アジア力の世紀
著者:進藤 榮一
2008年1月、私のシンガポール勤務が決まる前に開催された友人との読書会で、同じ著者の「東アジア共同体をどうつくるか」が私の推奨で課題図書となったが、その際の評価は、別に掲載した通り、あまり芳しいものではなかった。勢力均衡論の立場から見ると、著者の議論はあまりに理想主義的であり、特に中国脅威論について楽観的すぎるというのが、その際の主要な批判であった。そしてそれから5年以上が経過した今、改めて著者が世に問うたのは、まさにその間、益々世界、あるいはアジアでの存在感が低下した日本が、どのように生き残っていくか、という問題で、そのためには引続き中国を含めたアジア諸国との紐帯を強めていくしかない、という著者の従来からの主張を展開している。
著者の大きな世界認識は、「パクス・アメリカーナの世紀」が、「アジア力の世紀」に移行している中で、最早日米同盟だけでは日本は生き残ることができないという確信である。更に「19世紀テリトリー・ゲームの時代」や「大量消費と大量廃棄による20世紀プロダクション・ゲームの時代」も終焉し、今出現しているのは「近隣国民との共生を進め、地球環境の持続可能性を最大化させて、人間の顔をした資本主義を作る、21世紀サステナビリティ・ゲームの時代」であるとする。この心情をどのように捉えるかで、前述のような批判を含め、著者の議論に対する評価が変わってくる。
軍事部門への過大投資による米国経済、なかんずく製造業部門の疲弊と、アジアの「ものづくり力」の興隆が幾つかのデータで説明される。一方で、著者の議論への根本的な批判となる「梅棹生態史観―不安定なアジアという見方」から、高坂正尭の外交戦略の延長線上にあるアジア経済専門家渡辺利夫による「新・海洋国家論―不安定なアジア大陸に関与することの危険」等、著者への批判も吟味している。そして、現実政治の分野では、@日中間、日韓間で繰り返し生じる歴史問題、A「中国脅威論」、B「TPP(環太平洋経済連携協定)」、そしてC地域統合モデルの相対的有意性に疑問を突き付ける「EU終焉」論という、東アジア共同体構想への阻害要因や否定的議論。こうした諸問題に著者がどう答えているかを中心に見ていこう。
まず著者が概観しているのは、情報革命が主導する産業構造の転換と、その結果としてのアジア地域の成長と統合の進捗であるが、これは一般的な事実のおさらいなので、詳細は省略する。
続いて、このアジアを巡る「旧覇権国家」米国の戦略が説明される。ここでのポイントは、言うまでもなくTPPで、これは@東アジア市場への参入、A日中韓FTAによる東アジア地域統合の阻止、そしてB対中包囲網を敷く米国の、アジアにおける覇権の維持強化を目的とした、政治的な意図が大きい計画であるという点である。アメフトと相撲で、日米文化の差異をイメージしながら、米国外交の「謀略の歴史」の延長にTPPがある、というのが著者の立場であり、そこからTPPに対する警戒論を展開している。それはまず経済面での「例外なき関税撤廃」を前提とした「多国間交渉」で、日本がどこまで成果を得ることができるのか、という一般的な懸念と個別具体的な分野での米国の野心についての素描であるが、それは一般的な議論の域を出ないので、ここでは詳述はしない。やや面白かったのは、農業分野での域内協力として、日中韓3国が、災害対策としてアセアンに対する米の備蓄支援制度を構築しているという点で、そこには後ほど述べるような、単純にTPPかアセアン+3(または+6)か、といったものではない可能性が残されていることをまず認識しておこう。
こうして中国脅威論に移るが、ここでは著者は、80年代のソ連脅威論も引き合いに出しながら、現在の中国・北朝鮮に対する脅威論は、「覇権国家政府(注:米国)とペンタゴンから発せられ、米国製最先端軍事兵器の大量売り込み」も意図した「いつか来た道」であることを指摘している。そこには「日米関係でメシを食う『日本ゴロ』」の存在も垣間見えているという。他方で、その脅威である中国等の軍事力は、覇権国米国に比較して格段に弱く、その結果、中国の軍事戦略も先制攻撃力を確保するのではなく、最低限の反撃力を維持するという「確証破壊戦略」を採用している、というのが著者の見方である。また海軍力と海洋権益への自己主張の強化という現在の中国の外交姿勢も、「もはや大陸国家としてではなく、海洋貿易と対外投資によって国益を最大化させていく、陸海両棲的なグローバル通商大国へと変貌した」この国の「非伝統的安全保障」の一環であり、実態は「強権主義と協調主義、軍事行動と外交的行動、単独主義路線と協力主義路線」を巧みに使い分ける中国の「多国間主義的外交」の一つの側面に過ぎないと見ているようである。そして「これほど大きな国内問題に直面している国が、簡単に対外的衝突にでたり、世界支配に出たりはしない」というキッシンジャーの言葉を引用し、むしろ日本にとって重要なことは、こうした中国の巧妙な外交に対抗しつつ、しかし中国を含めたアジア地域での安全保障枠組みを作っていくことであると見ている。
これは明らかに、この本の前に読んだ勢力均衡論的外交論(「国際秩序」ー別掲)の対極に位置する議論であり、この本の中でも著者が何度か触れている民主党鳩山政権の時に、実際に政治的な動きを見せたものである。確かに中国の軍事力が米国との比較では明らかに脆弱であり、それが先制攻撃を仕掛けるというのは当面は考え難い。しかし、それでも著者が認めている通り、中国は次第に強化される軍事力もカードのひとつとして使いながら、海洋権益の支配を強めようとしているのも事実である。その結果、その中国の巧妙な外交に対抗するには、軍事的な均衡も必要であることは明らかであり、それが最終的には、TPPかアセアン+3(又は+6)なのかという二者択一を避けつつ、その双方を巧みに使っていけるかどうかという政策の重要な要素にもなるのである。その意味で、結局、中国脅威論に対するここでの著者の議論は、結局は何らかの形で中国の軍事力に対抗していくことが、日本が、著者が言うようなアジアの枠組みでの協調を進めていくうえでも不可欠なものとなるというパラドックスに陥ってしまう。この辺りは著者の理想主義の議論の難しさが端的に現われている部分であると言える。
こうした中国の地域覇権主義的な動きについての様々な議論はあるものの、アジアでの協調・統合の動きは着実に進んでいる。続く章で著者は、こうした動きを整理しているが、それは例えば、域内の発展段階の格差が逆に相互補完と相互依存の推進要因となるという切り口からのアセアン主導によるアジア通商共同体やチェンマイ・イニシアティブに象徴されるアジア金融共同体の発展の歴史の復習であるので、詳細はここでは省略する。重要な点は、上記の中国脅威論でも述べたとおり、結局アジア統合の道はTPPかアセアン+3(又は+6)なのか、という二者択一の中には存在せず、それらを越える枠組みとして「アセアンをハブとする通商共同体を起点とし、金融共同体や食糧共同体や、さらには環境エネルギー共同体を派生させながら、開発共同体を進展させる」「東アジア地域包括的経済連携(RCEP−アールセップ)」に言及していることであろう。ただこのRCEPに関しては、アセアン+6の枠組みでFTAを進めようという構想で、2015年までに妥結を目指している、という程度の説明に留まっており、これがどのように、従来のアセアン+6の枠組みを越え、米国主導のTPPと共存していけるのか、といった議論は展開されていない。因みに、このRCEPとTPPを比較した一般のサイトでは「TPPとRCEPの両方に参加することで、北南米からアジアを含む広い範囲で自由化のメリットを享受できる可能性が生まれる。日本にとって有利な条件をどう引き出すか、いずれの協定でも交渉力が問われることには違いはない」とコメントされている。
地域統合モデルの相対的有意性に疑問を突き付ける「EU終焉」論についての著者の反論は、それなりに説得力がある。ここ数年解体の危機に晒されてきたEUは、むしろこの危機を通じて首脳間での会議がより頻繁に行われるようになり、その都度確実に各種合意が積み重ねられてきた。「たゆたえども沈まず」というフランス共和国の理念は、今やEUの理念にも重なり、それが「金融恐慌を生き抜く欧州連合の近未来を指し示す。」そしてそれは、そもそも「固有の領土」などありえない地域で、歴史問題を克服してきたこの地域共同体の更なる進化と言えるのである。その視点で見ると、「なぜ日本が、尖閣や竹島などのちっぽけな島の領有権を巡って争うのかわからない」ということになる。
EUの中核であるドイツは、「ユーロ創設以来、自国製品の国際競争力を強め、貿易黒字を累積させ、経常収支を上昇に転じさせた。」「世界貿易の四割近く(2010年38.5%)を占めるEU域内貿易が、ドイツ経済を支え、ドイツ経済が、欧州経済と世界経済を支えている。」こうしたドイツと日本の差は、地域共同体の中での立ち位置を確保できたかどうかの差であるというのが著者の議論である。
今回のEU信用危機は、言うまでもなく通貨と財政の分離を核とするEUの構造問題が顕在化したものであり、その中で通貨であるユーロ安を最大に享受して経済面での「一人勝ち」となったドイツに対する域内のルサンチマンを噴出させるなど、統合がまだまだ不完全であることを示すことになった。しかし、そうした危機故に、域内首脳間のコミュニケーションが一層強まったという上記のコメントは重要である。もちろん、首脳とデモを繰り返す民衆との間の軋轢が収まったとはとても言えないが、少なくとも、この地域統合を更に深化させようという政治的意志は誰の目にも明確である。こうした意志をアジアでも共有していくことができるのか?
こうして著者は、最後にアジア統合に向けて日本のできることは何か、と問いかけている。日中韓の関係が「政冷経冷」の最悪状態の中にある中、欧州の長い統合の歴史を振り返りながら、これを打開するための道は「『小さな物語』をいくつも積み重ねていくことではあるまいか」というのが著者の結論である。具体的な提案としては、@東シナ海での資源共同開発の仕組み作り、及びA「一つのアジア」を担う次世代の育成を、RCEP構想に繋げていくことである、とする。それは東シナ海の小さな領土と資源を争っても、軍事・外交・経済のそれぞれの面で勝ち目がない、という認識に基づいている。尖閣で、米国が本当に中国と戦火を交えるのか?外交面では、慰安婦問題などで日本は歴史問題で「ガラパゴス化」しており、勝ち目はない。そして経済的には、中国は、アセアンやインドでは代替できない。そしてそのアセアン自体がもはや中国を向いている。こうした状況下で日本の選択肢は、このアジアという地域で生きることしかない。欧州統合が時間をかけて進めてきたように、日本もアジアと共生していくという強い意志を持ちながら、時として共通の利益を確保するための妥協も厭わず、そして相互理解の底辺を広げていくことを着実に進めていくしかない。ここで著者は、今年(2013年)4月に妥結された日台漁業協定が、「妥協による最適解」を見出す好例であると評価している。こうした地域協定の経験を、尖閣や竹島で応用し、粘り強く歴史問題と向き合いながら、RCEPといった大きな枠組みでの統合モーメンタムを支援していくこと。それが日本を「マネー敗戦」に続く「第三の敗戦」から救う道であるとして、この作品を結んでいる。
ここで問われているのは、言うまでもなくアジア統合という理想主義を、他方で中国の地域覇権が強まっているという現実の中で如何に維持・発展させていくか、という問題である。民主党鳩山政権は、それを現実政治で前面に押し立てたということで、著者は評価しているが、実際には普天間問題等で米国との距離感の取り方を誤り政権は崩壊した。そして特に自民党が政権を取り戻して以降は、著者が懸念しているように、中国・韓国との関係は冷え切っている。他方で、元首相として、時として「中国・韓国寄り」の発言を行っている鳩山に対しては、大衆週刊誌で「売国奴」という非難も投げかけられている。
しかし、そうした厳しい現実の中でも、アセアンを核とする域内統合の動きは間違いなく着実に前進している。従って、ここでの最大の課題は、そこに被さってきたTPPやRCEPといった新たな経済統合の枠組みを、如何にこのアジア域内統合の分裂要因とさせないよう、コントロールしながら進めていくか、ということに尽きる。TPPが米国による中国包囲網だとしても、まさに先週米国で行われていたように、米中間でも「戦略対話」ということで、定期的な首脳会議が行われ、米国も単純な中国囲い込みではない巧妙な外交を展開している。軍事均衡の観点から米国に追従しながらも、他方で、著者がここで主張している通り中国を含めたアジアにコミットせざるを得ない日本の外交戦略が、これから更にその能力を試される時代に入っていることは間違いない。
読了:2013年7月6日