アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
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東南アジア現代政治入門
編著者:清水一史/田村慶子/横山豪志 
 中国語クラスで一時期一緒であった東南アジア学者の編著による作品の読了第二号である。今年の7月に、先に買っていた片山/大西編著の「アジアの政治経済・入門(新版)」(以降「アジア政治経済」と略称)を読んだが、これは2006年初版で、2010年に改訂されたものであった。それに対しこの本はそれより少し新しい2011年3月の出版であるが、既にこの1年程度の刊行の時期の違いで、この地域の枠組みが変わっていることを知ることになった。特にこの本でも独立して取り上げられているアセアンにつき、「アジア政治経済」では、「設立の根拠となる条約がない」ことが特徴として挙げられていたが、この本では2008年の「アセアン憲章」の発効が説明されている。「ASEANの設立の根拠はこれまでは1967年の『バンコク宣言』のみに拠っていたが、憲章の発効により、ASEANの基盤が法に発展し、その基盤が強化された」とされており、それが正しければ、その前の本での記載が誤っていることになる。これを時間的な問題と見るのか、それとも他の議論があるのかは確認する必要があるだろう。かくもこの地域の説明については、まだ確たる権威が確立されていないのではないかと感じたのである。

 書名のとおり、この本は「アジア政治経済」と比較して、特に政治に重点を置いている。その結果、各国の政治過程については分かり易く書かれているが、別の見方をすればやや教科書的になってしまっている。それを補うために、各国の説明の最後にコラムを設け、そこで「虐げられる人々の物語」等を加える味付けを行っているが、これは確かにやや無味乾燥になってしまう記載に若干のスパイスを加えている。また「アジア政治経済」は、中国や韓国、台湾、更にはインドを含むアジア主要国の説明であったが、この本は「東南アジア」の概説である。そのため、前の本には含まれていなかったラオス、カンボジア、ミャンマー、そして東ティモールが、私の学友の専門であるシンガポールと共に加わっている。その面では、この本の対象地域のほうが、現在の私の職務上の担当地域と重なる部分が多くなっている。

 その東南アジア全体の概要を、最初に編者自身が説明しているが、これはこの地域を認識する際の出発点として非常に分かり易い。まずこの地域は自然の国境線のない地域で、現在の国境線は、「近代になってイギリスやオランダなどの欧米植民地勢力どうしの領土分割協定などのよって引かれたもの」であり、その結果そもそもこの地域に存在していた「人々の交易ネットワークと生活圏」が分断されてしまった。そしてその殖民地時代に大量の移民労働者が流入し「混合すれども融合しない」社会が形成される。更に殖民地勢力が其々の経済を「モノカルチャー経済」に変容させ、ヨーロッパとの統合を強めたが、それを担ったのはヨーロッパの投資家と商人で、「一部の華人商人や資本家を除いて東南アジアの商人は排除され、地場の資本家や企業家は育成されなかった。」日本の占領は、そのヨーロッパとの経済的統合を破壊し、また日本軍による華人敵視政策がこの地域の「モザイク社会の亀裂をより大きくした」こともあり、戦後の独立から経済成長の過程で、特に「国民統合」を如何に進めるかが大きな課題となったのである。この地域の権威主義的政治体制と開発独裁は、こうした歴史の産物であったとされている。

 その上で、個々の国の説明に入るが、前作で取り上げられている国については、この本で新たに認識した部分を中心に簡潔に見た上で、取り上げられていない国をより詳細に見ていくこととする。

(インドネシア)
 
 東南アジアの国の中でも国土の地域的な広がりと人種・民族的な多様性が際立っているのがインドネシアであることは言うまでもない。筆者は、戦後のインドネシアの政治の特徴を「多様性の中の統一」とまとめているが、独立革命期の議会制民主主義から、スカルノ、スハルトの権力集中時期を経て、スハルト後の改革期の権力拡散まで、まさにこの国は権力の集中と分散を繰り返してきたと言える。1949年の最終的な独立後、連邦制を取ったのは、それまで旧宗主国であるオランダがインドネシアの各地域に傀儡政権を作り、中央政府を形成するという政策を取ってきたために、已を得ず採用された政体であったという。しかし政党の乱立と地方の反乱を受け、スカルノのカリスマ力に依存する権力集中を進めていくことになるが、今度は彼が依拠した国軍と共産党の対立が激化したこと、及びマレーシア対決政策で経済が停滞したことで、彼は行き詰まることになる。

 それを継いだスハルトの「新秩序」が、スカルノの「指導される民主主義」と異なるのは、「前者が制度化され安定した支配体制となったこと」である。このスハルトの「開発独裁」時代は、既に多くの本で見てきたので、ここでは1945年にスカルノが打ち出した「建国五原則(パンチャシラ)」が「公定イデオロギー」として国民に押し付けられた、ということだけ確認しておこう。

 スハルト後の改革期については、ハビビを継いだワヒド(「間接的にではあれ、インドネシア史上はじめて民主主義的に選ばれた大統領」)が、「彼が率いた民族覚醒党は第4党に過ぎない」にも関わらず「スカルノやスハルトのように強い権力をもった大統領として振る舞おうとした」ために国会や国民協議会との対立が深まり解任されることになったということを確認しておけば十分であろう。そして筆者は、現在のユドヨノ時代は、「多様性は尊重されているものの、それを構成している諸勢力が個別利益を優先しているために、統一すなわち全体の利益が阻害されている時代」と総括し、「全体の利益」を如何に考えていくかが「人的物的資源が豊富なインドネシアの潜在力」を開花させる鍵であると結んでいる。

(マレーシア)

 この本を読んだ直後に、サバ州のコタキナバルで短い休暇を過ごしていたが、ここでの説明で最も納得したのは、この国の政治を「半島部の3つの『民族ブロック』と、東マレーシアの2つの『地域ブロック』に着目するととらえやすい」という視点である。「半島部の民族ブロック」とはマレー人、華人、インド人で、其々が与野党の政党を持ち、与党3党が連立政権を構成している。他方「地域ブロック」であるサバ州とサラワク州は地域ベースの与野党を持つと共に、独自の州憲法や出入境管理の権限を持つ(逆に2州の出身者の半島部への移動や就労には適応されない!)。そして半島部と東マレーシア2州は「内政不干渉」のような関係にある、という(この身近な例は、別掲の「コタキナバル滞在記」をご参照下さい)。

 この国の経済政策を見る時に重要な1971年の「新経済政策」については、この本では、「5月13日事件」と呼ばれる1969年のマレー系と華人系の大規模衝突事件の結果として導入されたと説明されている。事件を受けた非常事態の下で、「この事件の原因がマレー系と非マレー系の経済的不均衡にあるとし、それを是正し国家統合を促進するために、国家が積極的に介入していく」という国家運営評議会の方針を受けて、社会の至る所で「ブミプトラ」への優先的割り当てが導入されたという。またここで新しく知ったのは、この評議会が憲法の幾つかの条項について、公の場での議論を禁止し、それが「敏感問題」と呼ばれるようになったということ。但し、それは全くのタブーという訳ではなく、「そのルールを確認した上で、そのなかで保障されている自身の権利や利益が政党に行使されているか」は主張することが出来るという。

 マハティール時代(1981年―2003年)については、彼が元々「超マレー主義」的な言動で、マレー系与党のUMNOを除名された過去を持ちながらも、首相に就任すると、むしろ「民族ごとの要求に個別に対応」し、また1997年のアジア危機で、彼自身が引き揚げた副首相アンワルと対立するなど豹変し、むしろ非マレー系の支持で政権を維持したと説明されている。しかし、マハティール引退後の2008年3月の総選挙では、アブドゥラに率いられた与党が特に半島部で大きく議席を減らすことになるが、これはUMNO内部でのマレー系の分裂や、一時同性愛疑惑等で逮捕されていたアンワルが無罪・釈放され政治復帰したことによる野党の充実が主因であるという。更に、政治的バランスの中で、サバ・サラワク両州の与党が、民族的要因ではなく、地元への利益誘導で動く可能性があることも指摘されている。来年(2013年)半ばまでに行われる予定の総選挙の結果に注目しているのは筆者だけではない。

(フィリピン)
 
 この国の記載をするにあたって筆者が意図したのは、「東南アジアでもっとも民主的な制度を持つフィリピンで、なぜエリート支配の構造が形成・維持されてきたのかを明らかにすること」であった。しかし、この国の近代史の紹介は、全体的に教科書的なこの本の中でも特に事実の羅列が多く、残念ながら、ここで特記すべき印象的な議論はない。そこで、ここでは冒頭の設問に対する筆者の以下のような結論だけに留めておく。「フィリピン政治の特徴は、運動が制度に優先してきたことにある。つまり、民主主義というゲームのルールである制度が、エリートをはじめとするゲーム参加者の個別利益の要求によって歪められてきた。(中略)だが他方で、そもそもゲームのルールが不平等に作られていたり、貧困層など特定の集団をゲームから排除している可能性もある。それゆえ、既存の制度を改善していくための運動も必要である。」そうした観点から「フィリピン政治の可能性は、現在の確たる制度や、過去の輝かしい伝統の中に存在するのではなく、多様な勢力がより良き未来を求めて闘争する『争われる民主主義』の実践のなかに宿っているのである。」しかし、これは筆者も述べているように、制度がいつまでたっても安定的な政治的・社会的な信頼を得ることができないということである。もちろん、これはフィリピンに限ったことではなく、日本でさえも公職選挙法改正の議論に見られるように、枠組み自体を常に見直していかないと、それはすぐに老朽化し、制度としての信頼感を失うことになる。しかしフィリピンの場合は、歴史的には古くから導入されている民主主義制度が、なかなか国民全体の信頼られないというのが最大の問題なのであろう。

(シンガポール)

 この国については、編者である我が学友の専門分野であり、彼女が直接筆をとっているが、内容的には、7月に読んだこの国に関する別の本(「シンガポールを知るための62章」。別掲)でほとんどが説明されている。そこで言葉として使われていなかったキーワードは「生き残りのイデオロギー」という語彙で、これがこの国の規律、強靭性、愛国心、能力主義などの価値の源泉となり、その政治的保証が、人民行動党による一党独裁と管理国家化であり、それを背後から支えたのが経済成長であったということになる。そうした中で、国民は政治アパシーから「拝金主義」に陥り、海外移住も増加。他方で貧富格差が拡大すると共に、社会の成熟化と共に社会階層の固定化が進んでいく。こうした状況に対する不満が示されたのが、この本では間に合わなかった昨年(2011年)の総選挙の結果であり、ついにこの国も「置いてきた民主化」を真剣に考えなければならない時期に来ている、という筆者の結論には全く異論はない。

(タイ)

 この国についても、既に多くの本を読んできたこと、及びここでの記述も取り分け教科書的な政治史になっているので、あまり特記すべきことはない。タイ政治の不安定性を物語るデータとして、1932年に絶対王政を打倒し、立憲君主制に移行してから「実に60近い内閣が組織され、暫定憲法も含めると18篇の憲法が制定された」ということ、それにも関わらず、この国は列強の植民地化を回避し、また近年目覚ましい経済成長を遂げた、ということだけ、改めてここで確認しておこう。また「民主主義」の定義において欧米のそれとは異なる多様な含意が、時代毎に為政者から提示されてきたというのも、この国の政治史の大きな特徴として再確認しておこう。

 その1932年以降の政治史を、筆者は1932年から73年までと、それ以降に分けている。前期については、1957年にクーデターで政権を奪取し、1959年―63年まで首相を務めたサリット時代が、「民族・国王・宗教」3要素からなるイデオロギーの浸透と国家主導型経済成長と開発を進めたという点で、戦後タイの原点として見ることができよう。しかし、この軍主導の体制も1973年のタノーム軍事政権の崩壊以降変貌する。それ以降は、「軍の政治的影響力が全体的に後退し、政党政治家と国王の影響力が大きくなった時代」と説明されている。この後期では1980年から88年まで首相を務め、軍出身ながらも政党政治家や経済界とのパイプを強め、彼らの要望を政治・経済に反映させたプレームと、現在でも毀誉褒貶が渦巻くタックシンが注目されるが、後者については現在進行形の部分も含めて情報は溢れているので詳細は省略する。そして、筆者は、執筆時点で依然混乱しているタイ政治につき、「民主主義に対する異なった(見解の)違いが横たわるだけに、解決は容易でなく」、「タイの民主主義は、立憲革命以来最大の試練に直面している」としているが、その後のインラック政権下での落ち着きを取り戻しているところを見ると、またタイの政治は、外部の観察者を、今回は良い意味で裏切ったということもできるだろう。相変わらず何とも不思議な国である。

(ベトナムーここでは本の表記に従う)

 ここでも、ベトナムの政治史記述は教科書的であり、特段に斬新なコメントはない。あえて記載しておくとすれば、「現代ベトナムにおける展望と課題」で触れられている、2001年2月の中部高原での少数民族暴動と、2004年4月のその再発という問題であろう。

 他の東南アジア諸国と比較して、今までベトナムでの少数民族問題についてはあまり触れている本がなかったように思う。しかし、実際には、その中部高原地域にベトナムの多数派民族であるキン族が進出した際の土地接収と保障問題などの歴史的問題と、この地域の少数民族にプロテスタント教徒が多く、米国在住の反共ベトナム人が組織したプロテスタント教会の支援を受けて活動しているといった政治的問題があり、この地域での軋轢が間欠的に表面化しているという。ベトナムでの「人権」は、一党独裁政権下、「国家や民族の諸条件に従って(注略)制約を受ける」「公民の権利」に過ぎないことから、こうした民族紛争への弾圧が、国際社会に接近する時のアキレス腱になっているようである。「ドイモイの時代に、ホー・チ・ミンの威光に依拠せざるを得ない」「現在の政治体制における潜在的脆弱性」と、2007年のWTO加盟といった対外的経済開放が微妙なバランスを保っているという、近隣の中国と似たような状況にあるのが、ベトナムの現状であると見て間違いはないだろう。

(ラオス)

 ここからは、前に読んだ「アジア政治経済」では個別に取り上げられていなかった東南アジアの小国(Tier 3諸国)が取り上げられる。まずはラオスである。

 この章が書かれた時点で、建国から35年、「本格的に国家建設をスタートさせてから20年しか経っていない」この国はラオス人民党の一党支配の下、極めて政治的に安定しているという。この理由として筆者は、@村レベルでの「民主的」な意見表明と伝達システム、A地域空間での満足が得られれば中央の政治には無関心の風土、B党や政府の決定的な失敗のなさ、C党と国民が「和」や「団結」を重視する同じような価値と規範を共有していること、そして最後に、これらを総括するようなD争いを好まないラオス人の性格を挙げている。ベトナム戦争の後背地として、激しい内戦に巻き込まれていた時期も「パテート・ラオと王国政府軍の兵士は、銃を空に向けて打っていた」というのは、俄かには信じられないが、歴史的に山岳部でひっそりと生きてきた民族性が、そうした傾向を持ったということもあるのだろう。ただこの国も、最近は建国の父と呼ばれるカイソーン元書記長の権威を強調することで国民統合を図ろうとしているようである。

(カンボジア)

 以前に読んだこの国についての2冊の新書(「カンボジア最前線」、「カンボジア戦記」)が、戦後の歴史、なかんずく70年代以降、大国の思惑に振り回された悲惨な内戦に焦点を当てた作品であったことから、全体としてのこの国の近代史を説明したものとしては、初めてのものであった。とは言っても、この大混乱の時代の前史については、特に目を引く説明はない。取り敢えず、1940年9月に日本軍がこの地に進駐した後も、しばらくはフランスのヴィシー政権と日本による二重支配が続いており、日本による直接支配が始まったのは1945年3月になってからであるということ、及びそれと同時に1941年に即位していたシハヌークによる、名目的ではあるが独立宣言が行われたということ、そしてシハヌークを含めそれを担った人々の持っていた「反ベトナム感情、反タイ感情、アンコール遺跡の理想化」がその後のこの国のナショナリズムの特徴となったということだけ押さえておこう。終戦後、この独立は取り消されるが、フランス連合内での内政自治は認められ、その枠内でシハヌークと諸政党の間で権力抗争が繰り広げられた後、1953年11月、カンボジア王国としての独立が最終的に国際社会に認められたという。ここでは、それ以降もシハヌークを核とした権力抗争が続き、それが最終的に70年代の悲劇につながっていく過程、及びその後の正常化過程が詳述されているが、それは省略する。

 最近の状況としては、やはり2008年10月の、プレア・ヴィヒア寺院を巡るタイとの武力衝突が注目される。UNTAC管理下で成立した複数政党制の下で行われた2008年7月の総選挙でフン・セン率いる人民党が圧勝し、それ以降再び「民主的とはいえない政治手法が採られる」傾向が強まっているという。2011年4月にも再発したプレア・ヴィヒア寺院でのタイとの武力衝突は、筆者によれば、そうした権力志向を強めるフン・セン政権による反タイ感情の政治利用であると看做されている。そして「20年以上にわたる内戦や民主カンプチアの圧制からの教訓は、多様性を抹殺し、国内での勢力争いに外国勢力を巻き込むことの危険性であったはずである」が、依然この国はそうした教訓を時として忘れ、「民主化に逆行する形で安定する様相をみせている」というのが、筆者のこの時点での結論である。

 尚、最後のコラムで触れられているアンコール観光を巡る利権問題は、この国の重要産業に関る暗部として、かつてここを訪れた私も認識しておくべきだろう。即ち、1999年4月、人民党の息のかかったソキメックスという石油会社が、入札もなくアンコールの入場料徴収を独占できる体制となり、批判を受け多少の修正は行われたものの、基本は現在まで変わっていないという。更にシェムリアップへの航空輸送最大手の航空会社の社長には2000年7月の不始末以来、フン・センの腹心が就任するなど、この国の外貨獲得にとって重要な観光産業の政治利用が常態化しているということである。またこれとは別の次元であるが、この遺跡の復興には、青山学院大学と早稲田大学という2つのグループが参加しているが、この両者が成果を競い合い、時には対立するといった状況もあるという。この遺跡を訪れた時に私が気がついたのは、復興への協力をアピールする青山学院大学の簡単な展示だけであるが、こんなところで日本の大学間の鞘当が行われているというのも情けない話である。

(ミャンマー)

 これを書いている現在、アウン・サン・スーチーは民主化後初めての米国訪問を行っており、昨日(2012年9月20日)もオバマ大統領と面談、そこでタイン・セイン大統領他に対する米国の制裁緩和が発表される等、彼女の訪問を受けた西側諸国のこの国に対する支援策が徐々に実施されていることが報道されている。そしてこの国については、最近読んだやや古い新書(「ビルマ」)以上に、今年始め見たスー・チーの戦いを描いた映画(別掲)が、より強い印象を残している。

 しかし、この章が書かれたのは、まさに今回の民主化過程が開始された2010年11月の選挙直前の10月であることから、ここではそれ以降の動きはフォローされていない。その意味では、民主化が始まるまでのミャンマーの歴史の総括ということになる。

 1948年1月の独立以降の大きな流れを見ると、他の東南アジア諸国以上に、植民地支配者であった英国による分断統治(カレン、カチン、チン等の非仏教徒少数民族の優遇策)が、その後のこの国に多くの困難をもたらしたことが理解できる。独立後の歴史は、独立に際して一時的に大同団結した諸民族が、独立と共に、「ビルマ人中心につくられた国家へ反旗を翻し」、それにビルマ人内部の争いも加わり、長期間の軍事政権による権力支配を余儀なくされたということになる。特に、この国の統合を担っていたアウンサンの暗殺が、この分裂の大きな要因であると共に、その娘であるスー・チーがその後民主化の象徴として祭り上げられる大きな理由になるのである。以降、軍事政権と民主化勢力との繰り返されるせめぎ合いが教科書的に説明されているが、それ以上に特記すべき事項はない。但し、軍事政権側がある程度の民主化を容認する対応をすると、それが「軍政側の敷いたライン」を越え、再び弾圧が強まるということを繰り返してきたこの国の歴史を考えると、現代の他の独裁国家と同様、この国のソフト・ランディングも容易ではないことは確かである。

(東ティモール)

 この国について、新聞報道以外のまとまった記述を読むのは、これが初めてである。2002年5月、「21世紀最初の独立国家」となったこの国の独立が遅れたのは、旧宗主国のポルトガルが1975年まで植民地解放を認めなかったことと、その後「24年間にわたり27番目の州としてインドネシアの支配下に置かれたこと」が主因であったという。更に、1997年のアジア経済危機を契機とする独立への歩みの中でも、インドネシア国軍・警察の支援を受けたインドネシア統合派の民兵による焦土化作戦の様相を呈した攻撃、そして独立後も中央集権的な一党支配を目指すフレテリン(東ティモール独立革命戦線)対カトリック教会、市民社会、西側諸国の対立の激化により国際治安部隊の駐留を余儀なくされるなど、社会の安定化からは程遠い状態が続き、2007年のグスマン首相による連立政権の成立後も、石油・天然ガスを除き主要な産業がない中、失業者も溢れ、紛争後の国家建設が課題になっているという。

 おそらく、この国の歴史を見るときに重要なのは、1975年に旧宗主国であったポルトガルが植民地政策に行き詰まった際に、その隙をぬってこの地域に侵攻したスハルトを、米国や近隣国オーストラリアが支持又は暗黙に支持したということであろう。国連は1982年まで毎年インドネシア軍の撤退を求める決議を行うが、米国のみならず、日本、ASEAN諸国もインドネシアを支持したというのは、この国のインドネシアによる統合がまさに冷戦時代の産物であったことを物語っている。

 スハルト失脚後、ハビビ政権の下で、アチェと並ぶインドネシアの紛争地域であったこの地の自治州化が試みられるが、住民投票の結果独立派が勝利し、そしてお決まりのとおり統合派との内戦状態になる。この地域が悲劇であったのは、軍事・警察力については、圧倒的に陸続きであるインドネシアの力が強く、またこれに強く干渉しようというそれ以外の大国の関心がこの地域には及ばなかったということである。その結果、ジャーナリズムで悲惨な内戦が伝えられるまで、この地の紛争は国際世論の関心を引くことがなかったのである。そして独立後も内紛が続くが、これを象徴するのが2006年騒乱と呼ばれる、国防軍内部での東部出身者と西部出身者の戦いであり、この騒乱をきっかけに、更に国内政治勢力の内紛が深まるという悪循環に陥っていったようである。

 2007年4月の大統領選挙、6月の国民議会選挙を経て、穏健派のホルタ大統領(外交官出身。1997年ノーベル平和賞受賞)と親西側諸国のグスマン首相(カリスマ的司令官)という体制が成立してから、相対的に政治は安定したが、引続き国内対立は残っている。グスマン首相は、ノルウェイの例を参考に設立された石油・天然ガス収入を入れた基金を、将来の投資に向けて積極的に活用する政策を取っているようであるが、反対派(その指導者は、官僚出身の政治家アルカティリである)はこれを「バラ撒き」と批判し、また実際その効果が出るかどうかは、まだ分からないという。2012年(まさに今年である)を目標にASEANへの加盟も展望に入れているというこの東南アジアで最も新しい独立国の将来は、依然不透明であるが、少なくともここでの記述で、その近代史の全貌は初めて知ることができた。

 それにしても、ボルネオ島、パプア・ニューギニア島、そしてこのチモール島と、一つの国の中で、島内に国境がある島を3つも抱えているというのは、インドネシアの大きな特徴である。まさに植民地時代の旧宗主国の違いが、本来は社会・経済的に一体であるこれらのアジアの島々に国家帰属の相違をもたらしていると言える。

(ASEAN)  

 そして最後は、冒頭にも触れたASEANである。

 まず初期の成果として、1969年に、マレーシア、サバ州の領有を巡りマレーシアとフィリピンの紛争が起こり、両国の国交断絶に至ったが、ASEAN外相会議の場で和解が成立するという政治的成果をあげたという事実がある。「マレーシア」のところで触れたとおり、最近私も休暇で滞在したサバ州にそうした歴史があったというのは、ここで初めて知ることになった。また初期の輸入代替工業化過程では、各国の利害関係が対立し、ASEANベースでの協力関係がなかなか進まなかったが、80年代半ば以降の外資依存の輸出志向工業化の過程ではASEANベースの新たな域内協力戦略が機能し、「東アジアの奇跡」実現の一翼を担ったという。

 90年代以降の冷戦終結以降のASEANの変貌とアジア危機を経ての深化は、先に読んだ「アジア政治経済」でも説明されているが、近年の枠組みとして、前の本では触れられていなかった、2003年10月発表の「第2ASEAN協和宣言」が注目される。これは、@ASEAN(政治)安全保障共同体(APSC)、AASEAN経済共同体(AEC)、そしてBASEAN社会文化共同体(ASCC)の3つの共同体から構成される地域共同体の実現を宣言したもので、その後の活動の大きな転機となったという。また冒頭に記載したとおり、実はASEANも現在はきちんとした条約の枠組みができているということであるが、そのうちの東南アジア友好協力条約には、2003年に中国とインドが、2004年に日本が加盟しているという。2008年12月のASEAN憲章については、冒頭で触れたとおりである。

 こうして、ASEANは、構成国の国内政治の不安定や構成国間の対立(タイとカンボジアなど)、そして次世代指導者の欠如などの問題も抱えながらも、着実に協力関係を深化させてきている。これについては、現在ASEAN自体を主題とする新書を読み始めているので、そこで詳述することになろう。

(まとめ)

 繰り返しになるが、東南アジア諸国全てをカバーしたこの概説書は、政治過程の教科書的な説明が多く、読んでいてやや単調である。しかし、それは反面では、各国の基本的な政治史の流れについては優等生的にまとめているということでもある。感情を刺激される読書という面白さはないが、この地域の国を押さえる上で実務上は便利な本であると言えるのだろう。

読了:2012年8月31日