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アジア政治経済論
編著者:末廣昭・山影進 
 こちらに赴任する前に購入してきた東南アジア関係本の最後の一冊である。これまで5年間、この作品に手を付けなかったのは、本の厚さもあるが、それ以上に、この作品が2001年2月の出版であることから、現時点から見ると分析が古くなっていることは否めないのであろう、という思いがあったからである。しかし、内容的には、編著者の二人は、私も今まで別の単独での著書に触れてきた、タイやアセアン研究の大家である。ある時点では目を通しておこう、と考えていたが、結局は他のアジア本が枯渇したタイミングで、ようやく読み進めることになったのである。

 確かに内容は古い。2001年出版というタイミングからも、分析の対象は、1997−8年のアジア通貨危機の影響とそれを受けての初期の対応が中心である。現在アジア諸国は、通貨危機から約15年を経過し、当時とは比較にならないくらい強靭な国内経済と危機対応策を整備してきた。まさに現在これらの国の株式市場の多くが市場最高値を更新している背景には、これらの国の政治・経済インフラに対する国際資本も含めた投資家の安心感がある。その意味では、東南アジアは、この15年で大きく変貌したのである。

 しかし観点を変えてみると、この東南アジアの成長の原点は、まさにこの15年前の経済危機にあったと考えることもできる。この時彼らが何を体験し、そしてそれからの脱却のため何をしてきたのか。それをもう一度復習しておくことは、現在の東南アジアを見る上で決して無駄ではない。更に、この作品では、特にこの危機にあたっての日本の協力・支援や、それを核とした日本の東南アジア政策の変遷などにも多くのページを割いている。それもまさに現在の日本の東南アジア政策の出発点といえるものである。こうした観点で、アジア通貨危機直後の専門家による分析を見ていくことにしよう。

 まずこの本の視点が説明されている。アジア通貨危機を契機に、日本のこの地域に対する各種の援助が強化される。特に通貨危機支援のための新宮沢構想による300億ドルの支援に始まり、この本が出版された時点で1000億ドルに達したこの経済支援で、日本はこの地域にいかなる形で関与しようとしていたのか?また対するアセアン諸国は、中核国が通貨危機で、国内の政治・経済・社会構造の変革を余儀なくされているのみならず、アセアン自体がかつての「反共同盟」からベトナムその他インドシナ3国、更にミャンマーも加わることにより(本加盟は、ラオス、ミャンマーが97年、カンボジアが99年)、体制面でも経済水準でも一層多様化した国家から構成される共同体に変わろうとしていた。そうした多様化したアセアンに対する日本の政策は効果を発揮できるのだろうか?

 この問題意識のもと、まずは中核3カ国での通貨危機後の対応が詳細に分析されている。まずは、通貨危機が最も深刻で、スハルト独裁の崩壊という決定的な構造変革をもたらしたインドネシアのケースが説明されている。

 詳細は省略するが、これはインドネシアに関する、通貨危機以前の構造問題と、通貨危機から、国内政治危機、そして体制変革後の通貨危機対応についての短くまとまった論文となっている。特に、銀行の再編(危機前と比較し、民間銀行が162行から92行、国営銀行が7行から5行へ)と企業再編(スハルト・ファミリー関連企業とスハルト関連の財閥―サリム、ボブ・ハサン、ガジャ・トゥンガルー等の傘下企業の接収・破産申請・国際入札等)が要領よく説明されている。またインドネシアに関する第二論文では、危機後のこの国の政治・社会統合の危機(アチェや西パプアでの分離独立運動やアンボンやポソなどでのモスレムとキリスト教徒の間の宗教紛争)の様相が説明されているが、これも危機に先鋭化する社会構造の基底にある問題を理解する上で参考になる。

 続いてマレーシアでの通貨危機対応である。この部分は、まさに2週間前に行われたマレーシアでの総選挙の分析でも使わせてもらったが、この通貨危機における当時首相のマハティールと副首相のアンワルの対立が説明の中心である。今回の選挙を巡るいろいろな軋轢は、この時資本規制の導入等により、社会構造の根本的な変革を回避して危機を乗り切ったマハティールとその与党連合の体制が、通貨危機から15年経過した今、再び同じ問題を別の形で突き付けられている、と考えられなくもない。特にアンワル失脚・逮捕後に行われた99年11月末の総選挙で、既に「UMNOがマレー人選挙区で大敗し、マレー人社会の分裂傾向が明確になっている」というコメントを読むと、まさに今回の選挙もその延長線上にあると考えられるのである。

 ここでは筆者は、マハティールとアンワルの対立が、「1971年以降実施されてきた新経済政策(NEP:1971-1990)の実施に伴うマレー人社会の構造変化、また『マレー人社会の擁護者』を掲げるUMNOの変質」に起因するものと捉えている。即ち、まず与党連合の体制は、マレー人の優位を掲げながらも、華人系やインド系の支持も確保するため、与党連合に参加する華人系やインド系政党の候補者が、多数派であるマレー人の指示で当選できる選挙制度を作り上げたものであるとする。しかし、当初は農民・公務員・教員に支えられていたUMNOは、NEPが進む過程で企業家・経営者からの支持に依存していくようになる。これが「UMNOのビジネス化」をもたらすが、これは別の言葉で表現すると「UMNOの利権化=癒着・汚職の構造化」である。また同時にUMNOは、「世俗国家の枠組みの下、より実質的なイスラム化を促進するというもう一つの役割」を果たすことになる。それを象徴するのが、イスラム青年運動のカリスマ指導者となっていたアンワルを政権に取り込むことだった。しかし、前者の「実質的なマレー系優位を維持しながら、他方で非マレー系の支持も取り付ける」ため、「マレーシア国民意識」を育てようという試みは、既得権を奪われ、あるいは成長の恩恵に即すことのできないマレー系の下層レベルでの不満を醸成し、また後者は党指導部の「派閥化現象」をもたらしたという。そしてこれが経済危機の中で、マハティールとアンワルとの対立の先鋭化となって顕在化していくことになる。「ネポティズム」、「クローニズム」、「汚職」の追放を明言するアンワルとその支持母体であるUMNO青年部の動きは、マハティールの権力基盤を犯すものとなっていき、アンワルの追放という結果をもたらすが、前述のとおり、危機後の99年11月の選挙では、まさに今回の選挙と略同じような「マレー系のUMNO離れ」という流れが発生することになる。またこの選挙後に、その後マハティール後継の首相となるアブドゥーラが副総裁、ナジブが党内No3に選任されたというが、これはまさにそこから今回の選挙まで13年超にわたり、基本的にこの国の構造が変わらなかったことを示している。この論文の筆者は末尾で、政治面では「これまでのマレー人の経済的地位の向上と世俗的なイスラム化政策という二つに政権の正統性をおいてきたUMNOは新たななる正統性の確立を求められる」と共に、経済面では危機後、「金融機関の再編成や不良債権問題」等は克服されてきたが、「経済危機で諸矛盾が噴き出したマレー系企業育成のメカニズムにはいまだ手つかず」であるとしている。今回の選挙は、この10年以上前に指摘されていた問題が、依然としてこの国の課題であることを示したと言えるのである。

 続いてタイの経済危機対応についての詳細である。民主国家であることからのスピードの遅さはあったものの、IMF主導の経済改革は、金融制度改革、企業の債務再構築、産業構造改善のそれぞれで、それなりの効果をあげる。そしてこの時点ではまだ輸出製品の競争力低下が指摘されていたが、これがその後、日本の支援などもあり大きく改善したことは言うまでもない。

 ここではこの経済改革の過程が詳細に説明されている。その中には現在私が業務上関係しているような地場の銀行なども登場しているが、ここではそうした現在も活動を続けている組織は、いわばこの改革を経て生き残ったものであることを認識しておけば十分だろう。同じ時期、日本でもバブル崩壊から金融危機が発生する中で、金融秩序の同様の構造改革があったことを考え合わせれば、より衝撃の大きかったタイでの金融改革が厳しいものであったことは容易に想像できる。また、企業の再建に関しては、特に、大蔵省主導による新宮沢構想を活用した中小企業向け金融制度改革を含めた全面的な中小企業育成策を進めたことが指摘されている。即ち、通貨危機後、IMFや世界銀行が、緊縮財政を求め、続いて金融システム改革やコーポレートガバナンスの適用など、「自由主義経済に適合した欧米的な制度の導入を図って構造改革を進めてきた」のに対し、日本は「官民合同の産業振興機関」の設立や「中小企業振興マスタープラン作成」、「企業財務情報把握のための技術支援」、「企業評価システムの導入」等、「サプライサイドからの構造支援」を進めてきたという。筆者が指摘しているとおり、後者が実体経済の回復には直接に効果があったと考えられるとすれば、こうした日本の貢献が、現在の両国との関係にどの程度ポジティブな影響を及ぼしているかが気になるところである。こうした構造改革が、その後のタイ経済の復活を導いたということであれば、そこでの日本の貢献をいろいろな局面で喧伝していくことも必要なのではないか、という思いが頭をよぎったのであった。

 金融危機への対応に関わる個別国の説明は以上の3カ国のみで、以降は危機を受けてのアセアン全体としての問題を、其々のテーマ毎に紹介することになる。経済統合に関しては、どうしてのデータが古いことで、もはや当時の問題が現在も継続しているとは思えないような議論が多い。また日本のこの地域への関与については、経済統合を巡る(米国に潰されることになった)AMF構想から「アセアン+3」の成立に至る駆け引きが面白いが、それも過去の話である。

 その中で面白かったのは、日本の対アセアン政策の観点から、カンボジア和平への日本の積極的な関与の過程を詳細に検討した「インドシナ外交戦略の変容」という論文で、実際これが進行している時点では私は、UNTACの明石代表による監視や自衛隊によるPKOへの参加といった現象面のニュースしか見ていなかった気がするが、実はこれが、珍しく日本が外交上のイニシアティブをとった案件であったことを認識することになった。ここで議論されている「アセアン10」になって以降ますます顕著になった「アセアン・ディバイド」は、「メコン開発計画」として現在も重要な地域課題になっていることは言うまでもない。

 この論文集は、最後に編者二人による「『アジアの中の日本』を目指して」で総括されることになる。その中で筆者は、2000年現在、アセアン地域で約10兆円の支援を行ったにも関わらず、この地域での日本の中でのアジア認識が急速に向上したということもなければ、これらの地域での日本のプレゼンスが大きく上がることにもならなかった、と指摘している。まさにこれは上記のとおりタイに対する日本の支援の効果という、私自身が抱いた疑問であるが、こうした「資源の無駄使い」から脱却し、いかにアセアンのみならず、日本と諸外国との関係を深化させていくか、という観点で、筆者は、政府、民間企業、NGO・NPO、そして個人のレベルでの重層的な関係強化と、従来の「金銭的支援」から「政策支援」、「知的支援」にシフトしていく必要性を推奨している。当然のことであるが、一方的な「支援の押付け」ではなく、「智恵の交換」であり「制度のハーモナイゼーション」を実現するものでなければならない、というのが編者の総括である。

 この本が出版されてから12年、ここで指摘された課題は、現在も引続き生きている。そしてその課題は、当然のことであるが、この地域の発展と共に、ますます一方向的なものではなくなっている。アジア危機に際して日本が相応に協力した実績を踏まえながら、如何に現代のアセアンがきちんと評価できるような形でこの地域との協力関係を更に深化させていくか。この課題を考える上で、アジア危機が現在のアセアンの原点であったように、それは日本のこの地域との関係強化という政策面でも、もう1つの原点であったことを認識させてくれた作品である。

読了:2013年5月11日