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アジア読書日記
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消費するアジア
著者:大泉 啓一郎 
 日本出張時に入手し、シンガポールに戻る飛行機の中で読了した。数年前に、この著者が刊行した「老いていくアジア」は、現在成長著しいアジア世界が、実は必ずしもこの成長を持続させることができるわけではないことを、人口動態から説明した説得力ある作品であった。しかし、私の立場上、アジアの成長に制約要因があるということは声高には言えない。従って私の仕事では、この著者の議論を取り入れながらも、それでもアジアには成長可能性が残っていることを、彼の理論とは180度逆の方向に組み立て直したりしたものである。

 その著者が、今度はこれも成長著しく、従来の製造業のみならず日本の消費関連の会社も、日本の国内市場の閉塞感から逃れるために殺到しているアジアの消費市場を分析するということなので、早く内容を見ておきたかった。しかし、まず一読した限りでは、前著に比べると結論のインパクトが弱いのみならず、そこに至る論理も今一説得力を欠いていると感じざるを得なかった。やはり、前作のインパクトが強すぎて、こちらは二番煎じという印象なのである。それを払拭できるかどうか、もう一度著者のここでの議論を追いかけてみよう。

 アジアの消費市場は急拡大しており、日本企業のみならず、世界各国の企業が、かつての低コスト生産拠点としてのアジアから、消費市場としてのアジアに注目し、様々な戦略でそこへの参入・シア拡大を試みている。しかし、ここで考察の対象国として取り上げられている中国、ASEAN5(タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ヴェトナム)、そしてインドの「大都市の生産能力や消費市場の規模は、国レベルで平均化された指標だけをみていては、過小評価することになる」と言う。しかし、他方で、この「エネルギーあふれる大都市の景観」の「延長線上にアジアの輝かしい未来を描く」のもまた危険であるという。何故ならば、こうしたアジア新興国は、「先進的な景観を持つメガ都市と、途上国的な課題に直面する農村という両極端な空間を同時に抱えている。」そしてその量空間の格差が、「持続的成長の維持が困難になるだけでなく、社会を不安化させる原因ともなる」からである。他方で「メガ都市の成長が、地球レベルの資源・環境問題を通して世界経済への影響力を強めている」ことも注目される。こうした相互に拮抗する空間が、今後のアジアの消費市場の成長にどのように機能していくかを分析する、というのがこの本での著者の問題意識である。

 まず著者は、日本企業のアジア新興国に対する見方が、リーマン危機以降変化しているとするが、これはごく常識的な見方である。「日本とアジア」という視点から、「アジアの中の日本」へ見方を変えなければならないというのも、むしろ10年遅い議論である。そしてようやく、アンケート等によると、日本企業もアジア新興国進出の理由に、「安価な労働力」から「現地市場の現状規模」へ、そして更に「現地市場の成長性」を挙げることが多くなってきたと紹介されている。

 しかし、そうしたアジア新興国の市場セグメントを見る時に、今までは「日本で販売している製品をアジアの富裕層向けにいかに売るかばかりに目が向けられていた」が、むしろ成長力があるのは「ボリュームゾーン」と呼ばれる「中間所得層」である。更にその下の「低所得層」もそれなりの市場規模を有している。著者は所得別のそれぞれの市場セグメントの特徴を説明している。例えば富裕層は、日本の消費者と同じレベルの製品を求める階層であるのに対し、「ボリュームゾーン」は、富裕層向けの外観を持ちながら機能面を落とし、価格を下げることで需要を創出できるとし、最後に「低所得層」向けビジネス(BOP−Bottom of the Pyramid)は衛生環境や子供の栄養不足等に対する配慮をセールスに結びつける等の例が語られる。しかし、この当たりはよくあるマーケッティング論の世界の通俗的な議論である。

 こうしたアジアの消費市場が今後も成長していくためには、基本的な成長力が持続するだけではなく、その中に存在する格差を如何に是正していくかが課題となる。これを探るため著者が依拠するのは「都市」を出発点に、それの外延部としての「メガリージョン」を介し、農村部へと移していくという「地理的な視点」である。何故なら既に冒頭に指摘されたとおり、「アジア経済を語る上で、国レベルの経済指標が急速に有効性を失っている」からである。例えば、上海、バンコク、クアラルンプールといった都市では、一人当たりGDPは既に1万ドルを越え、国としての台湾の水準に近くなっているが、これらの国全体を見ると、まだ4000-8000ドルといった水準に留まっているからである。こうした格差を考えると、「アジアの持続的な繁栄の条件は、メガ都市の国際競争力の強化であり、その繁栄がメガリージョンとして広がることであり、さらにその成果が地方・農村まで浸透することである」と考えるのである。

 著者は、アジアにおける都市化の歴史を、人口統計を基にして辿るが、それは1950年代以降急速に進んだと言われている。そして世界の中でも、アジアは「最も都市化率の上昇と都市人口の増加が著しい地域である」と結論する。

 都市化に関しては、一般的に「経済発展により都市化率が上昇し、その移動による人口増加が更なる経済発展を促す」という「都市経済のロックイン効果」という考え方があるようであるが、他方で都市が過剰な労働力を抱え、必ずしも経済発展に繋がらない「過剰都市」という見方もある。そしてアジアの都市化については、まずは後者の現象が現れたというのが著者の認識である。しかし、それは徐々に克服される。「過剰都市」が如何に「メガ都市」に変貌していくかを、著者はバンコクの発展を例にとって説明している。

 中国の「一人っ子政策」ではないが、1970年代以降、バンコクの過剰都市化問題に対応するためタイ政府は「半ば強制的な産児制限」政策を実施し、その結果バンコクの出生率が2000年に向け急速に低下する。加えて郊外への工場移転優遇政策や外国資本誘致による「資本」と「市場」獲得という分業化の進展も、都市の過剰化を緩和したという。特にバンコク郊外の工業団地への外国資本の誘致は、日本企業も多く進出したものであるが、これは「時間とともに量的拡大に加え、軽工業から重工業、そして技術集約的な産業へと移り変わるという質的変化を伴い」、「バンコク周辺は、単なる工業地帯から世界的な輸出拠点となる」と共に「部品や中間財を生産する関連企業が多数集まる産業クライスターへと変化」した。これが、バンコクが「メガ都市」から「メガリージョン」に成長していく契機になるのである。そうした郊外の工業団地が、今これを書いている現在、記録的な豪雨による洪水で大きな被害にあっているのは皮肉ではあるが・・・。

 こうした経済成長により、消費市場としてのバンコクも成長していく。面白いところでは、2009年時点でのタイ全国のコンビニ数を見ると、CPグループがライセンス経営する「セブンイレブン」が5270店と、このグループで見ると日本、アメリカに次ぐ規模になっており、また日本と同様に「若者の情報の発信地として機能している」ということである。その他、富裕層向けのショッピング・センターや晩婚率・離婚率の上昇、更には子供の塾通い、生活習慣病の拡大などの「先進国化」特有の現象が進んでおり、最早アジア都市部の消費の姿は日本などとほとんど変わらなくなっているどころか、更に急速に拡大しているという訳である。

 またこうしたアジア地域の経済成長は、従来は日本を先頭とする「雁行形態発展モデル」として説明されていたが、中国の成長により、むしろ「21世紀型分業体制(フラグメンテーション)」として捉える議論が現在は主流になってきていることが指摘されている。タイ等が懸念していた中国脅威論が、実は杞憂であり、消費市場としての中国も急速に成長したことからアセアン諸国も、これをターゲットに、競争を通じた分業化が進捗することになったのである。更に現在はアセアンからインド消費市場を狙うまでに至っている。しかし、この本では指摘されていないが、こうした分業化により、日本の震災やタイの洪水などでサプライ・チェーンが分断された時の対応が求められることになっていることは、この成長モデルに内在する新しい問題である。

 こうした「メガ都市」から「メガリージョン」への成長を、著者は次に中国の例で説明している。ここでまず抑えておくべきなのは、1970年代末からの改革・開放政策の中で中国の成長を引っ張ってきた3つの「メガリージョン」である。それは@北京、天津を「メガ都市」とする「渤海湾経済圏」、A上海を中心とする「長江デルタ経済圏」、そしてB香港、深圳、広州を中心とする「珠江デルタ経済圏」である。2008年の中国のGDPで見ると、この3つのメガリージョンの合計で見ると、面積では3%、人口では15%に過ぎないが、GDPでは約4割を占めるほど、中国の経済成長を牽引してきたという。著者は、例えば上海の例で、「メガ都市」から「メガリージョン」への成長を説明しているが、基本的な成長形態はタイと同様、郊外部に生産拠点が拡大し産業クライスターが形成されるという経緯を辿っている。またここで注目されるのは、このコア地域ではサービス・セクターの比重が上昇する「脱工業化」も同時に進捗しているという点である。そしてこれらのメガリージョンでは、都市部富裕層の増加に加え、こうした成長の恩恵が周辺の農村部にも拡大し、農村部での消費余力も広がっているということである。

 しかし、特に国土が広大な中国の場合は、こうした成長が全国規模で農村部に届くかが問題である。何故なら「アジアは、世界の成長センターとして期待される地域である一方で、さまざまな格差に悩む地域でもある」からである。著者は、続いて「貧困率」からアジア諸国の成長度合いを見ていくが、もちろん中国を含め、これが低下していることは確認できるが、「ジニ係数」で見ると、国による多少の差はあるが、全体としては数値は高くなっており、格差が拡大していることが確認できるという。

 格差に関する一般的な理論としては、「国が低所得にある段階では、成長にともない、しばらくの間、不平等化が進むものの、やがてある所得水準に達すると、それ以降は不平等の度合いが小さくなる」という「クズネッツの逆U字仮説」がある。アジアの格差は、この仮説のように解消に向かうのであろうか?

 この仮説が妥当性を持つのは、産業化により、農村部の余剰労働力が都市部に吸収され、生産力の上昇と労働力の配分の修正が整合的に行われる場合である。しかし、著者は、アジア、例えば中国の人口動態から考えると、この理論はそのまま適用できないのではないか、と考えている。その最大の要因はこの地域全体で既に始まっている「少子高齢化」である。

 ここで、著者は、前著の議論を改めて紹介する。人口ボーナスとオーナス(負担)のダイナミズムをアジアに適用した前著の議論は興味深いものであったが、アジアの都市部においては、すでに全体としての少子化が発生しているものの、農村部の余剰労働力が都市に流れ込んだために、少なくとも都市部においては少子化による人口オーナスの影響は顕在化しないままであった。しかし農村部での状況はこれと大きく異なる。日本と異なりアジア地域では、ベビーブーマー世代の多くが農村部に留まったことから、今後農村部の高齢化が日本よりも急速に進む可能性が高いという。更に都市部との人的資本の水準格差(学歴等)等を考慮すると、「地方・農村の高成長や、BOP市場、ボリュームゾーン市場の将来に楽観的な絵を描くことは危険である」と著者は考える。地方・農村が、メガリージョンの成長の恩恵を受けるためには幾つかの条件や政策が遂行される必要があると見るのである。

 その一つは地方・農村部へのインフラ整備によるアクセスの効率化である。現在カンボジア、ラオス、ミャンマー、ヴェトナムを中心に進められている「大メコン経済圏(GMS)開発プログラム」等はその一例として紹介されている。またグラミン銀行で有名になったマイクロ・ファイナンス等の低所得者向け融資なども注目されているが、これは、タイのタックシン政権下での各農村への基金設定のように、単に資金が耐久財の購入に充てられ生産活動に向かわないといったリスクも伴うと指摘されている。

 「中進国のワナ」と呼ばれる議論は、「天然資源の活用や外資系企業の誘致などによって中所得国へと成長した途上国が、それまでの成長路線に固執し、産業構造転換の努力を怠れば、成長率は次第に鈍化し、先進国に辿りつくことが困難になる」というもので、アジアではタイとマレーシアでこのリスクが高いという。もちろん両国はそれを意識した対応を取っているとして、挫折したタックシン改革や、マレーシアでのナジブ政権による「ブミプトラ政策の見直しや政府系企業の民営化」等の例を紹介している。しかし、著者はこうした対策が、結局はメガリージョンを対象とした経済構造改革で、地方・農村部はまた別の施策が必要であるという。特に例えばタックシン改革の失敗の要因はまさにタイの地域間所得格差の深刻さで、それが政治不安を惹起しているとする。タイでは決して農村部の生活水準が低迷しているわけではなく、それなりに向上してきたが、都市部の成長がそれ以上に著しいために、「格差意識」が高まり、農村部のみならず都市部でもこの成長から取り残された「物言うマジョリティ」が増加していることにあると見るのである。「都市部の競争力強化策を図ると同時に、地方・農村に目配りした政策を実施しようとした」タックシンの「デュアル・トラック(二軸)政策」は、結果的に農村部や都市部貧困層の政治意識を覚醒させたのである。マレーシアに関しては、この本では、2008年の総選挙で13州の内5州で野党が勝利するなど、従来の政治基盤に揺らぎが見えるが、まだナジブの指導力で、この政治不安が顕在化していないとされている。しかしここでも、その後も今年(2011年)に入り、独裁政党「UNMO」に対抗する市民デモと、それへの強権的弾圧事件も発生してきており、状況は類似してきていると言える。

 結局、この「中進国のワナ」を抜ける道は、財政的に隘路に入る可能性が非常に高くなる、というのが、著者の結論である。政治意識を増した都市貧困層や農村の合意を獲得しながら、人口ボーナスが消滅する前に、メガ都市・メガリージョンの産業競争力と生産力を農村部にまで拡大し、その結果として国全体として先進国入りを果たすような政策を如何に進めていくかが、まさにアセアン中進国に課された現在の政治課題であることは間違いない。タイのインラック政権が、タックシンの繰り人形と陰口を叩かれながらも「和解」を大きな政策テーマとして掲げているのも、また中国でも2004年以来「和諧社会」が提唱されているのも、こうした成長期の社会不安を政権が強く意識していることを示しているのである。

 最終章では、著者はアジアの持続的な市場拡大の条件として、中国を中心とする資源獲得競争の問題と京都議定書批准といった環境問題を取り上げている。双方の問題とも先進国と途上国で利害関係が相反することから、国際関係の中では合意形成が難しい分野であり、そうした対立が続く中で、自ら力があると考える中国は独自の行動を貫き、これが国際的な軋轢を高めると共に、コモディティ全般の価格上昇をもたらすことになる。そしてこれを日本から見れば、資源価格の上昇に加え、レアアース供給問題等により、産業競争力を維持する上での新しい問題を惹起させている。

 前者については、著者は世界の工場としての中国の資源獲得外交や官民連携の資源開発は避けられないとしながらも、「各国間の協調も同時に進められるべき」であるという、一般的な提言を行うに留まっている。また後者については、既にメガ都市・メガリージョンは、もはや途上国と看做すべきではなく、二酸化炭素の排出基準などで先進国並みの義務を負うべきとしている。そして今やアジア版「成長の限界」を、国際レベルで真剣に検討しなければならない時期に来ているとするのである。そうした中で、日本は、こうした問題を乗り越えるための技術を提供するで、国際的な貢献を行うと共に、それを通じて新しいビジネスの開拓する能力を有していると考えるのである。著者は日本を「課題先進国」という表現で捉えている。資源・環境問題のみならず、老齢化、介護・医療、教育、労働、子育て問題など、日本が一足先に抱える課題は、アジアの特にメガ都市・メガリージョンでは共通の課題となりつつあり、こうした質的要請に応じた製品・サービスは、これからのアジア市場でのデマンドを先取りしていると考えられる。その意味で日本の市場は「アジアのメガ都市・メガリージョンのアンテナショップと捉えるべき」という著者の主張は示唆に富んでいる。また日本のような成熟社会の新しい消費デマンドは、新しいライフサイクルの中から形成される可能性が高いとして、新たなソフトパワーの発信源となるために、日本人一人ひとりの「創造力」と「意識改革」が必要とされると結んでいる。

 「消費するアジア」というタイトルから、アジア諸国の消費形態の細かい分析がみられると期待していたが、それは一般のビジネス書的なマーケッティング論の域を出ず、結局のところ議論はアジアの経済成長とそれが抱える一般的問題に移っていってしまう。そして後者は、「中進国のワナ」と呼ばれる、一般的な社会不安の問題に多くのスペースを費やしてしまっているが、これ自体は各国の政治過程分析で頻繁に議論されているテーマであり、余り新鮮味はない。最後の部分で、再び著者はアジアの消費社会と日本の課題を関連させているが、このあたりは無理やりタイトルに近づけて終わるようこじつけたと感じられなくもなかった。メガ都市、メガリージョン、地方・農村という消費分析の際のセグメンテーションなど重要なアプローチ手法も提示しているものの、結局議論はメガ都市・メガリージョン対地方・農村格差の解消という、ある意味ありふれた議論になってしまったのである。このあたりが、前著に比較してこの新書のインパクトが今一歩であった主たる要因なのではないかと思えるのである。

読了2011年10月16日