しようというものである。大きな視点は、「19世紀には中国を中心とする華夷秩序は確実に崩壊し、その制度的基礎をなした朝貢貿易も消滅した。そしてそれに代わってイギリス主導の新しい地域秩序が海のアジアに構築された。」そして「東アジアにおいて近代国家、近代資本主義の制度はこのイギリスの非公式帝国秩序の下で形成された」というものである。著者がインドネシア研究が専門ということもあり、特にこの地域に関する歴史的・民族的・地理的知識は詳細であるが、議論の出発点は、マラッカに滞在していたラッフルズによるアジアの支配権確立に向けた壮大な構想である。

 私もかつて訪れ、その歴史遺産を楽しんだマラッカ。1511年ポルトガルが占領、17世紀半ばから18世紀末まではオランダ東インド会社の支配下に入るが、1795年にイギリスが奪取し、以降1957年のマラヤ独立まではイギリスの植民地であったこの地に、1811年、ラッフルズが滞在している。欧州でのナポレオン戦争を受けての欧州列強によるアジアでの覇権争いが続く中、ラッフルズがマラッカに来たのは、敵国フランスに投降したオランダの支配するジャワ(バタビア)の占領工作のためであったという。

 そこでラッフルズは2つのマレー政策の柱を構想する。一つは、スルタン・ラジャと呼ばれるマレーの王という伝統的権威を利用した間接統治。そしてもう一つは「東インドの島々に『一連の根拠地』を設立し、これを結ぶ線からイギリスの力を投射する」という戦略である。そして後者は、特に「東セレベス(スラヴェシ)の港市、マサッカルを中心とするブギス人、マサッカル人にとくに注目した」という。18世紀初頭、現代ではまだ成長の恩恵を受けていないセレベスの海洋民族が、海賊、傭兵、商人として東南アジア海域全体で広範に活動していたというのはたいへん興味深い。そしてオランダの支配下で抑圧されてきた彼らと同盟し、支持を得ることで、この地域の実質的支配権を獲得するというのがラッフルズの描いた戦略であった。それは、言わば「領土支配を目的としない海の帝国、自由貿易帝国」であったという。他方で、彼はオランダ人が重視した中国人、そしてアラブ人やアメリカ人はその狡猾な性格故に警戒して対応しなければならないと考えていた。

 しかし、実際には英国の支配する「海の帝国」は、当初想定したような「ベンガル湾からマラッカ海峡、バンカ、セレベス、ジェロロ(ハルマヘラ)を経てニュー・ホランドに至るラインではなく、カルカッタからペナン、シンガポールを経由して香港、上海に至るライン」で形成され、またこの自由貿易でイギリスのパートナーとなったのは、ブギス人ではなく、「東南アジアの華僑センター」となったシンガポールを中心とする中国人であったという。これが、まさに現代の東南アジアにおけるシンガポールの位置付けの原点となるのである。

 この背景には、欧州でのナポレオン戦争終結後、ジャワがオランダに返還されたこと、そしてシンガポールの成長が予想以上に大きく、その自由貿易港としての成長を担ったのが中国人によるアヘン取引から生まれた「ドラッグ・マネー」であったこと、そして陸地での胡椒・ガンビル生産を担ったのがマレー半島に定住していた「片言の英語も出来」「信頼できる」中国人農園主たちであったことによるという。ここで紹介されているシンガポールの成長の歴史は、かつて岩崎の「アジア二都物語」で読んだ世界であるが、改めて見てみるとまさに英国の東南アジア植民地政策としてたいへん面白い。しかし、こうした「華僑ネットワークの不透明なコネと独占」が、彼らの秘密結社による利権争いを激化させると、それをきっかけに次の世代の「自由主義プロジェクト」が開始されたという。

 ラッフルズが「海の帝国」を構想した18世紀の「ブギス人の世紀」は、アジア国家が生成していく過渡期的な時代であった。19世紀半ばまでの東南アジアは「見渡すかぎり水と森の広がる人口希少地域」で、「ただ海上交通、河川交通の要路に、マラッカ、パレンバン、マカッサル、といった港市が成立し、また生活しやすく土地の豊かな地域(中略)で水稲耕作を基礎に人口の集住がおこったにすぎなかった。」そしてそうした地域にカリスマ的な「王」が現れ「帝国」が誕生するが、それは西欧近代国家的な「国家」と異なり、国境という観念のない「磁場」のような権力構造で、また支配機構の代わりに、親族や婚姻関係による社会組織を基盤としたものであった。それをある学者は多中心の「まんだら」システムと呼ぶが、そこには上記のとおり海上交通に依拠する「海のまんだら」と農業生産に依拠する「陸のまんだら」という二種類の「帝国」が現れることになる。そして、中国の王朝の力が強く「朝貢貿易」が活発に行われた時期は、それを担った華僑商人を手なずけた「海のまんだら」の王権が強化され、逆に中国の王朝権力が弱くなると、朝貢貿易を独占する「海のまんだら」の力が弱体化し、「陸のまんだら」が台頭するというダイナミズムが繰り返されたという。しかし1511年のオランダのマラッカ占領を機会に、こうした架橋ネットワークを中心とした東南アジア固有のシステムが破壊され「海のまんだら」も「陸のまんだら」も地域的な支配権を握ることが出来ず、結局西欧列強との緊張関係が続くことになった。「武装帆船に乗り組み、傭兵として、商人として、海賊としてこの海域を徘徊するブギス人の勢力は、まさにそうした混沌の時代の産物であった。」そしてラッフルズが基礎を築いたイギリスの自由貿易帝国の成立と共に、この混沌の時代が終わり、この地域にも近代が訪れることになる。著者はそれを「リヴァイアサン(近代国家)がまんだらにとって代わった」と表現している。

 シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイ、フィリピンといったこの地域の近代国家の新たな歴史が始まる。著者は、これらの近代国家の生成をまずシンガポールとマレーシアという「海峡植民地国家」から見ていく。ここでは既に見たように、植民地政府が華僑勢力を利用してアヘン取引や胡椒・ガンビル生産から税収を確保していったが、中国人秘密結社の力が強くなると、その取り締まりに多大なエネルギーを浪費することになる。そうした中で、「陸のまんだら」の支配者であったマレーの王たちは、19世紀半ばにスズ鉱山が発見されると、その開発を通じて権力拡大を試み、その支配を巡り海峡植民地のイギリス人、中国人資本家、中国人秘密結社、マレーの王たち、ブギス人の冒険者たちが入り乱れた抗争を繰り広げることになる。こうした内乱で、特に「マレー半島西海岸のペラ、セランゴールなどの地域ではこうして1850年代、60年代に王国の秩序は崩壊」し、それが「1870年代、海峡植民地政府によるマレー王国への介入、イギリスの『非公式』な自由貿易帝国の『公式』帝国への転換をもたらすことになった」という。

 これに対して、オランダ支配下のインドネシアとスペイン支配化のフィリピンの場合は、少し違う形で近代国家の枠組みが出来上がっていった。まずインドネシアは、17世紀初めにオランダ東インド会社の支配下で、「会社国家」として運営され、一旦1810年代初めに英国支配下に入るが、再びオランダに返還され、そこで、ナポレオン戦争で疲弊した本国を支える重要な植民地として運営されたという。そのために、自由貿易を基本としたイギリス支配下の海峡植民地と異なり、保護主義を基礎とした砂糖、インディゴ、タバコ等の「強制栽培制度と貿易独占」を行われることになる。また政府の歳入確保のためにアヘン請負に対する徴税を行うが、ここでも海峡植民地と異なり、主たる販売先はジャワの農民たちであったという。そしてそのアヘンの流通を担った中国人とジャワ人貴族+官僚との同盟によるジャワ村落経済支配が19世紀を通じて進む。しかしこの同盟は末端では「行商人、やくざ、博徒、娼婦などの住むジャワ人、中国人入り混じった合法世界と非合法世界のトワイライト・ゾーンに埋め込まれることになった。」これは著者によると、「国家の機構がわけのわからないトワイライト・ゾーン」を抱えながらこの国が近代を迎えることになった要因であるということになる。

 他方フィリピンの場合は、メキシコの独立とガレオン貿易の終焉という収益源を失ったスペインが、ここでの利益嵩上げを狙ったという点ではジャワに近いものの、その手段はむしろ自由貿易であったという。こうして1834年のマニラを皮切りに、幾つかの港が開放され、その結果フィリピン経済はイギルス人地方商人と、彼らと同盟した中国人商人の支配下に入ることになる。しかし、国内経済的には、メスティーソと呼ばれる中国人とフィリピン人の混血が国内の流通を担うことになり、彼らが高利貸し、地主、輸出向け商品作物生産者へと転じる中から大土地所有のエリートが生まれ、彼らがスペイン支配に挑戦していったという。

 こうした生成期の東南アジア国家で、国家・民族意識がなかなか育たなかった点を、著者は、アラブ移民でマラッカ時代にラッフルズとも交流のあったアブドゥッラーという人物の自叙伝を引用しながら説明している。詳細には立ち入らないが、この、当時のインテリが言及するのは国家ではなく「ラジャ(スルタン)」であり、また自分が何人であるかは全く触れられていないという。ところが彼の息子の世代になると、彼らがジャホール王国の官僚となることにより、初めて「マレー人」という意識が誕生したという訳である。

 またラッフルズがシンガポールの都市計画を行うにあたって、彼が規定する「民族」により居住地域が区分けされたことも、シンガポールでの民族意識の覚醒を促したという。まさに現代シンガポールでも残っている民族地域の設定であるが、ここでのポイントは、「民族的カテゴリーを土台に社会地図が作成される、それがリヴァイアサンの力によって社会的現実となる、そしてその結果として本来カラッポであった民族的カテゴリーが次第に切実な意味を持つようになった」ということである。そしてそれが東南アジアの地で新しい民族カテゴリーに基づく「数の政治」を生み出すと共に、フィリピンのメスティーソのような中間的なカテゴリーを消滅させることになったという。

 18世紀末には、まだ「まんだら」という地方権力が散在するだけであった東南アジアが、19世紀末になると西欧列強によりくっきりと区分された「植民地国家」となる。そしてこの土台の上で、植民地支配者による産業育成、インフラ整備等が行われると共に、白人支配者の安全と福祉に奉仕するための現地人の意識を変えるための「近代化プロジェクト」が進められていった。例えば「オランダ東インドでは(中略)原住民エリートの教育促進、行政改革が実施され、海峡植民地では『中国人の保護』のために華民護衛所が設立されて、秘密結社の取り締り、移民の登録が始まった。」しかし、こうした原住民の意識の近代化は、それまでこの社会になかった「わたし」意識を覚醒することになり、それが植民地支配者を対象化することを可能にする。植民地支配者に対する組織的な抵抗の始まりである。そしてそれに対抗する支配者が取ったのが、近代的な警察制度の構築とそれを使った地域の「牢獄・収容所」列島化であった。しかし、これによって植民地の安定を確保するという西欧列強の試みは結局失敗する。それを象徴するのが、著者によれば第二次大戦での日本軍による占領が原住民の中で何らの抵抗もなく行われたことであったということになる。

 時代はいっきに「戦争と革命と反革命の時代」である1940年代に飛び、ここでのアジアの「新しい帝国秩序」が語られる。ここで重要な役割を果たしたのはアメリカで、その具体的な課題は、まず国際共産主義の脅威への対抗、ソ連、中国の封じ込めであり、二つ目に日本を復興させるが、二度とアメリカの脅威にならないようにする、ということであった。そしてこの問題を解く鍵は日本であり、アメリカにとって「日本がアジアにおけるアメリカの非公式帝国建設の戦略拠点」となった。この時点で、アメリカの必要な「アジアの工場」=「アジアの兵站基地」となり得るのは日本だけだったからである。そしてこれが、新たなアジア地域での「アメリカの構造的優位を脅かさない限り」での、「日本の中心性」を保証したという。そしてそこでは東南アジアは、日本の経済復興を促すための「日本・東南アジア・米国の三角貿易」体制の中で日本への原料輸出・日本からの製品輸入を引き受けることになったという。言わば「日本・東南アジア関係とはまずもって日本・東南アジア『経済協力関係』」であり、それはアメリカの構想であったというのである。そして実際には日本の経済復興を促したのは朝鮮戦争であり、またインドネシア・スカルノの親共産主義政権やインドシナでの共産主義の勝利という誤算はあったにしても、1960年代頃までには韓国、日本、台湾・香港から、かつての「海のアジア」の地域に米国主導の安全保障と三角貿易体制を作ることができたのである。これを著者は、「半主権」プロジェクトと「ヘゲモニー」プロジェクトと呼んでいる。

 こうして55年体制下の日本では、岸の「アジアの盟主」日本という発想から福田のASEAN外交まで、あくまでこのアメリカの意向を念頭に置いた東南アジア外交が展開されてきたという。「経済協力、アジア主義、日米協調」が3つの行動原則であった。そして著者は、それは基本的に90年代末のアジア危機を経ても変わっていないと見る。但し日本の経済協力は、かつての輸出振興、資源調達から、日本の直接投資、構造調整・インフラ整備・人材養成のための日本の援助、NIES,ASEAN諸国からの輸入拡大、これによって東アジアの経済発展を促進すること、に変わってきている。

 他方日本以外のアジア諸国は、この「アメリカの非公式帝国秩序」の中で、「開発イデオロギー」による、「上からの国民国家建設と経済成長」を進めることになる。所謂「開発独裁」であり、これは今までのアジア分析で嫌というほど見てきたものである。また幾つかの国では「アメリカ化のプロジェクト」が展開されるが、これは特にフォード財団の助成により米国で教育を受けた経済学者がスハルト体制を支えたインドネシアで顕著であったという。

 東南アジア諸国による、「開発独裁」による国民国家建設の実際を、著者はタイ、インドネシア、フィリピンの3カ国で具体的に見ているが、これは既に多くのより細かい説明を見てきているので詳述はしない。ただ、この作品がアジア経済危機の余波が残る中で書かれたこともあり、この3カ国のアジア危機での対応が、それまでの国民国家建設の手法からの一つの帰結として語られている。即ち、経済的には最大の危機に晒されたタイでは、インドネシアで見られたような暴動、略奪、宗教対立、民族対立が見られなかったとして、タイでは「官僚国家から国民国家への移行において国家の機構が破壊されることはなかった」のに対し、インドネシアではスハルトが経済と軍部を私物化することで「1980年代末から(中略)国家機構を壊し始めた」末に行き詰まったとして、タイの安定性をより強調することになるのである。またフィリピンについては、ここを支配した19世紀のスペインが中央集権的な国家機構を編成するにはあまりに弱体であったことから、その後盟主を引き継いだアメリカ型の自治の伝統を導入し、それが地方大土地所有による分権型社会とマッチすることになった。マルコスはそれをより強力な中央集権国家に改造しようと試み失敗するが、これは「インドネシアではともかく一度は『権力の集中』に成功し、官僚国家が再建」され、「多くに人々が機構としての国家とは如何なるものかをそれなりに理解している」のに対し、フィリピンでは「国民国家がこれまで一度も建設されなかったために、人々が機構としての国家を知らず、したがって、そんなものに最初から何も期待しない、そしてその代わりにボスとしての政治家にさまざまな期待をする」ことになっていると見る。

 こうして、アジアの発展を、@ラッフルズによる自由貿易帝国プロジェクト、A20世紀初頭の文明化プロジェクト、B戦後のアメリカによる「自由アジア」プロジェクトとその下での日本を先頭とする雁行型経済成長という流れで見てきたが、これからの展開をどう見るか?それを著者は日本の役割に即して最後の議論を展開する。

 まず重要な点は、戦後のアメリカを盟主とするアジアの秩序が、かつてラッフルズが構築した「海のアジア」を基礎に、「外に開かれたアジア、交易のネットワークで結ばれた資本主義的なアジア」として構築され、それは「『陸のアジア』、内に向いたアジア、郷紳と農民のアジア、農本主義のアジアに対置される。」もちろんこの発想は、単に中国だけを「陸のアジア」として別扱いするものではないが、これを意識したものと見てよいであろう。

 著者は、これからのアジア秩序を見る際に検討すべき論点を3つ挙げている。初めに、この地域におけるアメリカのヘゲモニーの持続性。まさにここでは「中国がアメリカに代わって東アジアのヘゲモニーを掌握する可能性が議論され、10年前のこの本が書かれた時点では著者は「当分は考えなくてよい」と結論付けているが、これはまさに東シナ海、南シナ海の島々の領有権問題や中国海軍の増強により、現在現実的な懸念になっている問題である。

 二つ目は「アジア地域の統合能力の問題」。これは東南アジアにおいて西欧列強と華僑ネットワークの連携で成長した植民地国家が、「共通の社会的意志を持たない」複合社会として生成したために、経済が順調に成長している時には見えなかった矛盾が、アジア危機の際に顕在化するという問題である。しかし、逆にアジア危機から10年以上が経ち、逆にその間の経済成長により、むしろこれらの国では経済成長による中間階級の政治意識の高まりや所得格差の顕在化などの新しい社会問題がクローズアップされているというのが、この本では捉えられていない議論である。

 そして3つめは、まさに中国問題。著者は、これは中国自体の覇権の可能性ではなく、「海のアジア」の核であった華僑ネットワークの繁栄が中国の将来にどのような意味を持つか、という問題であると言う。ここでの著者の回答は、ややネガティブである。「商業の繁栄、市場経済の発展は常に農本主義国家の基礎を脅かした。」そして「中国は(中略)市場経済のダイナミズムを国力に転換できるような開かれた政治経済システムを創出できるか」は「疑問」と見る。即ち、市場経済に依拠した華僑ネットワークの侵入を、中国はある段階で制約せざるを得ないだろうという観測である。しかし、まさにこれは多くの軋轢を惹起しながらも、引続き中国で模索され、それなりの成長を実現してきたというのが、実態である。最終的に、「海の帝国」への転換が可能かどうかは、最初の覇権問題とも絡み、近い将来可能性がないと断言することはできない。

 著者は、中世の中国朝貢貿易は、「海のまんだら」を発展させる一つの契機になったと述べているが、今現代の「朝貢貿易」を仕切っていたアメリカのこの地域での力が衰退し、他方中国の力が強くなるとすると、実は現代の「海の帝国」はそのままこの中世の中国を盟主とするシステムに乗り替わっていく可能性も全くないとは言えない。著者は、この自由貿易の影響が、中国の国内問題を惹起し、それが王朝崩壊の大きな原因となったとしているが、もし中国がかつての華僑勢力を手なずけることに成功し(彼らは利益が見込めるところにはどこでも現れ、利益のために諂うことも厭わないであろう)、且つその国内活動を統制することで、市場経済の影響が直接内政の管理レベルを超えることがないようにできれば、「海の帝国」を支配する「陸の帝国」というアジアの歴史で初めての本格的な覇権が登場することになる。それ故、現在軋轢が高まっている海洋の支配権を巡る問題は、歴史的にたいへん重要な問題であり、この地域のアメリカの覇権の持続性と合わせ、これから益々注意深く見ていかなければならないだろう。

 著者は最後に、このアジアの秩序の中で、日本は何が出来るのかを問うが、結論はありきたりである。「めざすべきは国際協調とアジア主義の調和であり、アジア地域の安定であり、そして経済協力、文化協力、知的協力、技術協力などの興隆の拡大と深化によって日本・東アジア関係の経済的、社会的、文化的パラメーターをゆっくり変えていく、そしてそれによって長期的に日本の行動の自由の拡大が韓国、台湾、東南アジアの国々の利益になる、そういう仕組みを地域秩序の中につくることである。」「アジアの中の日本」という結論は当然であるために、それ自体には何の違和感もない。しかし、現実政治のダイナミズムの中で、存在感を低下させている日本は、既に今や米国に次ぐNo2ではなく、米国に寄生している唯の衰退国家として見る議論も聞かれるようになっている。現在の政権にASEAN外交がない、という話も良く聞くが、まさに「アジアの中の日本」もある種の危機に晒されていることは間違いない。前半の「海の帝国」の生成と、戦後のアジア秩序がこの基礎の上に築かれたというのは説得的な議論であったが、この最後に触れられている現在のアジア情勢の分析には特に古さを感じざるを得なかった。10年前と何とアジア世界も変わってしまっているかを痛感させる本である。

読了:2011年9月1日