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日本の領土問題
著者:保坂正康/東郷和彦 
 3年ほど前に、その日本外交論(別掲)を読んだ、元外務官僚による北方領土、竹島、尖閣問題に関わる外交政策論である。彼の論考と、それを受けた評論家との対談という2部構成になっている。

 外交論のところでも書いたが、この元外務官僚(以降「著者」)は、外交官一家に生まれ、順調にキャリアを重ねていたが、2000年代初頭に北方領土返還交渉を巡る田中真紀子対鈴木宗男の争いに巻き込まれ、オランダ大使を最後に退官。逮捕の懸念があったため、そのまましばらく海外の大学の客員教授などを勤めた後、ほとぼりの冷めた2010年頃に帰国し、現在は京都の大学で教鞭をとっている。ここでは彼の退官のきっかけになった北方領土問題を含め、現在脚光を浴びている竹島、尖閣問題を、外交専門家の観点から冷静に分析した上で、取るべき政策を提言している。

 まず、この3つの領土問題にアプローチする際の彼の切り口は参考になる。彼はこれらの領土問題は、@「法的側面」、A「政治的側面」、B「歴史的側面」という3つの側面から見るべきであるという。@は国際法適用を含めた法理(国際司法裁判所(ICJ)提訴を含む)であるが、そもそも問題となる領土紛争は、其々の国が全く異なった法理を主張していることから発生している訳で、これだけでの解決は困難である。Aはまさに「国家間の力関係を反映した」リアリズムの世界、そしてBは「それぞれの国の歴史に密接に結びついた」情緒的な側面で、これは冷静な議論を越えた感情論の世界である。そして3つの領土問題は、この3つの側面がそれぞれ異なったレベルで反映されていることを認識したうえで現実的な対応を行うべきである、というのが元外務官僚の基本的な主張である。以下、それぞれの領土問題につき、自分も当事者として関与した日本外交の失敗に対する反省も含めて、簡単に見ておこう。

 北方領土問題は、上記のとおり、そもそもこの著者の退官のきっかけとなった事件であるが故に、個人的な思い入れも深いと思われるが、それ以上に重要なのは、この問題が「経済的利得」や「安全保障問題」を越えた「日本にとっての歴史問題」である、という理由からである。著者に言わせれば、その解決は「裏切り・残虐・領土的野心」という「日本民族が受けた歴史的屈辱の最後の決算」であるということになるが、ここでは上記の要因に加え、終戦時の外務大臣が彼の祖父であったという別の個人的感情も入っているようである。

 こうした感情論を抱きながらも、まずは冷静にこの問題を巡るソ連・ロシとの交渉経緯が説明されている。初期の交渉では、ソ連側から歯舞・色丹の「二島返還」論が出てきたこともあったようであるが、日本側がこれを拒否してきた結果、1980年代の冷戦末期には、ソ連側は「領土問題は存在しない」、日本側は「四島一括返還」という主張が対立し、交渉は膠着、日本国民の頭にも、この問題の解決は「四島一括返還」しかありえないという見方が深くしみ込んでいったと考えている。

 冷戦後、ようやくこの交渉が少しずつ動き始め、激動する世界情勢の中で双方から「一発勝負案」が出されたこともあったという。特に、反ゴルバチョフ・クーデターの直後には、日本からは「四島一括返還」から「段階論」に移るような提案も行ったようであるが、この日本側の「大きな政策転換」は世の中には認識されず、著者もその時にこの政策転換をきちんと国民に納得させるような行動を取らなかった自分の対応を悔いることになる。更に、著者によると、2000年、プーチン大統領が就任するや否や、「信じられないほどのスピードで」交渉が進み始めたが、その矢先に、「田中真紀子外相就任に伴う一連の事態」により、この領土交渉はいっきに頓挫することになった(「歴史上初めて(中略)話し合いのテーブルにつこうとしているロシアを前に、政局の混乱を理由に交渉の場から事実上消えてしまった日本側につき、ロシア側はどう思ったか。」)ということになる。これは著者の立場からすれば当然の田中真紀子批判である。

 膠着状態が続いた後、2006年以降、再び交渉は再起動するが、結局2009年に日本側が「不法占拠」という言葉を公式に使ったことでロシアが反発し、改めて凍結される。そして著者は、ロシア政府が「クリル開発計画」という形でこの地域に大型の開発投資を進めていたが故に、この失敗は「今までとはまったくちがう意味合い」を持ったと見る。ロシア側は、2006年頃に、「領土交渉」と「四島のロシア化」を並行して進め、「領土交渉」が失敗した時は、「四島のロシア化」を進めるという政策転換を行った可能性がある。それについて日本側が反発しても、「ロシアを怖れさせる手立てを日本はもっていない」という冷徹な判断である。「(2010年)11月のメドベージェフ大統領の突然の国後訪問の軌道は、おのずと引かれていた」ということになる。

 それでは、この状況を受けた現在取るべき対応は何か?著者は、まず現在の「交渉敗北の事実を仮借なき眼で見据えた」上で、「四島一括返還」から脱却する明確な意思決定を行うことであるとする。それはこの問題が日本人にとって「歴史問題」である故に、日本側の大きな思考転換を要求されるが、このままでは「四島のロシア化」の既成事実だけが積み上がっていくことになる。それを阻止するだけの柔軟な対応こそが現在求められている、というのが、この「四島一括返還」論の壁にぶち当たり退官した著者の執念の提言となるのである。

 竹島に関しては、逆に「韓国の歴史問題」であることを認識した対応が、日本側に要求される。

 竹島領有は日本にとっては、島根県のあしか漁の安定のためという「産業実務問題」から発しており、韓国併合とは無関係という認識であるが、韓国にとっては、それは「明治維新から日清・日露戦争をへて大陸に拡大していく日本が、その戦略の必要上竹島を領有し、それが韓国併合の第一歩になった」という「歴史問題」である。それ故に、竹島を巡る韓国側の発言は常に「感情的・情緒的」である。従って、この島を巡る「法理論」を重ねても意味はなく、韓国側は、日本の尖閣に対する態度と同様に、「領土問題は存在しない」との立場を崩していない。これを受けて、一方で韓国の実効支配は強まるものの、政府間での話し合いはほとんど行われてこなかったという。

 こうしたデッドロックの中で、著者もここでは有効な対応を提案することはできないでいる。第二部の対談でそれを提示するということであるが、ここでは政府間交渉が停滞している中、「民間の研究者・有識者のあいだで、相互の認識のギャップについて、冷静に意見交換すること」が必要という、一般的なコメントに留まっている。

 最後に尖閣問題であるが、これは、著者の認識では「今のところ」両国にとってこれは「領土問題」であり、「歴史問題」ではない。しかし、それが中国側にとって「歴史問題」となる可能背は高まっており、それを避け、あくまで「領土問題」として政治的に無害化することが必要であるという。

 尖閣支配を巡る歴史についての記述は省略するが、少なくとも最近までは、実効支配を続け「領土問題は存在しない」という日本側に対し、中国側も「直ちに事をかまえる姿勢はとらず」に来ていた。日本側も、1978年のケ小平による「後の世代に知恵をださせるまでは問題を提起しない」という発言を受け、日本側はあえて動く必要はないという判断であった。ただそれは日本側も尖閣については「現状を変えないように配慮すること」を意味しており、その均衡が2010年9月の中国漁船と海上保安庁巡視船との衝突とその後の船長送還までの日本側発言などで崩れたというのが著者の認識である(この本の出版時点では「国有化」は行われていないが、もちろんこれも中国側からは更なる「現状変更」と看做され、情勢を悪化させることになったことは言うまでもない)。そして著者によれば、この事件を契機に、「憲法9条というイデオロギーで日本を守っていた時代は終わり」「外交の先に武力衝突がありうる時代が始まった」ということになる。

 尖閣については、@日本の実効支配の歴史は長く、A戦後処理を含めた日本の法的な立場は圧倒的に優位、そしてB中国側の現状維持政策はまだ替わっていないと思われる(但し、Bは現在やや疑念がある)ものの、それが「日本の台湾併合の前座」と看做され、歴史問題に転化される懸念は常に存在する。それを避ける中国との対話が求められている、という著者のここでの提案も、それだけではまだ陳腐である。

 こうした著者の「基調報告」を受け、評論家の保坂(以下「評論家」)との対談で、著者はもう一団踏み込んだ提案を行おうとしている。まず著者が行っている重要な提案は、「北東アジアの領土交渉に関する三原則」、即ち、@「現状を変更しようという国は力によって行動してはならない」、A「実効支配している国は相手国との話し合いに応じなければならない」、そしてB両国が智恵を出して衝突に至らないようなメカニズムを考える」というものである。いわば、日本にとっては2勝1分を狙うような理論であるが、それが相手国の了解を得られるかどうかは疑問である。

 むしろこの対談で興味深いのは、「基調報告」では突っ込んで議論されていなかった「政治的側面」である。ロシア、韓国、中国全てが2012年に政権が交代する。そうした中で、政治的リアリズムに基づく動きが出てくる可能性があると見るのである。

 この原則を受けて、北方領土については、プーチンの大統領復帰のタイミングで既に彼からのシグナルは出始めており、この機会に、「面積等分論」や「共同統治論」、更には「二島返還論」を含めた様々なアイデアを柔軟にロシア側に提案していくべきである、即ち本論でも主張していた「四島一括返還」論からの脱却を繰り返し主張している。

 竹島問題については、「基調報告」よりももう一段突っ込んだ提案が行われている。著者が参加している学者ベースでの韓国との交流の中から出てきた案として、日韓漁業協定の枠組みを利用した周辺海域での漁船衝突回避策、海事当局者間の情報交換、日韓歌手による合同コンサートといった文化的交流、そして著者が行っている学者間のアカデミック且つ率直な意見交換等。そしてそれを両国の国民的な関心事として広く認識させていくこと。確かに、韓国内の感情論や、政治的カードとしての反日という御旗を考えると、政府間ベースでこの問題を打開しようというのは難しいように思えるので、それを少しずつ和らげていく、というのが現実的な対応なのだろう。但し、この本の出版後、まさに新政権となった韓国への対応も慎重に検討されるべきことは言うまでもない。尚、評論家からは、「平和と友好のために、竹島の主権を放棄し、経済利権を確保する協定案を結ぶ」という案も提示されている。著者は立場上、その案は呑めないとしながらも、彼の教える学生たちの演習では、そうした案も真剣に議論されていたと報告している。

 最後に尖閣。これは中国のペース(挑発?)にはまって「歴史問題化」することを阻止する、ということがまず肝要であると繰り返す。その上で、中国が「力」を表に出し始めている現在、日本側もそれなりの抑止力を強化した上で、日本も話し合いに応じる姿勢を示す必要がある、但しその条件は「中国はこの海域に入らないこと」を対案とする、ということである。そして最後に著者は、日本の領有権には触れさせず、この地域での石油共同開発を進めるという「現時点では提案ではなく、質問」も行っている。いわば政治判断によるリアリスティックな打開策ということである。これらは、著者が北方領土で失敗した、日本サイドの世論形成が全ての問題であるが、常に頭の隅には置いておくべきカードであることは間違いない。

 そして全体の総括として、この「三つの問題により自縄自縛になっている」対ロ、対韓、対中関係を取り除くことの重要性が改めて強調されてこの本は終わることになる。

 この3つの領土問題の中で、明らかに著者は、北方領土交渉に個人的な思い入れをおいており、議論も詳細である。それに比較すると、竹島及び尖閣については、提案も含めてやや距離をおいて眺めている感はある。しかし、これらの問題に共通する切り口と解決への原理を考案し提案しているのは、さすが外交実務のプロという思いを抱かせる。外交のポイントが継続的な対話と状況を見極めた上での迅速な行動であるとすると、日本外交は、特に北方領土に関しては、過去にあまりに多くの失敗をしてきた。そして今後も世界情勢が展開していく中で、また行動の絶好のチャンスを逃すという失敗を繰り返す可能性も高い。それを避けるためには、何よりも平時から戦略に関する議論と関係者の合意形成、更にはそれに対する国内の世論形成に努め、客観情勢が動く時に、柔軟且つ迅速に動くということが必須である。尖閣に見られるような足元の中国からの雑音に惑わされることなく、じっくりと中長期的な戦略を練っていくことが今こそ求められている時はない。そうした視点の重要性を教えてくれる作品であった。

読了:2013年2月7日