アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
アジア全般
アジア海賊版文化
著者:土佐 昌樹 
 これも今回の夏休みに、ブックオフの古本で仕入れた新書である。タイトルから見るとアジアで違法コピーされた各種商品の実態分析だろうと思って読み始めたところ、こうした違法コピーの話しに留まらない、アジアの現代サブカルチャー全般に関わる文化論のようなものになっている。しかし、各章の話はあまり一貫しておらず、幾つかの雑学トッピクス的なテーマで書かれた文章を寄せ集めたという感じの本である。著者は、国士舘大学21世紀アジア学部の教授。この大学が、こうしたアジア文化に関する雑学に近いテーマの研究(?)を許すというのも、昔の右翼チックなイメージから考えるとなかなか面白い。

 アジアということであるが、実際には著者が調査したミャンマーとそこに流れ込む製品を製造する中国、そして文化論一般としての韓国の3カ国が中心である。そしてこうした国における外国文化、なかんずくアメリカ文化とその国固有の文化との交流がどのように進んでいるか、あるいはそうしたサブカルチャーが社会的にどのような役割を果たしているか等々を報告している。多くは雑学に近い話なので、若干の面白い部分だけ脈絡なく抜き出しておく。

 アメリカ文化が、アジア全般に影響を及ぼしているのは言うまでもないし、それが常にそこの固有文化との間で軋轢を起こしながらも浸透していることも当然である。そして他方で、アジア文化がアメリカに浸透することもある。グローバル化というのは情報の流通速度が速くなり、その障壁が低くなることであり、それは例えば歴史的に最も高い障壁である民族や宗教といったものでも、過去の交流度合いに比べると、現代のそれは比較にならないくらい頻繁になっていると言える。その意味で、現代社会の文化、特にサブカルチャーと呼ばれる大衆文化は、いとも簡単に国境を越えて浸透し合っている。そしてそれを見る時に著者が注目する視点が、「海賊行為」と「公共圏」という概念であるという。

 この「海賊行為」の現状を見るために、著者は「文化のアメリカ化を問うのにもっとも無縁な場所である」軍事独裁国家ミャンマーでの実態調査を行う。情報統制がもっとも厳しいこの国でも、映像コンテンツの流通はある。そこでは地上波、衛星放送、映画館、レンタル・ビデオショップという4つの層があり、下に行くほど統制は緩くなり「海賊文化」が流入するし、そしてそこが民衆の本音が語られる「公共圏」になるのである。著者は、ヤンゴンのビデオショップの経営者から色々話を聞き出し、政府の規制状況から海賊版DVD流通の実態を探っているが、これは当然ながら中国・昆明から私も訪れたゴールデン・トライアングル地帯を抜けてミャンマーに流れ込んでいるのである。私は、この地域を訪れた際、ミャナマー側には入らなかったが、おそらくタイ側で立ち寄ったビデオ屋での商品取り揃えは、ミャンマー側でもほとんど同じなのであろう。軍事国家とは言え、ハリウッド映画や韓流ドラマ等の大衆文化流入は、政治的に無害であれば、逆に民衆のガス抜きになるので厳しく統制する必要もないし、それが分かればブラックマーケットに製品が流通するインフラは既に出来上がっているということである。DVDについては、バングラデッシュ・ダッカの工場からの製品も多いという。要は、こうしたコピー技術は今や取りたてたノウハウではないということであり、中国圏とインド圏という、知的財産権保護の弱い地域から東南アジア全般に流れ込んでいるという訳である。恐らく私がマレーシアやタイで眼にする違法コピーDVDは、ミャンマーで売られている品物と大差ないのであろう。

 コピー大国、中国では、DVDやCDといった文化コンテンツに留まらず、自動車、オートバイ、家電製品、スポーツ用品、衣料品、携帯電話、玩具、食料品まで、そして最近ではアップル・ショップや家具のイケヤ等の店舗デザインに至るまで、あらゆるジャンルのコピーが出回っているのは有名である。特に、産業活動における情報が「熟練した職人的ノウハウではなく、工学的情報に依存する度合いが高まるほど、コピーが容易になっていく」のは確かである。こうした中で、DVD等の海賊版文化コンテンツは、一般の産業プロダクトと比較すると、中国やミャンマーのような「統制社会において閉塞化した文化状況にグローバルな風を運んでいる」という見方もできるが、他方で、あくまで政治的に無害なサブカルチャーとして、民衆の不満のガス抜きにも役立っているのみ間違いなく、著者が言うようにように、この流通が単純に「公共圏」での活発なコミュニケーションを促す訳ではない。著者は続けて著作権そのものの法的問題などにも議論を広げているが、それは省略して、むしろアジアにおける「公共圏」の議論を見ておこう。

 ここで突如、ハーバーマスの「公共性の構造転換」からの議論が登場する。この西欧近代において、権力者の言説の場から独立した市民のコミュニケーションの場が形成される過程を取り上げた議論は、アジアでの同様な場の成長を見ることで「新しい生命を与えることが可能」と言う。言うまでもなく、ハーバーマスの言う「公共圏」は「文芸的公共圏」といった「教養主義の香りが濃厚にただよう」ものであった。しかし、著者に言わせると、ハーバーマス自身も後年、単なる「高級文化」だけでなく、サブカルチャーを含めた「公共圏」を議論すべきと認めているという。

 そこで提起されるのは、ミャンマーのティーショップが、統制に対して対抗的な「公共圏」となり得るかどうか、という問題である。もちろん既に書いたように、こうしたアメリカ他の大衆文化の機能は常に両義的である。著者もこれについては、「情報化の進展と国家による規制と検閲の強化、大衆社会状況と消費文化の隆盛、経済的グローバル化とナショナリズムの高揚、行きつ戻りつする民主化の進展と国境を越えた市民運動の連帯の模索、こうした異質な力線の交錯が予測し難い奇跡を描いている」と総括している。

 統制された国家での「公共圏」の成長を、中国女性学の発展や韓国の学生運動について見たうえで、V.ターナーの「コミュニタス」と「境界性」といった概念を紹介したり、サイバー公共圏としてのインターネット空間の意味合いも指摘しているが、この辺は省略する。

 そしてテーマは、「韓流」が見せたアジア的交流の可能性、として、韓国ドラマのアジアへの浸透の契機と理由に移っていく。欧米文化が浸透する中で、「ローカルな資源や主体的な戦術」の成功例として取り上げられるのであるが、これははっきりいって、雑誌の記事と言う感じの軽い文章であるので、出張帰りの飛行機の中でほとんど流し読んだ。これについては、大衆文化の広がりと言うのは「共通のテイストや地理的・文化的近接性を背景にしてはいるが、必ずしも境界分断的ということではなく、一定の条件がそろえば無制限に感染が進む」という当たり前のことを確認しておけば十分だろう。

 こうして最終章である。ここで著者が注目するのは「ディアスポラ的アジア」という概念である。これは一般的には故郷の国から様々な事情で出国せざるを得なかった民族が、その民族的アイデンティティを複雑化して育てていくということであるが、アジアで見ればヴェトナム難民のような政治難民に加えて、韓国が、朝鮮戦争時代に多くの戦争孤児をアメリカに養子に出して以降、この半世紀で約16万人の幼児を養子として海外に送り出した例が取り上げられている。こうした複雑なアイデンティティを持つ人々が、アジアという枠組みの中でも新しい「公共圏」を担う可能性がある、というのがここでの結論である。そしてそうした先端的な文化に加え、一般的な大衆文化、そして国家や(高級)芸術が今やアジアの中で、その統治形態に関わりなくすざまじいスピードで駆け巡っている。これが「放蕩の自己増殖による破局のシナリオ」に転換する可能性を含め、アジアの成長の一つの断面であることだけは間違いない。

 私の個人史の中で言えば、60年代末のアメリカにおけるサブカルチャーが、エスタブリッシュメントに対する対抗文化として花開いたことは、ある種の原点になっているし、その原型がワイマール期ドイツのサブカルチャーにあったというのも、多くのところで書いてきた。残念ながら、現代の大衆文化は、先進国においては国家がより柔軟な支配構造に代わっているため、そうした時代のような強い文化的メッセージを送ることが稀になってしまっている。そしてそれはアジアの中でも先に成熟したシンガポールや香港などでは同じ状態と考えられるが、逆に、まだこの地域で権威主義的な政治支配が残っている地域では、場合によっては対抗文化的な機能を持つ可能性はある。この本では深く取り上げられていないが、中国におけるネット「公共圏」の拡大は、まさに「アラブの春」の大きな力になったこともあり、権力側が厳しく監視を続けることになっている。同様に、映像を始めとする大衆文化コンテンツも、内容によっては当然権力側が神経質になることは予想される。そこでゲリラ的な動きが、何らかの関係で当局の規制を掻い潜り拡大する時に、まさにここで著者が取り上げているような「海賊文化」が、新しい「公共圏」として社会的意味を持ってくるのだろう。対抗文化のみならず、新しい文化は限界的な環境、文化的辺境から生まれてくるというのは、歴史の中で度々示されていることである。それが、ミャンマーのような統制国家の中からなのか、あるいは著者の言う「アジア的ディアスポラ」の中から出てくるのか。成長と変化の中にあるアジアの喧騒が、そうした可能性を秘めているのは確かであろう。

読了:2011年9月9日