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アジア読書日記
アジア全般
アジアの政治経済・入門(新版)
編著:片山裕・大西裕 
 アジア政治・経済の概説書で、2006年に初版が出版された後、2010年5月に改訂されている。アジア全体に共通する政治・経済の切り口を提示した後、それを前提に主要国の個別の紹介を行っている。個別国としては、韓国、中国、台湾、インドネシア、フィリピン、マレーシア、タイ、ヴェトナム、そしてインドが取り上げられ、アセアンが、別途独立して説明されている(シンガポールや香港は取り上げられていない)。特にヴェトナムは、この改訂版で加えられたとのことである。改訂の時期からリーマン・ショック以降の動きも一部考慮に入れながら考察しているので、アジア全般の概説書としては、私が今まで読んだ本の中では、最も新しい。またその説明も非常に読みやすく、確かにアジアの政治・経済全体を鳥瞰する入門書としては、それなりに価値のある作品になっている。編著者は、京大大学院出身の学者を中心としたアジア各国の専門家たちである。

 まずアジア全般に共通する視点として、著者たちは「レント」という概念を提示している。「レント」とは、「市場における競争を制限することによって生じる『優遇』」であり、いわば自由経済の制約要因である。完全な自由経済でなければ、どこの国でもこうした「レント」が存在する訳であるが、編著者たちは、特にアジアの政治・経済の成長過程で、この「レント」が果たした役割、特にそれが「よいレント」であったかどうかを見ることにより、アジア諸国の成長過程をより明確に理解できるとしている。またこの「レント」というのは、必ずしも政府が設定する輸入課税体系といった制度化されたものだけではなく、「クローニズム」等の非公式な参入障壁なども含むことから、アジア各国でどのような「レント」が機能し、また変貌してきたかを見ることで、今度は個別国の状況を理解することができるとするのである。しかし、これはいわば市場経済と保護主義の戦いという形で、世界のどこでも繰り広げられてきた現象を、単に「レント」という言葉に置き換えただけに過ぎないと思われるので、それほど斬新な視点という訳ではない。そしてそれを基に、権威主義的政治体制から民主主義体制への移行や、「レント」の斬新的な廃止または変更、そしてそれを可能にした国際関係の変動などを説明しているが、それらは特段新しい見方を提示するものではないので、ここではむしろ個別国の特徴を簡単にまとめることにしたい。

(韓国) 

 韓国経済の特徴は、言うまでもなく財閥の存在である。これは家電、自動車を始めとする雑多な企業群を含むが、この「このグループを構成する企業同士の関連が乏しい」こと、及び財閥の中軸に銀行が存在しないという2つの特徴を持つという。

 このような財閥の成長は、ここでは朴正煕政権下での輸入代替工業化から輸出指向工業化への転換の際に、企業家に対し、輸入を制限するレントをなくすか、縮小し、輸出を促進するレントを付与するというというインセンチブを与えたことに起因すると見ている。政府が育成したいと考える産業分野は時代と共に変化したことから、企業家は注力分野を乗り換えていき、その結果「蛸足経営」とも呼ばれる財閥の特徴が生まれたという。また資本が全般的に枯渇する中で、資金の提供は国営銀行を経由して行われたので、グループ内に金融資本を保有する必要がなかった。そしてその政府の注力産業分野を決めるのに大きな影響力を持ったのは官僚であったが、同時に財閥そのものも権威主義体制を率いる独裁者への献金を通じて、官僚の政策決定に影響力を及ぼしたというのが全体の成長のメカニズムであったと見ている。

 その財閥の成長は、1987年の民主化以降一時的に制約されるが、「蛸足経営」は変わるどころかむしろ進展し、「経済に占めるプレゼンスも以前より大きくなっていった」という。しかし他方で1988年以降長期の不況に入り、最終的に1997年の経済危機を迎える。ここで登場した金大中政権の自由化政策により、財閥の淘汰が行われるが、それでもこの時期生き残った財閥は、その競争力故にさらに経済的に強くなっていったという。しかし、皮肉なことに、金大中、蘆泰愚という比較的進歩的な政党・政治勢力を背景にした政権で、新自由主義的改革が進み、正規雇用の不安定化や、それに伴う経済・社会の二極化が進むことになる。そしてリーマン危機以降も、李明博のもとで財閥は引続き影響力を強めているのである。いわば、足元の韓国経済の強さは、こうした厳しい適者生存という市場化の波を乗り切ってきた少数の財閥がもたらしているものと理解できる。他方での格差拡大とも併せて考えると、それはアジアで最も市場化された資本主義そのものを体現していると言えるのかもしれないが、当然将来的にそれに対する揺り戻しが起こることも考えられる。当面は今年の12月19日の投票が予定されている大統領選挙に注目したい。

(中国) 

 この国の経済成長は、言うまでもなく1970年代末の「改革開放」政策の結果であるが、巨大国家であるが故に、その持続的成長には地方政府が積極的役割を果たした「地方政府主導型」であるとされる。より子細に見ると、この成果は現象面ではまず農村部の郷鎮企業と呼ばれる、農産物加工、医療・縫製や機械部品を主体とする労働集約型中小企業群の成長を生み、それに目を付けた政府が、「投資効率の良い沿海地方」に「経済特区」を設け、そこにプラザ合意以降の投資ブームに乗じて外資を呼び込んでいったことで成長が加速したという。これを理論的に見ると、「改革開放」路線というのは、レントの再設定、再配分による「内陸地方・重工業優先から沿海地方・軽工業優先」の転換であったという見解がある。しかし、それ以上に、ここでは、隅々まで入りめぐらされた共産党組織の中での出世競争で、地方指導部を成長競争に駆り立てた効果も無視することはできないと論じている。

 天安門事件後の経済制裁による一時的停滞もあったが、1992年のケ小平の「南巡講話」と江沢民政権成立以降、この流れは加速し、国営企業の民営化等の戦略的なレント再配分や、他方での財政金融の中央集権化等の開発主義的施策が奏功し、またリーマン・ショック以降も、温家宝らが、「機敏に外需主導型から内需主導型へと舵を切り」乗り切ったとされている。但し、こうした地方の競争を煽る経済成長は、最近では薄煕来の暴走に見られるような弊害と、それの抑制といった逆の動きも出ていることには注意する必要がある。これは現在進行中の指導者交替過程での権力抗争である、という見方が一般的ではあるが、世界経済全般が不安定な中、この国の混乱は世界全体に影響を及ぼす可能性があり、今後しばらくはこの国の動きから目を離すことはできない。

(台湾)

 この国の政治・社会の特徴は「省籍矛盾」、即ち「本省人」と「外省人」の区別と、それが民間の中小企業と大規模な公営企業の二重構造と略重なっていたということである。そして1960年代以降の経済成長を担ったのが、前者の民間中小企業であった。

 しかし、この経済成長を主導したのが市場であったのか、政府であったのかは議論が分かれているという。国際的な孤立から、いち早く輸出指向工業化へ舵を切るために輸入中間財の関税負担を免除するといった市場化が進められるが、他方で、これは「特定の産業や企業を優遇するものではなかった。」またこの自由化に際しても、「本省人」の基盤である公営大企業等の「縄張り」である国内市場の既得権益を守る関税障壁は維持されたという。更に、台湾では韓国のような、政権と結び付いた財閥が生まれなかったことについては、国民党政権が独自に「党営企業」を持っていたために、資金的に一般企業と結びつく必要がなかったと指摘されている。こうして台湾の経済成長は、中小企業中心に、グローバルな「分業ネットワーク」を利用した柔軟かつ効率的な生産体制を作り上げる中から生まれたと分析されている。

 1990年代後半以降の民主化の中で、中小企業は労働集約型の生産体制を効率化するために中国大陸に注目する。そして国内では、引続き国際分業ネットワークを活用しながらパソコンや半導体といったハイテク産業に基盤を移していく。「ハイテク・アイランド」への変貌である。政治的には、台湾ナショナリズムの高まり等、新たな民族アイデンティティーを求める動きも起こりつつあるが、経済に関しては「付加価値の高い新たな産業やビジネスモデル」を模索しつつ、「中国大陸との分業関係を再構築できるかどうか」が、今後の成長持続の鍵であると結んでいる。

(インドネシア)

 ここからアセアン諸国に移る。まずはインドネシアである。この国の政治・経済の発展は、@独立直後の議会制民主主義の時代(1950−59年)、Aスカルノ権威主義体制の時代(1959−65年)、Bスハルト権威主義体制の時代(1966−98年)、C民主化の時代(1998年―現在)に区分けされる。

 夫々の時代の特徴をまとめると、@の時代は大規模農園や貿易関連の大企業は、オランダなどの西欧資本、国内流通業は華人資本、そしてインドネシア先住民(プリブミ)は中小零細企業という棲み分けで、その中でプリブミに対する支援を行った「ベンテン計画」が失敗した時代であったとする。これに対し、国家分裂を危惧する国軍と反米主義の共産党に依拠した権威主義体制が成立したのがAの時代であったが、スカルノは「西欧諸国優位の世界秩序を否定するという壮大な構想におぼれ、経済復興には全く関心を示さなかった。」ここで登場するスハルトが、政治的安定を確保しながら経済成長を図るため30年に渡り政権を維持したのがBの時代で、「時代状況に応じて新古典主義的マクロ経済政策と、国家主導の経済政策を使い分ける一方、民間部門では華人実業家を重用」して、高い経済成長を実現することになる。特に80年代に入ると、それまでの成長を財政的に支えた石油や一次産品の価格が低下したことから、経済構造を規制緩和による民間主導の輸出指向型に転換するが、これはスハルトへの権力集中があったが故に可能であった政策転換であったと見る。しかし、同時に独立以来の懸案であった経済ナショナリズムの強化も追及し、幼少時からの友人で、エリートのバビビの指導の下、国営企業を中心にした技術大国への転換をも目指すと共に、自分のファミリーに積極的にビジネスへの参入を認める。そして1987年アジア通貨危機が発生し、ルピア為替が急落、インフレが急騰すると、これに対する民衆の不満が、経済政策のみならず、スハルトの権力独占に向かい、この体制が崩壊することになる。この転換の説明については、「IMF主犯説」と「スハルト主犯説」の二つの見方があるというが、実際にはその双方の相乗効果と見るべきなのだろう。

 こうしてスハルト以降のCの時代が始まるが、まずは権威主義体制から民主化への移行期に特徴的な「ゲームのルール」のない混乱の中で始まり、「政治とビジネスとの関係も複雑になった。」これが安定するのは、経済面では2003年IMFの新自由主義改革に従った支援プログラムが終了すると共に、2004年のユドヨノ大統領の登場によるが、このインドネシアの経済改革の成功を、新自由主義的経済政策の成果と見るか、あるいは従来からこの国の経済を支配していた政治経済エリートによるレント追求の結果であるかは、意見が分かれているようである。しかし少なくとも「分権的民主主義体制」がそれなりに定着し、また「民間部門が積極的に経済活動を展開し、個人消費が拡大し、経済成長が実現した」という評価は共通している。そしてユドヨノ政権が進める官民共同によるインフラ整備を核とする中長期的な新戦略が、こうした経済成長を持続させるための鍵になると結んでいる。これはまさに我々が仕事で現在この国を見る時の基本的な見方である。

(フィリピン)

 フィリピンの政治・経済を説明するキーワードは、「オリガーキー(少数のエリートによる支配体制)」と「クローニズム」である。この二つの概念は、似ているようで異なっていると筆者は言う。前者は、国家権力が必ずしも大きくない社会で、大土地所有者のような社会勢力が「レントを手放すことに抵抗」し、社会的地位を維持していくような体制。これに対し、後者は国家権力そのものを支配する者による縁故政治である。そしてフィリピンでは、1946年の独立後、1972年のマルコスによる戒厳令布告までが、この「オリガーキー支配」であったが、1986年の民主化までのマルコス時代は「クローニズム」に転換したとされる。しかし、この「クローニズム」の下で、政府が海外から受けた借款を流し込んだのは工業部門ではなく、「国際市場の動向に影響を受けやすい農業部門」であり、その結果製造業の国際競争力が蓄積されなかったと見る。別の言い方をすると、これらの時代を通じて、「レントの付与は、個別の資本家の利益に資することはあっても、経済成長を引っ張っていくような競争力のある産業の育成には失敗した」ということになる。こうして民主化後のこの国の課題は、「レントの廃止=自由主義的経済改革」を進めながら、経済成長を実現することであったが、筆者の評価は、「ある程度の経済成長を果たした」が、新たな形でのレントの再配分が行われた結果、改革の進捗は緩やかとならざるを得ず、また「経済自由化が社会のすべてのセクターにまんべんなく利益を与えるという状況も起きなかった。」いわば、「絶対的な貧困」は改善されたものの、格差は拡大するという結果になり、それが政治のポピュリズム的傾向を強めることになったのである。その結果、クローニズムと、その反面としてのポピュリズムのリスクをこの国はまだ抱えているという結論になる。

(マレーシア)

 これに対しマレーシアは、移民社会特有の多民族国家を、マレー系に先住民を加えた概念である「ブミプトラ」に対するアファーマティブ・アクションを基盤にした「新経済政策(NEP)」でそれなりに統合し、経済成長を実現した成功例として説明される。

この国の経済成長は、まず50年代後半から、「アリ・ババ・ビジネス」と呼ばれる、マレー人名義での政府からの許可・認可を受けての企業設立と、実際には経営手腕を有する華人による業務執行という形態で進められるが、これが1971年のNEPの導入で変貌する。ここで「UNMOプトラ」と呼ばれる政府の介入による「新しいレントの企業形態」が生まれたと見る。この原資となったのが@EPFによる強制貯蓄制度、A国有化された石油・天然ガス資源、そしてB外資・直接投資の3つであったが、重要なことは、まず、こうした国家による、必ずしも経済効率には重点を置かない資源配分の恩恵を受けた「UNMOプトラ」が必ずしもマレー系だけではなく、有力な華人・インド人企業化にも事業機会を与える形で配分されたという点である。次に、外資導入による輸出指向工業化に際して、こうした企業が生み出した経済効果を「国内経済に波及させない」ことに留意し、自動車のような国内需要産業については、NEPのアファーマティブ・アクションに依拠するマレー企業を保護するという「棲み分けの構図」を生み出したことである。

 ところが1980年代に入りマハティール政権が成立すると、今度はこの「棲み分け」を解消し、「本格的な産業育成政策」が実施され、その中で特にプロトン社の更なる保護育成は象徴的な国内向けの産業政策と言われる。但し、プロトンの国内シェア拡大で利権を縮小させる華人系企業に対しては、その下請けや販売に華人企業を参入させ、共存を図ることに成功したという。

 しかし域内経済の自由化が進むと、外資の輸出産業の拠点が他国に移転する一方で、国内マレー系企業の自立は思うように進んでいない。こうした中で、「非マレー人社会、中でもインド人社会の与党離れは明らかであり、マレー人優遇政策への批判は強い」として、多民族国家が直面する経済成長と国民統合の調和が岐路に立たされていると結んでいる。

(タイ)

 他方で同様に外資を活用しながら成長を遂げたタイは、「非国家主導型」の経済発展を遂げたと説明されている。「ユルユル」のタイ社会が80年代に経済成長を遂げた理由を、「金メッキ説」や「他力本願説」、「ミニ韓国説」、「次世代モデル説」といった色々な観点で説明しているが、基本的に安定政権が続かず、軍人や官僚も汚職に染まるという「弱い国家」の下で、企業経営者が特定の政権と結びつくことの危険を意識せざるを得なかったため(バッコク銀行頭取チンの苦難の物語!)に、自ら国内の競争的な環境の中で経済合理的な行動を選択せざるを得ず、そこからそれなりに国際競争力を持つ製造業が育っていったと分析している。そしてそこに80年代半ば以降、日本や韓国、台湾の直接投資がタイに集中し、成長を加速させていった。他方、国家が介入したマクロの産業政策は、国内産業保護のために関税を引き上げることくらいであった。しかし、それだけでは、タイの事情は他のアセアン諸国と大差はない。そこでタイの特徴と言えるのは、「政治参加への国民の強い思い」であり、政治の暴走を止めてきた大衆運動の存在であったと見るのである。

 近年のタクシン政権の興隆と追放、その後の両派の抗争は、タイの政治の不安定さを示しており、経済的にも悪影響を及ぼしているというのが、外からこの国の政治経済を見ている人々の一般的な見解であるが、筆者はむしろこうしたタイでの政治変動は、決してこうしたマイナス面だけではなかったと主張している。例えば1973年の大衆運動によるタノム政権の崩壊は、もしこの政権が長く続いていたら陥っていたであろうフィリピンやインドネシアのクローニズムを避けることになったと考える。そして1976年の軍によるクーデターと1988年まで続く軍事政権も、この経験から、決して経済を利己的に運営することはしなかった。同じことがタクシン政権についても言え、その政権が崩壊したのも、彼が経済を私物化する兆候が出てきたことに対する批判が最大の要因であった。このように、タイの経済発展モデルは、強力な指導者の出現を敢えて避けながら、環境が改善する時には、それを有効利用するという、「ハイリスク・ハイリターン」を避けたものである、と結論している。もちろん本来的には、こうした大衆運動以外の制度的な政治のチェック&バランスが必要であることも著者は忘れていないが、「少なくとも、国家主導型以外の発展モデル」を考える上での一つの例であるといえるのであろう。

(ヴェトナム)

 ヴェトナムについては、「政治体制の転換をともなわない経済改革はどうして可能であったのか」、そして次に、その市場経済化が逆にこの国の政治・経済に及ぼしていった影響と今後の課題は何か、というのが主たるテーマである。

 前者については、同時期に経済改革が、社会主義政権の崩壊をもたらしたソ連・東欧諸国との比較が行われるが、結論的には、@長期の解放闘争を戦い抜いた強い共産党の存在、A農業部門中心の経済で、市場原理導入を「漸進主義」で進められたこと、B別の形の権威主義的国家が多く存在していた近隣諸国との良好な関係等が説明されている。Bについては、中国同様、この国の経済的潜在力が、周辺諸国にも経済的利益をもたらすと考えられたこと、並びに安全保障面での重要性ということで、これらの要因により、体制の変更のないままでの、1995年のアセアンへ加盟が可能になったと見ている。

 そこでドイモイの経緯が説明されるが、そこで留意すべき点は、まず「市場メカニズムに基づいてこそ社会主義はうまくいく」というイデオロギーの転換が柔軟に行われたこと、及び別の意味での権威主義国家であるシンガポールと同様、この経済改革の成果が、それなりに国民全体に配分され、国民の「満足感と将への期待感」を維持できたことである。この過程で国営企業の淘汰が行われ、民間企業や外資の受容も行われるが、後者については許認可権と土地の全人民所有(国営)を手放さず、一定のコントロールをかけることで、国家の「建設的介入」を確保したという。

 しかし、こうした一党独裁政権の下でも、経済成長に伴う都市中間階級の拡大とその嗜好の多様化、格差の拡大、政権内部での利権を巡る汚職、そしてグローバル化に伴う政治・経済両面での外圧の拡大といった問題が、今後の政権の課題として指摘されている。

(アセアン)

 ここまでアセアン諸国を個別に見てきたところで、今度はアセアンそれ自体の考察を行っている。アセアンについては、まさに先週(7月13日)にプノンペンで行われた外相会議で、南シナ海の島や環礁の領有権を巡る「行動規範」の策定が、中国の巧妙な外交により失敗し、アセアン外相会議の歴史始まって以来、初めて共同声明が出せなかったことから、改めてその存在意義に疑義が投げかけられている。今週も、危機感を抱いた域内最大国であるインドネシアの外相が、改めて関係国を周遊し、この問題に関し何とか体裁を作ろうとしていたくらいである。そうした足元のアセアンの足並みの乱れという問題もあることから、ここで一回その特徴を確認しておく価値がある。

 ユーロ圏などと比較した、この東南アジアの「地域的国際組織」の特徴は、@「構成国にいわゆる大国が存在せず、(中略)周辺大国の影響を受けやすい弱小国家の集まりとして発足したこと、及びA設立の根拠となる条約がなく、その結果「組織・運営原則が分かりにくい」という点、そしてB基本的に全会一致での決議を前提にしていることから、その決議の内容が往々にして曖昧なものになる(「アジアン・ウェイ」)という3点が挙げられている。最後の点については、今回の外相会議では、その「曖昧」な共同声明さえ出せなかったということになる。

 歴史的には、反共産主義の国家連合として成立したアセアンであるが、冷戦並びにカンボジア紛争の終了と共に、その性格を変貌させることになる。特に地域安全保障面では、中国、韓国、日本のみならずインド、モンゴル、北朝鮮も加え1994年に設立された「アセアン地域フォーラム(ARF)」が特記されている(まさに今回の7月の会議はこのARFのミーティングであった)。また経済協力面では、1993年に設立された「アセアン自由貿易地域(AFTA)」が中核的な機能を果たしているという。また域内への直接投資国や域内からの輸出先も、発足直後は米国、日本、欧州が中心であったが、その後の中国の台頭もあり、域内比率が急増し、いまやユーロ圏と比較しても、域内貿易比率が高くなっている。

 こうした環境下、かつてマハティールが唱えた「東アジア共同体」は米国に潰されたが、その後の「アセアン+3」は実現し、アジア通貨危機を受けた「チェンマイ・イニシアティブ」も、今回のリーマン・ショックの影響を緩和させると共に、アセアン深化のための中核的枠となっている。但し、依然存在する地域格差と、強力な域内指導者の不在、そしてここでは指摘されていないが当然のことながら、今回の問題が鮮明に提示したこの地域への中国の政治・経済的な影響力拡大への対応が、今後の発展の課題になるということには留意する必要があろう。

(インド)

 そして最後はインドである。もちろん、ここでの課題は、巨大な国家、一部の有力企業と極端な貧困の共存が如何に生まれ、また今後改善される可能性があるのかという問題である。

 如何に生まれたか、というのは、今までのインド本で、様々な議論を見てきているので、ここでは90年代以降のこの国の政治・経済のダイナミズムが、@ヒンドゥー原理主義の盛衰、A下層カースト集団の権利要求運動、そしてB市場開放への意欲、という3つの観点(3つの「M」ということであるが、この理由は省略する)から分析されていることだけ確認すれば十分であろう。これは、90年代のインドで、ヒンドゥー至上主義的政党である人民党の長期政権が、インド独立以来の国民会議派主導の理念であった「社会主義経済と宗教的に寛容なナショナリズム」を破壊したという見方である。

 確かに後者の「宗教的寛容」は、社会の緊張を増幅させたと言えなくはないが、前者は、市場化を促し、この時代を通じてインドンの経済の成長を後押しすることになる。そして、それは筆者に言わせると、「ヒンドゥーの坊主と政府の経済官僚、ビジネスマンが手をつなぎ」、更に下層カーストも、それを「分け前全体を増やす可能性のある政策」として否定しなかったということである。そして、21世紀に入り、この人民党が人々から飽きられたところで復活した国民会議派政権により、「宗教的寛容」は再度復活するが、「市場」の重視は、もはや戻れない原則となっており、そのまま維持されることになったとする。その結果、2003年から2007年にかけても年率8%以上の経済成長を遂げ、またリーマン・ショック時も、「小規模な信用市場しか開けていなかったために」その打撃も抑えることができたのである。

 こうして、いまやインドは、90年代以前の「ソ連と同盟し、国家的な計画経済を基礎に独自の社会主義路線を歩む国」から、「アメリカの軍事的パートナーとなり、グローバルな市場経済を勝ち抜こうとする資本主義的な国」に変貌した。それを加速するのが、@「国境を越えて利潤を求めるインド系資本、A「国内で先進国の『アウトソーシング』の需要に応える労働力」、B「移民労働者として他国の経済に貢献する優秀な労働力」、そしてC「インターネットを中心とした情報力」、一括して言えば「グローバルなインド」であり、今後のこの国の帰趨は、この前向きで競争力のあるインドの活力が、「国民国家の政治」と如何に共振していけるかどうかであると考えている。しかし、その成否については、専門家でも答えを見つけることはできないだろう、というのが筆者の結論である。

(まとめ)

 こうして最後はやや飛ばしながら見ることになってしまったが、冒頭に述べたとおり、編著者が意識したような「レント」の概念自体は、どこの国にもある保護主義と市場主義のせめぎ合いを概念に置き換えただけで、さして新鮮味はないが、そのせめぎ合いの現われ方は、こうしてアジアの主要国を並べて見てみると、其々の国で異なっていることが良く分かる。日本自体が、国際政治的にはアメリカの庇護のもとに自由主義陣営に所属し、国内政治的には民主主義体制を維持しながら、国際経済的には、対外的な「レント」とも言うべき産業障壁に守られた保護主義を、そして国内経済的には産業と緊密に結びついた国家と官僚主導で、限られた資本の特定の業界への集中投資と均一的な労働政策を通じて「社会主義的」とも言われる特徴ある経済成長路線を歩んできた訳であるが、アジアの国々も、其々の路線を追求してきたのである。他方でそれは、開発独裁と一般的には呼ばれる旧西側陣営に属してきたタイやマレーシア、フィリピンやインドネシアと、中国やヴェトナムのように政治的には共産党の一党独裁を維持しながらも、経済的にはあえて市場経済を採用した国とで、実は経済の成長モデルはたいへん似通っていることも示している。こうした共通性に注目し、地域の経済統合、安全保障を強化しようとしたのがアセアンであったが、逆に今度はその中の異質性が、ある部分では一定線以上の統合を押し留める要因となる。そしてそのアセアンは、両側を中国とインドという、其々歴史も政治体制も宗教も異なる大国に挟まれ、双方の成長を享受できると同時に、双方の政治的思惑や経済動向にも振り回されるという両義性を抱えながら、国際政治のグローバル化の波の中で変化する国内の政治・経済・社会状況にも対処せざるを得ない。その意味で、アジアの状況は、日本も含め、まさにかつて両大戦間の東欧が直面していたような、宗教、民族、言語、文化等が入り混じった地政学のパズルの中での、新たな地政学的転換期を迎えているといえるのである。今回のアセアン会議が直面した領有権を巡る公海問題は、日本の竹島や尖閣、あるいは北方領土も含め、こうした域内の格差がもたらす軋轢のほんの一部に過ぎないが、また反面でそれを拡大させる契機ともなりかねないものである。総てが、其々の国家の政治・経済・社会的思惑の反映であり、それを決定的な紛争に拡大させないためには、そうした差異を冷静に分析し、融和し、そして地域的関係性の共通性を強めることにベクトルを振り向ける力が必要である。それがアメリカのような域外の覇権国の力を借りなければならないのか、あるいは地域に根源的に備わった内生的な力で可能なのか?そして日本はそれにどのように関与していけるのか?その転換期の行方を想像しながら日々の政治・経済・社会の動きを追いかけていくのは、実に興味ある課題であるということを、改めて感じたのである。

読了:2012年7月13日